tokeyukumikan
2024-04-08 01:36:31
4546文字
Public ヒスムル
 

おかえりまたね

6章後のNヒムもどき。文章のなり損ない
しっちゃかめっちゃかになってるヒスをよしよししつつぐちゃぐちゃにするムルの話
若干ネタバレあるのでご注意ください。微妙に地続きですが単品でも読めます

 悪夢はもう全て見尽くしたと思っていたのに。



 頭が痛い。
 
 獣のような呼気に急かされるように両足を動かした。左の側頭部から釘でも差し込んだみたいな強烈な痛みが広がってまともに前も見えやしなかったし、血の気が引いて顔を覆った両手がバカみたいに冷えてるのに、何の為かわからないくらい心臓が無駄に大きく拍動していて胸も痛くて気が狂いそうだった。必死に取り込もうとした酸素が喉に引っかかって呼吸をしくじる。もう狂っているのかもしれない。

 頭がいたい。

 喚き散らしたい衝動を逃すのに気を取られて誰かにぶつかったが止まれなかった。肩を掴んだ何かの腕を思いっきり振り払い、無茶苦茶に振り回した腕が肉を打った気もする。わからない。何もかもぐちゃぐちゃで、何一つはっきり認識できるものが存在しなかった。視界が歪む。どこに行くべきか、そもそも行きたい場所なんてあるのか(とっくに失くしてしまったくせに、?)わからないままただ足を進めていた。おかしくなってしまった。おかしいことに気づいてしまった。

 あたまがいたい、。

 誰にも触れられたくなかった。耳を塞いで欲しかった。まるで役に立たない両目を抉り出して頬を撫でて頭を切り開いて手を取って全部全部叩き潰してなかったことにしたかった。なにを?わからない、わからない。わかりたくない。風穴の空いた頭の中で嵐が窓枠を揺らしている。そうだ、あの子は、あの子に会わなければ。……あの子って誰だ、?

 ⭐︎@!!#$%@#?

 雷鳴、紫の花、暖炉の火、せせら笑う声、陰鬱な病人、遺書、遺書?お悔やみを、低い声が宣う。黙れ、これは俺の記憶じゃない。あの子に会わせろ、俺の、俺の『   』に!!

