Ykanokawa
2024-03-27 18:04:37
8074文字
Public クリテメ
 

【閑話】2種のパスタとオクトパスマリネ

※エピローグまでクリア推奨
※エピローグ後にフレチャで同棲しているクリテメが料理を作って食べるだけの話

レシピを紹介する作品ではありません。今回は作っていません。外食回です。食べる2人を眺めるだけ。2章のNPCの彼女が登場します。

 街灯の明かりが静かに揺れている。その揺らぎに合わせて水面に映った景色も揺れる。夜なお明るい灯台の火と各所に設置された照明が煌々と潮騒の町を照らしていた。
 相変わらず、美しい町だ。煉瓦造りの橋の下を緩やかに通過していくゴンドラを眺めながら、そんならしくないことを思う。
 確かにカナルブラインは風光明媚な美しい町だ。灯台という人が生み出した叡智と、海と川という自然が融和した稀有な町。ニューデルスタの上層の煌びやかさとも、クロップデールの自然そのもの長閑さとも違う。けれど、どちらの町にもない美しさを持っている。
 ――殺人が起きた町を美しい、と思うなんてね。
 以前のテメノスなら、そんな風に皮肉っていただろう。今でもそんな想いがないかと言えば嘘になる。だが憎むべきは罪過だ。人に愛される町とそこにある営みは守られるべきものであり、美しいと形容されてよいものだろう。
 それに。
「テメノスさん!」
 いつかと同じように、あの頃より精悍さを増して逞しくなった彼が石畳を駆けてくる。
 息を切らせたクリックがテメノスの目の前で止まって、わずかにつんのめった。そそっかしいところは同じか。懐かしい気分に浸りながらその肩を支えると彼はすみません、と頬を赤らめた。
「用事が長引いてしまって……。お待たせしました」
「いいえ、それほどでは。それにたまにはこうして町を眺めるのもよいものです」
 カナルブラインは規模の大きい教会を抱き、さらに聖堂機関本部にとっては来航する船を受け入れる西大陸の玄関となっている。テメノスも、そしてクリックも、あの事件の後にも訪れる機会の多い町だった。
 テメノスが聖火教会支部に招かれることもあれば、クリックが聖堂騎士として召還されることもある。今回は珍しいことに両方で、同じ仕事を熟した後、それぞれ別に報告を済ませたところだった。
 夜の便で東大陸へ帰ることも出来たが、せっかくなら、と一泊、余計に宿を取っている。
 港町の風は塩辛く少しばかり冷たい。風に乱れた前髪を払っていると、不思議そうなをした青玉に覗き込まれた。
「何か?」
「いえ。ふと思ったんですが、テメノスさんはこの町のことがお好きだなぁ、と」
「はい。好きですよ」
……何故かと思いまして」
 よい思い出ばかりではないですよね。
 言葉にはされていないが、クリックの顔にはそう書かれていた。橋の向こうに目を遣って、水面の上に浮かぶ一軒家を見据える。
 苦い想いは、ある。
 救えたかもしれないものを、救えなかったという苦み。失ってしまったものは、もう返らないと突きつけられた痛み。
 ――それでも、たぶん、私は。
「フフ。どうしてでしょうね?」
……?」
「それよりも、クリック君」
 そっと辺りを見回す。家路を急ぐ人々はこちらに目もくれていないし、ちらほらと見かける観光客やカップルも幻想的な灯台の火に夢中だ。
 そんな死角に隠れて、テメノスは一瞬だけクリックの頬に自分のそれを寄せた。
「お疲れさま。……おかえりなさい、クリック君」
「はい。テメノスさんも……お疲れさまです。おかえりなさい」
 薄く目尻を染めたクリックがひっそり抱き締めてくれる。少し大げさな挨拶に見られる程度。ひた隠しにしている関係でもないけれど、一応、今の服装は2人とも仕事着に値してしまうから。
「い、行きましょうか。お身体が冷えています」
「フフ。そうですね。お腹も空きましたし」
 本当はもう欠片も寒くなかったけれど、さりげなく差し出された手を取らない理由もなかった。


