この世に存在する現象が引き起こされる原因には必ずしも鍵穴にかち合う鍵が必要とは限らない。巻き込まれた当事者が知らない間にルールに則り行動した所為で引き込まれる。自覚の有無、もしくは鍵を持っていたとしても≪鍵≫という認識がないのならば、持っていないと同意義に近しい。
有象無象が蠢く世界、狭間に手招かれたまたま持っていた鍵が勝手に鍵穴に入ってしまった。それならばまだいい。鍵穴に入るのならば全て鍵であろう。理不尽極まりない暴力染みた理由であろうともだ。
厄介なのは≪鍵≫を持っていないのに、此方の意思関係なく飲み込む実に気紛れな≪鍵穴≫の存在だ。
緒川菫子は、同じ書店でバイトをしている化野蓮と同じ帰路についていた。最寄りの駅まで他愛のない今日レジ対応した態度の悪い客の愚痴や、少しづつ書き進めている小説の進捗状況、化野の妹である化野乙が前にも増して学校生活を満喫している話は特に緒川の笑みを深めた。
「ファンの一人として作家緒川菫子新作小説の進捗具合をもう少し詳しく知りたいところですが──、菫子さん僕の私生活についてもっと聞いてもらって構いませんよ? 何を楽しみ生き甲斐にしてハマっているとか」
「薄っすら分り切っているが、あえて聞いてあげよう少年。君は何を楽しみ生き甲斐にしてハマっているのかね」
「恵体短太眉女性の行動観察です。これが片時も目が離せないの何のって」
「よし。カフェオレ一杯で今の無礼を忘れてやろう。寛大な私の対応に感謝するといい」
馴染んだやり取りは隣り合わせで歩く足音でさえ心地よい。
深い夜の空の下、等間隔に生えた電柱から伸び照らす光の水溜まりが緒川と化野の間に流れる気を遣う必要のない朗らかな二人の影を作り出す。
人気の少ない夜道の車道側を意図的に化野が歩き、その化野を隣を緒川が歩調を合わせ歩いていく。緒川が違う話題を振り化野がそれに乗る、お決まりのやり取りに化野の糸目と口元が弧を描き、また緒川も悪戯っぽく笑う。
最寄り駅につくまでの短く楽しい帰り道。充実した日々というものを、可能であれば二度と手放したくないと柄にもなく頭の隅に緒川が浮かべる。なにせ≪逆万引き≫の件を切っ掛けに化野との関りを持つようになってから自身の身を持って体験する数々の怪奇現象は緒川の創作意欲を容赦なく刺激する。
まさに劇薬。もう以前の生活に戻れないとしても構わないほどに。
後方から来る車のエンジン音が聞こえるなり、さり気なく化野が緒川を庇うように身を寄せる。
「(一丁前に)」
車が通り過ぎ何事も無かったかのように話を続ける化野を緒川が太短眉を顰めれば「どうしました? おや? もしや僕のスマートさに惚れ直しました?」と化野の見開いた目が冗談たっぷり如何にもな様子で見上げてくるため、緒川の眉間に渓谷が形成されわざとらしく視線を夜より深い化野の瞳から逸らした。
心なしか歩行速度を上げ始めた緒川に化野が小さく笑いかけた瞬間、閉じかけていた目を先程より見開く事になった。
街灯と街灯の切れ目。横に伸びた細い路地裏の道。薄闇にはっきり浮かび上がる標識を緒川越しに化野の目が捉える。
「どうした化野──……」
「菫子さんっ!!」
身構えた化野に声を掛けた緒川の体が彼女の意思に関係なく路地裏に吸い込まれ、伸ばされた緒川の腕を掴んだ化野もまた路地裏に吸い込まれていった。
トンネルを抜けたら銀世界でした。その言葉に近しい非日常染みた状況に緒川は軽く握った手を顎に添え、仄かに這い上がる恐怖心を抑えきれない好奇心探求心で塗りつぶす。
今まで体験してきた事を考えれば全くもって暢気に構えるものではない。だが、緒川の隣で同じポーズをして考え浅く溜息を吐いている化野を見る限り其処まで危機性を感じられなかったのが大きい。
