丹羽燐
2023-09-15 00:50:08
20061文字
Public lim(n→∞)1/n
 

φ

lim(n->∞)1/nのサンプルです

Φ

 潜入中で仕方がないとはいえ、三台もスマホを持ち歩いていると手が回らないところもある。例えば、溜まり続けたチャットアプリの通知とか、ポアロで管理しているSNSのチェックだとか。
 ローテーブルに並べられた三台のうち二台は使用感がなく無機質だが、残りの一台、ポアロで安室透が使用しているものだけが使い込まれておりいっそ異様だった。隣で丸くなって眠るハロの頭を一撫し、三台を眺めた。
 デフォルトのまま何も手の入っていない黒い一台、写真どころか通話履歴すらない白い一台、それから落下傷や擦り傷のついた一般的な使用感のある一台。私用のものは庁舎にあるロッカーの奥深くにしまい込まれているのでここにはない。いずれも同じ人間が所有しているとは思い難いそれらは、机の上でホーム画面を映し続けている。
 空っぽの一台は警察庁警備局警備企画課所属の降谷零へ貸与されているものであり、部下への連絡手段とも言う。情報漏洩防止のため、私用ではない決済アプリや情報収集ツールだけの簡素なホーム画面。専ら連絡係である風見との連絡手段になっている。
 連絡先にチャットアプリ、さらには通話履歴もおおよそ全ての情報が欠落している、ある意味どこで落としても惜しくはない一台。
「まあ、落とすことはないが」
 適宜履歴を削除し、何も残らないこれにはもちろん整理するものなどない。ホーム画面を落とし、裏返す。
 隣の真っ黒の一台は黒の組織との連絡手段として使っているもので、ジンからの仕事であったり、ベルモットからの呼び出しが多い。誰も彼も非通知でかけてくるもので、ログが残っているとはいえ、今となってはどれが誰からのものかさっぱりわからない。どうせこちらからかけるときも非通知設定をしているので、お互いさまともいえるが。この間大がかりな計画を実施したばかりだから、しばらくは連絡は来ないだろう。
 最後に残った一台が、おそらくこの世で一般的な状態に最も近いポアロ用だ。マスターからの連絡やたまたま遭遇した事件現場の写真、ベルモットへのカードとして撮影した蘭さんの写真などの情報が詰まっている。他の二台同様に、三回パスコードを間違えると自動でデータが消される仕様だ。そのおかげで一度徹夜で記憶が怪しいときに三回間違えて写真だけでなく連絡先全て消えたときは頭を抱えた。
 いくら登録した電話番号やチャットアプリのIDを覚えているとはいえ、過去の履歴をすべて覚えているわけではないので。探偵業中に水没させたとかなんとか言ってどうにか誤魔化したのを覚えている。
 たしかあの時も怪我と共にポアロへ出勤して、真っ赤なサンタ服を抱えた梓さんに怒られた。しょっちゅう早退をし、たいていその後音信不通になり、欠勤する。挙句の果てにはある日突然怪我とともに出勤してくるから怒るに怒れないと目に涙を浮かべながら言われたのを覚えている。
 心の底から心配する真っ当な言葉に、返す言葉もなく大人しく聞いているほかなかった。
『梓さんは優しいですよね』
『安室さん、私、いま怒ってるんですけど』
 いつか怪我した時みたいに頬を引っ張ろうとして目元の怪我を思い出したのか、添えられるだけになった手は指先どころか手のひらまで酷く冷たかった。怪我による熱だったのか、感情の高まりによるものか。もう今となってはよく覚えていない。その時もよくわかっていなかったような気もする。
 もしかしたら、血の気の引いた冷たさだったのかもしれない。
『あはは、そうでした』
『もう、安室さんはいつもこうなんだから。たまにはお休みする一週間ぐらい前に連絡して、怪我無く帰ってきてください』
『気は付けます』
『次やったら、クリスマスじゃなくてもサンタ服着てもらいますからね』
『それは本当に勘弁してください』
 私は怒っていますと言わんばかりの表情と、包帯を巻く力の強さに思わず降参した。ガーゼの交換を拒否しておいて正解だったと今も思う。
『今日のところはけがの手当てをして、無理をしないでくれれば許してあげます』
 安室透を、心配して怒ってくれる人間がいたことに聞きながら驚いていた。
 毛利小五郎の一番弟子を名乗り、少し秘密主義で、どこか掴めないポアロの店員は周囲の人間とこんなにも良好な関係を築けていたのか、と。正義のため、国家の安全のためだといって手を汚している間に失ってきたものとの再会に、喜ばなかったといえば嘘だ。卒業したばかりのころはまだあった。いつしか人を恨み疑い、利用することばかり続けていた降谷零にはあまりにも眩しかった。
 自分のことを話したがらず、そこらの不真面目な大学生よりもシフトに穴を作る……およそ労働者として不向きな男にも寛容なマスターと梓さん。それから、度々同じ事件に巻き込まれ正体を察しつつあるも黙ってくれているコナン君と毛利探偵。蘭さんに園子さん、名前を挙げていくと両手では足りないほどの人々に囲まれている。
「僕とは、大違いだ」
 吐くような独り言の返事かのように、ポアロ用のスマホが通知で光った。読んでみれば梓さんからの敵情視察のお誘いだ。続けて送られてきたリンクをタップすると、以前梓さんを送った時に話題に上がった店のサイトが開いた。
 梓さんはなんと言っていたっけ、たしかチーズスフレが有名だと言っていた気がする。
 しばらくは黒の組織も大人しくしているだろうから、急なキャンセルはせずに済みそうだ。ハロに似た白い犬のスタンプとともに了承の旨を伝えた。大尉に似た三毛猫のスタンプを使う梓さんと、ハロに似た白い犬のスタンプが行きかうチャット履歴は、世間一般的な仲の良い二人のやりとりのようで自分のことながら微笑ましい。降谷零が得られないものを、安室透を介して経験している。
 安室さん、と送られてきた文字を眺めていると、今いいですか、などと続いた。
