せりさわ
2024-04-04 20:02:19
4633文字
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月と紅葉の冬の夜

付き合ってる降志の温泉旅行ワンシーン。
1月インテの無配でした。

 辺り一面に立ち込める湯けむり。
 ヒノキの湯釜にざぶざぶと注がれる乳白色の液体は、名湯と名高くキメ細やかで、美肌効果も大いに期待が持てる。
 ぽたり、とこめかみに浮かぶ汗が落ちた。
 ふう……と零れる吐息は安堵に満ちているが、どこか色香を含んでいて、異性の気を惹くことだろう。普段は雪のように白い肌が、湯に充てられて薔薇のように紅潮している様も、美しい。
 だが——そんな湯けむり天使は、剣呑な光をその瞳に宿し、眼前の人物に睨みを効かせていた。

「志保さん」

 名前を呼ばれた彼女・宮野志保は、その落ち着いたテノールに、なお一層眉を吊り上げた。

「なんでそんな端にいるんだ。おいでよ」
……やらしいこと、考えてるでしょう」
「考えてないといえば嘘になるけど、流石にシマセン」

 こんなところで、とほんのり本音を滲ませつつも、文字通りお手上げのポーズを取る男の名は、降谷零。志保の恋人であり同居人。
 そうして、この一泊二日旅行のパートナーだ。
 場は、東都から二時間ほどの温泉地。離れに専用の露天風呂を携えた宿に迎えられ、見事な夕餉に舌鼓を打った夜。
 冬の夜空を仰ぐ天蓋。しんと冷え込んだ清涼な空気の中、志保と同じように——志保よりはやや寛いだ動作で湯船の端に両腕を預けたまま温泉を堪能している降谷の手招きに、志保は仕方ないわねとそろそろと近づいた。
 首から下は浸かったまま、その眼前にちょこんと座り込めば、彼は手早く志保の背後へと回り、その腕に閉じ込める。

「ちょっと、しないって言ったじゃない!」
「だからしないって。一緒に温泉を楽しみたいだけ」
「こんなに広いのに、くっついてる必要はないでしょう?」
「一緒に入るのにくっつかないなんて、なんの意味があるんだ?」

 至極真面目に問いかけてくる降谷はしかし、悪戯な様子でくつくつと笑いを嚙み零していた。
 無言で眼前のたくましい腕をつねると、「痛い痛い」と全く痛くなさそうな声が背後から聞こえてくる。

「調子に乗らないのよ。離れって言っても、隣にも棟があるんだから」
「わかってるって」
 まあ、正直それは惜しかったな——などと思う降谷だが、言わぬが花だ。一泊二日の弾丸旅行ではあるが、宿に落ち着いてしまえば夜は長い。お楽しみは後からにしよう。
 言葉通り、ただ志保を背後から抱きしめるのみで不埒な動きはしない降谷に安堵したのか。志保も落ち着いた様子でそっと頭を預けてきてくれた。
(あー……可愛い……
 年下の恋人とただ無為に過ごす余暇。
 こんな日も悪くないと思えるようになったのは、あの組織が壊滅し、紆余曲折を経て志保とこうした関係になってからだ。
 あの頃であれば今回も、上からの『お達し』を、突っぱねていただろうな、と。降谷はつい昨日のことを思い出していた。




***

 降谷零は、忙しい。
 かつて、トリプルフェイスなんて苦行を強いられていた時に比べれば、バーボンの草鞋が減った分、多少マシになった方ではあるだろう。
 だが、元より警察官そのものがハードワークなのに加えて、機密情報・極秘任務の塊である警察庁のゼロ所属の身。
 それも三十代の働き盛りともなれば、多少の無茶も効く。極めて優秀であり、この国を守ることに誇りと信念を持っているという、組織にしてみれば 重宝される人材に違いない。使い潰される、というベクトルにさえ向かわなければの話だが、幸いなことに今のところそのような憂いは無い。
 だがヒトが社会を営んでいる以上、犯罪者は居なくならないので、警察の仕事が減ることは無い。堂々巡りだ。

