それに気付いたのは、寝惚け眼で顔を洗った後だった。ぼうっとしながらタオルで雑に顔を拭いて、覚醒し始めた目でふと鏡を見た二秒後。異変に気付いてからも十秒程無言で鏡を見つめてから、報告しなければと唐突に思い立った。報連相は大事だ。という訳で、珍しくまだ布団の中にいた明智を揺り起こしに行く。
「明智、大変だ。起きろ」
しばらくしてからようやく明智が目を開いた。薄目を開けるという表現の方が恐らく正しい。
「……うるさい」
とんでもなく機嫌の悪そうな声だ。不眠症気味らしく眠りが浅いこいつは基本的に早起きだが、たまにこうして遅くまで眠っている事がある。それはきちんと睡眠が取れているという事で、とても喜ばしい事だからあまり起こしたくはない。穏やかに眠る明智の顔を眺めるのは好きだ。ただこのまま放置しておくと「なんで早く言わなかった」と怒られそうなので、これは仕方のない行為だと言い訳しておこう。
「見て、俺の頭。モルガナみたいになってる」
「……なに?」
「猫耳生えた」
「…………なに?」
瞬間目を開いた明智ががばっと起き上がる。そうしてまじまじと俺を見つめたその顔が完全に固まったのを見て、なんだか愉快な気持ちになった。
そして多分、俺の頭に生えた猫の耳も楽しげなぴこぴこ動いているんだと思う。メカニズムはよく分からないが。
どうしてこうなったのか。
なんて俺に訊かれても「さあ?」としか言いようがない。そのまま明智に返したら、呆れた顔をされた。なんて理不尽なんだ。
「さあ?じゃないよ。異世界なんて馬鹿げたものはとっくに消えてるのに、どうして君はこうも面倒事を引っ提げてくるんだ」
「そう言われましても」
今は散歩に出掛けているらしいモルガナは、しょんぼりしたり怖がったりしている時に耳を畳む。俺もそうなっているのだろうかと自分で頭を触ってみる。さらさらした毛に包まれた耳はぴんと上を向いていた。正直だな、俺の耳。微塵も自分を悪いと思っていない事が完璧に表れている。
そういえば尻尾もあるぞと掴んだそれを差し出してみると、ますます呆れた色が濃くなった。
「そうなった原因に心当たりは?」
そんなものある訳がない。ある訳がないが、一応考えてみる。
昨日までは普段通りに過ごしていた。学校に行って、バイトをして、友達と遊びに行って。最後のは明智に僅かに不機嫌そうな顔をされたが、まあそれはそれだ。俺には俺の人付き合いがあるし、誰と一緒にいようが最後に帰ってくるのは絶対に明智のところなんだから嫉妬も程々にして欲しい。ともかく、他に何か特別な事はあっただろうか。考え込んでふと思い出したのは、昨日の午後の事。
「猫、助けた」
「猫?」
「道の真ん中にいた子猫を助けたんだ。それかもしれない」
変わった事といえばあれしかない。道路の真ん中で立ち往生する子猫が目に入ったから、慌てて抱き上げて助けた。極稀に見かける、交通事故に遭ったと思われる動物の亡骸。もう少し見つけるのが遅かったら、あんな風に轢かれていたかもしれないと考えるとぞっとする。すぐに俺の手から抜け出して、親らしき猫と路地裏に消えてしまったあの子猫は元気にしているだろうか。怪我はしていなかったみたいだから、大丈夫なはずだと信じている。
考えていたら絶対あれだなという確信が強くなってきた。が、目の前の明智はどうも納得がいかないらしい。
「……なんで?」
「え、見た事ないのか?助けた猫が恩返しに来る映画」
更に怪訝な顔をされる。確かにこいつがあんなにファンシーな映画を見ているはずがなかった。金曜日恒例のロードショーも、俺とモルガナが見ているそれを興味なさげに見ていたり見ていなかったり。子どもの頃からそういったアニメ映画に一切触れてこなかったらしいこいつは、見るとしても圧倒的に洋画派だ。それもアクション系ではなく、ミステリーだのサスペンスだの頭を使うタイプが多い。竜司と杏なら開始五分で寝るよなあと思いつつ、時々俺もご一緒している。余談だが、インド映画を見せた時の明智は終始宇宙猫のような顔をしていた。
「猫なの?鶴じゃなくて?」
あの映画を知らないのなら、ごもっともな反応だろう。日本で有名な恩返しの物語と言えば鶴が出てくるのは当然だ。だが、残念ながら今回鶴は全く関係がない。
「ああ、猫だ。お返しとして猫の国に連れていかれる上に、主人公も段々猫化していく」
「恩返しというより呪いの類じゃないの、それ」
「猫にとっては恩返しだったんだろ。ともかく、俺もその口かもしれない。あの猫がありがとうって気持ちを込めて、猫にしてくれたのかも」
「ええ……」
お前が何を言っているのか、まったく、ちっとも、さっぱり分からないという顔を明智はしている。俺は恩返しを受けてしまった側なのだからドン引きされる筋合いはないはずだし、そもそもなんで猫にそんな力が?という疑問もあるにはあるけれど、それはもういいだろう。なってしまったものは仕方ない。それよりもっと大事な事がある。
向かいに座る明智の方へ身を乗り出す。じいっと見つめた先のワインレッドが虚を衝かれたように動揺したのを見逃さなかった。咄嗟に身を引こうとして耐えたらしい。
「何」
「毛並みには自信がある。存分に可愛がってもいいんだぞ」
するりと擦り寄って、膝の上に乗る。動作が猫のようになったのは意図したものではないので、耳と尻尾以外もちゃんと猫化しているらしい。ついでに、誰かに甘えたくてたまらないので精神の方も猫化しているのだろう。ぴたっと手のひらをくっつけたそいつの胸から聞こえる鼓動が、いつもよりちょっとだけ早い。うんうん、分かるぞ。今の俺、多分めちゃくちゃ可愛いからな。可愛い猫に懐かれたら嬉しいもんな。これはもう、俺をたっぷり甘やかす以外の選択肢はないのでは?
