kaede
2024-04-12 03:59:15
14461文字
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一彩くんと燐音くんが二日遅れのハロウィンをするはなし(燐一)

一彩くん、兄さんのためにははりきってハロウィンのお菓子用意するだろうけど、燐音くんに要求するって発想なさそうって(勝手に)思って、その辺掘り下げたいって思ってたんですけどハロウィンの頃は身辺が大変すぎてとてもじゃないけど書いてる余裕なくて、でも書きたかったので今書きました

 CM撮影を終えてスタッフさんに挨拶を済ませて一息ついたところで、そうだ、と思い出してスマホを手に取った。最初の頃は、こんな小さな箱でここにはいない誰かと連絡を取り合えるのが不思議だったけれど、今では手慣れたものだ、と自分でも少し誇らしく思う。
 事務所やユニットのみんなから送られていたメールをチェック。急を要する案件は特にないようだったので、ここですぐ返せるものにだけ返事を出して、最後に残しておいた兄さんからのメールを開く。

 『大事な用事があるから、仕事が終わったら俺の部屋まで来てくれ』

 とても簡素な文面ではあったけれど、届いていたメールの中では一番重要度が高いものだ。極めて個人的な主観での判断にはなるけれど。
 大事な用事、と前もって告げられているのだから、何をおいても行かなくてはならない。
 まあそんな文言なくたって、行かない選択肢なんて最初からどこにもないけれど。
 君主が呼んでいるのだからすぐにでも駆けつけるのが補佐の役目だ。
 ……というのは建前というか、事実ではあっても特別に優先される理由ではなくて。

 ただ僕が、早く兄さんに会いたかった、それだけだ。


 寮に戻って荷物を置いて、着替えようがどうか一瞬迷って一瞬で却下して兄さんの部屋の前まで行きドアをノックすると、開いてるぜ、と大好きな声が返ってくる。僕には生憎、宙くんのように相手の感情が色で判断できる目はないけれど、声の高低や速さとか息遣いとか、耳から得られるあらゆる情報で兄さんの機嫌がある程度はわかる、その程度の能力ならある。後天的に得たものだし予測が外れることもあるけれど。
 多分今の兄さんは、少し、機嫌が悪い。

 ドアを開けて、失礼するよ、と前置いてから部屋の中へ入る。ここに来るといつも、僕の暮らす領域ではない、という感覚を強く感じてしまう。それは見慣れないソファやテーブル、ベッド、たくさんの家具が持っている色やデザインのせいというよりも、ここは君主の居城で、僕はそこに入ることを許してもらえているだけの下民……という言い方をすると大仰になってしまうけれど、単純にここが兄さんの部屋で僕の部屋ではないから落ち着かない、というだけの話だ。
 兄さんはソファではなく自分のベッドに腰掛けていて、僕を認めると軽く手招きした。そして自分の隣をぽんぽんと叩く。都会で再会してからは一番よく見る、実年齢より少し幼く見える顔で笑っていて、機嫌が悪そうには見えない。
 見えないように隠しているだけなんだろうけど。
 近づくと、兄さんの表情がわかりやすく変化した。
 何か企んでいるような笑顔。
 ほら、やっぱり。
「ひ〜ろくん」
 兄さんの要望通りに隣に腰掛けた僕に弾んだ声で呼びかけながら、兄さんがぎゅっと抱きついてくる。いや、どちらかというと、僕が逃げないよう拘束した、の方が近いように感じる。
 僕が兄さんから逃げるわけがないのに。変な兄さん。
「ごめんね」
「何が」
 返された短い声は、さっきよりもさらに、くすんでいる。
「僕は何か、兄さんを怒らせるようなことをしてしまったみたいだから」
「はァ? これが怒ってる顔に見えンのか?」
「見えないけど……でも、声を聞けば兄さんの機嫌が悪いことくらいはわかるよ」
 僕の指摘に兄さんの眉根がかすかに動く。すぐに、元に戻ったけれど。
「ふゥん……
 やっぱり、機嫌が悪いんじゃないか。
 兄さんの表情から、すっ、と。感情の色が消える。僕から興味をなくした、のではなくて、僕の中の何かを探るのに邪魔になる情報を遮断したんだろう。
 兄さんはいったい、僕の何を探っているのだろう。
 それからざっと十秒ほど経ったところで、兄さんが笑った。