 カナルブラインに宿泊する日の夕食は、必ず海沿いのレストランで取ることにしている。
 とんだ縁で知り合いとなった踊子の彼女から「またいらしてね」と声をかけられるので、いつからか自然とそうなってしまった。
 案内されるのは決まって2階の窓際の2人席。外の景観を楽しむこともできるし、ステージがあればのんびりと観覧できる位置だ。おそらく、彼女の計らいであることは察しがついた。そういった好意を無碍にするのも忍びなく、たまの憩いの一時くらいはと甘えさせてもらっている。
 いそいそとメニューを開くクリックはもちろん、テメノスも些か心は躍っている。何せ。
「海鮮は久しぶりですね」
 テメノスの脳裏に浮かんでいた一言をそのままクリックが代弁した。基本的に肉好きな彼でも新鮮な海の幸には心惹かれるらしい。
「塩漬けのシーフードには種類に限りがありますからねぇ」
 フレイムチャーチは山間に位置する町だ。海からは距離がある。加えて聖火教の膝元であるが故に清貧を貴ぶ傾向があり、贅沢品とされる海の食材はほとんど流通して来ない。せいぜいコールドケープから稀に流れてくる塩漬けのニシンだろうか。あれはあれで深みのある味なのだが、どうしても独特の臭みが生まれる。付け合わせに匂いの強いオニオンとピクルスを用意する時点でお察しだ。
 その点、カナルブラインのレストランメニューに並ぶ海の恵みの豊富さは流石としか言いようがない。
 赤身白身を問わない魚類、貝類、エビやカニといった甲殻類。サラダだってメニュー表の一番上に鎮座するのは海藻サラダだ。ビネガーを中心に味つけられた歯ごたえのよいサラダは新鮮味がある。
 そしてこうした外食の楽しみはもうひとつ。
「テメノスさん、パスタにしますか?」
「そのつもりですが……。さすがに迷いますね」
 見透かされているなと思い、これだけ食事を共にしてきたのだから当然かとも思う。
 テメノスは外食においてパスタを好む。ロングパスタの細めのものが好みだが、ペンネやマカロニ、フジッリなんかもよく食べる。理由という理由は特にないのだが、自宅では作るのが難しいというのが一番だろうか。
 パスタの主な原料は小麦粉と水だ。原料自体は安価なものだ。が、いかんせん、あれらは調理方法が贅沢なのである。
 大量の水を入れた大鍋を、貴重な薪を消費して沸かして茹でる。それだけで一般の家庭には十分に贅沢だ。小さい鍋で茹でようとしても、流動が足りずにパスタ同士がくっついて悲しい結果になる。自宅でパスタを食すのは料理人と大きな炊事場を抱える金持ちか、よほど食に情熱を傾けている一部の者に限るのだ。
 滅多に口に出来ない新鮮な魚介類とパスタ。それがここのレストランではリーズナブルに食べられるのだから、喜びも一入である。
 その一方でこうしてその種類が多すぎるという贅沢な悩みが生まれるのだが。
 テメノスの目がパスタメニューの項目を2往復したところで、クリックの指が伸びてきてテメノスの持つメニュー表を叩いた。
「こちらとこちらで迷ってる……で、合ってます?」
「君、あまりじろじろ見るものじゃありませんよ」
 形だけの苦情に形だけのすみませんという謝罪が返ってくる。距離感には随分と馴れたが、未だにつぶさに観察されるのは馴れない。嫌ではないし、彼の向けてくる視線は純然たる好意でしかないのだが、込み上げるむず痒さが落ち着かない。
 悩みが察せられているだろうことも、次に紡がれる言葉が予測できることも。わかってしまうから尚更。
「クリーム系はあとで少しもたれるんでしょう? こっちとシェアでいいじゃないですか」
……そういうところですよ、君」
「え?」
 こういったときのクリックはごねるだけ無駄だ。君は何を食べたいの、と訊いたところでそれを食べてみたいです、とテメノスの希望を叶えてしまう。いつからそんな可愛くなくなったのだか。
 テメノスは目についたウェイターに声をかけた。
 目をつけていた2種のパスタの大盛と前菜アンティパスト、それから帆立貝のクロケットを追加で頼んでしまう。やや焦った様子のクリックにドリンクメニューを突き付けて黙らせることにする。
 以前に頼んで気に入っていたことも、通常サイズでは彼が満腹にならないことも、テメノスだって知っているのだ。生意気さを身に着けた子羊にはこれくらいお返しをくれてもいいだろう。