「大丈夫ですよ。なんでしょう、と」
 数拍おいてあの特徴的な着信音が響いた。もちろん、梓さんからだ。
「こんにちは、今大丈夫でした?」
「ええ。もしかして、来週の敵情視察ですか?」
 音声をスピーカーにして、先ほど送られてきたページを眺める。有名だというチーズスフレの他にもビターチョコレートのムースや黒豆入りのロールケーキなど、さまざまなスイーツが掲載されている。とくにこの季節のタルトが梓さんの好みに合いそうだ。
 他にも、冬といえばシナモンたっぷりのタルト・タタン……と思いきや、スイートポテトタルト。スイートポテトではなくタルト。なるほど、その手があったか。次のシフトはいつだったっけ、今度試作してみようか。
「えーっと、それもあるんですけど」
 と思いきや別件らしい。言い淀むとすれば、少し言いづらい頼みごと。梓さんから急ぎで電話がかかってくるようなことは一つしかない。
……もしかして、買い出しですか? 何か切れたなら買ってきますよ。今のところ特に用事もないので」
「なんでわかったんですか?」
 電話越しでもこんな顔をしているんだろうな、と手に取るようにわかる。穏やかとはいえ喜怒哀楽がはっきりとしていて、想像に容易い。特に、僕やコナン君が梓さんの言いたいことを当てた時の喜びようは、考えた甲斐があると思えるほど。
 でもそんな感情を放って、安室透らしい回答を並べる。
「毛利探偵の見習いですからね。それに、昨日の帰り際の冷蔵庫は、何か偏って注文されたら足りなくなりそうな雰囲気でしたから」
「さすが安室さん! 用事ないならお願いしちゃおうかな。牛乳と……ええと、ほうれん草をお願いします。」
 昨日の冷蔵庫にあって、ある程度注文されても耐えられる、かつ牛乳とほうれん草に合う具材といえば一つしかない。そして、それらから予想されるメニューも。
「今日のおすすめパスタはほうれん草とベーコンのクリームパスタ、といったところでしょうか。先週よりも随分と寒くなってきましたし、想定より多く注文が入って足りなくなってきたと」
「そうなんです。今日は昨日よりも寒いからちょうどいいかな、と思っていたら想像以上に皆さん頼まれて……
 梓さんのカラスミパスタもたしかに人気だが、今日みたいな真冬の日には温かいクリームパスタがよくオーダーされるのだろう。俺だって客だったら頼む。それにしても、捌ける数の推測が梓さんにしては甘かったのは意外だった。連日の勤務と寒さに少し疲れているのかもしれない。
「温かいものが食べたくなる気温ですから。わかりました。買い出し、頼まれましょう」
「お礼においしいコーヒー用意して待ってますね」
 楽しげな声に疲れは見えない。どちらにせよ、顔を出すついでに何か話を聞いておこうか。
「それは急がないと」
「まだあるので急がなくて大丈夫ですよ」
 梓さん……潜入先の関係を円滑にするためとはいえ、何もない休日に買い出しをするとなれば何か揶揄いたくもなる。梓さんの淹れるコーヒーが飲めるのも魅力的だが、それとはまた別の話だ。そうだな、急がなくてもいいに対してならば。
「梓さんに今すぐ会いたいだけなんですけどね」
「安室さんはまたそうやって……炎上する身にもなってください!」
「梓さんか僕が言わない限り、電話の内容なんか女子高生にはわからないですよ」
 あまりにも想像通りの反応で、笑いそうになってきた。ここで笑ったらまた膨れっ面になるのだろう。たしかに、とか、ずっと電話し続けていれば、とか一人で呟いているが今お客さんはいないのだろうか。いたらそれこそ怪しい。
「ということで、梓さんに会いに今から急いで買い出しに行きます」
「もう。急いでもいいですけど、けがはしないでくださいね」
 はいはい、と返事をして通話を切った。初めてのおつかいの年齢でもなく、買い出しの道中で事件に巻き込まれるとも思い難い。突然風見や黒の組織の面々に呼び出されたりでもしない限り、怪我をして梓さんに心配をかけるようなことはないだろう。まあ、そんな呼び出しをされたら買い出しどころではないのだが。
 服を適当に羽織り、まだクッションの上で穏やかに眠るハロに出かけてくるよ、と声をかけて家を出た。動けばそれほどでもないが、立ち止まると途端に足元から冷気が忍び寄る。普段よりも少しだけ早めに足を動かす。
 梓さんは安室透に対し、時折子供相手のような発言をする。怪我をしない、寄り道をしない、怪しい人にはついていかない。もう時期三十になる年上の男に言うようなことではないと言いたくもなるが、あれだけ早退欠勤を繰り返しているあげく怪我も多いと言われてしまえば返す言葉もない。
 安室透には怒ってくれる人がいる。心配してくれる人がいる。たったそれだけのことだが、ポアロへの馴染み具合を表しているようにも、周囲の人の優しさを表しているようにも思え、悪くない。
 行きつけの買い出しの店からポアロへは少し距離がある。三つ目の信号を右に曲がり、公園の横を通り過ぎてからまた右折。買い物袋を左手に持ち替え、二回目の信号待ちの間に三台のスマホをかわるがわるチェックしていると、黒の組織用のものに通知が入っていることに気がついた。時刻を見ると、ちょうど梓さんと話していた頃だ。
 留守番電話にメッセージを残すなど情報統制はどうなっているんだ。これでも国際的に指名手配されているはずの犯罪組織だろう。
『バーボン? 夜に来てちょうだい』
 残されていたメッセージは要件だけの短いものだった。
 コードネーム以外の情報がないからいいということなのか。声紋でも取られたらどうするんだ。……まあいい。夜にベルモットがよく使うホテルへ迎えに行けばいいだけだ。ポアロまでお使いを届けて、少し手伝ってから向かえばいい。
 留守電を削除して、ため息を吐いてから顔を上げてポアロに向かう。北風に吹かれながら着いたポアロは、ランチタイム直後なのもあって一人も客がいない。
「お疲れ様です、梓さん」
「いらっしゃいま……安室さん! ありがとう!」
