くちなしの香りは、途中で途切れていた。ふたりの姿もない。だが、復讐をするならばまた姿を現すだろう。そのとき桂木ひとりならば、あの異能で簡単に殺せる。今もそうだった。雷の異能なら、あの場所からでもあのときの若い刀遣いのように、頭蓋を砕くこともたやすかったはずだ。
あえてしなかったのだろう。あの、狂った刀神は。苦しんで苦しんで折れろ、といった言葉は覚えているらしい。だから、桂木を簡単に殺すはずなどないのだ。
天照を裏切ったあの男と刀神がどういう関係だったのか。数日前には桂木を臨時のバディとしていた。――ゆえにあのふたりはバディ、という関係ではなかったのだろうと思う。
「……」
桂木の草履がコンクリートを踏みしめるとジャリ、と鳴る。乾燥した風が長い髪を揺らす。風がほおに当たって少し肌寒い。
あのふたりは桂木がひとりでいるときを狙わない。それくらいは分かる。桂木にとって人間とは、愛情をもつべき存在であり、親であり、子でもあり、そして庇護すべき存在であるからだ。
何度も何度も刀遣いを見送って、桂木の心は(心というものがあるならば)摩耗していった。倦むだけの生に、なんの意味があるだろう。守りたい、守れなかった。それをくり返して辿りついたのは強者という限られた人間だった。強ければ死なない、ということを桂木は学んだ。雪魄桂木刀・伍号の異能をコントロールし、自身の力として取り入れ、おのれのものとし、妖魔だろうが人間だろうが、刀神だろうが斬ることができる、強者だ。だが――そう、だが、なのだ。強者というものは驕るものだと知っている。自身の隣人の頭を押さえつけ、意見を言わせず、聞かず、自身のためだけに剣を振るう。そんな刀遣いもいた。
桂木を道具だと、人形だと言った刀遣いがいた。
それでもいい。
――と、思っていた。考えていた。この人間の世界で、自分は人ではないからせめて役に立つ道具として、人形として人間のよき物とあろうとした。
それでもその物は、人間のそばにいたかった。おのれを振るう人間のとなりにいたかった。その感情が愛情というのならば、今は分かる。あの刀神もきっと、そうだったのだろう。
枝ばかりの街路樹が春の風になぶられ、梢がちいさく揺れている。
いずれこの樹にも葉がつき、青く芽吹くのだろうか。
軽く息を吸ってから、そっとその場をあとにした。足を向けたのは天照。自身の帰るべき、たったひとつの場所だった。
桂木は暗い部屋に座っていた。そして、考えている。
あの刀神が桂木を憎んでいるのなら、せめてこの手で終わらせなければならない。あの娘も。もし妖刀に精神を汚染されていたら、取り返しのつかない場所まできている。万が一、精神汚染の耐性があり、刀遣いになることができる才能を持っていたとしても、なれはしないだろう。そんな目をしていた。あの娘は人間を殺している。その妖刀で。桂木は閲覧が許されている範囲の資料をめくり、目を細めた。
豆電球がちかちかと点滅する。
顔をあげ、かび臭く、そして紙の冊子が溶けてしまうような湿気のある部屋を見渡した。
あの刀神の名前は太刀、綾切。2年前の日から、天照から直接名を聞くことはなかった、その名。古い書物から綾切の名前をすくい取るのに2年もかかってしまった。古い資料を鉄でできた本棚に戻す。
「やっと出てきましたね。残業ですよ、俺」
鍵をくるくると指で回している男を見て、桂木は「悪い」と笑った。
「ここ、あんまり入りたくないんですよねぇ。暗いし、かび臭いし……」
そう言いながら、桂木が出てきた扉に鍵をかける。古い鍵だった。
「そりゃ、土壁なんだからかび臭いのは当たり前だろ。床だって泥滲んでたぞ。誰だよこんなとこに倉庫つくったの」
「さあ。刃佩流の誰かかと思うんですけど。あ。それから2年前の処分対象の資料、許可が下りませんでした。バディのいない刀神には閲覧権限はないようです」
「そうか……」
目を伏せる。せめてあの娘の名前が分かったらよかったのだが。そう考えていると、男は目尻を困ったように下げてちいさく手招きをした。
「なんだ」
顔を男に近づけると、掠れた、吐息のような声でこう言った。
「綾祢。あなたが探している人間の娘の名前です。俺が言ったって言わないでくださいよ。まだ処分されたくないんで」
男は言い終わった途端に「それじゃ」と急いだ様子で廊下を走り出した。
残された桂木は呆然とその場に立って、それから――口もとをかすかにほどいた。
「……これだから、人間ってのは」
どれだけ桂木を道具だ人形だと言っても、こういう人間がいることを忘れるほど、愚かではない。
それから数日がたった。
桂木はひとり、でこぼことした敷石道を歩いていた。ポラリス・フォードに会うためだった。
隣り合う施設は腰壁が焦げ茶色に塗られていて、上部は貝殻をすり潰したもので塗りたくったような白だった。
その壁のすみに、その白いひとが立っていた。