 ーーーたすけてくれ。

 「ーーー小鎚」

 耳に届いた静かな声と鼻先を掠めた血の匂いに、四方に散らばった意識が戻ってきた。詰まった息の塊を吐き出し、歪んだ視界を晴らそうと瞬きをしたらころりと水滴が滑り落ちていき、慌てて掴んでいた布で拭ったところで、その布の正体が何なのか気がつき血の気が引く。深い朱色の、血の匂いが染み付いたそれを握ったまま油を挿し忘れた機械のようにぎこちなく顔を上げて、予想していた通りの昏い緑色と目が合い絶望した。死んだ。今度こそ死んだ。ひく、としゃくり上げるみたいに喉が震える。
 蛇に睨まれた蛙の如く身動きが出来なくなったヒースクリフを椅子に座ったまま見下ろして、ムルソーは静かに溜め息を一つ落とした。びくり、と肩を揺らすヒースクリフがいまだに握り締めたままのマントの端をちらりと見て、感情の読めない緑の眼球は再びこちらに戻ってくる。判決を待つ罪人のように膝をついたまま息を潜める小鎚に、ムルソーは低い声で囁いた。
「落ち着いたのか」
…………はい……
「では説明を」
 詰んでいた。恐慌の被害者だろうムルソーの要求は至極真っ当なもので、加害者であるヒースクリフには説明責任があると理解している。理解はしているが、自分に起こった恐慌の理由をムルソーが理解できる形で説明出来る自信はなかった。ヒースクリフ自身でさえ、どうしてこうなったのか朧げにしか覚えていなかったから。ただとても恐ろしいことが起こったことだけはっきり覚えている。とてもじゃないが、耐えられないような何かが。
「ヒースクリフ」
 ほんの少し低まった声に自然と俯いていた顔を上げた。平にこちらをただ見つめる乾いた眼球、誰かの他人事の弔辞が脳裏を引っ掻く。
「ーーーかえったんです、」
 一言、滑り落ちたら止まれなかった。
「おれ、おれじゃないけど、あいつがあそこにかえったのを、おれ知らなかったから、時計の異形に呼ばれていつもみたいにただ戦うだけだと思ってたのに、目を開けた瞬間雷が鳴って、記憶が、あの子が、駄目だと思って、おれじゃない、おれの記憶じゃないのに、全部全部やたらとはっきりしてたのに全然思い出せなくて、釘で頭ぶち抜いて、気がついたらここにいました」
 吐き出す言葉は乱雑でとてもじゃないが説明になっていない。わかっているのに止めることは出来ず、ガタガタ震えながらムルソーが膝に置いていた手に縋ろうとするもするりと避けられてしまう。どうして、と絶望のまま見上げた緑色は静かだった。ただ『続けろ』と視線だけで示していた。
「あれは、あの馬鹿げたバスの世界は、現実じゃない、そうだろ?夢みたいなもんだ、おれとは何の関係もない、ただの夢だ、だからあのこのことも全部本当じゃないし、おれ、おれはまだ間に合う、まだかえってない、まだ、かえるべきじゃないんだ、おれは、」
 最早自分が何を口走っているのかすら認識出来ず、再びズキズキと疼き出した側頭部の痛みに呻いてマントを引き寄せ埋めようとした顔を、白くて冷えた掌が掴み上げた。無様に頬を潰された間抜け顔を覗き込んできた緑色に、見慣れない光を見つけて恐慌を一瞬忘れてしまう。楽しそう、とも違う、嗤っていると錯覚しそうな、どこか浮き足だった、ゾッとするほど艶かしい加虐性を覗かせた蛇の目だった。
「ーーーおかしなことを言うのだな」
 潜めた声はまるで、夜ベッドを共にしている時のような甘さを含んでいた。背筋に悪寒が走る。耳を塞ぎたかった。よくないことが起きるのがわかっていた。なのに、自由な両腕は体の横に垂れ下がったままぴくりともしない。
「『帰る』ことを、何よりも望んでいただろうに」
 ゆっくりと一音一音を区切るようにして囁くムルソーの淡く色づいた唇から目が離せなかった。頬に指先が僅かに食い込んで、しかし頭の痛みと爆音を鳴らす心臓にかき消されてすぐに意識の外に放られる。聞きたくない。なのに、馬鹿になった己の耳は一言も逃すまいと低い声に意識を集中させていた。
 じっと覗き込んでくる緑色に、酷い顔をした自分の姿が映っていることに気がついた。ゆっくりとムルソーの目が弧を描く。
「ーーー本当に、間に合うと思っているのか?」
 失くしたことにすら気がついていないだろう、そう言ってムルソーは視線をヒースクリフの右手に向けた。その視線の先を、ヒースクリフは追わなかった。追えなかった。呼吸が止まる。全ての感覚が遠のいて、代わりに嵐の気配が強くなる。
 