……あァ、そういうことか」

 感情が複雑に混じり合いすぎて、どれが正解なのかわからない顔をして。
 何が、そういうこと、なんだろう。
「機嫌が悪いのは怒ってる時だけじゃないんだぜェ? かわいいかわいい弟くん」
「兄さんは気づいてないのだろうけど、僕にかかる形容詞を二回繰り返す時の兄さんはだいたい、機嫌が悪いよ」
「だーかーらァ、怒ってる時とは限らねェって言ってるっしょ」
 兄さんの声の波が大きくなる。でもすぐに、はっとして、少し荒っぽく頭を掻く。深呼吸を一回して、それから、僕を真っ直ぐに見据える。
 さっきまであったはずの兄さんの怒りは、どこへ消えてしまったんだろう。
 そう思わざるを得ないくらいに兄さんは、とても綺麗な顔で僕を見つめていた。
 今にも空気に溶けて消えてしまいそうなくらいに、故郷にいた頃たまに見たのと同じに、とても透き通った顔で。
「兄さん」
 思わず手を伸ばしてしまった僕の指先に、かさり、と何かがぶつかる。いつの間にか兄さんが、かぼちゃのシールが貼られた小さな紙袋を摘み上げていた。
 もう一度、指先に当たる。今度は兄さんがぶつけてきたからだ。とんとんと、軽く振るように二回。
 受け取れ、という意味だろうか。そう思って手のひらを上向けると、それはそうなることが定められていたかのように僕の手の中に収められた。
……これは?」
「今日は何月何日でしょう」
 質問に質問で返すのは、都合の悪い回答しかできないのを回避したいか、主導権を取りたいかのだいたいどちらかだ。兄さんほど頭の回転がいい人なら、後者の確率の方が高い。
 あるいは、僕にはおおよそ見当のつかない理由があるのかもしれないけれど。
 でも何にしろ、僕の質問が優先されるべき、のっぴきならない理由は特にない。
……十一月二日だよ」
 僕の質問を後回しにされたことに思うところが何もない、とは、正直言い難いけれど。
 兄さんは難しい顔をして……笑っているのに少し苦しそうにも見える、何とも形容しづらいという意味で難しい顔をして、質問を続ける。
「じゃあ二日前は?」
「十月三十一日だね」
「ここで問題です。その日は何があったでしょうか?」
 二日前のことを思い出す。僕は記憶力が良い方なので、それほど手間取ることもない。
 それと、紙袋に貼られたシールから総合的に判断すれば。
……ハロウィンかな?」
 そこで、兄さんの雰囲気ががらりと変わった。
 都会に来てからは一番よく見ている、いつもの兄さんの顔で、笑う。
「大せいかーい!」
 都会で暮らす兄さんが、本当の自分を隠して、装って生きているだけなのではないか、と思うのはこんな時だ。装うことで得られるメリットがよくわからないけれど。
 それとも、これが本当の兄さんなんだろうか。故郷にいた時は、周りの人間が求める振る舞いを敢えて演じていただけで。
 僕に優しくしてくれたのも、そうするのが正解だったからで、本当は。
 ……いや、それは、違う。そう思っていたこともあったけれど、兄さんが僕を心から愛してくれていて、なのに僕が馬鹿だったからずっと苦しい思いを抱えたまま、とうとう故郷を飛び出してしまったことはもう、知っている。そんな、心が千切れて散ってしまいそうな叫びが全部嘘だったなんて、そんなことはあり得ない。
 今、目の前にいる兄さんは、言動こそ軽薄になってしまったけど、その心根は昔から今まで何も変わらない、僕の大好きな、僕を愛してくれる、兄さんだ。
 それはわかっているんだけれど。
 疑っているわけでもないんだけれど。

 ならどうして僕は、こんなにも不安な気持ちになっているんだろう。

「ったくよォ、せっかくお兄ちゃんがお菓子用意して待ってたってのにつれねェじゃねェの」
 兄さんが笑う。がっかりしているようでその実、挑発しているのが僕にも読み取れる顔をして。
 でも。
……ごめんね。兄さんに要求するって発想がなかったから」
「他のやつには要求するのに?」
「兄さんは他の人とは違うから……
「どこが」
 その表情がどんどん僕に近づいて、どんどん、鋭くなっていく。
 硬い声。
 ほとんど何も考えずに、一番手に取りやすかったから、という理由だけで選んだ言葉を、口元に置いた。
「兄さんは……兄さんだから」
「説明になってない」
 短い否定。
 それは確かにそうだ。と、自分でも思う。
 でもこんなこと、どう説明するのが正解なのか、僕にはわからない。
 兄さんは兄さんだから。それは理屈以前に、純然たる事実だ。それ以上でも以下でもない。
……話を蒸し返すようで悪いけど、やっぱり兄さん、怒ってるよね」
 質問に満足に答えられないからって、自分から話を逸らすなんて卑怯だ。そう思うのに、僕にはそこにしか、先へ進む道が見えない。その先だって、行き止まりかもしれないのに。
「怒ってないでェーす」
 ふざけた口調でそう答えた直後に、兄さんの表情が翳る。
 ひゅっ、と、自分が息を飲む音が、他人事みたいに僕の鼓膜を震わせる。
 だって、こんな顔。
………だ」
 兄さんの言葉は霧の中にいるみたいに不明瞭だ。
 聞き取れなかった、もう一回言ってほしい、という意味合いの視線を向けると、兄さんはまるで、迷子になった小さな子供が怖い怖いと目の前の人間に縋るみたいに、僕に抱きついた。
「一彩に嫌われてるのかと思ってすげェ落ち込んだ」
「え」
 
