気温が上がれば花が咲く。季節にあった花々が人や神の目を楽しませ、花の下で歌ったり舞ったり酒を飲んで騒いだりする。たかだか花が咲いただけではしゃいでいると、呑気に笑い合う人々を嘲笑うほどナグサは捻くれた性格はしていない。
だからといって、自身も花の下で浮かれ騒ぐほどの気持ちにもならない。それもまた本当だ。
花が咲いた。綺麗だった。やがて枯れて散るだろう。そんな自然の理を感じられればそれで十分で、それ以上の感慨も価値も花に求めるものではない。それが、ナグサにとって『花を見る』ということだったのだが。
「ナグサ、あれは何だ?」
春の足音が聞こえてきたある日の午後、お使いを頼まれてふらりと街を歩いてる時のことだった。ナグサに影のようにくっついて行くことを生きがいとしている童女の姿の神様ことカヅチが、特徴的な花びらのような着物の袖をはためかせつつ、ある木を指していた。
「何って……前も同じこと聞いてなかったか」
「聞いた気もするが、もう一度聞いてもいいだろう? ナグサに教えてもらうのは嬉しいし楽しい!」
何がそんなに嬉しいのやら、ナグサにはさっぱりわからない。わからないが、一度で覚えろと叱るのも何だか気の毒に思えてしまう。別に仕事でもないのだから、子供の好奇心に付き合うくらいの余裕は彼にだってある。
「あれは桜だ。春になったら花をつけるやつ」
「さくら?」
何が気になるのか、カヅチは首を傾げて、自分が指し示したものーーとある店のそばに植えられた小ぶりの桜の木に近寄る。大木となるのはまだ遠く、どちらかというと盆栽のような趣すら感じる小さな若木は、それでもせっせと薄紅の花をつけていた。
「さくらって、もっとでっかい木じゃなかったか」
「まだ子供なんじゃないか」
「あと、色が前見たやつと違うぞ」
なんだかんだしっかり覚えてるじゃないか、と喉まで出かけた言葉は押し留めておく。カヅチの好奇心に整合性を求める方が間違っている。
「色が違うのは、似てるけど違う種類だからだろ。梅だって白かったり赤かったりする」
「おお、なるほど! じゃあ、こいつは白い桜なんだな」
「かもな」
確かに、以前教えた桜は山で自然に身を任せて成長した桜で、春も深まる頃に咲くものだった。濃い桃色の花びらたちは、山そのものを自分一人で着付けてやろうと息巻いているような生命力に満ちていた。
対して、目の前の桜は白っぽい花びらで、若木であることを差し引いても如何にもたおやかだ。花びらの根元はよく見ると薄紅色に染まってるが、それだって年若い娘にそっと添えられた頬紅のような奥ゆかしさである。
カヅチがあれやこれやと声を上げながら桜の若木を観察していたせいか、店先で呼び込みをしていた店主の男がこちらに顔を向けた。
「何だい、お嬢ちゃん。桜に興味があるんかい」
「おう、あるぞ! こいつはちっさい桜なんだな。それに色も真っ白だ。白いやつはみんな小さいのか?」
「いやいや、まさか。それに白いっていうよりかは薄い桃色ってところさね。大きな桜が見たいなら、ここからもう少し行った先にある川縁まで行けばいい。あの辺は、今がちょうど見所だよ」
「大きい白い奴がいるのか!?」
「ああ、沢山あるとも」
そこまで聞くと、カヅチは勢いよく振り返った。首が取れるのではないかと思うほどのやる気で何をしようとしてるかなどと、わざわざナグサが考えるまでもない。
ナグサの片方しか出ていない手を取り、カヅチは遠慮なくグイグイと彼を引っ張る。そのせいで、あわや手に抱えていた風呂敷を落とすところだった。
ナグサが風呂敷を離さないので、カヅチは引っ張る場所を着物の袖に変えて、ずるずるとナグサを引っ張って行く。
「お前、一体どこ行く気だ」
「白いでっかいやつを見に行くぞ、ナグサ!」
「先に行きたいなら、一人で行っていていいんだぞ」
「それじゃあ楽しくない!」
花見に浮かれている人間たちの只中を歩くぐらいなら、さほど危険ではないだろう。そう思って言ったのに、カヅチは「ナグサも一緒だ」と言って聞かない。
渋々、カヅチに引きずられるようにして、ナグサは走っていく。花見に向かうと思しき人々の横を。そんな彼らを呼び止めようとする客引きの声を。春の花の香りを存分に孕んだ風のただなかを、まっすぐに。
「ーーーー」
通り過ぎる風は冬の冷たさの名残を残し、それでいて春の陽光を含んでいる。瞬き一つで通り過ぎて行くような優しげな一瞬に、ナグサは思わず目を細める。
そうして、数分と経たないうちに彼らはたどり着いた。
「おー、すごいな! 全部真っ白だ!」
白というにはいささか桃色が濃い花たち。それらをこれでもかと枝に咲かせた桜並木が、川縁にずらりと並んでいる。恐らくはここを花見の名所にしようと考えた誰かが意図的に植えたものなのだろうが、そんな細かいことを考える気すらなくなるほどに、その光景圧倒的だった。
川そのものを押し包むのではないかと思うほどの桃色の大河の如き花々。その中で花見に興じる人々でさえ、今は桜という川に呑まれているように見える。
「見ろ、ナグサ! すごいぞ!」
「お前が咲かせたわけじゃないだろうに」
「でも、すごいものはすごいんだ!」
うおー、と声をあげながら走って行く童女を見失わないように、ナグサも小走りで後を追う。どこまでも続く桃色の花嵐の中を、ひたすらに。
