いを
2024-03-22 17:27:40
3879文字
Public 刀神
 

やわらかなけものみち

雪魄桂木刀・伍号のこと。
・ポラリスさん【EN_Hot_water】
お借りしています。

 いつかその香りを感じ取ったことがある。くちなしの香りを。ただただ甘い、香りを。たしかに雪魄桂木刀・伍号は、知っていた。
「なんのにおいだ?」
 桂木がたずねると、男はスーツの袖に顔を近づけて、自身のにおいを嗅いだ。
「なにかな。ああ、くちなしのにおいかもしれない。庭に咲いているんだ。娘と一緒に植えたものが、もう咲いたようだ」
 目尻にやさしいしわのある男は、そうっと微笑んだ。桂木はそうか、と言ってこの匂いはくちなしという花なのだなと知った。その男が天照を裏切っていたことを知ったのはその数日後だった。
 臨時とはいえ、あのやさしそうな男が、なぜ。だが、刃佩流は坦々とその男の処分を命じた。男に手を下したのは雪魄桂木刀・伍号と、刃佩流の若い男だった。人間を処分する事態になったことが初めてだったのか、雪魄桂木刀・伍号を握る若い男の手は震えていた。
「お前、人間を斬るのははじめてか」
……
「その手じゃ、苦しめるだけだ。貸せ。俺がやる」
「ですが」
 男は虫の息だった。そばにいた刀神も。ひとつ目の、白く髪の長い刀神は憎しみの目で桂木と若い男を見上げている。若い男はやはり震える手で妖刀を桂木に渡した。
「なにか言い残すことはあるか」
……娘を……
 血まみれの手で、スーツの内ポケットから取りだした写真を、仰向けで焦点の合わない目でぼんやりと見上げている。
「ああ……くちなしの娘か。娘にはなにもしないさ。天照には関係がないことだ。大人しくしているうちはな」
 桂木はしゃがみ込み、男の顔を見下ろす。髪の毛がざらりと男の顔にかかった。
「お前のぶんも戦ってやる。お前の罪も、引き受けてやる。俺は神だからな」
 刃を、男の喉元につきつけた。やわらかく力を入れると、妖刀はたやすく男の首を刈り取った。ごろりとおおきな林檎のように床に転がった首は、どこか穏やかな顔をしていた。
「任務完了だ。おい、お前。連絡を入れろ。いつも四角い板みたいなので連絡してるだろ」
「はい……
 若い男は刃佩流の上部に連絡を入れているようだった。うなだれたまま。
 次に桂木は符で封じられている刀神を見下ろした。この刀神の処分は決まっていない。どうすべきか、上部の指示を待つ。
「お前とこの男の関係、俺は知らないが、知った仲なんだろう」
 白く長い髪の毛がこまかく震えている。ひとつの目玉から、透明な体液が漏れている。これが涙というものなのだろうか。
……
 ふっと桂木の目が細まった。あの男に対する情というものが、このカミにもあったのだろうか。
「汚れ役は嫌われ者と決められている。誰も感謝なんかしない。だからお前も恨みたければ恨めばいい。俺はそれを否定しない」
 ざっと灰色の、薄汚れた部屋に清涼な風が吹く。この場に似合わない風が。
「!?」
 目を見開く。封じていた符が、清らかな風によってほどけた。
「おい――!」
 その好機を刀神は逃すことないとでも言うかのように、異能で若い男の頭を砕いた。ばっと赤黒い血が飛び散り、かび臭い部屋に死臭がまき散らされた。
「お前、雪魄桂木刀・伍号。お前だけは、許さない。楽に折れると思うな。苦しんで苦しんで、折れろ」
 砂を噛むような声で刀神は桂木に怨嗟の目を向け、その窓から妖刀ともども姿を消した。
……
 死に絶えた若い男の手もとに、四角い板がある。そこからなにか聞こえている。桂木はそれを拾い上げ、若い男がしていたように耳にあてた。
「この場に人間は誰ひとりいない。拘束したはずの刀神も逃げた。……臨時でお前たちからあてがわれた主も、そいつに殺された」
 ――どのような異能、外見でしたか。お知り合いですか。
「ああ。雷の異能だった。天照に登録されているはずだが……名は知らない。髪は白くて長い。背の高い、ひとつ目の男だった。太刀――妖刀ごと持ち去った」
 ――承知しました。迎えをよこしますのでその場で待機してください。
 ぷつん、と機械的な音が聞こえて、それからその板から言語が発することはなかった。
「まんまとやられたなぁ」
 ゆっくりと目を伏せる。うまくいったことなど何もない。うまくいっても誰かが死んで終わり。それが「成功」だ。
 くちなしの香りはもうどこにもない。
 どこにも、なかった。
 外はあっという間に空は雲を運び、やがて雨を降らせたのだった。