 それは演技なの?

 なんて、この状況で訊くのは適切ではない。それくらいのことは、僕にだってわかる。わかるようになった。都会に来て、ここで知り合った仲間たちと一緒に暮らすうちに。思ったことをすぐ口に出すのは、僕にとっては正しくても、相手に同じように作用するとは限らない。
 もしそれが演技だとして、兄さんが笑って種明かしをするだけならそれでいいけれど、そうでないなら兄さんの感情を無神経に逆撫でしかねない愚行といえるし、演技でないのだとしたら、兄さんに対して失礼な振る舞いということになる。状況が好転する確率は低い。

 心臓が、僕の思惑とは裏腹に、喉から飛び出しそうになる。僕はとても落ち着いているつもりなのだけれど、脳や心は偽れても、僕の意思という支配から逃れている身体を誤魔化すのは、どれだけ訓練を重ねても難しい。
 だから僕は、多分、……そう、動揺している。
 僕の行動がいつどこで、どうして兄さんの癇に障ったのかはわからないけれど、それでも兄さんがこうなる原因をつくったのはきっと、僕だから。
 兄さんを怒らせて傷つけて悲しませたのは僕だから。
 ……なんだ。僕はちゃんと、わかってるじゃないか。
 兄さんは、演技なんてしていない。

 本当のことしか言ってない。

「それは、その……ごめんなさい。でも、僕は兄さんを世界中の誰よりも愛してるよ」
「口でならどうとでも言えるよな」
「誓って本当だよ!」
 言葉をまるで尽くすこともせず、僕の言葉をただ無条件に信じてほしい、と要求するだけで、兄さんからの納得を得られるわけがない。
 頭ではそう理解しているのに、兄さんにまで届かせるための言葉が僕には見つけられない。

 口でならどうとでも言える。
 それは本心ではない。

 そう判断されても仕方がないことだ。
 でも、僕は本当のことしか言っていないのだから、これ以上、何をどう説明すればいいのかわからない。
「じゃあ何で」
 そこで、兄さんの声が止まる。本当はもっと手前で止まるはずだったのに、勢いがつきすぎていたから、停止線から飛び出してしまったみたいに。
 兄さんは僕とは目を合わせないで、普段の言動からは想像もつかない……でも故郷にいた時、兄さんがまだ今の僕より幼かった時にはたまに見ることがあった、不服で不貞腐れているような顔をしてぼそぼそと呟いた。
……何で俺には言ってくれなかったんだよ」
……言う?」
 僕としてはそんな顔をする兄さんが、目上で年上の人相手にそんなふうに思うのは失礼なんだろうけれどそれでもいじらしく見えて、だからこそ兄さんの気持ちに寄り添いたかったんだけれど。僕の何が気に入らなかったのか、具体的なところは何ひとつわからない。だから思わず聞き返してしまうと、兄さんは居た堪れなさを誤魔化すように頭を掻いて僕を見て、はあ、と何かを諦めるように溜息をついた。
「あー……だからよ、ハロウィンの日に……
 そこまで聞いて、ようやく合点が行く。
「『トリック・オア・トリート』を言わなかったのか、ってことかな」
 ハロウィン、というキーワードを前もって与えられていたのだから、そんな日に言うことなんてそれくらいしかない。と、すぐに気づけなかったのは僕の落ち度だ。でも、まさか兄さんがそんな小さなことにこだわるなんて思いもしなかったから。
……おう」
 兄さんの口から、渋々、といった感じで、肯定の返事が出る。
 それは、と反射的に口をついて出た僕の声はそこで、詰まってしまう。