「いえいえ、何か手伝いましょうか?」
 梓さんの横を通り抜け、しれっと冷蔵庫にしまう。買い出しは冷蔵庫にしまうところまでですよ、と得意げに言っていた先輩を見習っての行動だ。まあ、当のポアロの先輩は受け取ろうと差し出そした手がカップと共に泡だらけで焦っているが。
「今はお客さんもいらっしゃらないので……あ、コーヒー出しますね。座ってください」
 荷物をしまう間にすっかり泡の流された手が、染みついた動きで湯を沸かしている。牛乳もほうれん草も冷蔵庫に入れ終えてしまえば、することもない。大人しくカウンター席に着いてぼんやりと眺めることにした。
 僕は梓さんがコーヒーを淹れる様子が好きだ。もちろん、マスターがコーヒー豆を挽いている音を聞くのも、パスタやケーキを運ぶ時の足音も、訪れる人々の会話も。いつかこの生活が終わったとしても、梓さんがコーヒーを淹れる様子は穏やかな日々の象徴として鮮やかに思い出せるだろうと思えるほどに。
 眺めていると、わずかな設置音とともに、並々と注がれたコーヒーがカウンター越しに届けられた。何も混ざらない、底の見えないブラックコーヒー。
「今日は」
「待ってください、推理します。今日の安室さんは非番。でも、お願いしたらすぐに買い出しのお使いに行ける状態だった。つまり今日は探偵さんのお仕事か、プライベートで外出の予定がある……から眠くなってはいけないのでミルクを入れない、どうですか?」
「正解です。梓さんは名探偵ですね。ミルクなしでいただきます」
 ベルモットからの電話は探偵業でもプライベートでもないが、曲がりなりにも用事があることに変わりはない。正解だ。梓さんからすれば他愛もない勤務中の雑談とはいえ、こうやって誰かに自分のことを考えてもらえるのは気恥ずかしくもありつつ、人の温かさに触れられて心地よい。
「えへへ。多めに淹れて正解でした」
「美味しいですね。さすがは梓さん」
 想像以上に冷えていたらしい体に染み渡る温かさと、ほんのりとする柔らかな苦味。調理したものには性格が出るとはよく言ったものだ。マスターの豆選び、挽き方に大きく依存する味とはいえ、梓さんの淹れるコーヒーとマスターや僕が淹れたコーヒーはどれも少しずつ味が違う。
 マスターが淹れると酸味が顔を出して調和の取れた味になるし、梓さんが淹れると今のコーヒーのように柔らかい苦み、逆に僕が淹れると苦みが強くなる。誰が淹れるかを指定する常連さんがいるのも何となくわかる。僕だって休憩時に飲むなら梓さんの、読書しながら飲むならマスターのコーヒーがいい。
「ポアロの看板娘ですからね! あ、フードは看板息子の安室さんが一番ですよ」
「おだてても今日は何も出ませんよ。次の新商品も決まっていて何も試作してないですし」
 にこにこと言っていたはずの梓さんは、右上から左上へと視線を動かしている。きっと先月のパンプキンラテや、先々月のイチジクタルトでも思い出しているのだろう。ここのところ、毎月の新作の試作を食べてもらっているから、そのどれかだ。
 太るとかなんとか言いながらも的確な……表現はさておき、適切な意見を出してくれるから非常に助かっている。パティシエ目指せますよ! などと期待のこもった眼差しで言われても、生憎となれないけど。
……そんなに食べたそうな顔してました?」
「ええ。次の新作スイーツなんだろう、って書いてました」
「わああ、忘れてください」
 読み取った感情の通り述べてみれば、シンクに両手をついて、カウンターに身を乗り出してきた。おっと、顔が近い。女子高生が店内にいるときに僕がしたら炎上する、って梓さんが言って僕を押しのけそうな距離だ。
 今は店内に誰もいないし、梓さんから近付いてきたのだから炎上したとしても僕のせいではない。
「どうしようかな。僕、記憶力はいいので」
「もー、忘れてくださいってば!」
 頬を膨らましながら、空になったコーヒーカップがカウンターからキッチンに帰っていく。ちょうどコーヒーも飲み終えたところだし、そろそろ一度家に帰ってベルモットの相手をする準備でもしようか。
 いつぞやのように買い物に付き合わされるのであれば日中を指定されるはずだし、まあ、どこかのパーティの護衛兼エスコート役だろう。護衛要ります? と言って、まさに黒の組織らしい婉曲的な嫌味を言われたのをまだ覚えている。
 面倒なことにならなければいいが、黒の組織の……ベルモットの参加するパーティは大なり小なり何かしらの面倒ごとは必ず起きるので諦めるほかない。せめて、ベルモットが男装してこないことだけを願おう。
「そんなに嫌ですか?」
「食い意地張ってるみたいじゃないですか」
「みたいもなにも、実際」
 敵情視察と称してカフェ巡りをするほどに食べることは好きじゃないですか、と続けるか悩んでさすがにやめておいた。食べるのはもちろん好きだが、それよりもポアロをより良い空間にしたい気持ちのほうが強いのだろうと察せたからだ。そして、その思いは少なからず僕も持っている。
「安室さん?」
 言葉に圧を感じた。六つも年下の女の子に仮の名前を呼ばれただけ……というには、気迫に圧倒されかけた。これは続けなくて正解だった。
「しょうがないですね、梓さんの名推理に免じて忘れましょう」
「やったあ。殿、こちらお礼のコーヒーのおかわりでござる」
「殿って、大河でも見たんですか」
 やれやれといった素振りで返したはずがすぐにこれだ。梓さんのくるくると変わる感情や話題に振り落とされた。まあ、よくある。緑さんとカウンター越しに話しているのを横で聞いているときや、今のようなふとしたおふざけにまだ二0代前半の軽やかさを感じさせられる。きっと、ちゃんと周りを見渡せば梓さんのような女性は世の中に多くいるのだろう。刹那が続く日常を謳歌しながらも堅実に生きる人たちが。
 俺はこの国においてその一瞬が少しでも長く続くよう、脅かす存在を消すために今ここにいるのだ。
