ゆい
2024-03-31 21:11:35
4547文字
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【宗みか】かしこい灰になるために

珍しく切羽詰まったふたり。

 ホテルフロントから粛々と鍵を受け取るお師さんを、少し離れた柱の影から見つめている。平日のお昼を済ましたばかりの広いロビーには、片手で足りる程の人影しか無い。人数の割には十分過ぎる暖房につられてマスクも帽子も外してしまったけれど、これならおれもお師さんも目立たずに済みそうだ。煩わしい宿泊手続きを全部引き受けてくれた横顔は、行き交う人々に何度掻き消されても現れる度に一人飛び抜けて輝いている。手持ち無沙汰も申し訳無いし、荷物くらい預けて欲しいと強請っても結局流された軽い手で、肩に食い込む細いストラップを握る。一泊分の着替えを詰めたショルダーバッグは、お師さんと外泊する時しか使わない。新品同様の艶の中で、無意識で掴んでしまう心臓辺りの布地だけが色褪せながら縒れている。どうせ部屋に入ればすぐに外して、そのまま朝が来るまでどこにあろうと構いはしない。お師さんと手を繋げない寂しさを紛らわす為に握られてくれるなら、こちらとしても千切るまでは文句も無い。
 無事にチェックインを終えたらしいお師さんが、おれのより一回り大きいボストンバッグを携えて踵を返す。神経質に寄った眉間の皺と固く結ばれた口元のせいで不機嫌そうに見えるけれど、多分機嫌は悪くない。今日は指折り数えて待った一ヶ月ぶりの逢瀬だ。しかも、明日はお互い丸々お休みとくれば、流石のお師さんだって少しくらいは浮かれている、はず。

「‥部屋は八階だよ」

 何時もより低く掠れた声が今夜の番号を告げるより早く、ストラップを掴んだままだったおれの右手は魔法のようにお師さんへ溶けた。少し強く触れた掌の生々しさに、握り返す筈の指が思わず跳ねる。手なんてここに着くまでずっと重ねてきたし、何ならこれからだって散々繋ぐのに。らしくない性急さで取られた指から伝わる熱の意味に、つい先走って身構えてしまう。お師さんはいつもこうだ。会えない時間と比例して引き寄せる力は強く、部屋までの口数は少なくなる。普段は優雅で洗練されたことばかりするくせに、誰にも内緒でホテルに篭もる時だけはせっかちで無口に変わるのは狡い。何度味わっても慣れることのない緊張が一気に背筋を抜けて、呼吸の仕方すら忘れてしまう。
 そんなおれのときめきには見向きもせず、お師さんは足早にエレベーターへ向かう。凛と張り詰めた背中だけを追いかけて、ぴたりと止まった足取りに躓きかけては寸でのところで傍らに立った。ボタンに爪先が当たって硬い音が上がるのもまるで気にせず点滅を見詰め続ける瞳は、霧雨のように細く険しい。空港で目を合わせてからずっと厳しい顔を貫く強情さも勿論好きだけど、少しだけ息苦しそうだ。労いの意味も込めて重ねた指に力を籠めれば、間髪入れずに倍の圧が寄越されて続く台詞の息の根は止まった。固まるおれを置き去りに小気味の良い音を立てて重い扉が開く。引き摺られるようにして乗り込んだ、二人には広い空間に戸惑っている内にお師さんはまた強めにボタンを押してあっという間に世界を閉じる。仮初めの沈黙が落ちるより早く、突然くるりと振り向いた右手にがら空きの肩を押されて背中へ軽い衝撃音。あっと思う間も無く燃える影が流れ星のようにおれへ向かって落ちてきて、咄嗟に唯一自由な左手を必死に顔の前に翳した。