 どうしてだろう。

 同室の椎名さんには、言った。言っていいかどうかなんて、考えもしなかった。お菓子を用意してくれていることは日々の会話である程度、予測できていたから。
 他の、普段から良くしてもらっている先輩方にも、タイミングが合えば、言った。蓮巳先輩は見ているだけで華やかな気分になる干菓子をくれたし、羽風先輩はお気に入りのお店のお菓子だよ、と、ふわふわのきつね色をした小さなマドレーヌをくれた。中にはお菓子の用意をしていなかった人もいたけれど、そんな人たちは、後日共有ルームに何か置いておく、と言っていたし、レオ先輩なんかは即興でつくったという、ハロウィンのカボチャが一晩中踊り続ける歌を披露してくれた。もちろん、もらうばかりではなくて、こちらからは同学年のみんなでお金を出し合ってお菓子を用意したりもした。
 お菓子が欲しかったわけじゃなくて。この日にはそう挨拶するのが都会でのルールだと学んでいたから。余談だけれど、ルールには厳格なものばかりではなくて、みんなが楽しい時間を過ごすために決められているものもあるんだと、またひとつ、勉強になった。
 でも。
 でも、それならどうして、ルールなのに、兄さんには言わなかったんだろう。
 あの日、兄さんのために個人的に用意しておいたお菓子は、奏汰先輩に言伝を頼んで渡しておいてもらえるようお願いした。兄さんが朝早くから仕事に出掛けていることを知っていたからだ。それ以降、寮の廊下や共有ルームで兄さんと顔を合わせた覚えはないから、タイミングが悪かった、といえばそれまでのことだ。
 でも、その気になれば夜、眠る前にだって渡しに行けたはずだ。夜には帰ってくることは知っていたのだから。疲れているだろう兄さんに煩わしい思いをさせるのは申し訳なかったから、その時間は選ばなかったのだけれど。
 でも、もしタイミングが合ったとして、果たして僕は兄さんに言えただろうか。
 ……自分で答えを出してしまってるじゃないか。
 言っただろうか、じゃなくて、言えただろうか、って。
 だって、もしそれを言って、言った時、兄さんが。

……兄さんは、僕の大切な人だから」
 考えるよりも先に言葉が口をついて出るなんてことはあまりないから、びっくりしてしまう。僕は一体、何を言おうとしているんだろう。頭の中は筋道を立てるどころかぐちゃぐちゃで、何もまとまっていないのに。
 止めたいのに、どういうわけか、止まらない。
「求めて、拒絶されてもそれは当然のことなのに、それだけのことなのに大丈夫だったのに、今はもうきっと、拒絶されたらきっと、僕はどうしたらいいのかわからなくなる。兄さんには兄さんの都合があるのだから僕の思い通りにはいかないってわかってるのに、他の人ならそれで終わりなのに、こんなの、僕の身勝手な我儘だってわかってるけど」
「一彩」
 とめどない思考を、兄さんの凛とした声が遮る。
 慌てて俯いてしまったのは、どうしてだろう。
 兄さんに顔を見られたくなかったからだ。
 どうして見られたくなかったんだろう。
 それは。
「でも、だから、それなら最初から何も求めなければ何も返ってこないから悲しくもつらくもないしそれなら何も怖くないって、そう思って……そうか、僕は」

 兄さんが僕を抱き寄せる気配がして、抱え込むようにして僕の髪をくしゃくしゃ撫でる。
 助かった、なんてことを思う。

「僕は、怖かったんだ」

 だから、言えなかったんだ。


 鼻の奥がツンとする。
 喉の奥が熱い。
 ああこれは、涙が出る前兆だ。
 でも、兄さんの前で泣くなんてみっともないし頼りない弟だと思われたくない。必死で抑え込んだ。
「あー……そりゃ、悪かった」
 温かな吐息と共に耳を撫でる兄さんの声は、優しい。
 胸が詰まって呼吸しづらくて、なんとか吐き出した息が、網膜が、ひどく熱い。
「どうして兄さんが謝るのかな」
 油断すると声が震えてきっと兄さんに見透かされてしまうから、出来る限り、平静を装って。
 兄さんは、多分僕の髪に淡く口付けたあと、あいもかわらず僕の胸を詰まらせる、優しくて、柔らかくて、穏やかで、それなのにとても切なくなる、苦しくなる声で言った。
「お前がそうなったのは俺のせいだから」
「兄さんは何も悪くないよ……
 とうとう滲んでしまった涙をこっそり拭って、顔を上げる。
 兄さんはやっぱり、僕の思っていた通り、少しだけ苦しそうな顔をして僕を見つめていた。大きな手が僕の頬に触れて、目元をそっと撫でられる。
「呼び方がわからなかった感情に、お前は自分で、怖い、って名前をつけられたんだ。いつか俺の何が悪いのかもわかる時が来るさ」
……兄さんはもう、機嫌が悪くないね」
「そーだな」
 ばつが悪いのを笑って誤魔化している、声。
 僕の身体を構成している細胞が生まれ変わるたびに僕の中に残し続けてくれたから知っている、僕を愛しく思ってくれている声。
 僕の、大好きな声。