「見てないですよ? ……それにしても次の新商品かあ。クリスマスの次は、お正月?お正月かあ」
 なぜか注がれた二杯目のコーヒーも変わらず美味しいし、ちゃっかり梓さんまでキッチンの椅子に座り込んでコーヒーを飲んでいるし、気にしない方がいいことだってある。
 にしても正月、もう正月なのか。
「喫茶店らしいお正月スイーツ、フード。すぐには思いつかないですね」
「家で食べるものならすぐ出るんですけどね。お雑煮とか、おせちとか!」
 お餅に甘酒……と指折り数えている。まさにお正月らしいラインナップに、榎本家を垣間見た気がした。
「流石に喫茶店ではどれも難しいですね」
「でも安室さんの作るおせち美味しいだろうな……
 お重に入った数の子、栗きんとんに黒豆……と言う梓さんを見てしまった。この際認めよう、俺は期待の込められた眼差しに弱い。昔からそうだ。しかもたちが悪いことに梓さんはこのタイプのお願いが非常に上手い。さすが妹歴二三年というべきか、なんというか。
 そうして僕はつい、梓さんを喜ばせることを言ってしまうのだ。
「作りましょうか?」
「えっ!」
 この待ってましたと言わんばかりの嬉しそうな顔。やっぱり、どこかで一度杉人さんにどうやって躱しているのか聞いておいたほうがいいかもしれない。マスターと僕で梓さんを甘やかしていては、いつかポアロで洋風お節の受注を始めてしまう。……年越しそばを始めた日には目も当てられない。
「あまり作ったことはないので、味の保証はできませんが」
 実際のところ、あまりどころか警察学校時代も公安で今に至るまでも作ったことはほとんどない。年越しそばは部屋に集まって食べてはいたが、さすがに男五人集まってお節をつつくことはなかったし、卒業してからはそんな暇などなかった。段々と、そんな暇を作らないようになっていったというべきか。
「いいんですか!? 安室さんの味付けの数の子美味しそうだなあって思ってたんです。……でも、作るのが大変なので分担しませんか?」
 にしてもお節か。お雑煮同様に具材……詰める料理が異なる正に家の味だ。作ったこともなければ食べたことも……いや、昔食べたことがある。随分と昔の、もうほとんど覚えていない子供のころの話だ。三日目あたりにはもうすっかり飽きてしまっていたのを覚えている。
 梓さんが実家に帰るのはか知らないが、もし帰らなかったとたら梓さんも僕も一人暮らしだからそんなに量は要らないはずだ。
「三人分作って、マスターにもお裾分けするのはどうでしょう」
「いいですね! えーっと、数の子と昆布巻きは安室さんの味が食べたくて……あとおせちって何がありましたっけ」
 マスターの意向を一切気にせずに指折り数える様子は、クリスマスまでのアドベントカレンダーを開ける子供のようだ。毎朝一つずつ開ける様子が想像に難くない。
「一般的なのは門出を意味する紅白蒲鉾、知識の獲得や文化の発展を意味する伊達巻、一年の健康を意味する黒豆、先見の明の酢れんこん。他には生活の豊かさや金運の栗きんとん、豊作や子孫繁栄の田作り、同じく子孫繁栄の数の子、安定や健康のたたきごぼう、紅白なます、喜ぶにかけた縁起物の昆布巻き、長寿の筍の煮物などですね。地方やご家庭により、入ったり入らなかったり……追加したりしますが、凡そこんなところでしょう」
「エビは腰が曲がるまで健康で長生きできますように、ってやつですか?」
「それです。他にもいろいろありますよ」
 たくさんの願いが込められたものを一年の始まりに食べる、未来へ思いを馳せる文化。
「二人で作るなら六種ずつぐらい、ですね」
「全部を作る必要はないんですよ。クリスマスが終われば出てきますし」
「あ、そうですね。今年もスーパーで見ました」
 買い出しに行くお店だとおでんの具材売り場の近くですよ、なんて得意げに教えてくれる。
 潜入先の業務の一環とはいえ、スーパーの売り場にある旬のものや街の気配から季節を感じ取るような生活はポアロに来るまで久しくしていなかった。この生活で人間性を取り戻しているようにさえ感じる。
「こだわりがなくて、お店で買えるものは最大限利用していきましょう」
「一人暮らしだとつい買いがちですよねえ」
 本当は作った方がいいんでしょうけど、と続けたそうな顔に、お節に関する話を記憶から引っ張り出す。
「お節は結構手間がかかるので仕方ないですよ。お節は市場の開かない三が日に保存のきく料理を作るのが由来だと一般的には言われていますが、一年間料理をし続けた女性に買い物や料理などの家事もお休みにする、という意味もあります。一人暮らしのうえにポアロで毎日料理をしている梓さんが、休むために買うのはあながち間違いではないかと」
「じゃあ今年は、安室さんと二人で分担してお休みしましょう!」
「ええ、ポアロの大掃除も分担して頑張りましょうね」
「もちろん! ……ポアロより、家の大掃除のほうがちょっと……
 先ほどまでの威勢はどこへやら、現実逃避が始まった。終わっていない宿題か、提出期限切れの書類を親に見つけられた子供のようだ。
「自宅ですか」
「大尉くんと掃除機のバトルとか、水拭きにじゃれつく大尉くんとか……可愛いんですけどね! 可愛いんですけど」
「捗らない、と」
「そうなんですよ~! もう、年末までに終わるかしら」
 キッチン周りの掃除もきっと調味料の隙間にでも立って邪魔するんだろうなあ、とか。お風呂掃除中に背中に乗られたらもう動けなくなってしまう、とか。大掃除中に起きそうな大尉絡みの事件を予想し合って、二人顔を見合わせて笑った。
 ハロは高いところであれば邪魔できないけれど、猫の大尉はZ軸方向にも自在に動くから振り回される梓さんが想像に難くない。
「今から計画的にしましょうね」
「子供の時の夏休みの宿題を思い出します……
 なるほど、とつぶやきながら、思わず声に出して笑いそうになった。年始のお節と夏休みの宿題じゃまるで季節が逆だ。どちらかというと、今回は冬休みの宿題じゃないのか?