「‥部屋に入るまでは何もしないって約束やろ」
「すまない……。我慢できなかったもので」

 紡ぐ言葉はとびきり真摯なのに、爛々と燃え立つ瞳が全てを台無しにしている。ぎりぎり間に合った掌に唇を押し当てるようにして喋るから、息継ぎの度に肌が震えて擽ったい。覆い被さる眼差しはおれの白旗を眈々と待ち構えて、瞬きに合わせるように色と圧を深めていく。どれだけ乱暴に動いても離れない手は笑える位に熱いのに、汗ばむ度にお互いの瀬戸際が透け出すようで笑えない。背骨に伝わる振動が指先まで揺り動かして、うっかり手が滑りそうになるけれど掻き集めた理性で何とか耐えた。本当はおれだってキスされたい。睫毛すらぶつかる距離で見つめ合うだけなんて、一ヶ月待った理性には致命傷だ。だけど、平素隙なんてまるで見せないお師さんが、今だけは余裕の無い目でおれの一挙手一投足に執心してくれるから。どんな言い訳を盾にしてでも、もう少し焦げ付くお師さんを独り占めしたい。

「前におれが先走った時はめっちゃ怒ったんやから、今日はお師さんがいい子にせんとあかんよ」
「まさか君に諭される日が来るとはね」
「おれだって成長しとるし。お師さんに丸め込まれてばっかりはそろそろ卒業するんやもん」
「‥では、鍵は君に託そう。抱かれる覚悟が出来たら、これを使って僕を部屋に招いておくれ」
「えっ」

 調子に乗って叩いた大口はあっさり受け入れられて、代わりに予想の真裏から返事が来た。だらしない母音にお師さんは鮮やかな紫を一度きつく細めるけれど、小言の類は何も零さずに手と顔を離してしまう。そのまま、こちらが我に返るよりも早く用済みとなった手首を掴まれ、やっぱり手綱は在るべき場所へ収まって。露わにされて慌てて結んだ一文字は敢え無く無視され、代わりに降るのはお師さんの体温を宿した無骨な銀の鍵だった。ホテルより宝箱が似合いそうなシンプルな形の約束を無理矢理でも受け取れば、見下ろす瞳がまた静かに火力を増す。それがこちらへ燃え移る前に足が縺れるような目眩を覚え、それが浮揚感だと気付く前に二人の密室が厳かに開いた。停止の揺れが収まるのを待たずに、お師さんは惚けるおれを振り切るように鈍い箱から一歩踏み出す。胸の前で抱いた重みと共にずんずん進む背中を数秒見送るけれど、扉の閉まる気配におれも慌てて後に続いた。午睡を謳う昼下がり、勿論フロアにはおれ達以外誰も居ない。見た目よりも随分重い鍵をまだ熱の残る両手で握り直せば、後ろ髪も断ち切るように背後で扉が呻いて長い廊下から音が消える。突然全てが自由になったせいで、緩んだ脳が吐いた言葉と貰った言葉を上手く咀嚼出来ない。白昼夢を疑う静寂の中、ゆとりある一本道を引き返せないと知りながらも少しだけ走る。足音を残さず吸う絨毯を無遠慮に踏み荒らして進む道は、節度や品格を思い出すには少しだけ短い。

「‥ここ?」

 殆ど突き当たりまで歩いた所でお師さんは足を止め、ちょうど一人分のスペースを空けて無言のままに扉と向き合う。胸の前で尊大に腕を組み何か言いたげに鍵穴を見下ろす横顔は、呆れる程の仏頂面でおれの問いなんて多分欠片も届いていない。こうなったお師さんはもうおれが何を聞いても、扉を開けるまで溜め息一つ零してはくれないだろう。頑迷さに関してはおれも人のことを言えないから、ここは大人しく用意された余白に滑り込む。生温くなった鍵を掌から取り出し、一応鍵穴と番号を見比べるフリをしてもやっぱり背後の反応は無い。差し込み式の鍵触れるのも使うのも久しぶりで、躊躇っている内にかちりと空白が埋まる音がした。鍵なんて誰が回しても同じだと思うけれど、流石にこの圧の中じゃ言い出せないし野暮も過ぎる。そうだ、遅かれ早かれおれがここに来た理由は、確か。

