十月の海はなんだか余所余所しくて、砂浜を踏む足が止まる。傾き始めた夕日が波立つ水面をキラキラと照らして無駄に眩しい。少し肌寒く感じて、デュランは捲り上げていた制服のシャツの袖を下ろした。季節は、確実に前に進んでいる。
八月のあの日は、二人でここにいた。地区予選突破まであと一勝というところで、気持ちいいくらいの負けっぷりで敗退して、帰るに帰れずうろうろと遠回りをするうちここに来た。幼馴染兼今は部活の後輩でもあるケヴィンは悄気返っていて、無性に苛立って波打ち際から思いっきり突き飛ばした。浅瀬で尻餅をついてポカンとするケヴィンに足で水をかけまくってやると、振り上げた足をつかんで海に引き摺り込まれた。背中から水の中に倒れ込み、ばしゃんと派手な水音がたつ。
「帰りどうすんだよこのバカ!」
「デュランが、先にやった!」
怒鳴りあった声はすぐに笑い声になって、闇雲に水をかけ合う。お互いに文字通り足を引っ張りあって転ばせたり、顔を水の中に突っ込ませたり、水遊びというには些か荒っぽかったが散々に笑い転げた。口の中はしょっぱいし、パンツの中まで砂が入ったけれど。
「何なんだ、もう……」
「だから、デュラン、先にやった」
二人して肩で息をしながら、砂浜に座り込んだ。ピークを過ぎてもまだまだ降り注ぐ太陽の熱も、頭からずぶ濡れの今となっては気にならない。体の後ろでついた手のひらに、乾いた砂の温度が心地よかった。
「泳ぎたい」
「やめとけ。クラゲが出てるぞ」
「くらげ……」
暦の上ではもう晩夏で、泳ぐのには向かない。ただでさえ人が少ないこの浜は、今は自分たち二人しかいなかった。波が寄せては返すのを、ぼんやり眺める。水が山のように盛り上がって進んできて、耐えかねたように飛沫になって砕けるのは、どの辺りか。
「デュラン」
「あ?」
隣で膝を抱えるケヴィンは、至極真剣な顔で水平線を睨みつけている。
「……ゴメン」
「何がだよ」
「今日、負けた、から」
「なんで謝んだよ、お前が」
「だって、これで最後、だから」
デュランは最高学年で、この夏の試合で負ければ順次引退ということになる。大抵の運動部はそんなものだろう。
「終わったことどうこう言ってもしょうがないだろ」
喉が渇いた。体が温まってきて、露出した腕や顔がひりひりと熱くなる。
試合の結果は悔しくないと言えば嘘になるが、明らかな格上相手によく頑張ったと思う。何事も、終わるときは取り付く島もなくあっさりと終わっていくらしい。我が事ながら薄情だと思うが、この砂浜に辿り着くまでの数十分で、今日の試合から遡ってこの二年半くらいに対する思い入れの整理はもう出来てしまった。
「お前はまだ先あるんだし、頑張れよ」
「うん……」
ケヴィンは膝に顎をのせて、更に小さく背を丸めた。何にも考えていないように見えて実際その通りな奴だが、落ち込むとそこそこ長い。そんなときに付き合ってやるのは、昔からデュランの役目だった。
「あっちぃな……」
パタパタとシャツの胸元を引っ張って風を送る。あまり意味はないけれど気休めだ。横にいるケヴィンの額から、汗だか海水だかわからないものが流れて頬を伝う。体に張り付くシャツから褐色の肌が透けて見えて、慌てて目を逸らした。
「でも、もうちょっと、一緒にやりたかった」
わかっている。今のメンバーでまだ続けたかったとかそんな意味で、他意なんてあるわけがない。なのに、心臓がどくりと鼓動を早める。少しでも、長い付き合いだって以上に特別だと思ってくれているんじゃないか。そんな望みを持ってしまう自分が気持ち悪い。
こんな得体の知れない感情も、ひっくるめて終わりになるんだと思っていたのに。
「デュラン、寂しくない?」
「ないってことも、ない、か?」
「オイラ、寂しい。今日、勝てたら、……もっと、一緒にできた、のに」
伏せられた目線がすうっとこちらに流れてきて、目が合う。やけにゆっくり、コマ送りのように見える仕草を見つめるうち、頭の中が千々に乱れて考えの断片すら掴めなくなる。
「ケヴィン」
動くなよ。カラカラに渇いた喉はうまく震えてくれなくて、声が掠れた。二人の間に手をついて、顔を寄せる。ケヴィンが丸く見開いた目に、馬鹿みたいに必死な顔をした自分の顔が映り込む。
目を閉じることも出来ないまま、ほんの一瞬だけ、唇を重ねた。
何でこんなことをしたのか。嫌われたくないならやらなきゃいい。でも、目が合った瞬間に、こうするのが当然のように思って体が勝手に動いた。
離れてケヴィンの顔を見て、後悔に襲われる。
目と同じように口もぽかんと開けて、こっちを見ている。何が起こったかまるでわかっていない顔だ。意図なんて伝わっていないし、今じゃなかった。じゃあいつだったらいいんだ、というよりそもそも何をしたかったのか。どんな反応を期待していたのか。ぐちゃぐちゃだ。
「悪い。……忘れてくれ」
無理だろうけれど、言わずにいられなかった。呆然とするケヴィンを置いて立ち上がって歩き出すと、すぐにもう一つ足音がついてくる。今だけは、二人で歩くのが嫌だった。