 どちらにしても梓さんはためるか、最終日に忘れていた読書感想文とかを見つけてしまうタイプだろう。洗い物を少し後回しにしてしまうところとか、うっかり賄いを二人前作ってしまうところとか、若干ミーハーの気があるとか。つまり、見なかったふりがちょっとだけ上手くて、おっちょこちょいなところがあり、少しだけ移り気。
「もしかして、梓さんは最後までためていたタイプですか?」
「な、なんでそう思ったんですか」
 明らかに正解だと言わんばかりの動揺ぶりに、梓さんは嘘をつくのが向いてないなあと思う。そうであってほしいという願望も添えて。
「聞きますか?」
「もちろん!」
 眠りの小五郎に少年探偵団のコナン君。そして探偵見習いの僕、安室透。誰のどんな推理であれ、聞こうとする梓さんは聞き上手を褒めるよりも好奇心の旺盛さに気を付けてほしいと思うぐらいだ。過ぎた好奇心は、猫をも殺すから。
「勘ですね」
「ええ……
「だって、僕は梓さんが学生の頃を知りませんから。ただ、そうですね。最初は計画的にしていたのに途中でだれて最後に片付けていた、どうですか?」
「ピッタリ正解です。途中で飽きちゃうんですよね」
 人差し指を立てて言えば、困ったように笑う。
「梓さんらしいですね。ポアロの普段の様子からなので、推理とは言い難いですけど」
「安室さんはよく人を見ているんですねえ」
「梓さんだけですよ」
「炎上するような発言は控えてくださいって言いましたよね?」
 先ほどとはまた違う可愛げのある怒り様に、半分は本当だとか、今は誰もお客さんがいないからいいじゃないですか、とか様々思う。日々の積み重ねです! と言われそうなのでさすがにこれ以上は言わない。
「はいはい。……で、お節はいいんですか?」
「えーっと、安室さんは数の子と昆布巻きでお願いします! 何かリクエストはありますか? 私が作れるものになりますけど」
「いいんですか?」
「後輩さんのお願いぐらいどんっと来い、ですよ」
 胸を張る姿は、ポアロで働き始めてしばらくしたころの梓さんを思い出す。
 シフトに入っていないはずのマスターがふらりとやってきて『安室くんどう? 慣れた?』と聞いてきたのに対して、梓さんが今みたいに胸を張って『もちろん! すっかりポアロの看板息子ですよ!』と答えていた。『よかったねえ』なんて言ってそのままコーヒーを挽き始めたマスターも、今考えたら梓さんワールド寄りの人なのかもしれない。あまり三人がそろってポアロにいることがないから気がつかなかったけど。
 ポアロ全体の雰囲気が梓さん寄りなのか、そもそも梓さんがポアロの雰囲気に寄ったのかはわからないが、安室透もいつかこうなる日が来るのだろうか。無理だろうな。
 さておき、梓さんに頼むとしたらどれだろうか。普段はコーヒーを淹れ、パスタを作っているから、甘めのものを作ってもらうのもいいかもしれない。気がついたらスイーツはもっぱら僕の担当だし。逆に甘い栗きんとんか、黒豆、そういえば伊達巻も甘い。この中から二つ選ぶとしたら。
「あはは、じゃあお言葉に甘えて。栗きんとんと」
「待ってください、あてます。安室さんはスイーツをよく作る。そして、一つ目が栗きんとん。ここから導き出されるのは……甘くておいしい伊達巻き、ですか」
 名推理でしょう、と言いたげな顔に少し意地悪をしたくなった。いや、そもそも当たっていないのだが。
「甘いおせちはまだありますよ。それに僕は梓さんほどの甘党ではありません」
「違うんですか!?てっきり仲間だと思っていたのに……
「残念ながら……。さて、僕がお願いしようとしたもう一つのお節はなんでしょう」
 最後に思い浮かんだのはたしかに伊達巻だが、込められた意味から梓さんやマスターに食べてもらいたいのは黒豆のほうだ。穏やかに、事故に遭うことも事件に巻き込まれること……は米花町にいる限り難しいかもしれないが、大きな怪我なく過ごしてもらいたい。そう思うのは、過ぎた願いだろうか。
 きっとポアロの店員で、探偵見習いの安室透なら許されるだろう。一人の人間のささやかな願いだ。
「うーん……残る黒豆ですか」
「はい、栗きんとんと黒豆をお願いします」
「安室さんは数の子と昆布巻き、私は栗きんとんと黒豆。ふふ、安室さんの作るおせち、楽しみ」
 浮かれて地面から浮いているんじゃないかというほどのはしゃぎようだ。いつの間にか再び空になってしまったコーヒーカップを置く。話しながら無意識に飲んでいたらしい。
 なんだ、僕も梓さんのことを言えないじゃないか。
「年末の最終出勤日に交換会ですね」
「お休みしないでくださいよ?」
「僕も梓さんの作るおせち楽しみです。気を付けますね」
 組織と風見には外せない用事があると先に言っておこうか。いや、言ったら逆に用件を入れてくるのが組織の面々だ。天邪鬼というか、なんというか……国際的に指名手配されている組織の幹部のわりに子供っぽいところがあるので。
 再び空になったカップを片そうと立ち上がると、ポアロのドアがゆっくりと開いた。
「あっ、いらっしゃいませ、コナン君」
「こんにちは。二人とも楽しそうだけど、どうかしたの?」
 首をかしげてからランドセルの重さによろける様子は、事件現場で見事な動きを見せる子供と同一人物か疑いたくなる。まあ、梓さんがいる前だし、今のはわざとだろうけど。
「実はね、年末をどうするか話してたんだ」
「年末? もしかして今年のポアロは年越し営業するの?」
 隣のカウンター席にのぼりながら言う。ランドセルを先に椅子の背へかけている当たりに、この体への慣れが現れている。
「それはちょっと難しいかなあ。年越しにポアロじゃあお蕎麦も食べられないし。……安室さんってお蕎麦うてませんか?」
 蕎麦、蕎麦か。さすがに蕎麦を打ったことはない。いや、そもそも蕎麦を打つ経験など普通だろうと普通じゃなかろうと……それこそ蕎麦職人になろうとするか、余生の暇つぶしとして始めない限りないだろう。
 梓さんは僕のことを一体何だと思っているんだ?