「困りました。この手の怪奇現象は山のようにあり絞り込むのが難しい……、このまま一生此処で菫子さんと暮らすしかないという事か」
「無駄口叩いていないであそこにある通気口から脱出できないかやるぞ小僧」
無機質で殺風景な正方形の部屋。気が利いているのか定かではないが、一通り暮らす事が可能な家具の一切合切並びに食料をしこたま腹に抱えた冷蔵庫が用意されていた。扉や窓の類は無く、唯一通気口と思わしき小さな穴が絶妙な高さで空いている。
丁度二人肩車をすれば届きそうな高さ。もう少しこの状況を楽しんでみては?と茶化す化野を説き伏せた緒川が両手を壁に突かせた化野の体によじ登り通気口に被されている金網に手を伸ばす。
体格差が違い過ぎな上に元からあまり力のない化野が足元を震わせ思わず言葉を漏らした。
「どうして、僕が、下なんです、かあ……」
「君を肩車した後、私を持ち上げる力があるなら変わろうじゃないか」
「そうですねぇ、ふくよかな菫子さんを持ち上げるより、どちらかと言えば押し倒、」
「舌と今生の別れをしたいなら私は止めないぞ」
ガクガク揺れるバランスが取りにくい中、運がいい事に通気口を覆っていた金網は上向きに開けられるタイプだった。蓋を開け通気口の縁に手を掛けた緒川が≪月読の変若水≫を歌う。しゅるりしゅるり若返り小さくなる緒川が大人の姿ではどう足掻いても通れなかった通気口に子供になった姿で潜り込む。
緒川の眼前に広がる暗がりの奥から絶えず流れる空気を肌で感じた。
「平気そうですかー」
明るい部屋から聞こえる化野の言葉に緒川が返す。
「行けるところまで行ってくる。それまで待っててくれたまえ」
狭い通気口内で体を反転出来ず後方に向かって言う緒川は通気口を見上げ声を掛けている化野の姿を想像していたが、実のところ化野は緒川が子供の姿になった時に緩くなって上から降ってきたズボンや何やらを拾い上げていた。
知らぬが仏の精神では無いものの、脱出経路捜索を託されたと意気込んでいる緒川はズンズン暗闇の中を突き進んでいった。
緒川が遠ざかる気配を今度こそ見上げ見送っていた化野は一先ず拾い上げたズボンやら何やらをベッドの上に置き、自分は何時でも緒川が戻ってきていいように通気口の下に戻り見上げ待ち続けた。
時間経過にして10分も経っていない。
「おーい、化野くん受け止めてくれ」
通気口から聞こえる緒川の声に化野は手を広げ、尻からぐいぐい出てくる緒川の小さい身体を落とさず抱き止めた。落下する浮遊感。完全に自分の身を相手に委ねる緒川の中に不安は一切無かった。背中と膝裏に感じる腕の強さ。あまりない仰ぎ見る化野の面持ちは安堵の表情を浮かべ、緒川は微かにチラつく自身の感情に気付かず普段通りに不敵に笑ってみせた。
「向こうで収穫を聞かせてもらえませんか」
子供姿の緒川を下ろさず抱えたまま、化野がベッドに近付き縁に腰を下ろしては緒川を自身の隣に腰掛けさせる。時間差で軋むスプリング音。二度目は軽かったが、緒川が歌を歌い更に軋んだ。
「まず吉報を持ち帰られなかった。すまない」
「と、言いますと?」
「通気口の先は思っていた以上に短かった。袋小路もいいところだ。念のため他に出口は無いか探してみたが、それらしいものは見付からなかった」
「空気の出所自体が不明、他の脱出経路も見当たらない」
「お手上げ状態、と言いたいところだがこの手の部屋の脱出方法の手がかりは何処かにあるはずだ」
ベッド端に畳まれていたズボンやら何やらを徐に着替え始める緒川の肩を化野の指先が突く。子供が親に何かを見て欲しい時にする動き。ズボンのファスナーを上げ終えた緒川が化野に促され目を向けた先、はめ込まれた看板に書かれた文字に思いっきり顔を顰めた。
──緒川菫子の胸に化野蓮の顔を埋めさせれば開放する