 すっかりご機嫌になった兄さんが、揶揄い混じりに笑う。
「かわいい弟が怖がって泣いてンのに、機嫌悪くなってる場合じゃねェだろ」
「少し目の端が濡れただけだ。泣いてはいないよ」
「そりゃもう泣いてるようなもんだろ」
「暴論だよ」
「言って」
「え?」
 分が悪いと自覚しながらそれでもなんとか正当性を主張しようと躍起になっていたから、一瞬、思考が混乱する。つまり、何を求められているのか、すぐにはわからなかったんだけれど、ああもしかして、とひとつ思い当たったと同時に、手の中の紙袋を兄さんがつまみ上げた。
「二日前にやり損ねたこと、今からやっちまおうぜ、一彩」



 二日前の気軽さはとうに過ぎ去ってしまったそれを。その言葉を。おそるおそる、口にする。まだ怖さ……不安は完全にはなくなっていなかったから。僕の望んだ結果になるとすでに種明かしされているのにだから何も恐れることはないのに、勝手に動き回る感情の制御がうまくできなくて、不思議な感覚だ。
 トリック・オア・トリート。
 それを聞いた兄さんは、とても。

「お前の悪戯なら喜んで受けるけど。今は、こっちだよな」

 とても幸せそうに……幸せ、なんて一言じゃとても言い表せないくらいに美しく、儚く、柔らかく、切なく、尊く、眩しく、世界中の言葉すべてをかき集めたって到底言い表しようのない、複雑なのにとても透き通っている感情を微笑みと一緒に僕の手のひらに乗せて、僕の心を震わせた。


 改めて僕のものになった紙袋を眺めているだけで、嬉しくて心地良いのに高揚して落ち着かなくもあるような、地球の重力から少しだけ解放されたような、そんなふわふわした感覚に陥ってしまう。
「食べるのがもったいないな」
 なんなら、開けてしまうのだってもったいないくらいだ。開けてしまったら、この幸せな時間が急に冷めて、醒めてしまうようで。
「オイオイ、消えもんなんだから悪くなる前に食っちまえよ。何なら今ここで食ってけ」
 兄さんは呆れたように口元をゆるく歪ませていたけれど。
 でも、そうは言ってもね、兄さん。
「せめて一晩は飾っておきたいんだけど。あと、ひなたくんと椎名さんには見せたいな。何なら寮のみんな全員に見せて回りたいくらいだ」
 今の思考を全部兄さんに伝えると、兄さんは眉根を軽く寄せた。察するにおそらく、勘弁してくれ、という意味なんだろう。兄さんは恥ずかしがり屋なところがあるから。
 ふう、と軽やかな吐息とともに、兄さんの表情がまた、変わる。
 幼い頃、馬鹿な僕を見捨てることなくずっと手を引いてくれた時と同じ、懐かしくて僕が大好きな顔。
……また今度、やるから。だからそれは今、食っちまいな。ハロウィンはとっくに終わってるんだしよ」
 兄さんの言い分の後半部分は、筋が通っていて、反論する隙もない。つまり、正論だった。だから兄さんの言葉の主旨はこちらなんだろう。
 前半部分は、主旨を補強するための理由付け、もしくは僕を納得させるための口車……
……本当?」
 思考がまとまるよりも先にまた言葉が口をついて出てしまって、慌てて口を塞いだけれど、そんなことでそれがなかったことになるわけがないのは分かりきったことだ。
 兄さんが驚いた顔で僕を見て、だから僕はてっきり。
 てっきり、兄さんの言葉を疑ってしまったことを非難されるのだろう。そう思ったのだけれど。
「約束するから」
 そう言って、兄さんは笑っただけだった。 
 目尻は柔らかく緩んでいるのに、その中心にある瞳は恒星のように輝かせて。
 僕の心臓を焦がすほどに、強く。
「兄さん……兄さんが嘘をつくわけないのに、疑ってしまってごめんなさい。どうしてこんなことを思ってしまったのか、自分でもわからないんだ」
 動揺している。それは自覚しているけれど、だからってどうにかできる気は全然しない。何しろ僕にはその原因がよくわからないのだから。
「俺が、ちゃんとわかってるから。お前は何も悪くないよ。むしろ悪いのは俺だ。ごめんな」
「兄さんは何も悪くない……
 そう言いかけて、少し前にも同じ話をした、と思い当たる。
「それも」
「ん?」
「その『悪い』の理由も、僕にいつかわかる時が来るかな」
「んー……『悪い』の理由は副次的なもんで、根本原因は別なんだけど……って、まァ、いいか」
 僕の頭に手を置いた兄さんが、眩しそうに微笑む。
「わかってくれたらいいなって思ってる」
 僕の髪の上をすべるように行き来する手のひらは暖かくて優しくて安心するのにどういうわけか少し、泣きたいような気持ちにもなってしまう。僕の中で固まっていたものを、兄さんのぬくもりが溶かしてしまったからからもしれない。
 一度は引っ込んだはずの涙がまた、目の下あたりまで満ちてきているような気がして、だから僕は、口を開く。
……つまり僕がわかるかどうかは、兄さんでも予測できない、ということなんだね」
 意識を他に向けなければ、きっとまた僕は、今度は正真正銘、兄さんの前で泣いてしまいそうだったから。

