今日も安室さんいないの。バレンタインぐらいくるよね。この一ヶ月で散々言われた言葉だ。今日もいないの、来週は来てほしいんだけどね。嘘偽りなく返す言葉も花の女子高生や女性客たちには届かない。やれバレンタインチョコを渡せないよう邪魔してるだとか、独り占めしてるだとか、SNSでは散々な言われよう。
「わたしだって」
知りたい、と続ける前にここが営業時間内のポアロで、テーブル席に一組お客さんがいることを思い出した。談笑する間は注文がないからと言って気を抜きすぎたかもしれない。
午前中のオーダーと売上から察するに、平日にしてはまずまずの売上だろう。冷蔵庫の中身にもまだ余裕がある。ソーセージもあるはずだし、余れば明日はトマトベースのパスタにしよう。寒い日々だしスープパスタ風もいいかも。
脳内シミュレーションをしていると、カップを置く音と荷物をまとめる気配がした。この二人は普段別会計だから今日もそうだろうと二人して頼んでいたフォンダンショコラだけをレジに入力して待つ。押したら値段が表示されるようにして待てば慌てずに済む、とは噂の誰かさんの知恵だ。
「お会計お願いしまーす。できれば別会計で……」
「はーい。じゃあフォンダンショコラとブラックコーヒーの方から」
「――円から」
お釣りを出しながら、残りの伝票を確認した。フォンダンショコラ一つとホットティーのストレート。そういえば今日はレモンをつけなかった。甘さたっぷりのフォンダンショコラにレモンは合わないのかもしれない。
「――円お預かりしましたので、20円のお釣りです。それからフォンダンショコラとホットティーで」
「――円ですよね、ちょうどあります」
「はい、――円ちょうどです。レシートはどうされますか?」
「大丈夫です。……あ、そういえば」
「安室さんはまだ暫く来れなさそうですか?」
言葉を濁した一人に被せるように、もう今日だけで何度目かわからない質問をされた。午前中だけで四回、もしかしたら五回。私だって知りたいのに。
「ええと、それが私にもマスターにもわからなくて。早く戻ってきてほしいとは言ってるんですけど」
「そうなんだ。どうしようかな、このチョコ」
「梓さんの方で預かってもらえたりしません?」
「いや悪いって」
「でもあんたが安室さんに会うよりポアロに来る可能性の方があるって」
二人は梓を置いて話を進める。どうしてこうやってチョコレートを置いて行く人たちは、あの人がポアロに来ると思っているのだろう。帰ってきてほしいとこちらが思い、留守電を残すばかりで、向こうからは何の音沙汰もないのに。
「まあそう……そっか。梓さんお願いしてもいい?」
「一応、お客さんからは」
「来なかったら梓ちゃん食べちゃっていいからさ。美味しいやつだし」
レジ横に置かれたのは見覚えのある、だいぶ値が張る店の袋だった。しかも大きめの、明らかに本命用。冷蔵庫の半分を占めるそれらと同じような立場のチョコレート。バックヤードの冷蔵庫の中のものと一緒で、本人は食べない。
「実はもう」
「もしかして、他にもあったりする?」
「そうなんですよ。もうポアロの冷蔵庫の半分は安室さん宛のチョコで埋まってて」
「あはは、安室さんらしいや」
梓は怒り悲しむ女子高生のようにも、呆れたような笑い声を上げる目の前の人にもなれない。ポアロの店員として以外にも、他人には言えない事情がありそうだと中途半端に知ってしまってはどちらにもなれない。
だから必死に隠して、ポアロの同僚として声を上げる。
「笑い事じゃないですよ、もう! 念の為、お名前をお願いします」
「束を見せて安室さんを叱っといて」
「もちろん!」
このくらいあるんですよ、とメモの量を水増しして言えば気に入ったらしく二人の笑い声がポアロに響いた。
「……はい。梓ちゃんも渡せるといいね」
「え? そうですね。冷蔵庫開けるためにも」
さっきの枚数だけチョコがあるものだから、食材も常温保存ができるものに偏り、メニューの幅が狭められている。牛乳と生クリームを使うクリームパスタなどこの一ヶ月一度も日替わりに出ていない。
「そうじゃなくて、梓ちゃんからの」
「安室さんに? そんなことしたら炎上しますって」
「炎上かあ。そう、そうだね。知られなきゃ大丈夫だって」
「怖いんですからね、最近の女子高生は!」
「梓ちゃんなら大丈夫だと思うけどな。とりあえず、安室さんによろしくね。また」
「はーい。またのご来店をお待ちしています」
お客さんのいなくなったポアロに一人取り残される。使われたカップとお皿を片付けてしまえばすることがない。
安室さんのレシピノートを棚から引っ張り出して捲ると、バレンタイン限定のページにはブラウニーにホットチョコレートのレシピが載っていた。一言コメントには、量産可能なもの、と右肩上がりに書かれている。バレンタインまでここにいるつもりだったのか、いなくなるのを予期していたのかはわからない。聞いたところではぐらかされるのが落ちだ。
バレンタインの他にも四季それぞれに加えて七夕、ハロウィンにクリスマス。各種取り揃えられた限定メニューのレシピはところどころ説明が抜けていて、嫌でも安室さんといた頃を思い出させる。レモンピールを入れる時はワックスを落とすだとか、一度フライパンを布巾で冷ますだとか。書かれていない小さな手間が積み重なって、あの美味しさに繋がっていた。
生きている、死んでいる、駆け落ちに大犯罪、様々な噂の中に見いだせなかった安室さんはレシピの中でだけ像を結ぶ。だから、このノートを開くことをやめられない。私は一年が経つ今でも安室さんをどこかに探している。
気を紛らわそうと冷蔵庫に意識を持っていっても、中のおおよそ半分がチョコレートの箱で埋め尽くされているせいで結局安室さんの話だ。既製品だけ、しかも賞味期限がバレンタインから二週間以上あるものと毎回聞いてもこの量なのだから、よっぽど安室さんはお客さんに好かれていたらしい。
私からのチョコを混ぜてもわからないだろうな。さっきのお客さんみたいに派手なものではないにしても、名前を書いてもらったメモと数が合わないからすぐにバレちゃうかもしれない。まあいいか。梓と書かれたプラケースから安室さんコーナーにチョコをしれっと入れた。
きっとこのチョコたちの賞味期限までには来ないだろう。もしかしたらもう一生来ないかもしれない。そう思うと、今からホワイトデーが憂鬱だった。
あまりの女子高生の圧に負けたマスターが預かると折れた日の夜、安室さんが来なかったらこちらでクッキーでも用意しようと言っていたからだ。いくら本人がいなくとも受け取った以上は、とかなんとか。いれば炎上、いなくても噂話に種々のお返し。噂なんて七十五日で消えますよと言っていた人の話は一年が経ちそうな今も続いている。
文句を少しぐらい言っても怒られないかな、とスマホの発信履歴を探す。この間バレンタインはちゃんと来てくださいと言ったばかりだけど、気にしたら負け。出るわけない人に向かって通話ボタンを押す。発信音がしばらく鳴った後に、随分と聞き慣れたメッセージ案内が流れた。何回目だろう、もう数えるのもやめてしまった。
寂しさも恋しさも全て隠して、普段通りの声で。
「梓です。安室さん宛のチョコレートがたんまり届いて困っています。食べるわけにもいかないし……。マスターとクッキーのお返しを用意することになったので、戻ってきたら作ってくださいね!」
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