あまりにも頭の悪い文章に緒川が深い溜息を吐く。くわえて小声でシンプルな感情を吐露し続ければ、込み上がってくる頭痛が和らいだ気がした。よりにもよって、それが緒川が抱いた感情の一つだった。
「これはもう仕方ない。やりましょう菫子さん」
「その顔の何処にも”仕方ない”という文字は書かれていないが」
化野の見開いた昏い瞳に宿る輝き。他の脱出経路捜索や推理を放棄している姿に緒川が額を押さえ俯いた。
だが、しかし化野の顔を育ち盛りが過ぎる胸に埋めさせた事は初めてではない。止む得ない状況だったとはいえ、以前の事を思い出した緒川は変に意識していた気持ちを振り払う為に自身の両頬を叩いた。
叩いて産まれた熱が元から火照っていた熱と混ざりあう。思わず閉じていた瞼を開け、ドンと来いと云わんばかりに両手を広げ化野を見据える。
高速で脳裏を過る、これが間違った道に進めさせるちらつかせる罠だったらを振り払うのは自棄になっているからだろうか。大丈夫という根拠も確証も無い。だが、駄目だった場合とっとと別の方法を探したい気持ちもあった。
俄かに騒がしくなる心臓の音。意識したら最後、緒川の耳に張り付いて離れない。
「は、はやくしたまえ」
沸き立つ羞恥から噛み、然程から表情を変えないどころか身動ぎもしない化野をやや上目遣いで睨む。
化野の大きく見開かれた黒い目。塗り潰された昏い瞳孔に宿っていた輝きはいつしか為りを潜め消えていた。うんともすんとも云わない化野の態度。緒川はてっきり自分の胸に顔を埋めた途端、真剣にからかい胸の感触やら何やらを実況するものだと思っていたゆえに微動だにしない化野に目を数度瞬いた。
やおら心配になってきた緒川が声をもう一度掛けよう唇を動かした矢先、化野の大きな目が瞼に半分ほど隠れ視線を下へと向ける。
伏せられた事で分かる睫毛の長さを何んとなしに見下ろしていれば、化野の見開かれた目と目が合った。ぶつかり合う視線。聞こえない筈なのに化野が高鳴る鼓動の音を緒川の耳が拾う。
狭く隔離され閉ざされた部屋に満たされた時間が緩慢な動きで廻る。
固く結び言葉を喉奥に押し込んだ化野が、烈しいとは程遠い動きで胸に飛び込んできた。緒川の谷間に顔を埋めた化野の面持ちにふざけた感情は欠片も無い。それどころか緩やかに閉じられる瞼、項まで真っ赤に染め上げられた光景を見下ろした緒川が目を瞠る。
幸か不幸か。この状況大変見覚えがあった。化野の熱が緒川に伝染しては心の奥がざわつく。
「も、もういいだろうっ」
「………」
緒川の言葉を引き金に化野が緒川の背中に回した腕の力を強める。
その力強さに叫び出しそうになる気持ちを気合で緒川が押し込んだ。鼓動が痛いくらい鳴っているのを恐らく胸に顔を埋めている化野は分かっている聞かれている。それだけではない、化野が呼吸する度熱い吐息が衣服越しに胸を撫であげる。
深呼吸をしているのか。深く長い吐息。規則正しいリズムに緒川の喧しい心が喧しさを保ったまま穏やかになっていく。所なさげに上げていた腕を折りたたみ化野の後頭部と背中に手を添えた。
たどたどしさ残る抱擁を交わし熱を分かち合う。そんな眩暈までしてきそうな状況は、何の前触れもなく終わりを告げた。
カチャリ。何かが開錠する音が鼓膜を震わせたかと思ったら次の瞬間には薄暗い路地裏だった。
暗がりに目が慣れるまでの短い間、暫し呆然としていた緒川と化野だったが元の場所に戻って来たのを知るや否やぎこちなく体を離して、これまたぎこちなく最寄りの駅まで行き、これまたまた何とも言えない空気を数日間漂わせバイトを熟す羽目になったのだった。
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