溶けかけ。
2024-04-09 08:55:50
1315文字
Public ほぼ日刊
 

せめて一時の安息を


「またね、ヌヴィレット」
フリーナが眉を下げて微笑んだ。机の上に置かれた手を強く握りしめながら、表面上は何事もなかったかのようにああ、君も気を付けて、といつも通りの答えを返した。扉が締まり、ガラガラとスーツケースの車輪の音が遠ざかって行くのに合わせて、そっと無意識に止めていた息を吐き出す。――何も出来なかった。止めることも、支援をすることも……
やがて、そんな資格もなかったな、と自嘲する。


あの審判の後、彼女とは一週間程顔を合わせなかった。彼女の世話をする者たちから、いつも通りです、という報告を聞いていたせいで完全に油断していたとも言える。――まさか、その間に新たな新居を見つけ、引っ越し業者の手配と水神の引き継ぎ書類を制作し、署名をして各部署に根回しまで済ましていたとは流石の自分でも気が付かなかった。彼女には書類作成など不可能だろうから後々、自分が作成し持って行くのだとずっと思っていた。
ヌヴィレットは机に上がっていた書類を見直す。丁寧かつ流麗な文字が踊るそれらにはフリーナの署名や水神引退の理由などが細かく記載されており、かつて書類を玩具にしてパレ・メルモニアを混乱に陥れた水神のイメージとは些か離れすぎていた。はあ、とため息を吐き出し眉間を軽く揉む。最近は悩みの種ばかりだ――


「はい、これ」
事もなげに提出された書類に目を通した当初、ヌヴィレットは彼女にそれを突き返した。
「何の真似だ?」
「何の真似も何もただの引き継ぎ書類だけど?各部署からの署名は終わってるから、後はキミのサインだけなんだ」
「却下する……こんなのは認めない」
「まあ、予想通りだね。君が何を言おうと、これはもうパレ・メルモニアで働いてる職員の中では認知されている。……今日あたり民達も知ることになるかな?」
「私を謀ったのか」
書類を持つ手が震える。手の中でグシャ、と潰れた音がした。
「そうだよ……だって、そうでもしないとキミはいつまで経っても引き継ぎする気なんてなかっただろう?」
図星を言い当てられてドキリとした。そう、忙しさを理由にフリーナの引退を引き伸ばしにしていたのはヌヴィレット自身である。
「フリー……
「もう疲れたんだ。休ませてくれ……
――君の気持ちは分かった。ならば、何かしらの支援を」
「要らない!」
自分でも驚くほどの大声が出た。眼前のヌヴィレットが瞠目した。感覚すらない表情筋を無理矢理動かしいつもの笑みを浮かべる。
「ご、ごめん……何もしなくて良い……放っておいてくれ……頼むから、これ以上干渉しないでくれ……
お願いだ、ヌヴィレット。吐露された本音は小さく、弱々しく、感情と言う感情を全て削ぎ落とした声と顔でフリーナは懇願した。――彼女はこんな表情をする者だっただろうか……


数日前のこと思い出しながら、書類の文字を確かめるように一つ一つ指でなぞる。彼女の文字はこの数百年で見慣れた筈だったのにどうしてか、無機質で知らない人の文字に見えてしまう。目を閉じる。あの時の彼女の顔が脳裏から消えない。せめて転居先では心穏やかに暮らせることを願う。もうあんな顔をすることがないように――