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2024-04-03 22:05:54
3549文字
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しないと出られない

#ししさめの日 #ししさめの日2024


 村雨はムラムラしていた。このムラムラは、30年弱の人生で初めてのムラムラであった。
 なにせ村雨は、性欲とはほぼ無縁の生活を送ってきた。木の股を見ても発情するような思春期でさえ、過敏な五感に叩き込まれる、同世代たちのむせかえるような情報にただ辟易して過ごしたのだ。
 それが、29歳にして初めてセックスパートナーというものを得たのだから、身体が多少暴走しがちになっても、致し方がないというものである。しかも相手は3歳年下の、金髪碧眼の、ムキムキ美丈夫の、体力抜群の、百戦錬磨の――
 つまり村雨は罪作りなセックスパートナーの手によって、常時ムラムラしやすい身体に作り上げられてしまったのであった。

 とはいえ村雨は社会的に責任のある職に就き、社会的に問題になるほどの激務をこなし、体力はモヤシで、使い走りにされやすい、若き独身男性である。職場である病院への泊まり込みも、数時間立ちっぱなしの手術も当たり前――となれば、勤務後、数日ぶりに帰宅できるというタイミングではもうクタクタ、迎えの車の助手席で口を開けたまま寝てしまったとしても、まったくおかしくはないのだった。
 その「迎えの車」――愛車のポルシェを飛ばして送り迎えをしてくれるのも、世話やきなセックスパートナーの獅子神である。彼はよたよた車に転がり込む村雨の、その身体にシートベルトを締めてくれるところから始め、ふらふら手を伸ばせば抱っこで助手席から持ち上げて、「こっちの方が過ごしやすいから」と快適な獅子神宅内にお持ち帰りする。飯や風呂の仕度どころか、服の脱ぎ着、箸の上げ下げ、半分眠っている村雨の手に、適切な量の歯磨き粉をしぼり出した歯ブラシを持たせるところまでして――そして己のベッドに連れ込んで、アラームを翌日の勤務に備えてセットし、ポンポン背中を叩いて寝かしつけるところまで何の苦もなくやってのける男なのであった。
「今日は絶対に、絶対にまぐわう」
 そう駄々をこねる村雨が風呂場で、後ろの準備を終えて安心したところでシャワーを流しっぱなしにしたまま丸くなって眠っていても、獅子神はシャワーを止めて身体や髪の水気を取り、清潔なパジャマと上掛けにくるんで眠るだけで、起こしてくれようとはしない。
 獅子神には獅子神の言い分があるらしく、「あんなお前を叩き起こしてヤろうってほどオレは餓えちゃいないんだけど」などと不満そうな声を出す。それならばムラムラしているのは私だけなのか、という苛立ちと――実のところわずかな不安などもあったりして、つまり、村雨はムラムラしており、そしてイライラしているのであった。


「今日は絶対に、絶対にまぐわう」
 自分のためにシート位置を調整された助手席で、半分意識の飛んだ声で村雨はうなった。
「あーそう、そうだといいな」
 慣れた手つきでハンドルを操りながら、獅子神は気のない声で返す。
「食後にカフェイン錠を飲むからな」
「カフェインならあったけえコーヒー出してやるから、そっちにしな」
「あったかくなくていい、頭痛がするほど冷たいやつにしろ」
「今日はたらちりにしようと思ってんだけどいいか?」
「なぜリラックスを招くようなメニューをわざわざ選ぶ!?」
「お前がオレの城の中で、オレの腕の中で安心して寝こけるのが好きだからだよ」
「ぐううう」
「もう寝た?」
「いびきではない! これは憤激のうめき声だ!」
「ははは」
 笑うな! と叫ぶ気力もなく、助手席に沈み込む。腹が立つことに背中はシートヒーターであたたかく、少し気を抜くだけでそれこそいびきをかくような爆睡に引きずり込まれるかのようであった。
 しかし。
 ――吠え面かくなよマヌケめ。
 今日の村雨には、叶から仕入れた秘策がある――おそらく叶も、与えた無駄知識がこんなことに使われるとは夢にも思っていなかろうが、そんなことは村雨には関係ない。
 内ポケットの中の紙片を意識していると、気取られぬような素振りで村雨は、必死に意識を保ちながら、今日も獅子神の自宅へと運ばれた。
 白く湯気を立つ鱈は臭みもなく、白子ともどもぷりぷりと艶やかな白さを見せているし、ポン酢だれにはゆず胡椒やもみじおろしが添えられて、さほど好きでもない野菜でさえついつい箸が進んでしまう。もうすでに目がしょぼしょぼとしてきたが、それでも稀代のギャンブラーは、曇りどめをつけた眼鏡の奥でしっかりとその目を開きつづけた。
 風呂で一緒にイチャイチャしようぜ(そしてとっとと寝落ちしろ)、という垂涎ものの誘いも断り、疲れた身体に鞭打って後ろの準備も済ませる。ふらふらと寝室に踏み込むと、ベッドの上には脊椎反射で飛び込みたくなるような身体が、のったりと半ば横たわってこちらを見ていた。
「おう、お疲れ」
……ふ、ふふふ」
 隈に落ちくぼんだ目をぎょろりと光らせて、村雨は獅子神を睨みつけた。少しひるんだように獅子神は、青く甘い垂れ目をまたたく。
「どしたのお前」
「そこで見ているがいい」
「うん、まあ、見てるけど」
 村雨は片手に握りしめた紙を――折りたたまれたそれをガサガサと広げ、背面にあらかじめ貼っておいた両面テープの保護面を、もたもたと外した。
 後で汚れがついても知ったことか、という勢いで、寝室の、閉ざされたままの扉の内側に――べたん! と貼りつける。
「この字が読めるか、獅子神」
……
 たっぷり六秒沈黙したのち、獅子神はゆっくりとそれを読んだ。