「さすがに蕎麦を打ったことはないです」
「お蕎麦うつの難しいって言いますもんね」
「安室さんが今からそば打ちの練習を始めても、おいしく作れるようになるのは三年後とかだから、僕も梓姉ちゃんも忘れちゃってるかも」
 残念がる二人に、僕が悪いのかと一瞬錯覚すら覚えた。もし万が一今から始めたとして、三年後、ポアロにいるかどうかも怪しい。まさか庁舎で蕎麦を打つ訳にはいかない。かといって家で打ったところで、ハロも少しは食べられるとしても大部分を食べるのは僕一人だ。こうなってはいったい何のために蕎麦打ちの練習をするのかもわからない。
 そんな僕をよそに、梓さんは閃きを得た顔で続ける。
「そうねえ、ポアロで練習していたら忘れないかも?」
「蕎麦粉だらけになりますよ」
 蕎麦粉のガレットでも始めるつもりですか、と続けようとして止めた。名案として採用された日にはたまったものではない。
「大丈夫ですよぉ、小麦粉もよく舞ってますし」
「その件は本当にすみません」
 この話をされると本当に頭を下げるしかない。びっくりした梓さんにも、材料を無駄にしたという意味でマスターにも。この時ばかりは綺麗なお辞儀を教え込まれておいてよかったと思わされる。
「安室さんなにかしたの?」
「夏の暑い日に、開店前に安室さんが冷房の温度をすごーく低くしちゃった時があって」
 何やってんだという顔のコナン君に、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの梓さん、そして苦笑いしかできない僕。刺さる視線を覗けば今日もポアロは平和だ。
「梓さんがポアロのドアを開けるなりすぐ閉じて固まっちゃって、それにびっくりした僕が持ってた小麦粉の袋を落としたってわけさ」
「もー、本当に寒くてびっくりしたんですからね!」
 何か特段悪いことをしていたわけではないのに、あの唖然とした梓さんの表情に、後ろめたさから手に持っていた小麦粉の袋を落としたというわけだ。たしかに冷房の温度下げすぎという地球環境には悪いことをしていたかもしれないが……
 組織からの呼び出しもなく、出向かう必要があるほどの捕り物もなく、久しぶりに穏やかな日。そんな平和をかみしめようと、早めに出て試作しようとしていた夏の日だった。前夜にエアコンを切ってそのままの、いわば蒸し風呂状態のポアロはあまりにも暑かった。クッキー生地と生クリームのためと言い訳をしつつ、暑さに耐えられず設定温度を限界まで下げて試作をしていた。室内の熱気がすっかり冷たい空気に入れ替わった頃に、梓さんがやってきて。
 あまりの寒さにドアノブを片手に震える梓さんと、小麦粉にまみれたままの僕という地獄絵図の出来上がりだ。
「梓姉ちゃんがびっくりするぐらいって、何度にしてたの?」
「二十度」
「そ……それは僕もびっくりしちゃうかも」
 隣の席で頬をかくコナン君は若干呆れたような顔をしていた。
「でしょう? あ、ごめんね、コナン君。注文聞いてなかったね。今日もコーヒー? 蘭ちゃんも後から来るのかな」
「うん! あとで蘭姉ちゃんも来るって言ってた」
「じゃあ蘭ちゃんが来るまではカウンターでお喋りして待ちましょ」
 オーダー用紙にさらりと書き、さっき僕に淹れてくれたように準備をし始める。しれっと梓さんの後ろを通り抜け、キャニスターからチョコチップクッキーを二枚取り出してソーサーに並べた。あと少しで蘭さんが来るだろうし、梓さんの言う通りクッキーを食べながらおしゃべりでもして待っているのがいいだろう。
 キャニスターを戸棚に戻そうとしたところで、後ろポケットに入れたスマホが鳴った。右後ろ、組織用のほうだ。ベルモットだろうか。そうでなければ、暴れて日もたっていないことを気にせずにまた何か企むジンぐらいしか想像がつかない。
「梓さん、すみません」
「はーい? あ、どうぞ」
 しまい損ねたキャニスターをシンク横に置き、スマホを片手に声をかけると梓さんが外に促してくれる。こういった察しの良さが非常にやりやすい。やりやすすぎるのもそれはそれでどうなのかとは思わなくもないが、早退欠勤に寛容なところを含めて非常にありがたい。梓さんとマスターでなければ僕はとっくにお役御免になっていただろう。
 カウンター席で足を揺らすコナン君に片手をひらりと振って飛び出した。外は先ほどより少し寒く、小さく身震いした。
 さて、誰からの電話だか。
「遅いじゃない」
「生憎と忙しくて」
「そう」
 想像通り、ベルモットだった。ジンだったら出る前に切られているからそうだろうとは思ったが、こうも的中すると気味が悪い。……にしても一日に二度もかけてくるとは、朝の留守電から何か追加情報でもあるのだろうか。
 例えば、今夜の用事がなくなったので迎えに来なくていいとか、他のやつが代わりに捕まったから来なくていいとか。どちらも僕の願望に過ぎないことぐらい、もちろんわかっている。
「用件はなんですか」
「返事が遅い挙句、せっかちな男は嫌いよ」
 せかす言葉に嫌そうな声が返される。
「夜の話ですよね」
 普段ならば軽口の応酬でもするところだが、生憎と梓さんとコナン君がいるポアロの目の前に立っている。しかも二人そろって暇を持て余しているので、長話にでもなればそのうち話題に上がるのは想像に難くない。
 長電話をして梓さんにからかわれるのも、コナン君に組織関連だと感づかれて情報をせっつかれるのも、できれば避けたい。
「気が変わったの。今から来てちょうだい」
「今からですか」
「予約でいっぱいかしら」
 わざとらしくため息をついて言えば、心底意外といった声音で返事が……いやどうせこれも演技だ。まともに取り合っていれば、逆に僕の立場が悪くなる。
 冷たい風が吹き抜ける。師走というだけあって、人々は忙しなく通り過ぎていく。
「引く手あまたなもので、今からは」
「そう。あなたの子猫ちゃんは今日もおてんばしているかしら。エンジェルと仲のいい、茶色の」