「撫でないのか?」
更にじいいっと見つめたそいつに顔を顰められる前に、さっさとその手を取って自分の頭に乗せた。嫌だと言っても撫でてもらうぞという強固な意志が伝わったのか、抵抗を諦めたのか。雑だとしても、ちゃんと撫でてくれたのが嬉しくて目を細める。気持ち良いし、安心する。あんまり素直じゃないモルガナでも撫でてやると嬉しそうにするのはこういう事なんだなと、身をもって実感した。
子どもの頃でもそこそこ大きくなった時点で、頭を撫でられる機会なんてほぼ皆無になるものだ。特に成人男性を撫でようとする相手なんて恋人以外にいるはずもなく、つまり俺を撫でてくれる相手は明智以外いない。
ただ、俺がどう頑張っても明智は明智だ。素直じゃない上に捻くれているこいつが、俺を甘やかすなんて事は皆無に近い。たまに「そういう時」の最中やその後、気まぐれに撫でてくれる事があるくらいだ。今みたいに、長い時間触れてくれるのは初めてかもしれない。
「耳、本当に本物なんだ」
ふにふにと猫耳を揉まれるのも、くすぐったくてとても気持ち良い。好奇心が勝ったのか、明智が興味深そうに耳を観察しているのがちょっと面白かった。指摘したら絶対つんとした態度に戻ってしまうだろうから、何も言わないけども。
「触り心地良いだろ?」
「悪くはないね」
「オプションでにゃんにゃん言ってやろうか?」
「遠慮しておく」
「触られるの気持ち良いにゃん」
「気色悪いから今すぐやめろ」
冷たい事しか言わないのに、未だに俺を撫でる手は止めようとしない。口では嫌がっていても身体は正直というのはこういう事を言うのかもしれない。
動物の耳に生えている毛って、どうしてあんなにさらさらしているんだろう。生まれつき癖毛の俺でも、生えてきた猫耳の毛は真っ直ぐで柔らかくてさらさらしていた。しかもふわふわ。これはもう撫でるしかない。現に明智がずっと撫でている。すごい。モルガナを含め、こいつが動物を愛でている場面なんて一度だって見た事がないのに俺の事は無心で撫で続けている。なんだか誇らしい。森羅万象の頂点に立ったような気分になる。
なっていた、のだが。
「ちゃんと動くんだね、尻尾」
自分の太腿にふにゃりと巻きつく尻尾に視線をやった明智が、ふと俺の背中の方に手をやる。そうして尻尾の付け根に明智の手が触れた、その瞬間。
「ひ、っ……!?」
びりびりと全身に走る衝撃に体が跳ねた。ほとんど抱き合うような形になっていた胸を慌てて押し返す。珍しくきょとんとしたその顔には悪意も悪戯心も何もない。つまり、別に狙ってそこに触れた訳ではないのだろう。恐らく単なる好奇心から、それだけ。それにしたって今の感覚は凶悪過ぎた。
びりびりどころじゃない。ぞくぞくして、とろとろになりそうで、あれだけの刺激で変なスイッチが入りかけた。それはまるで、明智に組み敷かれながらあの場所を擦られたり突かれたりした時のような──
そして多分、俺の反応は失敗だった。やばいって顔をしたのがバレたらしい。あからさまに口角を吊り上げる明智の顔が悪魔に見える。
「どうしたの?すごい反応しちゃって」
「いや別になんでも」
「そんな顔でなんでもないって言っても、説得力ないよ」
「どんな顔──ぁ、それ、やだってば……!」
尻尾の付け根をとんとんと指で叩かれて身体が震えた。刺激に合わせるように漏れる声を、慌てて口を押さえて押し殺す。溜まっていく欲と快楽からも必死で目を逸らす。脳も身体もぐずぐずに蕩ける前になんとか逃げた方が良い。そう思うのに、力が抜けた身体はただ震える事しか出来ない。
「気持ち良さそうだね」
「ち、ちが……というか、こんな事するつもりじゃ」
「本当に?君の事だから、こういう事がしたかったんじゃないの?」
心底愉しげににっこりと微笑まれて固まる。何かまずいスイッチを押してしまったらしい。こんなところでスーパースペシャルレアな笑顔を見せるんじゃない。普段なら「俺より明智の方が乗り気」という初めての状況に喜んだだろうが、出来れば違うタイミングでそうなって欲しかった。猫だから仕方ないと開き直って、普段ならしてもらえない事を──具体的には撫でられたり甘やかされたり可愛がったりして欲しかった、ただそれだけなのに。
「存分に可愛がってあげようか、凪」
やばい。食われる。
可愛がるというのは変な意味ではないし、俺はとても純粋な気持ちで擦り寄っただけで全くそういう気分ではない。普段あれだけ煽っていて?という気がしないでもないが、双方の合意というのは恋人や夫婦だとしても絶対に必要な事だと思う。俺はちゃんと合意の上で襲っているので全会一致で合法である。
なんて現実逃避している場合ではない。探偵王子と本性が入り混じったような笑顔からは絶対に逃げられない事を悟っても、何もかもがもう遅かった。
ええと、どうしてこうなった?
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