「【セックスしないと出られない部屋】」

……あのさ、村雨」
「これでもうあなたはこの部屋を出られない」
「そ、そういうもんなんかな……
「さあ、何が何でも私を抱いてもらうぞ」
 村雨はよたよたとベッドに乗り上げる。獅子神の力強い手が身体を抱き寄せ、抱え込むように、ぎゅう、と力を込めた。
「これなに、そういう遊びなの」
「これはサブカルチャーにおける今はやりの舞台装置で……
「ああなるほど叶ね」
「セックスを済ませるまで部屋から出られなくなるという仕組みで」
「なるほど、ところでもうだいぶ眠いんじゃねえの」
「ねむくない! ねむくない!」
「そっかー」
 湯上がりのいい匂いとやわらかさ、背中がぽんぽんと叩かれる。
「や……やめろ! ねか……ねかしつけるな! ねか……
「はいはい、はいはい、イイコだな-」

 そして村雨の性欲は今日も、睡眠欲に完敗した。

   + + + + +

 すうすうと平和に根こけている村雨の身体を、獅子神はそっと横たえた。
 傍らに己もすべり込むと、改めて優しく抱き寄せる。
 もぞもぞとすり寄ってくる、痩せて疲れ切った身体を、静かに揺すった。
 扉には、幾重にも折りたたまれた痕のある、よれよれの「セックスしないと出られない部屋」がまだ貼られたまま、空調に小さく揺れている。
 それを眺めやって、獅子神の口元が笑みの形に小さく歪んだ。
 ――セックスしないと出られない。
 つまりそれは、セックスをしない限り、この部屋からは出ることができない、ということだ――村雨が。
 この部屋から。
 ……獅子神の城の最深部、もっとも安全に籠められた、この部屋から。
 ――永遠にしなくたっていいぜ、先生。
 十代の頃は、他人に媚びるために身体を使ったこともあるし、二十代に入ってからは、金と魅力で他人が身体を投げ出すことを楽しんだ。何度かは、身体の交わりを通じて形のない何かを期待し、そして、そのたびに勝手に失望して相手を捨てた。
 飽きるほどセックスをして、一時の快楽に必死になって、そして飽きるほどうんざりした。その道の果てに、奇跡のような生き物が腕の中に飛び込んできて――それはあまりにも、不安になるほどたやすい相手で、そして必死になるほど失いたくない相手であった。
 村雨とのセックスは好きだ。一日の半分ぐらいを費やして、ぐちゃぐちゃのどろどろにして、身体中から体液を搾り尽くして干からびるまで愛したいと思うこともある。だがそれは脇に置いて、ゆっくり時間をかけて、彼の身体を損なわないよう大切に、少しずつ――彼が後戻りできなくなるところまで、少しずつ歩んでいくことができる程度には、獅子神は打算的で、そして、何より臆病であった。
「おやすみ、先生」
 そう囁いて獅子神は、シーツと己の腕の中に、痩せた身体をゆっくりと閉じ込めていく。
 明日は村雨が一日休みで、そして、この部屋には冷蔵庫があり、バスルームには別の扉から直結している。すっきりと目覚めた村雨がそこからセックスを「し終わる」まで出られなくても、何の心配もいらないのだった。