「その話はもういいから。ほら、食べちまいな」
……ウム」

 兄さんが僕の肩を軽く抱いて話を逸らしたのは、そんな僕の気持ちを見抜いていたからかもしれない。


「これ……ずいぶん個性的なかたちをしてるね」
 袋の中身は、クッキーだった。普段目にしたり実際口にしたりするものと同種のものであるのは間違いないのだけれど、ただ、その形は妙に歪だ。本来なら円を描いているはずのものがつぶれて角の丸い四角になってしまっているような。それに、焼き色もいくらか濃いように思う。
 でも、とても美味しそうだ。
「初めてつくったんだからしょうがねェっしょ」
「え?」
 兄さんは僕の隣でばつが悪そうに眉根を寄せて、それから僕の顔をしっかり見て、照れくさそうに笑う。
『初めてつくったんだからしょうがない』
 それが意味するところを僕はすぐにわかったはずなのに、思考が一気に流れ込んだせいか喉元で詰まってしまって、うまく外に出ない。
 それなのに心臓は早く早くと血液を送り続けて返って僕の喉を圧迫するから、理解を言葉にするまでに、妙に時間がかかってしまった。
……もしかして、兄さんの手づくり、なのかな」
「味の保証はしねェからな」
 兄さんのそれはつまり、肯定の意だ。
 そうなんだ。
 兄さんが、これを。
 僕のために、これを。
 僕のために、初めて、これを。
……いただきます」
 思いのほか固かったそれは少し粉っぽくてざらりとしていて、僕がよく知っているクッキーの食感とは少し違うものだったけれど。
……しょっぱいよ、兄さん」
 やっぱり僕が思った通り、ほんのり甘くて、とても、美味しい。
 兄さんが息だけで微笑んだ音が聞こえて、それから、僕の頬を撫でる。
 その場所だけ、ほのかに温かくなってそれから、ひやりと涼しくなる。
「そりゃ悪かったな。次はおめェの舌を唸らせるくらい、すげェのつくってやンよ」
「兄さん」
「何だ?」
「僕のこと、愛してる?」
 少しぼやけた視界の向こうにいる兄さんは驚いた顔をしていたけれど、その顔は、僕が思った通り、すぐ、春の穏やかな日差しのような、夏の心地いい木陰のような、秋の美しい夕暮れのような、冬の銀色に輝く雪原のような微笑みに変わる。
「愛してる」
「本当?」
「疑うのかよ」
「兄さんは軽薄でいつもいい加減なことばかり言うから」
 こんなことを言ったら、兄さんは怒るだろうか、とは、思わなかった。どういうわけか。
 兄さんはやっぱり、僕を怒ったりなんてしないで、でも嗜めるようには、僕の頭に手を置いた。
「お兄ちゃんを試すんじゃねェよ」
「試す?」
 頭じゃなくて、さっきみたいに、僕の頬を撫でてくれればいいのに。
 でないと、兄さんの熱を感じづらい。
 軽く息を吐いて立ち上がった兄さんはベッドに座ったままの僕の前に跪いて、僕の手を取る。君主が補佐である僕にそんな真似してはいけないのに。
 でも、その手は僕が欲しかった温かさをしていたから、諌めることも、離すこともできない。
「一彩」
 兄さんが僕を見上げて、僕の名前を呼ぶ。思わず寄りかかりたくなってしまいたくなるくらいに柔らかいのに、一度身を任せてしまえば僕は沈み込んだまま、もう二度と起き上がりたくなくなってしまうのでは、と。少し不安にもなってしまう声で。
 これに似た光景を、僕は以前に見たことがある。……ああそうだ。いつか寮のみんなと共有ルームで見たドラマの中のワンシーンだ。
 あれは何のドラマだったっけ。
 ……そうだ確か。