 テーブルに所狭しと皿が並べられるのは圧巻だ。車座になって囲んだあの大所帯の旅の食卓を彷彿とさせる。さすがにあれほどの量ではないが、それでもよく食べる彼との外食は豪華さを感じる。
 ビネガーのドレッシングがつやつやと輝く海藻と貝類のサラダ。色鮮やかなアスパラガスとチーズを巻き取るのは生ハムではなく薄く切られたサーモン。帆立貝のほぐし身がたっぷり詰められたクロケットは半量が酸味のあるトマトソースに、もう半量がコクのあるクリームソースに浸かっている。
 大皿に盛られたパスタは片方がクリームソース、片方がオイルのロングパスタだ。
 大ぶりのエビがごろごろと入ったクリームソースから香り高いチーズの匂いが立ち昇っている。白いソースの上に粗挽きの黒胡椒が散らされ、さらに薄切りのレモンが数枚乗っているのがカナルブライン流だ。オイルパスタは白身魚とパプリカの彩りが目に楽しい。香ってくる香草の匂いが食欲を刺激する。
 テメノスは白ワイン、クリックは柑橘の果実酒。どちらもカナルブラインの特産である。
「では、改めて」
「はい。お疲れさまでした」
 食前の祈りを簡単に済ませると、2度目のお疲れさまを交わしグラスを軽く合わせる。口に含むとすっきりとした酸味が口内に広がった。飲み込むと、ほのかなブドウ本来の香りが後に残る。辛口の白ワインは料理によく合いそうだ。
 対面では果実酒を飲んだクリックが満足そうに口の端を緩めている。あれも後で味見させてもらおう。
 普段ならきちんと前菜から口にするが、皿が一気に並んでいるときくらいは無礼講だろう。早速、パスタのトングに手を伸ばしたテメノスにクリックは苦笑ひとつ浮かべただけだった。
 とろみのある真っ白なソースとチーズがエビとパスタによく絡んで湯気を立てる。添えてある薄切りのレモンも一緒に取り皿へ。卓上に用意されている調味料から胡椒を選んでほんの少し多めに振りかけた。
 フォークで一口分を巻き取って食み、レモンを齧る。もったりとしたクリームソースのミルクとチーズが、パスタの小麦と合わさって香る。歯応えのあるエビを噛むと一気に潮の匂いが強くなってソースと融け合った。
 くどくなりがちな濃厚なソースの味を引き締めるのは黒胡椒、後味を爽やかにさせるのがレモンの役割だ。一口、ワインを流し込めばクリームのまろやかさとエビの甘さだけが余韻として残る。
 対面ではクロケットを頬張ったテメノスの子羊が、同じように海の幸を噛み締めていた。
「テメノスさん! こっちも美味しいです! 少しお取りしましょうか?」
「おや。では、お願いしようかな。サーモンも脂がのっていて美味しそうですよ」
 自宅で互いに作ったものを食べるという幸福には負けるが、こういったやり取りは外食ならではだ。
 酒場の猥雑さや騒がしさが気にならなくなったのはいつからだったろう。旅の最中だったのは憶えている。この子羊は、よく今のように自分が美味しいと思ったものを取り分けてくれたものだ。
「ん、これは……
 白身魚のオイルパスタに手を出したクリックの手が止まる。苦手なものでも入っていたのだろうか。テメノスが知る限り、見た目に彼が苦手そうな食材は入っていないけれど。
 一口分を取り分け食べて理解した。最初にぶわりと香るオニオンとガーリックの匂い。白身魚は思った以上に身が引き締まっていて程よい歯応えがある。共に巻き取ったパプリカが口の中で弾け、その果肉の甘さと唐辛子の辛みとが絶妙にマッチする。それらの旨味をすべて吸ったパスタは言うまでもない。
 不満なく美味しい。ワインにも合う。しかし、これは。
「結構な匂いですね……
 口元のオイルを舐め取りながら結論を述べる。美味ではあるし、クリックの好みではあるだろうが、恋人同士のデートには向かないものだ。この口ではキスもできない。だが、まあ。
「後でミントの葉でも噛みましょう」
……よろしいので?」
「そんなに不安ならドルチェにレモンシャーベットを頼みましょう。私は気にしませんが、君は嫌?」
「いえ、そんなことは!」
「なら良かった」
 折角の夜におやすみのキスもないのは味気ないし、今さら落ち着かない。気にするような仲でもないつもりなのに、尚も気遣わしげなクリックがおかしくて笑ってしまった。
「君、酔ったときのお酒の匂いは気にしないのにね?」
「そ、それは……!」
「フフ」
 赤面したクリックが思わず食事の手を止めたときだった。
「あら、いらっしゃい。2人とも来てくれていたのね」
 艶やかで澄んだ通りの良い声が背後で聞こえた。
 振り返ると妖艶さを感じさせる黒髪の美女がグラスと小皿を手に立っていた。豊満な身体を今日はやや控えめな衣装に収めているようだ。首と腕に纏った装飾がしゃらしゃらと綺麗な音を立てる。
「ヘルメスさん、お久しぶりです。またお邪魔させていただいてますよ」
「お久しぶり、名探偵さん。騎士さまも」
「あ、はい! ご無沙汰しています」
「残念だわ。今日は舞台に立つ日ではないの。前もって報せてくれていたらステージを用意するよう言っていたのに」
