部屋が狭いのを彼は気にするけど、この方がいい。人の居場所が限られるから、ごく自然に近くにいられる。並んで座ったベッドの上、ケヴィンは付き合いだしたばかりの恋人の横顔を盗み見た。手元を見下ろす金の瞳に長いまつ毛がかぶさる。もっと近くで見ると、まつ毛が下瞼をうつ微かな音まで本当に聞こえるのだ。細い鼻筋を目で追っていくと、いつも活発に動いている唇がゆるく結ばれて収まっている。無造作に束ねられた髪は腰まで届くほど長くて、顔や肩にかかる度ぞんざいに後ろに払われる。
ホークアイ。彼の名前の形に口を動かしただけで、声なんて全然出てなかったと思う。でもホークアイはすっと目線を上げてこっちを見た。目が合うと、笑う。なぁに。喉を鳴らして懐いてくる猫をあやすみたいな、柔らかい声。いわゆる〝呼んでみただけ〟なのはバレていて、その上で甘やかしてくれる。心臓がぎゅーっと縮まったみたいになって、苦しいけど嬉しい。なんでこんなに優しくしてくれるんだろう。ホークアイは、優しいね。以前そんなふうに言ってみたら、優しいのは気に入った子に対してだけだよ、なんて、猛毒みたいな甘い声を耳に流し込まれて腰が抜けそうになった。らしくもなく言葉に含ませた、誰にでも優しくしないでほしいという牽制にも、きっと気づかれていた。
この人はこの人の自由にしていてほしい。でも、ずっとそばにいて離れないでほしい。矛盾する願いはどっちも本物だった。ケヴィンは今まで自分自身について、もっとわかりやすい奴だと思っていた。でも、彼に出会ってからは、自分でもなにを仕出かすか予想できない。
この人と離れている方がおかしい。そんな直感と火をつけられたみたいな焦燥に急かされるまま、せまって頼み込んで最後はほとんど泣き落として、恋人ということにしてもらった。思い返してみれば、これまで誰に対しても、男でも女でもそれ以外でも、こんなふうに何としてでも手に入れたいと思ったことはなかった。こういうのに恋という名前がついているのだとしたら、世の中が何日も獲物にありつけていない肉食獣の集まりのようになってしまうので、きっと自分だけが変なんだろう。そんなちょっとどうかしている恋の真っ只中に、ある日突然望みもしないのに放り込まれた。体感としては、体の中にピンクの風船がたくさん、目一杯詰め込まれているみたいだ。彼と会えたり触れ合えたりするとどんどん膨らんで破裂しまくるし、会えないと空気が抜けてぺしゃんこになる。本当に全く、らしくもない。でも、今までの自分がこうだったとはっきり言うことはもう出来ないし、これまでのように戻れる気もしない。一方通行の化学反応だ。燃えたものは二度と元には戻らず、灰になるだけ。
「ほら、これは?」
声に促されて、彼の手の中のスマホを見下ろした。首を伸ばすと、肩を抱かれて引き寄せられる。鼓動が跳ね上がって、坂を転がり落ちるように速度を増していく。スマホの画面を見てはいるが、ちっとも頭に入ってこない。話題らしい話題が出てくるでもない、相手が応えてくれること自体を楽しむような雑談の中で、友達がやっていたゲームが面白そうだったけどタイトルが思い出せないみたいな話をした。ホークアイは、決して説明が上手い方ではないケヴィンの話から取っ掛かりを見つけて、あれこれ調べてくれていたのだ。
「あ、これ、かも」
「結構名前聞くやつだよなぁ」
「あんまり、やらない? こういうの」
「時間潰しくらいかな」
彼の言葉にどう答えたか、自分の声なのによく聞こえない。心臓が鼓膜のすぐ後ろで鳴っているみたいだった。この人のことをもっと知りたい。綺麗で何事にもそつがなくて、そんなイメージにはあまりそぐわない、生活感に溢れるごちゃついた部屋に招き入れてもらえたときも嬉しかった。家では普段どんな感じなのか、どんな友達がいるのか、なにが好きなのか。知りたいことはいろいろあるはずなのに、二人きりでこんなに近くにいたら、もう全部どこかに吹っ飛んでしまう。温かい吐息のかかった耳がぴりぴり痺れて、首筋にまで伝わってくる。
「……ホーク、アイ」
「どうした?」
唇が耳殻をくすぐる。まだ服に覆われている肌が粟立つ。触ってほしい。彼とこうなってからどころか、出会ってからもそんなに長くは経っていないのに、ケヴィンの体で彼に触れられていないところはもう無い。薄くて大きい手のひらや長い指がどうやって肌をなぞっていくか、その唇がどう触れるか。思い出して体が熱くなる。
「ホークアイ、オイラ、えっと、……」
「うん」
触って。喉につっかえたけど、なんとか言えた。恥ずかしくてホークアイの肩口に顔を埋めると、いいにおいがする。彼の首筋に頬擦りをして、鼻先もこすりつけた。
「ちょ、ちょっと待って、くすぐったい」
「ねぇ、ホークアイ、……」
「……や、でもさ、」
「だめ?」
「壁、薄いから」
狭いだけじゃなく、聞こうと思えば隣人の生活音も全然聞き取れてしまう防音性の低さ。ホークアイが自室に人を入れたがらないのも納得できる。けど、どうしても時間を気にせず二人でいたい。ぐずぐず食い下がると、困りきったような顔で許してくれる。甘えすぎだろうか、嫌われたらどうしよう。少しだけ不安になっても、止まらない。