「一彩、俺はお前が生まれた時からずっと、今も、これからも一生、死が二人を別つまで……いや、死が二人を別つとも、ずっと、お前を愛してる」

 そう告げた兄さんの顔が近づいてきたから、僕は目を閉じる。
 テレビの中で今の僕と同じことをされていた役者さんは目を閉じていたからだ。
 それに、こういう時はそうするものなんだ、ということくらいは僕だって、知っている。都会に来てもうずいぶん経つのだから。


……信じてくれた?」
 僕の目の前で青く燃える兄さんの瞳が、熱い。
 いや、熱いのは僕の顔だ。
 特に身体を動かしたわけでもないのに、心臓が酸素と一緒に熱い血液を全身に送り続けるから。
「僕は、最初からずっと、兄さんを信じてるよ」
 今さらだ。と思っているのに、兄さんのまばゆさから逃れてしまったのはどうしてだろう。今さら? 何が今さら? ……そう、兄さんに顔を見られたくなくて、赤くなった顔について指摘されたくなくて。恥ずかしくて。……そう、恥ずかしくて。……ああ、そう、眩しいから、目を逸らした、それだけのことだ。うん。
 それだけのことだよ、兄さん。
 だって僕には、何がどう恥ずかしかったのか、わからない。答えしかわからない。解法がわからない。
 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
 思考がぐちゃぐちゃだ。
 兄さんが甘く笑いながら吐いた息が、僕の髪にふわふわと舞い落ちる。
「さっき少し疑ったじゃねェか」
 その上にさらに降り積もった声音から察するに、兄さんの機嫌は悪くないようだった。
……疑ったのではないよ。本当かどうか正しく知りたかっただけだ」
「はいはい」
 呆れた声。でもやっぱり、機嫌は悪くない。
 むしろ。
 ふたたび隣に腰掛けた兄さんが発生させたエネルギーでベッドが軽やかに揺れて、静止する。
 僕が、兄さんに対して顔を背けるという失礼な振る舞いをしているにも関わらず、兄さんはそれを咎めることはなく、機嫌を損ねることもなく。
 無理矢理にだって顔を上げさせることも、なんなら言葉ひとつで命じることだってできるのに、それをしないのは。
 僕の気持ちを全部わかった上で、慮ってくれているからだ。 
 ということを理解してしまったらもう、僕には顔を上げる選択しかない。
 恥ずかしさはいまだ血液と一緒に僕の中をぐるぐると駆け巡っているけれど、でも、だったら恥ずかしくなくなるまで避け続けるのかと言ったら、いつ落ち着くのかもわからないそれを無為に待つのは現実的ではないし、それ以上に、兄さんに申し訳がない。
 失望されたくない。
 呆れられたくない。
 嫌われたくない。
 だって僕は。
……にいさん」
「ん?」
「どうしてその……キス、したのかな」
 待ってほしい。
 僕はどうしてこんなことを訊いているんだ?
 僕の承諾も取らずにしたその行為を咎めたかったから? 結婚前の男がよりにもよって実の弟にするようなことではないから? いや、それは今咄嗟に並べただけの思いつき、後付けの理由だ。
 だって本当の理由なんて最初から、わかりきったことなのだから。
 ……わかりきったこと?
 何を?
 僕は何をわかっているんだろう。
 どうもさっきから思考が暴走しているというか、無秩序だ。手順がめちゃくちゃだ。
 わからないのにわかるなんて、おかしい。正しくない。
 でも、この気持ちが間違ってるとは、思えない。
 兄さん、僕は、兄さんのことが。
「愛してるから……いや、これは、うん。アレだな」
 兄さんは僕の顔を見て、笑う。僕がおかしな顔をしていたから、ではなくて、少し、困っているように。困っている、は、単に近い言葉を代用しただけで、それが正解かと言ったら、違うのだと思うけれど。
 苦しそうなのに嬉しそうで、幸せそうなのに泣きそうにも見える、どれでもあって、どれでもない、そういう、元はひとつの感情だったものがプリズムを通して分散してしまったみたいに。
 プリズムを通る前の兄さんの感情は、何だったんだろう。