 心底、残念そうに踊子ヘルメスは眉根を下げた。激動の中で生まれた縁だったが、彼女は殊の外、テメノスとクリックとを気に入ってくれている。ここを訪れる際にメリーヒルズの舞踏大会で優勝を収める練度の踊りを積極的に披露してくれる程度には。
 最初は恐縮していた2人だったが、彼女の〝恩には私の返せる最上のもので返したいの〟という矜持を聞いてから断らないようにしていた。
「今回は少々ばたばたしておりましてね。また来るときは便りを出しますので」
「ふふっ、あなたたちならいつでも私の海に招待するわ。……あ、そうだ。踊りでなくて申し訳ないのだけど、面白いものがあるの。あなたたちもどう?」
 そう言って彼女が2人の前に突き出したのは手にしていた小皿だった。
 スライスしたオニオンとオリーブを敷いた器の上に何か白い切り身のようなものが乗っている。ビネガーの香りからして何かのマリネだろう。魚ではないとわかるのは見た目にも弾力が感じられることと、白身の端に何やら暗赤色の模様が見えたからだ。
 ――いや、模様ではないな。
 よくよく観察してみれば、それは切断された吸盤だ。見たことがある。見たのはどこだったか。
「あの、これは……?」
「なんだと思う?」
 紅をひいた蠱惑的な唇を吊り上げ、彼女は実に楽しそうに謎かけを仕掛けてきた。そんな顔をされると嫌が応にも正解を引き当てたくなるではないか。
 ――確か同じ港町だったはず……
 カナルブラインに近い港町と言えばコニングクリークだ。あの周辺で食べられている珍味と言えば。
……もしかしてオクトパス、ですか?」
「え!?」
「さすが名探偵さん! 正解よ。これはオクトパスのマリネなの。コニングクリークの料理長さんにご馳走してもらったんだけど、すっかりクセになっちゃった」
 ワインのお供にぴったりなの、と微笑む彼女とは対照的にクリックの顔が引きつっている。頭の中ではあの特徴的なビジュアルが浮かんでいるに違いない。テメノスはといえば、持ち前の好奇心が疼き彼女の〝ワインに合う〟という一言に惹かれていた。
「ひとつだけいただいても?」
「ええ、もちろんよ」
「テメノスさん!?」
 暗に咎める声がクリックから発せられる。だが、やめる気は起きない。そもそも火を通したものなら食べたことがあるのだ。なかなか独特で噛み応えがある食材だった。あれがマリネの状態となると、どうなのか興味をそそられる。
「君だってオクトパスボールは食べたことがあるでしょう?」
「ありますけど……あれは、中身が見えなかったので……
 なるほど。確かに傍目にはややグロテスクにも見える。まあ、しかし、珍味というものは得てしてそういうものだ。
 ヘルメスに断わりを入れてその薄切りをひと切れだけ自分の取り皿に分ける。フォークで口元まで運ばれていくのを眺めるクリックの目が、まるで強敵を前にしたときの眼光だった。
 ビネガーの香りが鼻先を掠める。試しにと一齧りする。が、想像以上の弾力があって噛み切れない。さほど大きな一切れでもなかったので、思い切ってそのまま口に放り込んだ。
 吸盤のこりこりとした食感に対して、白身部分の弾力は一息では噛み切れない。火を通したときも弾力のある食材だったが、あちらはどちらかと言えば歯で嚙み切ったときに小気味よく感じる歯応えだった。これはまた違う味わいがある。
 一度では噛み切れず、何度も何度も咀嚼する。その度に凝縮された旨味と磯の香りが口の中に足されていく。ワインを口にすればその旨味がブドウの香りとともに鼻に抜けていった。
「これは……少し驚きました」
「でしょう? やみつきになる味よね」
「ええ。ワインのお供、というのも納得できます」
 珍味というのは必ずしも美味とは限らないのだが、これは美味と言っていいだろう。
 真剣に経過を見守っていたクリックがテメノスの反応にこっそり息を吐いていた。
 ――こちらを心配してくれるのは嬉しいが、オクトリンに腰が引けているのはいただけないな。
 悪戯心が芽生えたテメノスがにんまり笑ってみせる。それを見たクリックがわずかに青褪めた。
「なかなか美味しいですよ。君も一切れいただいてみては?」
「ええ、ええ、いいわよ! ねえ、ぜひ食べてみてちょうだい!」
「いえ、あの、僕はその……っ!」
「遠慮なんてしなくていいのよ? ほらほら」
 ヘルメスもテメノスの意図を読んだのか、はたまた自身の好物を広めたいという想いからか。オクトパスが乗った皿をクリックへと向ける。女性を相手にあたふたする様が、少しだけあの頃と――この町で最初の再会したときの、まだ導かれる側に立っていた彼と重なる。
 一際、大きい潮騒の声を聞き、テメノスは窓の外へと視線を動かした。
 夕闇の中でいくつもの明かりが、人々の命の証が輝いている。ここからは見えないけれど、テメノスの目は離れた水辺の一軒家を見つめていた。奇しくも彼とともに再度、遺体を見つけることになってしまった家だ。
 そのこと自体は良い思い出とは言い難い。けれど。