その後はびっくりする程気まずくなって、接点が減ったこともあってろくに話もしていない。後悔は日によって薄れたり、恥ずかしさで頭を抱えて叫び出したくなるくらいに圧倒してきたり。感情の沸点が乱高下して、ただでさえ気が長い方じゃないのに輪をかけてどうしようもなくなっている。
今日こんなところまで来たのは、ケヴィンから逃げてきたからだ。昼休みに送られてきた、「一緒に帰ろう」というだけのメッセージ。テスト前で部活も無いし、家も近いしで別に何もおかしくないけれど、今は無理だ。放課後すぐに教室を飛び出して、まっすぐ帰るのもまずいかと思っているうちにここに向かっていた。
赤く染まり始めた海。あのときより随分日が短くなった。視線を落とすと、砂を被ったスニーカー。自分で逃げ隠れしたのに、顔を見られなくて寂しいなんて思っている。いつからこんなに女々しくなったのか。
ふと、ポケットの中でスマホが震えた。一定のリズムで振動するそれを取り出して、踏み潰されたカエルのようなひしゃげた声が出る。液晶に表示されたのは、どうしても会いたくなくて、でも会いたくてしょうがなかった奴の名前。
急に思うように動かなくなった指で“拒否”をタップした瞬間。
「デュラン!!」
腹の底から振り絞られたような大声。反射的に振り返る。この浜から一段高くなった道路に、見慣れた癖っ毛頭が見えた。
「そっち、行くから!!」
ケヴィンは砂浜に続く階段を二段飛ばしで駆け降りて、砂地をものともせずに走ってくる。呆然と見守っていると、大股で二歩分くらいの距離で立ち止まった。
「なん、で、出なかった」
はあはあと弾む呼吸の合間から捻り出された恨み言。幼さの残る丸い目が尖る。
「……出れるわけねぇだろ」
「出るってほう、押せば出れる」
「誰が電話の出方わかんねぇっつったよ! ……今の状況で、二人で顔合わせたり電話したりできるほど、図太くねぇってだけだよ」
絶えることなく寄せてくる波音が、デュランの言葉の後に続く。不意に強くなった海風が、シャツの布地をはためかせる。
「……オイラも、いろいろ考えたけど、わかんなかった」
ケヴィンは表情を歪めて唇を噛む。それでも、ずっと視線を逸らさない。
「多分、自分でやってみないとわかんない。だから、」
動かないで。どこかで聞いたようなことを言われて、その場に縫いとめられたように体が固まる。後少しの距離を駆け寄るように近づいたケヴィンがそのままの勢いで踵を浮かせて、そして。
「痛ってぇ!」
「〜〜〜……」
唇越しで歯がぶつかった。頭の中身が揺さぶられたような衝撃で目を閉じる。遠慮の無い力でぶつかられるのはこんなに痛いものか。
「何してんだよ!」
「だって! ……えっと、」
言い返そうとした気勢がすぐに萎え、ケヴィンは黙り込んだ。その頬に、赤みが走る。この反応は、どういう意味だ。
「……恥ずかしい、から。そんなにゆっくりは、できなかった」
はにかむ表情を見て、せっかちな心臓がまた早鐘を打つ。期待するな。何度も自分に言い聞かせる。
「あのとき、何で謝った? デュランが謝ったから、……わかんなくなった」
琥珀色の目が、何かを訴えかけるようにじっと見つめてくる。ふっと、振り切りそうだった緊張感が和らいだような気がした。自分で自分の感情を否定するのも、傷つくまいと予防線を張ろうとするのも、まるで意味がないことのように思えた。
「あー……悪かった。じゃなくて、」
絶対に言うわけにはいかないと思い詰めていたことが、すんなりと言葉になる。
「好きだ」
たったの三音を時間をかけて飲み込んだケヴィンが、笑った。十数年近くにいて初めて見た、穏やかで柔らかくて、幸せそうな顔。
今この瞬間の、向けられた笑顔や夕日の色、潮風の匂いやなんかを、これから先何度も思い出すんだろう。直感のようにそう思った。
日が落ちて、残滓のような明るさがまだ残る中、自転車に跨がる。ケヴィンがここまでの結構な距離を走ってきたと聞いて呆れた。デュランの教室まで出向いたら既に逃げられた後だとわかり、ぱっと思いついた行先がここだったそうだ。ケヴィンの勘がいいのかデュランがわかりやすいのか、多分その両方だったのだろう。
「いくよ」
「おー」
ケヴィンが自転車の荷台を押そうと力を入れかけて、やめる。
「デュラン、」
背中に、ケヴィンの頭がぽんと押し付けられた。
「——」
「ん? なんか言ったか?」
「……後でもう一回言う!」
今度こそ勢いよく押し出されて、ペダルを踏んだ。数歩走ったケヴィンが荷台に飛び乗った振動で、路面を転がるタイヤがぶれる。ぐっと力を込めて、ある程度スピードが出て安定するまで漕ぎ続ける。
「もっと速く!」
「だったらお前が漕げ!」
「それはやだ」
クスクスと可笑しそうな笑い声が気に入らないが、躊躇いがちにシャツの脇腹辺りを握ってくる手の感触で帳消しになる。もうちょっとだったら頑張ってもいいか。そう思って、ペダルを強く踏み込んだ。
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