 全部、俺たちのせいだ。

 飽きるほど聞いたことのある誰かの声が雷鳴の中で叫んでいた。

 だから全部、殺さなければならないんだ。

 おれのせいだから。

 おれがいるからあの子は、

 おれが。

 おれは。



 『あなたの望み通りになれるよ』



「ヒースクリフ」
 ぱっと視界が開けた。
 頬を掴んでいた掌がいつの間にか髪を撫でつけ、耳を辿って輪郭をなぞるように指の背で触れていた。淡い接触のたびに嵐の気配は薄れていき、強張った全身の力が抜けてやっと呼吸が楽になる。そのまま掌が離れていってしまうのを恐れてぴくりともしなかった手を伸ばし両手で包み込んでも拒まれず、再び零れ落ちた水滴はもう拭う気力もなかった。子供のように鼻を啜りながら背中を丸めて、悪夢の残滓を振り払うために白い掌に縋り付く。
 片手を捕らわれたムルソーはじっと足元に縮こまったヒースクリフを見下ろし、自由な方の手で奔放な焦茶の髪を手慰みに撫でながら「何分欲しい」と言った。ヒースクリフはぎゅっと掌を目に押し当てながら答えた。「一晩が欲しいです」。
「ならあと五分で戻れ」
 淡々とそう返し髪を撫でていた掌は離れていった。その後すぐに紙をペン先が引っ掻く音が聞こえてきたので、この状況でしれっと仕事に戻るのかよとか、多分犬みてぇな認識なんだろうなとか取り留めのない思考が湧き出たが、功績を上げたわけでもないのに与えられた一晩と五分に全部どうでもよくなって、縋った手の甲にそっと唇を寄せたヒースクリフは目を閉じる。とても疲れていたから、どうしてこんなに疲れ切っているのかの原因全てを思い出すのは諦めた。目覚めが悪かったのだ。いつものことだと。
 右手の指先が奇妙に軽いのも全部、馬鹿げた悪夢のせいにして。




《そちらのヒースクリフには悪いことをしてしまったね》
 パキン、と硝子が砕ける音と共に呼び出してきた時計の頭部を持った管理人に開口一番そう謝罪され、大鎚ムルソーは一瞬意図を把握出来なかったが、すぐに合点がいったようで小さく首を振った。
「あれの不手際です。寧ろ当人が貴殿に謝罪しなければならないでしょう」
《いや、私の不注意だったよ。人格を被る時に記憶を共有することがあるってわかってたのに浅慮だった、本当に申し訳ない》
 本人に謝罪すべきなんだろうけど、そのためにまた人格を被せるわけにはいかないからね。そう宣う管理人の声は沈んでおり、余程彼が起こした恐慌が堪えたらしいことが伺えた。
 ムルソーは本人の要領を得ない狂乱とその現場にいた握る者の証言でしか事情を知らないが、こちらの世界のヒースクリフが直面した一連の出来事の記憶に触れた小鎚が、狂ったように笑いながら自分の頭を釘で貫いたことは知っていた。この世界での指揮官である管理人の命令に背いたのは叱責すべきだが、それはムルソーの役割ではないし管理人が許しているのなら何も言うことはない。
 そう、なのでこの話は本来ここで終わるはずだったのだが、何故かムルソーは管理人に疑問を返していた。
「帰った、と聞きました」
あぁ、うん。そうだね。彼が会いたかった人のいる場所に行ったよ》
「しかし望んだような帰還ではなかったようですね」
そうだね》
「その記憶を覗き見ることを、脳を破壊してでも拒むほどに」
《ムル、大鎚、珍しいね。今日はすごくヒースクリフに興味があるみたいだ》
 管理人の戸惑ったような声にムルソーは小さく首を傾げ、そうして仮面で隠れていない方の目をゆうるりと細めて言った。
檻の中で鎖に繋がれたものが、鉄格子越しにこちらを覗き込んでいた」
……何?》
「あれは卵ではありませんが、ならば何が肉を食い破って出てくるのでしょうね」
 恐慌の最中にいたヒースクリフの、自覚のない忘却を刺激した瞬間の、全ての感情を削ぎ落とし今にも砕けそうな眼球の底で、蠢いた影に興味があった。『壊してはいけませんよ』という握る者の忠告を思い出したためにそれ以上は踏み込まなかったものの、一度存在を認識したものを無視し続けるのは容易ではない。擦り減ってとうになくなったと思っていた好奇心がこんな形で見つかるとは、という妙な高揚感もある。あれが芽吹いたらどうなるのか、少なくとも良い結果には至らないことだけ確かだった。
すごく、楽しげに見えるよ》
 酷いことはしないであげてね、と声に出したものの既に諦めているような管理人の懇願に、ムルソーは鮮やかに瞳を蛍光色に煌めかせるだけで答えることはなかった。それが既に答えのようなものだった。


 雨に打たれ羽化を逃した蛹、死んだと思って打ち捨てられたずた袋の中身が、擦り切れた信仰で満たされた退屈な頭蓋を薙ぎ払う何かであることを、空っぽの祈りで願った。