……おかえりなさい、テメノスさん』

 あの家の中で聞いた彼の声を思い出す。
 あの頃のテメノスはいろいろと心の余裕を失っていた。キャスティに指摘されたように、自覚がないだけで、心に蓋をして見て見ぬフリをしていたことが多々あった。
 親友を失ったことをやっと受け入れたというのに、養父までも奪われて。あっさりとフレイムチャーチを旅立つ決心ができたのは、決意の他に、どこかでもう自分の帰る場所を失ったような気がしていたからだ。
 ――なのに、君があんなことを言うから。
 君に、そんな心算がなかったことなんて知っているけれど。あの渦中にあって心も身体も折れずに前に進むことができたのは。
 ――私はね、クリック君。

 たぶん、この町で君のことが好きになったんです。

 だから、テメノスはこの美しい町を愛している。


「て、テメノスさぁん……!」
「いえ、本当に美味しいので頂いてみてください。吃驚しますよ?」
……本当ですか?」
「本当ですよ。見聞が広がるのはいいことです」
 ぐ、と言葉を詰まらせ、生真面目な顔で彼はフォークを持ち上げる。
 食べたらどんな表情を見せてくれるのだろうか。楽しみで仕方がない。だって、そうだろう。

 君と未だに知らない世界をひとつ知ることが、私にとってはこんなにも大きな宝になる。