コンニチハ、イラッシャイ、この家は不可侵、名を名乗りなさい。おそらく4メートルほどはある「門番」が黒い歯をむき出しにした。ほつれた日本髪をした女はただ紅を引いたくちびるを閉じている。
「家人、月岡全市」
それだけ言うと、女たちはにっこりと微笑む。「家人、月岡全市。月岡の血をひくもの、お入りなさい」と、女たちの背と比べるとずいぶんちいさく見える木の扉をギイと押し開いた。
全市は隠しもしない溜息をついて家に乗り込む。砂利を踏む音が、日も傾きはじめた静かな夕べに響く。門扉の外には夕日の光にあてられて橙色に輝くふたりの巨大な女が立っている。あれらは当主の式神で、言葉にて縛られているらしい。自我も行動もすべて制限されている、哀れなあやかしだ。
「……ん」
革の鞄の中で、アラームが鳴っている。庭先で鞄からスマートフォンを取り出すと、画面には旋律、と表示されていた。
「どうした」
「全市、今どこにいる?」
「家……いや、実家だが」
スマートフォンを耳に強く押しあてると、旋律の声の背後にわずかなざわめきが聞こえてきた。人間の声だった。時計を見るとじき夜になる。常勤講師は門限はないようだが、夜外に出るのは推奨されていないという。
「お前こそ……。なんだ、どこか出かけるのか」
「前言ってただろう、中華街。チャイナタウンだ、チャイナタウン」
楽しみだという声色を隠さず、そして相罠という関係性上、全市が着いていくことを断るのを微塵にも信じていないのだろう。全市自身も断ろうなどとやはり微塵にも思ってはいないが。
「今からか」
「いや。それを今から決めるんだよ、全市」
中華街。狭い道、そしてぎゅうぎゅう詰めの店。その店舗も多種多様。肉が焼かれる香ばしいにおい。というイメージだ。だが某有名な甘栗の販売員には気をつけなければならないということは知っている。
「で、どこに行けばいい? いつものラーメン屋か」
腕時計を再び見下ろす。「そうだ」と意気揚々と頷く様子を見せた旋律には「分かった、今から行く」と答えた。
終話ボタンを押してから、スマートフォンをポケットに突っ込んで、今辿ってきた道を引き返すと、2人の大きな女たちは「こんばんは。いってらっしゃい」そう、ゆっくりと笑った。
実家に簡単な用事があったが、わざわざ親の顔を見ることもないだろう。正直助かった。
もうじき、白かかった月が我が物顔で空を輝かせることだろう。――明日は、満月だ。
いつものラーメン屋、の前に旋律は立っていた。赤いのれんが風で捲れる。旋律の髪の先も、湖に落ちた葉のように揺れていた。
「なんだ。意外と早かったな。まだフラペ飲みきっていないのに」
彼の右手にはスターバックスコーヒーのマークがついたプラスティックのコップが握られていた。
この近くにあっただろうか。
「そんな甘いの、よくいつでも飲めるな」
全市が感心したように呟くと、旋律はくちびるの端をあげて「まぁな」と得意げに笑った。
「ちょっと待て。これ飲んでから入ろう」
紙のストローではすこし飲みづらそうだなと思いながら、ラーメン屋の入口の前で周りを見回した。いつも近くのビル群など見ることもなく入るものだから、こうやって注意深く見るのは初めてだった。
ふと右側の向こうに、緑色のスターバックスコーヒーの看板が見えた。そこで買ったのか、とようやく合点がいった。
「全市」
名前を呼ぶ声が聞こえた。どうやらフラペチーノというものを飲みきったらしい。赤いのれんをくぐり、カサカサとした木で出来た取っ手を引いて中に入る。
乱雑とした店内で、ひとびとの声が漣のように聞こえてくる。
いらっしゃいませ、という威勢のいい声さえもその漣にのみ込まれてふたりはカウンター席に座った。
水のコップはすでに置かれており、全市はコップをくちびるにあてて、すこしそこを湿らせた。
「私は豚骨醤油にしよう。お前は味噌だろ?」
「そうだな」
注文を聞き取りにきた後ろで髪の毛を縛った若い女の店員に、「豚骨醤油と味噌、ひとつずつ」と伝えた。
「あ、そうだ。チャイナタウンの話だが」
「うん」
全市が頷くと、旋律は鞄の中からパンフレットを取りだした。カラフルな文字列と写真に、目を見張る。
「まず甘栗を高値で売りつけてくるやつには注意しないとな」
「やっぱりいるのか。そういうのは」
「いるとパンフレットには書かれている。注意書きで。なんだ、全市も行ったことないのか」
「ないな。特別、用事もなかったし」
地形は頭に入ってはいるが、どこになんの店があるかまでは知らない。そう付け足すと、隣の男は軽い相づちをうった。
「あ、北京ダック。北京ダックは食べるよな、やっぱり」
「鉄板だ」
頷いてみせる。北京ダックは食べたことがない。いや、あるかもしれないが記憶にない。全市自身「記憶がない」と思うものならば、確実に食べたことはないのだろう。
「とりあえず効率的に回ろう。それが一番いい」
「まぁ、そうだな。時間は限られている」
夜はあまり出歩かないほうがいい。そう付け加えようとしたが、やめた。旋律の細長い指がふと止まる。
「なんか、これだけ話してると中学生の頃みたいだな」
コップの水が三分の一をきった。全市は無意味にそのコップを持って、ゆらゆらと揺らす。
「あの時から変わらないものも変わったものもあるだろう。お前も俺も」
「全市はあんまり変わってないぞ」
「そうか。そうかもしれないな。自分では分からんが。でも酒は飲めるようになった」
「20歳とっくにすぎたからなぁ。私も飲めるようになった」
胸を張るような声色に、ふっと笑う。
同い年だ。同じように、あるいは平等に成長したが、道はバラバラになった。
旋律はピアニストになったし、全市は祓魔師になった。
けれどなんの因果か、またこうして道を同じくしたのだ。教師の道、祓魔師の道でも、奇跡的に。
おまちどおさまとラーメンのどんぶりが二人の前に置かれる。味噌は野菜で麺が見えないくらいがいい。隣の旋律のどんぶりはメンマや味玉が白っぽいスープに浮かんでいた。
「じゃあ、チャイナタウンは甘栗売りに注意して、北京ダックを食べて……効率的に回る、というわけだな」
「……そうだな」
あまり相談できなかった。けれどそれほど広い中華街ではなさそうだから、問題はないだろう。
割り箸をパキリときれいに割って、全市はまずもやしを口に入れた。
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