 子猫ちゃん? 茶色、ああ、梓さんか。この間変装していた時に言っていた気がする。梓さんといるのだろうという鎌をかけられたところで、それがなんだというのか。そもそも、ベルモットは安室透と梓さんの関係を誤解している。ただの潜入捜査官と潜入先の喫茶店の看板娘の関係に過ぎず、僕のクラックにはなりえない――とは、ベルモット相手とはいえさすがに言えない。梓さんには悪いが、ポアロの立地や客層的に梓さんに目が向くのはこちらとして都合がいい。
 まあせっかくだ、この際利用させてもらおう。
「ええ、今日も目が離せない程度に」
 驚いたような愉快な笑い声を聞きながら、一人心の中で梓さんに手を合わせる。どうかこれ以上何事もありませんように。
「随分と可愛がっているのね」
「あげませんよ」
 自分でもぞっとするほど低い声だった。まあ、バーボンなら問題ないだろう。
「貴方のものには手を出さないわ。後が面倒そうだもの」
「貴女ほどではないですよ、ベルモット」
 蘭さんと新一くんのために組織を裏切るような動きまでする貴女ほどでは、と内心付け足した。
 トロッコ問題のように梓さん一人の命と大衆の安全を秤にかけられたら、おそらく俺は後者をとるだろう。迷わず蘭さんや新一君を選べるベルモットと違い、大衆を見捨てて誰か一人を選ぶことはできない。例え僕の感情を無視してでも。
「夜。予定通りに来なさい」
「この間と同じところでいいですね?」
「ええ、その九階。可愛い子猫ちゃんをカゴにしまってからでいいわ……もちろん連れてきてもいいけれど」
「遠慮しておきます」
 不用意な言葉を続けられる前に遮った。
「甘やかすタイプだったの」
「ええ、骨の髄まで」
 出来もしないことを、この口はつらつらと並べる。決めた誰か一人を、それこそ骨の髄まで甘やかすことなど安室透にも、バーボンにも……まして降谷零にも出来ないというのに。残念ながら、ベルモットのような生き方は僕にはできない。
「イアーゴーには気をつけることね」
「ご忠告ありがとうございます。では後ほど」
 返事をするなり即座に電話を切る。
 なんでこうも黒の組織のやつらは勝手なんだ。もう好きにしてくれ、と言いたいがそうもいかない。はあ、せめて何か事件を起こすならこの国の外で、僕でなく赤井を巻き込んでしてほしい。
 にしても、子猫ちゃん、か。例えるなら梓さんは子猫というよりも犬寄りだろう、ベルモットはわかっていないな。ベルモットもキッドも、少しぐらいは変装相手を調べておけばすぐにバレて面倒なことにならなくて済むのに。対象の把握が甘いから平気で腕を組んだり、好きだと言われて嫌がらない反応をしてすぐに見破られてしまう。
 梓さんに直接子猫ちゃんなどと言った日には、いつもコーヒーを載せているトレイを僕の顔に押し付けながら、炎上するような発言はやめてください、などと猛烈に嫌そうな顔で言われるのは目に見えている。まあ、流石に気恥ずかしさから安室透ですら言わないだろうけど。
 ……それこそバーボンでなら造作もなく言えるが、梓さんにバーボンが会うことはない。
「あれ、安室さん?」
 脱力とともにしゃがみ込んでため息をついていると、聞きなれた声がした。
「ああ、蘭さん、こんにちは。コナン君来てますよ」
 立ち眩みを起こさないよう、ゆっくりと立ち上がる。もちろん、地面を凝視したままだ。なにせポアロからの視線が痛いので。さて、すっかりいつもの目線の高さに戻ってから蘭さんのほうを向くと、非常に困惑していた。
「よかった! ……顔赤いけど大丈夫ですか?」
「えっ」
「ほら、顔とか耳とか……
 言われるまま、確かめるように顔に手を当てると、随分と頬が熱い。耳も。なんだ、どうした僕。いや俺か?
「また風邪とか……
「いえ、大丈夫です。熱はありませんし」
 額に手を当てながらそう言うと、蘭さんは安心したような表情になった。歯の浮くようなセリフはバーボンの時に言いなれているはずなのに、どうやら照れているらしい。
「この間も風邪でお休みって梓さん言ってましたし、気を付けてくださいね」
「あはは、気を付けます」
 事情を知らない蘭さんを誤魔化しながら冷え切った体でポアロのドアを開け、中に入ると当たり前だが暖かい。穏やかな雰囲気で話す梓さんとコナン君は、平穏な日常そのもののようだった。こうしてみると、もしベルモットをはじめとする黒の組織の手がポアロに及んだら、冷静ではいられないかもしれない。
 まあ、コナン君がベルモットから狙われることは天地がひっくり返ってもないだろう。ほかの面々から、特にジンやウォッカから狙われる可能性はだいぶ高いが。
「蘭姉ちゃんおかえりなさい!」
 扉の音で即座に振り返ったコナン君が元気に言う。音で、というより話しているところを見ていたのだろうけど。
「ただいま、コナン君に梓さん」
「おかえりなさい、蘭ちゃんと安室さん!」
 蘭さんに頭を撫でられて満更でもない様子のコナン君を見て、梓さんが私も撫でましょうかなんて顔をしている。そっと首を左右に振り、丁重にお断りした。よく見る光景だから、何らかの憧れがあるのかもしれない。……頭を撫でているのを誰かに見られたら、それこそ梓さんの言う炎上案件だろうに。
「数分でおかえりなさいって、梓さんの中の僕はどうなっているんですか」
「早退欠勤多発……
「その節は本当に返す言葉も」
 ございません、と本日二度目の謝罪は満面の笑みを浮かべた梓さんの言葉に打ち消された。
「だけど、何でもできちゃうすごい人、です。きっとスーパーマンって安室さんみたいな人のことを言うんでしょうね」
「スーパーマンですか」
「嫌ですか?」
 嫌がる人がいるのかと驚いた顔をされたが、それは言われた僕がしたい表情なわけで。
「びっくりしただけです。普段言われないので」
「えーっ! スーパーマンじゃないってことはヒーローとか……完璧無敵超人とか。あとは……ほら、プロフェッショナルとか!」
 声に出して笑うしかない。梓さんは言葉のチョイスがずれていることが前からあったけれど、方向性すら合わないとは思わなかった。途中までは合っていたはずなのに、いったいどこからプロフェッショナルが出てきたのか。
「それはスーパーマンとは真逆で、特定の専門的な職を持つ人ですよ」