 何度か臨時を組んだ刀遣いなら、太刀筋のくせも知っている。
 ポラリス・フォードは舞うように雪魄桂木刀・伍号――妖刀を持ち、妖魔と相対している。
「後ろは任せな。お前は前を見ていろよ」
 そう伝えたとき、頷いた彼女は少なくとも桂木のその意見を尊重した。そして桂木も彼女の意見を尊重する。それは見えない細い糸のようなものだった。
 相手はトウロウ。剃刀のような腕を的確に振り回してはいるが、ポラリス・フォードのほうが一枚上手だったようだ。
 雪魄桂木刀・伍号は脇差のため刀身は太刀や打刀より短いが、その分小回りがきく――と誰が言ったのだったか。身のこなしが素早い刀遣いならば、敵の懐に入ることは容易だろう。
 白い布が大きくゆらぐのを、視界の端で見た。
 ポラリスは柄に適当に巻かれた黄色いボロ布ごと握って、的確に妖魔の核を突く。黒い霧のような靄が宙に放たれ、やがて消えていく。
 彼女の背後へクイナゴが飛ぶ。桂木はそれをみとめると腕を伸ばしクイナゴに狙いを定め、ポラリスの背後の布に触れる前に限界まで尖らせた氷で串刺しにする。重力に逆らわずにクイナゴは地に落ち、やがて黒い靄になって消えた。
 決して多人数ではないが門は多く開いていたため、鯉朽隊をはじめさまざまな部署の精鋭が少人数ずつ置かれたようだ。
 重傷者を出すことはなく、門は消えた。精鋭揃いだ、このくらいで天照は痛手を負わないのだろう。あたりの道路や建物にも目立った被害はない。一般人の避難も、下緒院の卜占で門が出現する直前に完了していたという。お手本のようなしあがりに、桂木はそっと目を伏せた。
 ――「うまくいった」と、いってもよいのだろうか。
 ポラリスは雪魄桂木刀・伍号を鞘に収め、桂木に向き直った。
「お見事。さすが、段位の名に恥じない戦いっぷり」
 彼女は桂木の視線を受けたまま「いえ」と呟いた。
 白い意匠には血痕ひとつ、ついていない。それがすべてを物語っている。さらりとした風が土ぼこりを舞わせる。
……?」
 ここにはない香り。あるはずのない。
 桂木が後ろを振り返る。
 ねっとりとした、強い香り。香りは記憶を否応なしに呼び覚ます。娘をと言った、この手で処断した男。「娘と一緒に植えたんだよ」。息絶える直前に見ていた写真。焦げ茶色の、真っ直ぐで長い髪の女。白い歯が印象的な。口もとはほころんでいる。初々しい花のように。むせかえるような植物の香り。純白の清い花。降り落ちたばかりの雪のような。
「桂木様」
 ポラリスの声が香りにかき消される。
「なぁポラリス殿。甘ったるい香り、しないか」
「いえ。特には」
「そうか……
 徐々に一般人が戻ってきた。さまざまな声が聞こえてくる。大きな、小さな――寄せて返す、波のような声。
「しー。」
 桂木の耳もとで、吐息のような声が聞こえた。思わず耳に手をあてる。純粋で、けれども黒く澄んだ、濁ったような悪意がこびりついていた。手の、ひらに。
 左手をおろすと、手のひらに小指の先ほどの折り鶴が転がっていた。器用に折られた、白い折り鶴だった。
「式神か」
 ぼそりと呟いた言葉は彼女に届いたのかは分からない。
 顔をあげた直後、感じ取ったのは視線。一般人にまぎれて、亡霊のように佇んでいる女。
――あいつは!」
 桂木の荒げた声に、ポラリスの顎がわずかに上がる。
 写真で見た、あの男の娘だった。
 髪の毛は焦げ茶色、あのときのままだ。服装は黒いものを着ていた。喪に服しているような、そんな服装だった。
 顔だちは数年前とおなじ、写真に映っていたときと変わっていない。頬が若干細くなっている。桂木が感じる、冷たいほどのその目が合っても、女は微動だにしなかった。
 くちびるの動きだけで「許さない」と、囁いていた。
 そして、女の後ろに黒い影が伸びた。白く長い髪、ひとつ目の、紛れもないあの時の刀神だ。
「あれは」
 ポラリスがその刀神に気づいたのか、目をすっと細める。
「野良の刀神だ。天照には過去に登録されていた。……刀遣いを数人殺した、処分対象の同胞だよ」
……
 女は最後まで視線を外すことなく、後ろの刀神と同化するようにやがて姿を消した。
「ハハ……笑ってやがった、あいつ」
 あの白い髪の刀神は、笑っていた。あるいは、嘲笑っていた。あのときの憎しみなどどこにもない。ただ恨みで動くだけの狂った刀神だ。
 ――今は追わない。
「少し、調べたいことがある。門も無事閉じた。お疲れさんだったな。ポラリス殿」
「はい」
 彼女はうなずき、桂木に背を向けた。桂木もポラリスに背を向け、女と刀神の香りを辿る。強い、くちなしの香りだった。今の季節に香るはずのない――
 ギシリと尖った犬歯を軋ませた。
「恨むなら俺を恨めよ。巻き込んでくれるな」
 あのむすめは、お前の復讐劇のための人形ではない。

 消えも入りなん心のうちに
 故もなく雨は涙す。
 何事ぞ! 裏切もなきにあらずや
 この喪その故を知らず。