 なので、降谷は己の天職たる職務を苦に思うことなく、むしろ日々はつらつとこなしているのだが、それでも人間だ。疲労もあるし、限界もある。ついでに労働基準法というものも一応存在している。
 そんなわけで―――

「いい加減有休を消化しろと警務部のお達しでね。志保さんも来週まで休校だろ? 折角だから遠出しよう」
 帰宅した降谷が笑顔で掲げた提案に、志保は胡乱な目を向ける。

……極秘捜査なのかしら?」
「志保さん……今の話、聞いてた?」
「聞いてたわ。聞いた上での質問よ」
「どれだけ信用ないんだ、僕は」
「あなたが仕事大好きなことには絶対の信用があるってことよ」
「理解のある恋人で助かるよ」

 肩をすくめる降谷に、どうやら本当に仕事ではないらしいと、志保は悟る。
 生活を供にして二年も経てば、どれだけポーカーフェイスが上手かろうがそれくらいは詠めるようになった。

「那須塩原温泉郷、ね」
 降谷が手にしたタブレットに表示されている有名な湯どころに、志保の口元が綻ぶ。アメリカ育ちの志保ではあるが、やはり日本人の血が騒ぐというのか。いやこの場合は落ち着く、と言った方が正しいか? とにかく、温泉はいい。寒い季節なら尚更だ。

「あくまで候補のひとつだから、志保さんがどこか他に行きたいところがあるなら、そっちでもいいよ」
「いいわよ、ここで。温泉嬉しいわ。でも、ハロはどうするの?」
「ペットと一緒に泊まれる宿もあるから、そこにしよう。そうだな……ここなんてどう?」
 手慣れた動作で操られたタブレットに表示されたのは、「こざくらや」という女性が喜びそうな可愛らしい旅館だ。本棟の他に離れがふたつあり、そちらであればペットも一緒に泊まれるらしい。週の只中木曜日ということもあり、空き状況に表示されている◎のマークが神々しく己を主張していた。
「塩化物泉と炭酸水素塩泉の混在。性質は中性。メタケイ酸が豊富で、傷の治りと美肌効果があるらしい。離れの部屋は備え付けの源泉かけ流しが二十四時間楽しめるそうだよ」
「ですって。ハロ、どう?」
 志保に抱き上げられた毛玉は、しげしげとタブレットを見つめて小さく、アォン、と鳴いた。源泉かけ流しが映し出される動画が果たして、彼の興味を惹いたのかは謎だが。
「反対ではないみたいね」
「なら、早速予約を入れるよ。十時に出て昼を途中でどこかで食べれば、三時くらいには着けるかな」
「いいわね、呑気なプランニングでお願いするわ」
「了解」

 手早く明日の予約を入れた降谷が、画面をスクロールしていく。市の観光スポット特集らしい。
「もみじ谷の吊り橋が恋人の聖地らしいよ。行ってみる?」
「何よコイビトの聖地って。吊り橋効果狙い?」
「恋人の聖地プロジェクト。地域活性と少子化対策の一環としたNPO法人の活動らしい」
 意外と真面目な活動指針だった。とはいえ、そのネーミングは如何なものだろうか。第一、もみじの季節はとっくに終わっている。

「ゆっくり休めっていうお達しなんでしょ? 季節外れの観光なんていいわよ。お宿でのんびりしましょ」
「確かにそれも魅力的だ」
 
 志保の提案に、男は嬉しそうに笑う。
 その爽やかな微笑みとは裏腹に、何やら含みを感じたのは、予感ではなく確信だった。




***

「志保さん、家の風呂だと恥ずかしがって一緒に入ってくれないからさ。温泉なら流石に折れてくれるだろうと思ってた。詠み通りだ」
「くだらないことに洞察力を発揮するの、やめてちょうだい」
「くだらなくないぞ。カノジョと一緒に風呂に入るのは男のロマンだ」
「案外俗物よね、あなた」