「好きだから」


 兄さんの真っ白な光が眩しくて、思わず目を伏せてしまう。

 びっくりした。
 急に、自分でも驚くほど唐突に、けれど疑う余地もなく、わかってしまったから。

 ああこれが、プリズムの向こう側にある兄さんの、たったひとつの感情だ。

 兄さんが、わかってくれたらいい、と言っていた、その答えの正体だ。

 兄さんの手が、僕の頬を包む。
 今度は、逃してもらえないみたいだ。
 そう、さっきの兄さんはあえて僕を逃してくれていただけだ。何もわからない僕を、憐れんで。
 でも今の僕はわかってしまっているから、僕が兄さんと対等な場所に立っていると認めてくれたから、だから、顔を上げろ、と兄さんの手が、言う。
 と言っても、僕の頬より少しだけ温度の低い兄さんの手に強引なところは欠片ほどもなかったのだけれど。
 兄さんは促しただけで、最終的に顔を上げる選択をしたのは、僕自身なのだから。
 兄さんが求めていることがわかっているのにそれに逆らうなんて、僕にはできない。
 ……というのは建前というか、事実ではあっても特別に優先される理由ではなくて。
 ただ僕が、そうしなければいけないと、そうしたいと、思っただけだ。
 だって僕は兄さんのことが。
「その二つの言葉にさほど違いはないのに、どうして言い直したの?」
 ああまた。僕は何を言っているんだろう。こんなことを言おうなんて、口を開く寸前までは全然思っていなかったはずなのに。
 兄さんは僕の顔が面白かったのだろう。熱を確かめるように僕の頬を丸く撫でて、満足げに笑った。
「まァた、お兄ちゃんを試すのか?」
「試す、の意味がよくわからないのだけど」
「訊かなくてももうわかってることをわざわざ訊くなって言ってンだよ。真っ赤な顔した、かわいいかわいい一彩くん」
……兄さんが僕にかかる形容詞を二回繰り返すのは、機嫌が悪い時だけじゃない、というのはわかったよ」
 さすがに自分が揶揄われていることくらいはわかったから、そう返す。直接的な言い方ではなくて、兄さんみたいに婉曲的でまどろっこしい言い方をした自分に、少し驚いた。
 けれど、この赤い顔ならその程度の小さな動揺、紛れてわからなくなっているだろう。そんなことを思いながら兄さんを見つめると……笑えばいいのか怒ればいいのか、今この状況に一番相応しい表情が僕にはわからなかったから、見つめる以外のことができなかっただけなんだけれど、少し、失敗したな、と思う。
 兄さんの瞳が放つ光は、眩しすぎるから。

「それだけか?」
「え?」
「わかったのはそれだけか?」

 兄さんがしなやかに微笑む。
 僕は今、試されている。
 ……ああ、兄さんが言った『試す』は、そういう意味だったのか。
 ちゃんと言葉にしてほしい。
 ちゃんと行動で示してほしい。
 そういう意味だったのか。

 でも兄さん。僕は、試したつもりはまったくないよ。
 ただ、知りたかった、欲しかっただけで。

……もう一回」
「ん?」
「もう一回、キスしてほしいよ。兄さん」
 今、僕がこんなことを言っているのも、ちゃんと理由があるのだから。
 だって。
「そうしたらきっと、兄さんがわかってほしかったことが、僕にもちゃんとはっきり、わかるから」
 そうすれば、僕の中でまだぼんやりとしているこの感情の輪郭が、はっきりと浮かび上がると思うから。
 ……ただ、もう一回キスしてほしかっただけ、とか。そんな短絡的な理由からではないよ。決して。

 兄さんは顎に手を当てて、うーん、と大袈裟に唸ったあと、僕の髪をくしゃくしゃと撫ぜる。
 嬉しいのに何故かその嬉しさを耐えているような、苦しそうな、でも。
 だからこそ、幸せの意味をわかっている顔で。
「まァだ理屈っぽいとこはあるけど、トリトリも言えなかった弟くんにしちゃ上等か」
「とりとり?」
「ちゃんとおねだりできて良い子だなァ、ってこと」
「ねだっているのではないよ」
 おさまりかけていた熱がふたたび上昇したその理由については、考えないこととする。
 僕は決して、ねだったわけではないのだから。
 僕の乱れただろう髪をさっと整えてくれた兄さんの手が、するり、と僕の後頭部まで滑り落ちる。
「口が減らねェとこはかわいくないなァ。かわいいけど」
「言ってることがむじゅ」

 矛盾してるよ。

 と、言うはずだった口は兄さんに塞がれてしまって、言葉は全部、奪われてしまった。
 あの、よくわからなかった不安ごと、全部。

 そして僕はそれと引き換えに、好き、という感情を知った。