「ガマン、する」
「ケヴィン、」
「声、出さない、ように、……がんばる」
「ホントに? がんばっちゃうの?」
「う、」
頷けない。彼の薄い肩にぐりぐり額を押し付ける。ホークアイは痛い痛いと笑いながら、ケヴィンの頭をなだめるように撫でた。この人はずるい。本当は、我慢なんて全然出来ない。気持ち良くなるとすぐ、頭の中がもっとしてほしいとかそればかりになってしまう。ほんの少しの刺激でも堪らなくなって、声が出る。そんなことだから、体が繋がっている真っ最中なんて我ながらうるさいんじゃないかと思ってはいる。への字にひしゃげた唇を、彼の指先がちょんと突いた。
「頑張らせたくないの、こんなことで。我慢してほしくない。でも、直接じゃなくても誰かに聞かれてると思うとすげー嫌だ」
だから、ごめんね? 謝られたってもうダメだ。そんな、見えない誰かに嫉妬しているみたいな、独占欲の欠片のようなものを見せられたら。火はつけられてしまったし、ピンクの風船達もパンパンになって弾け飛びそう。ホークアイの肩に体重をのせ、覆いかぶさるようにベッドに倒れ込んだ。
「がんばる、がんばるから、」
「ちょっと落ち着けって。せめて場所変えない?」
「……ヤダ、今がいい」
目の前にある唇に舌を伸ばす。ぺろっと舐めると、小さく開いてくれる。舌先が触れ合って、唇が重なった。彼の口腔にねじ込んだ舌がすぐに絡めとられる。唾液が滲み出て、合わさった唇がぬるりと滑った。
参ったなぁ。唇の隙間で、ホークアイが囁いた。困らせたくはない、でも。彼の頭を腕に抱えるようにしながら、唇に吸い付いた。
Tシャツの裾を捲り上げて、手が滑り込んでくる。ワガママを通してしまった罪悪感が、快感を煽り立てていく。好き、だからもう絶対、離れないで。口が塞がっていて言えないけど、キスが解ける頃にはまた別の理由で、何も言えなくなっている。
✳︎
声、我慢できる? 好きな子を抱けるっていうのに、何が悲しくてこんな野暮なことを言わないといけないんだろう。旅の間はまあしょうがないと諦めもついた。いつも三人一緒なのに自分達二人がこんなことになってるなんて、残ったあと一人はそんなに事細かく知りたくもないだろう。だからって四六時中顔を突き合わせながらそういうことだけしないなんて、無理。
ケヴィンは我慢強い。黙っていればきつい目つきを涙でとろかせながら、ほとんど声を出さずにいてくれる。荒い息遣いや表情、汗ばむ肌。体の反応で、気持ちいいと感じてくれていそうなことはわかる。なんの気兼ねもなく触れ合えるようになったら、きっと恥ずかしそうに身を捩りながら、甘い声で鳴くんだろう。旅を終えれば、皆の目的を果たせれば、そんな日が来ると思っていた。でもそれはあまりにも楽観的な展望だったと、思い知った。
皮膚を破いてしまいそうなくらい強く、爪を立てていた。彼の腰を掴んでいた手の力を弱め、ホークアイは弾む息を整えようとした。入った。繋がれた。ものすごく久しぶりに。木の幹に手をついたケヴィンの顔は見えない。ふわふわ揺れる金色の髪が、月の光で白く光った。
声、出さないで。おざなりにほぐした穴に性器をあてがってそう告げた。きつく窄まろうとするそこを無理矢理開かれる感覚にケヴィンは小さく喉を鳴らした。彼の故郷の森は、人目を忍んで抱き合う二人を、葉の茂りや騒めきで隠してくれる。等しく、森をうろつく侵入者の姿も隠してしまう。
戦いが始まって、随分と経った。獣人の国は、いくつかの人間の国の同盟軍から攻め入られた。多勢に無勢、攻め落とされるのも時間の問題だと言われていたが、決して本拠地には踏み込ませずここまで粘り抜いていた。それももう、限界かもしれない。彼から届いた短い手紙は珍しく弱気で、居ても立ってもいられず会いにきてしまった。疲弊した彼を抱きしめてキスをしたら、抑えられなくなる。したい、とねだるか細い声が、最後の一押しになった。躊躇いながらも彼の中に入ってしまえば、目が眩みそうなくらい気持ちいい。馴染ませるように小さく腰を揺らして、いきなり奥まで突き込む。ケヴィンが苦しげに呻いた。そこからはどんなに激しく腰を打ち付けても、彼は一つも声を漏らさなかった。
ホークアイの故郷は同盟には加わっていない。幾度も助力を求められたが静観してきた。でも大勢が決しそうな今になって、方針が変わった。求められれば、同盟に力を貸すと。積極的には動かないが、勝ち馬に乗れそうなら恩を売っておこうという算段なのだろう、小狡いし日和見もいいところだ。けれど、後ろ盾の乏しい小国としては最善の手だ。合議の最中、ホークアイは馬鹿でかい敗北感と無力感に打ちのめされていた。一人では何も出来ない、国としても何も出来ない。故郷の立ち位置を不安定にするわけにはいかない。あの子の国が落とされるのを、見ていることしか出来ない。マナが無くなった世界は混乱を極めている。こんな戦いは、単なる憂さ晴らしじゃないのか?