「確かに仕事の流儀が始まっちゃいますね……。うーん、スーパーマン、もう安室さんはスーパーマンということにしましょう。ニャイバーと共演する安室さんとか……
 ニャイバーの着ぐるみを着て動いたことがあるとは絶対に言わないでおこう。風見をはじめ、あの事件に関わった面々には忘れずにくぎを刺しておかなくては。ニャイバーの着ぐるみを着たことがあるといえば、梓さんがはしゃぐのが即座に目に浮かぶ。
 僕の事情を知るわけもない梓さんは妄想を繰り広げている。ニャイバーと僕を共闘させ始めたので、少しでも話の方向を変えようと口を挟む。
「戦隊ものだったら僕は黄色ですかね」
「赤じゃないんで」
「赤はちょっと」
 食い気味に言ってしまった。悪気はないが、申し訳ないとは少し思う。赤は、黒に近い色をしている。否、赤は黒になるから嫌なのだ。原因が勝手に脳裏に浮かぶ。
 ……今の僕は心底ひどい顔をしているだろう。梓さんに見せるのが嫌で、そっと反対側を向いた。ガラスには憎悪と自嘲の入り混じった表情の男と、穏やかに笑う女が映っていてなおさら嫌気がさした。小さくため息をついて、梓さんの笑顔をガラス越しに見る。そう、その顔だ。
 長めの瞬きとともに、梓さんに向き合った。
「えーっ、主人公の色なのに!」
「僕は主人公のタイプじゃないですからね」
 僕よりも主人公らしい子の方を向くと、ふいと顔を逸らされた。
「またまたぁ。安室さんは赤のライダースーツを着てセンターに立ってますよ」
 ニャイバーと一緒に戦ったら子供たちからの人気はうなぎ登りですよ! なんて梓さんは楽しげに続けている。気がついたら蘭さんと半笑いのコナン君まで同意していて、なぜか立場が弱い。
「せめて赤以外でお願いします」
「似合いそうなのになあ」
 梓さんはどうしても僕に赤を着せたいらしい。怪我した時もサンタ服を着せると脅されたし、赤が好きなのかもしれない。赤だけは勘弁してください、と思いつつ、蘭さんに話を振ることにした。
「はいはい。蘭さん、今日はどうしますか?」
「僕おそば食べたいなあ」
「こらこら、蕎麦打ちは三年かかるって言ったのはコナン君だろう」
「私も食べたいです!」
 面白がるコナン君に便乗する梓さん、そして蕎麦のくだりを聞いていなくて困惑する蘭さんとお手上げ状態の僕。この穏やかな時の流れが、ポアロの好きなところの一つだ。時の流れが異常に速い庁舎とも、張り詰めた空気の漂う黒の組織の集まりとも違う、おそらく一般的なこの空間に愛おしさを覚える。
 とはいえ、蕎麦は違うだろう。
「コナン君はさておき、梓さんはポアロをなんだと思っているんですか」
「喫茶店?」
 ポアロの先輩なんだから疑問符を付けないでください、なんて顔をして見せても、梓さんはどこ吹く風で楽しげに笑う。
「私も安室さんが打ったお蕎麦気になるなあ」
「蘭ちゃんもそう思うよね!」
「安室さんが作るもの全部おいしいから、お蕎麦も美味しそうですよね」
「僕もそう思う!」
 いっそ今日の夜のベルモットの呼び出しの時に、貴女のエンジェルが手打ち蕎麦を食べたいと言ってましたよ、とでも言ってやろうか。ホテルで蕎麦打ちの練習を始めるクリス・ヴィンヤード、面白いかもしれない。
 言ったら最後、本当に始めそうなのでさすがに言わないが。
「ポアロは喫茶店なので、お蕎麦はちょっと……マスターもびっくりしちゃいますし」
「やっぱりそうですよね。今はカフェオレだけにして、夜はお蕎麦にしようかな。コナン君いい?」
「うん! おそば楽しみ」
 蘭さんの常識的な反応にほっとした。二人で夕食の献立を決める様子がほほえましい。
「安室さんのお蕎麦……
 毛利家の献立が決まる横で、梓さんはまだつぶやいている。やっぱり食い意地を張っていますよね、と追い打ちをかけそうになった。この後の営業時間中も引きずられてはさすがに作ると言ってしまいそうだ。
 あれ、僕はそろそろ帰ってベルモットの送迎の準備をするんじゃなかったっけ。
「梓さんはそろそろ蕎麦から離れてください。コナン君はおかわりいるかい?」
「うん!」
「私はカフェオレをお願いします」
「ほら梓さん、ブラックコーヒーとカフェオレのオーダー入ってますよ」
「はぁい」
 しょんぼりしています、とあからさまに顔に書いたままコーヒーの準備をする梓さんが面白くて、可愛くて、つい顔がほころんだ。いつの間にか癖になった安室透の、ではなく。
「安室さんどうしたの?」
「いや、なんでもないさ」
「ふぅん」
 目ざとい少年は見逃してはくれなかったが、誤魔化されてはくれるらしい。そういうところがまだ少し甘い。
「そんな目をしたって何の情報も出てこないよ。最近は動きもおとなしいしね」
……ポアロにいる時の安室さん、楽しそうで。僕、嬉しいんだ」
 遠くを見つめながら、僕にしか聞こえないような、小さな声だった。お互いにどこまで知っているのかを明かしてはいないが、僕ではない方を指していることは確かだった。そうか、他者から見ても楽しそうだったか。いつだったか、ポアロにやってきた風見にも同じことを言われたのを思い出す。声が楽しそうです、と。
 僕だけでなく、俺自身もこの空間が、ここの人達が気に入っているのかもしれない。
「人の良いマスターに頼りになる先輩、それからコナン君のようなお客さんがいるからね」
「えへへ」
「僕もこの穏やかな時間を、」
 梓さんと共に過ごせたら、と続ける前に止まれた。僕には、俺にもそんな未来はない。
 この仕事、この名前、この身体である限り、そんな未来は望めない。他人を欺いて、手にかけて生きていた期間のツケはいつか必ず支払わなくてはいけない。それこそ、周囲の人間を巻き込んで。そんな人生に、梓さん……いや、誰であろうと他人を付き合わせられるわけがない。
 そう戒めると、一瞬にして梓さんの隣があたたかさを失い、寒気がした。手に入らないものに手を伸ばし、溺れかけている。
「どうしたの?」
「あ、ああ、なんでもないよ」
 不思議そうな顔をしたコナン君は、一転、楽し気な表情でまた話し始めた。
「そっか。ね、安室さん、今度蘭姉ちゃんたちとスキーに行くんだけど、梓姉ちゃんと――



マシュマロはこちら