「おう、ポラリス殿。呼び出して悪いな」
「いえ、お気遣いなく」
右に流した三つ編みがかすかに揺れる。紫の目の色は、いつも通りだ。
3メートルほどの樹が等間隔に植えられているこの場所は、人目につきにくい。だから、あえてここで面会をとりつけた。
「前、門がたくさん出たとき臨時組んでくれただろ」
「はい」
「そのとき覚えているか? 野良の刀神がいたの。俺よりデカくて白くて髪が長い」
「はい」
「あの刀神の名前調べたんだ。綾切っていうらしい」
「綾切……聞いたことのない名前ですね」
「2年前から行方不明でな。……ちょっと長くなるけど聞いてくれるか」
桂木は語った。2年前のことを。
裏切った男。その男のそばにいた綾切。綾切に殺された若い男。処分された男の娘のことを。隠すことなく。
ポラリスはいつもの表情で、静かに聞いていた。
「俺が始末した男の娘が先日、綾切と一緒にいた女だ。お前も見ただろう」
一度、彼女は頷いた。
「おそらくだが、あの女は人間を殺している」
「……どこかでそれをお聞きに?」
「いや。人間を殺した目をしていた、ってだけだ。実際は分からない。ただの想像だからな。願わくば、ってやつさ」
「こちらにはその情報は入っていませんが……」
「そうだな。そうだといい」
ひとつ、息をする。
ざ、と乾いた冷たい風が髪の毛をさらうように揺らす。玉かんざしの先についた赤い不吉な垂が視界に入った。不吉。血、のような。
彼女の目がなぜその話を私に、と言っているように感じた。
桂木は木の梢を見上げた。薄い灰色の鳥がすっと横切る。鳥は、風にのって飛ぶのだと知った。
「その刀神――綾切を、綾祢を、俺が止めたい。すべての原因は俺がその娘の父親を殺したことだ。あいつらは天照を憎んでいる。俺が終わらせなければ恨みの連鎖は続く」
「……」
白い意匠のポラリスは、じっとその言葉を聞いている。
「何度か臨時で組んで、俺はお前を強いと思った。そしてお前は俺の言葉に耳を傾けて承諾した。迷いなく前を向いて戦った。それは誰にでもできるもんじゃない。命がかかっていればなおさらだ」
彼女から、僅かながらの信頼を感じたのだ。言うとおりに動く道具や人形としてポラリスは桂木を少なくとも見ていないと感じた。尊重してくれたのだから。桂木の言葉を。
「……あいつらを止めるには俺ひとりじゃどうにもならない。俺は俺の命をかけてあいつらを終わらせる」
許されて残された左の手をきつく握る。爪が手のひらに食い込んだ。
「力を、貸しちゃくれねぇか。ポラリス殿。俺に」
いたって彼女の瞳は静かだ。春のさわがしい風とは正反対に。
「俺の手でけじめをつけるために、俺の主になってくれ」
夜の静かな空のような目を、瞼で一度隠す。けれどもすぐにその目は桂木を見据えた。真っ直ぐな目だった。
春一番か、強い風が再度吹き抜ける。濁りのない風だ。
ポラリスは風の音が過ぎ去るのを待つように、一拍考えているようだった。
そうして、一度、頷く。
「わかりました。私で宜しければ」
「恩に着る。ありがとう、ポラリス殿」
頭を下げようとすると、彼女はその手でそっと制した。
「うん、そうだな。……よろしく頼むぜ、相棒」
「ではこれからよろしくお願いします。手続きもありますので、こちらに」
ポラリス・フォードは大丈夫だ。その名の通りだろう。暗い空に位置を変えずにとどまることができる強く白い星。
迷いなく歩く彼女の背中を見て、桂木もまた同じように歩く。
それはとても、久しぶりに感じる感覚だった。
事務手続きは淡々とおこなわれた。刃佩流の名を聞くことはなく、名を書類に綴る。ふと、綾切の字を思い出した。あの刀神も、このように手続きをしたのだろうか。知った仲――と桂木が言った、あの男を殺した自分を、あれほどまでに憎んだ目で見るということは少なくとも強い感情がそこにあったのだろう。
揺さぶられるほどの感情。心。
桂木には分からない。そう考えながら筆を置いた。
「さっきの話は、たぶん上部にも伝わっている。俺も下手な真似はしない」
「はい」
「だから、まあ、なんだ。うまくつかってくれ。異能も、俺のことも」
彼女は承知したようにうなずき、窓の向こうを見つめた。誰もいない廊下からは、消毒液のにおいがした。
ポラリスの視線の先には、重たい雲がある。
一雨きそうだ。
「それじゃ、俺はこれで。任務があったらいつでも言ってくれ」
「ありがとうございます。私もこれで失礼します」
互いに反対方向を向いて歩き出す。
それでも、向き合う対象は同じだと信じたい。これから、信じていきたいと思っている。
続く窓には、雨粒がつき、ゆっくりと流れて行った。
雪魄桂木刀・伍号の流れ着く場所は、どこなのだろう。
「……分かったら、苦労はしねぇか」
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