 はあ、と呆れながらも、志保もまた彼の腕の中に収まったままだ。
 広い胸板に頭を預け、湯気に貼り付いた前髪を除けてその顔を見上げれば、同じように髪を掻き上げた男とぱちりと目が合った。
 ぽたりと零れ落ちるのは汗か、湯けむりの水蒸気か。行燈のほの灯りの下、滲む金糸を伝い、さらに一滴。ぽちゃん、と湯船に落ちて出来た波紋はすぐに湯花に溶けていく。

「あなたの髪、月みたいな色ね」
 この夜空にも融けてしまいそうな——星にも負けぬ輝きを放っているかのような。相反した不可思議な印象に、くすりとひとりごちた。
「月、ね。それは初めて言われたな」
「そうなの?」
「うん」

 嬉しい、と笑う一回り近くも年上の男の手が、志保の毛先をくすぐった。
 ひと摘まみ。持ち上げられた赤毛を無骨な指が絡め取る。
「志保さんの髪は、紅葉みたいだな。例の恋人の聖地の代名詞」
「その安っぽい代名詞は余計だけど」
 紅葉。もみじか。悪くない。
というか、むしろ——
「博士にでも聞いたの? イチョウの想い出話」
「イチョウ?」
……知らないなら、いいわ。なんでもない」

 ぽちゃん、と口元までも乳白色の液体の中へ沈めて、無言を貫く姿勢を主張すれば、降谷は訝しみながらも特に追従してはこなかった。

「今度は秋に来ようか。聖地云々はともかく、景観は見事らしいよ」
「いいけど、紅葉の赤ってあなた的にはアリなの?」
「例外はあるよ。この国の国旗だって赤だろう?」

 都合のよい嗜好ね、と笑ってみせれば、不意にその唇が落ちてくる。
 しっとりと水気を含んだ唇は柔らかで、触れるだけのその温度が心地よい。

「きもちい。寝ちゃいそう」
「のぼせるぞ。そろそろ出ようか」
「そうね。少し勿体ない気もするけど」
「朝風呂も出来るよ」
「あら、それもいいわね」

 その身を離し、彼に倣って湯船の淵に背を預けた。
 見上げた冬空に煌めく星は、地上をやさしく照らしている。
 澄み切った高原の空気は清らかだ。明日もきっと晴れることだろう。部屋ですっかり夢の中にいるハロを思い出す。のんびりするのが目的の旅といえど、ハロには楽しい思いをさせてやりたい。

「ねえ、明日だけど。ハロも楽しめるようなところに連れて行ってあげたいわ」
「ドッグラン併設の牧場があるよ。アルパカにも会える」
「アルパカ!?」

 思わずといった様子で瞳を輝かせた志保に、降谷は内心ほくそ笑む。
 志保がこの一泊二日を「気ままにのんびり」することに固執するのは、多忙な降谷を労わってのことだ。言葉にはせずとも、そんな彼女のわかりづらい優しさは知っているし、嬉しくも思う。
 けれども、降谷としては、楽しむ彼女の姿を見ることも癒しであり労いなのだ。こっそりと調べておいた彼女好みの観光スポットは、良い働きをしてくれるに違いない。

「なら、早めに上がって、早めに休みましょうか。ハロもひとりで寂しいだろうし」
 志保が伸ばした腕の先、掴もうとしていたタオルはするりと降谷に絡め取られた。
 ざばり、と湯船から立ち上がった降谷が手早くタオルを自らの腰に巻き付け、きょとんと目を見張る志保の身体を抱き上げるまで、一分弱。

「きゃあ!? ちょっとっ!」
「もう少し夜更かししても、支障は無いさ」
「それはあなただけでしょ!?」
「手加減しますので」
「ぜーったい、ウソ!! ちょっと、せめて私にも、タオル!」
「そんなの、必要ないだろ」


 有無を言わさず大股歩きで戻る降谷に担ぎ上げられた志保の素肌が、ふるりと震えた。
 冷気と、このあとのひとときへの予感。
 身震いと——ほんの少し、期待。



 やがて人の気配が無くなった湯船には、ぽっかりと浮かび上がる満月のみが残される。
 一泊二日のほんの少しの非日常も、折り返し。


 
 夜空に滲む月の夜。
 冬のはじまりの、想い出の一幕だった。