「‥ん?」

 いきなり思考が現実に追い付いて、せっかく嵌った鍵先が再び日の目と馬鹿を見る。ようやく事実として噛み砕き終えた言葉が一気に理解を求めて来るから、情報量に溺れてしまいそうだ。急いで赤らむ頬やつんと痛む鼻の奥も全部今更過ぎて嘘っぽい。この扉を開けたらおれとお師さんがどうなるかなんて、鍵を受け取る前から承知の上だ。むしろ今すぐお師さんに美味しく平らげもらいたいおれに、これ以上括れる腹は無い。
 動揺が指まで伝って溢れるせいで鍵は二度と上手く刺さらない。焦りにつられて擦れ違う金属が立てた微かな異音と、おれの乱れた呼吸が広い廊下でやけに煩い。おれがこんなに不格好なのに、背後から聞こえる息遣いは当然のように美しいくて。二人の中で結果は決まっているとしても、せめて過程を進む上で恥は等しく分け合いたい。こんなの言い掛かりだって分かっているのに、的外れに腹が立つのが止められなかった。恥じらいを怒りが一時的に追い越して、苛立ちに任せて捩じ込んだ鍵が吸い込まれるように奥まで入り込む。後は思い切り回すだけとなった扉の前で、ささくれた気持ちを落ち着けるように一度大きく息を吸う。どうせ理不尽にみっともないなら、抱き潰される前に恨み言の一つや二つはぶつけてやりたい。飛躍と誤訳の居直りを見せつけるため、きっと不機嫌極まりないであろう顔めがけて振り向いてやる。

「お師さん!これは流石にっ、‥なぁ‥」
「‥‥何かね」

 借りてきた威勢は瞬く間に尻窄み、射竦める筈の瞳もすぐに霧散して見開かれる。予想では、気難しげに顰められた眉と棘混じりの眼差しが鈍臭いおれを睨んでいる筈だった。意志の強そうな口元に不満を目一杯詰めて、隙あればおれの失態を咎める気満々でいると思ったのに。重々しく返ってきた声とは正反対の、軽率に赤く染まった頬や目蓋や鼻先に心臓がおかしな音を立てる。隠し切れずに揺れる瞳も、細かく波打つ長い睫毛も、一文字になり損ねて迷う唇すら、あまりに不慮が過ぎてときめく以外の選択肢が無い。後は回すだけのドアノブを隠し持った後ろ手が転がるようにまた汗ばみ出して、目の奥で星が騒ぐ。不意を突いて覗いた顔に虚勢以外の色が無くとも、おれのお師さんは世界一格好良い。このタイミングで思い知る当たり前にお腹の奥がぎしりと痛んで、自分の迂闊さに自然と口角が上がる。結局おれ達は同じ炎に骨まで焼かれた者同士。滞り一つ無くホテルの予約から休みを揃える準備まで済ませてくれるような相手に、こちらを笑う余裕なんてあるわけ無いのだ。

「怒ったり笑ったり、ころころと忙しないよ」
「おれも人間やからな。あと、忙しないついでにちゅーして欲しい」
「‥舌の音も乾かぬ内によく言うね」
「我慢出来へんのはお互い様やろ。今のおれは丸め込まれたい気分やの」

 なるべくぎこちなくならないように言い切って笑みを見せれば、淡く惑った瞳が一瞬大きく丸くなる。だけど、すぐに鋭さを取り戻した紫色は星より速く翳り落ちて、その移り変わりに見惚れている内に吐息は殆ど重なっていた。掌が無い分、お互いの緩く溶けた唇や少し早い息遣いが明け透けでまた体温が気安く跳ねる。あと一歩どちらかが踏み込めばもう後戻りは出来ないだろう。延焼狙いでよろけてみようか血迷う寸前、ドアノブにかかる手へ同じくらい熱い指がなめらかに重なる。

「‥いきなり扉が開いて二人仲良く転がりました、なんてオチはお断りだよ」
「おれはお師さんとなら床でも構わんけど」
「誰かの足跡の上で君を抱く趣味は無い」

 酷く真面目な顔をしたお師さんが重々しく変な拘りを披露するから、堪え切れずに吹き出してしまう。至近距離で笑うおれにつられるようにして、やっとお師さんも少しだけ目尻を下げてくれる。どうかこの笑顔を二人揃って灰になれた後も見られますように。どうせ叶う願いをおれだけの神様にこっそり祈りながら、絡んだままで強くドアノブを回した。