逞しい背中を覆う上衣は簡単な作りで、すぐに首の付け根辺りまで捲れてしまう。汗で艶めく肌を這う己の手が、闇から溶け出したような墨色に見えた。
もう間も無く、この森は暴かれる。
✳︎
よく見る夢がある。と言っても、内容は覚えていない。目を覚ますと大泣きした後みたいに頭がガンガン痛んでいて、それであの夢を見ていたと気づく。寝起きを襲った頭痛はそこそこの時間続くので不快で仕方ないが、今はすぐにおさまった。
ホークアイよりも高い体温と、ゆっくりした呼吸。腕の中で、ケヴィンが眠っていた。知らぬ間に硬直していた体がほっと緩む。何回したか、この子の中に何度吐き出したか記憶は曖昧だが、思いっきりヤった後に寝入ってしまったのは明らかだった。彼の声だけじゃなく、安物のパイプベッドの軋む音もすごいから、そろそろまた苦情が来そうだ。管理会社から電話が来るとげんなりする。だけど、我慢しようとしても出来なくてあうあう鳴き出すのが最高にエロくて可愛いからやめない。自分の声でもっと興奮するみたいで、こっちの動きに合わせて腰を振ってくれたり、してほしいことを恥ずかしそうに教えてくれたり、いつもの様子からは想像も出来ないくらいえっちになってくれる。
出会ったときから、好意的な感情を持ってはいた。独特な口調もすぐに慣れたし、一般的なテンポで生きていないから人とはずれてしまいがちだけど、面白くて放っておけない。一見短所と言えそうな彼の特徴が全部可愛く思えて、これはまずいことになりそうだと焦った。大事なものは増やさないに限る、きっといつか手を離れていくんだから。ホークアイの長くもない人生につきまとっていた呪いのような信念は、ケヴィンに好きだと言ってもらえた日にばっきりへし折られた。その後渋ってみせたのは、なけなしのプライドがあまりにも情けないと嘆いていたから。
彼の髪は、丁寧に撫で付けても元気にぴんぴん跳ね上がってくる。これはかなりしぶとい癖毛だ、と口元が笑ってしまう。狭いベッドでほぼ密着していると言っていい体を、もう少しだけ抱き寄せる。
この子に我慢をさせたくない。耐えなくてもいいことを耐えさせたくない。まだそんなによく知っているわけではないけど、きっと大事なことには遠慮してしまう子だから。強くて、大体のことは我慢できてしまうから、なかなか誰かに助けてほしいと言えない。そんなところがあるような気がする。
騒音への苦情は甘んじて受けて「すみません、気をつけます」を言うマシーンになってもいいけれど、このアパートを追い出されてしまうのは少々困る。家賃が安いわりに築浅で便利な立地で、気に入っているのだ。こういうときのためのラブホなんだろうけど、金が無い。どうやらかなりの坊ちゃん育ちらしいこの子に頼めば喜んで出してくれそうだけど、それも情けなさすぎる。こっちが毎回全部持つのは無理としても、せめて折半できるくらいには。小手先でなんとかするんじゃなくて、いっそ引っ越してしまった方が手っ取り早い気もする。もっと壁が厚いところに。
とりあえず今すぐできるのは、安くていい感じのラブホと、短期で割りのいいバイト探し。いやそれより前に、この子を風呂に入れてやらないと。ケヴィンの目が開いて、ぱちぱち瞬く。
「……寝ちゃってた」
「オレも」
じゃあ、いいか。むにゃむにゃと言ってまた目を閉じようとするのを起こそうか迷って、結局二度寝した。
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