そただ木々の間を走っているだけだと分かっているのに、心臓が妙に高鳴って感じる。少しばかり早い鼓動は、きっと走っているせいだけではない。
「おーい、ナグサー」
少し先を行くカヅチが、ぶんぶんと手を振っているのが見える。やっとのことで追いつくと、何が嬉しいのか、カヅチは顔中を太陽のような笑顔にしていた。
「楽しいな、これ!」
「楽しいのか……?」
ただ走っているだけじゃないか。そう思ったのに、走ったせいで乱れた心拍が、それだけではないと嘯いているような気もする。
うるさすぎる心臓を宥めるかのように胸に手を当て、周囲に目をやると、無限に広がるかのように思うほどの薄紅がナグサの視界いっぱいを埋め尽くしていく。
「ナグサ、これ貰った!」
だが、感慨に耽る間すら与えない騒がしい童女神が、ナグサの思索を強制的に断ち切った。
今度は何をしてるのだと思って見やった先では、カヅチが薄紙に包まれた桜色の菓子のようなものを持っていた。薄い煎餅のようなもので巻かれた中には、ちらりと見えた見慣れた濃い色がある。桜色に染めた薄焼きであんこを巻いた、といったところか。
「どこから貰ってきたんだ、それ」
「丸いちっこいやつ渡したら、代わりにくれたぞ」
「……。勝手に金使うなって言われてただろ」
何かあったときのためにと、最低限の小遣いを持たせておいたものの、それは手当たり次第に買い食いをさせるためではない。
そんなナグサの呆れを無視して、カヅチは渡された二つの桜色の菓子に釘付けになっている。ナグサの脳裏に、花より団子の文字がちらついた。
「買ったもんを食べながら歩くな」
落として泣かれたらまた買い直す羽目になるからと、ナグサはカヅチの背を片手の風呂敷で軽く押して、桜並木の麓に向かう。
草地のあちこちには、茣蓙を敷いて遊興を楽しんでいる者もいる。その隙間に混ざるぐらいなら、誰からも文句は言われまい。
ナグサが腰を下ろすと、すぐさまカヅチが隣に座る。ちょこんと腰を下ろした彼女は、早速自分が手に入れた桜色の菓子を頬張っている。どうやらお気に召したようで、彼女の頭に生えている角まで花盛りになっていた。
「ナグサ、お前も食うといいぞ!」
ほら、とひとつ差し出されたので、風呂敷を持ち直して手を伸ばそうかとした矢先。差し出された菓子が一度引っ込んだ。
分けるのが惜しくなったかと思いきや、カヅチは桜の菓子をナグサの口元の辺りに突きつけてくる。
「……?」
「手が塞がってるからな。わたしが食べさせてやる」
(いや、座ってるなら別に荷物を持ち続けている必要もないんだが)
そんなことを言って童女なりの親切をふいにするのもよくないかと、ナグサは神妙な面持ちで菓子に食らいつく。
予想していたように薄焼きの煎餅に似た食感の後に、桜本体を練り込んだのか、ほんのりとした苦味と甘みが後を追う。だが、それらの繊細な味わいは、最終的には全て餡子の甘さが上書きしていく。見た目に限らず、なかなかに豪快な味わいだ。
「どうだ、甘くて美味いだろう!」
「ん、まあ。……甘いな」
美味いかどうかはさておき、甘いのは確かだ。そう言うと、カヅチは先ほどよりもなお晴れやかな笑顔を向け、うんうんと頷く。角の梅の花は、こちらも満開になっていた。
「わたしは、美味いのは好きだ!」
「そうか」
「それと、白いさくらもいいな! 綺麗だと思う!」
先ほどと同じ相槌を打とうとしたら、カヅチがナグサへともたれかかってきた。花の香りがますます強くなる。子ども一人分の重みと温みが、ナグサの胴体から体にじわっと伝わる。
口元に餡子をつけて、全く神様らしくない顔をした幼子は、
「ナグサも綺麗だと思うか?」
「きれい……」
それは、どんなものを指すのだろう。ふと疑問を抱いて、顔を上げる。
空を覆う桜と、その下にいる自分。絶えることなく振り続ける薄紅の花びらが、ひとつふたつと視界を横切り、着物の上に新しい柄を落としていく。
それら全ての光景を目にして。そのうえで、傍にいるカヅチの綺羅星のように輝く瞳を見て。
ふと、心の片端が震えた気がした。
「きれい……だな」
まだ、心の底からそう思っているわけではない。けれども、そのささやかな震えを言葉にするなら、カヅチが言う『きれい』が最もふさわしいのだろう。
「そうか! ナグサもきれいだぞ!」
「いや、俺はそういうのじゃないだろ」
「でも、ナグサの綺麗がいっぱい頭に落ちてる」
カヅチに言われて、頭に手をやる。彼女の言う通り、頭にはいくつか桜の花びらが積もっていた。だが、それを言うならカヅチも一緒であり、二人して桜まみれになっているだけなのだが。
「お前も花びらまみれになっているぞ」
「うん? うおー、ほんとうだ!」
頭に手をやってようやく自分の状態に気がついたカヅチが、その場に立ち上がりくるくると回り始めてる。彼女の後を追い、梅の花の良い香りが後を引く。
そんな不可思議な光景を目にして、紅梅の如き髪色の少年は少しばかり口元を緩めた。その変化は彼自身気がつかないような、本当にささやかな、春の陽光にほどけて消えていきそうな笑みだった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.