千代里
2024-03-22 14:16:52
6341文字
Public ナグサの話
 

ナグサの話・その5

嫌な夢を見て早起きしたナグサが、朝の手伝いをする話

ーー重い。
体に凄まじく重たい何かがのしかかって、軋みを上げている。反射的に払いのけようとしても、巨大な漬物石でも載せているのではないかと思うほどの重量で、動かすことすらままならない。どんどん沈み込んでいくそれのせいで、息すらままならないほどに苦しい。
肺を直に押さえ込まれたかのように苦しくて苦しくて仕方がない。
もう一度、手を動かして上にあるものを退けようとすむも、動かそうとした腕の先に手がないことに気がつく。
そうだった。自分の左腕はもう無いのだった。そう思った瞬間、腹の重みが益々増して、内臓が潰されていくような不快感に吐き気すら覚える。
いくらもがいても、巨大な何かに潰されていて動けない。かろうじて残った右腕を動かしてみたところで、それも泥をかき分けているかのように力が入らない。
微かに香る甘い匂いが、場違いなまでにくっきりと際立つ。その匂いと途方もない重みは、妙に記憶に結びついていた。動けずに、ただなす術もなくじっとしている中、僅かに鼻に残る甘い匂いだけを辿っていたような、そんな記憶。
体が動かない。それなのに、臓腑がゆっくりと押しつぶされていくように苦しい。ちょうど、動けない虫をゆっくりと指先で押しつぶしてるような。
もうじき、自分は死ぬのではないか。本気でそう思いかけた時だった。
己の呼吸の音に突き動かされるようにして、彼が目を覚ましたのは。



「ーーっ!」
ハッと目が覚め、次いで己の呼吸に咽せるようにして数度咳が喉をついて出た。
今までの苦しさが全て夢だった証拠に、動かなかった右腕は確かに布団の感触を掴んでいる。
覚醒した瞳が映し出すのは、ぼんやりとした暗がりに包まれた天井だ。天井の板目が見えるということは、今は夜ではない。察するに、明け方だろうか。
先ほどまでの苦しさは夢だったとわかったのに、どういう理由か、腹の重みは依然として居座り続けている。一体なんなんだと思ったナグサは、すぐにその原因に気がついた。
……なんていう寝相してるんだ、お前は」
いつもナグサの布団に勝手に潜り込んで、勝手に熟睡している童女姿の神様ーーカヅチが、あろうことかナグサの腹の上で大の字になって寝ていた。どうりで夢の中でも苦しかったわけである。あの重みは彼女が腹で爆睡していたが故の重みだったのだ。
「寝るなら、せめて隣で寝ろ……!」
せっかく隣に布団を敷いてやったというのに、この童女は人の親切を無視してナグサの布団に侵略してくる。それも毎日のように。
呆れ半分怒り半分のまま、このまま寝返りを打って落としてやろうとも考えた。しかし、漬物石のごとき重さの童女は頑として転がり落ちる気配はなく、それどころか彼女の重さのせいでナグサは寝返りすらできなかった。
渋々片腕を使って身を起こした彼は、微動だにしないカヅチを片手を使って、渾身の力を込めて転がしてやる。そうすることで、ようやく人型の漬物石のような童女は隣の布団へと帰っていった。
……最悪の目覚めだ」
嫌な夢の原因から解放されたところで、夢の残滓が消えてくれるわけではない。粘っこい泥のように、ナグサの心に不愉快なものがこびりついている。
布団の中に戻ったとしても、もしかしたら夢の続きを見るのではないか。そう思うと、余計に気が滅入っていく。
結局、ナグサは寝直すことを諦めて、そのまま布団から出た。寝起きでぼさぼさになった赤毛を整えるのも面倒で、目覚まし代わりに道場で素振りでもしているか、庭でもぶらついていようかと思案する。
白い夜着を体に纏っただけの状態で、彼はふらふらと部屋の外に向かった。
日の出直後の屋敷は、全体的にシンと静まり返り、屋敷そのものが息を潜めているようだった。
元々、屋敷の広さに対して人はさほどいない。もしかしたら隠れ住んでいる住人がいるのかもしれないが、たとえそんな人物がいたとしても新参者のナグサでは気づかなくても不思議ではないだろう。
部屋の周りをぐるりと巡るように歩いてから、道場へと足を向ける。その瞬間。ナグサの鼻先を、煮炊きの独特の匂いが掠めていった。竈門に火を入れた煤けた匂い。つられるように近づけば、野菜を切る独特の音も響く。
土間兼炊事場に続く引き戸を開くと、予想通り、そこには朝餉の支度をしている老女の姿があった。
「おや。あんた、もう起きてきたのかい」
「ばあさん。あんた、もう起きてたのか」
二人揃って同じようなことを同時に言ってしまう。先んじてふっと口元を緩めたのは、ばあさんこと屋敷の管理者であるヒヅルだった。
今日の彼女はくすんだ渋草色の着物を纏い、前掛けの布を腰に巻いている。外出するときのように仰々しい帯は巻いておらず、今は見慣れた炊事用の装いをしていた。
「見ての通り、食わせなきゃいけない連中がいるもんでね。今日は自分で手を動かすかと思って、あれこれやってるところさ」
「普段は違うのか」
「もう少し後になれば、社から手伝いの式が来るんだけどね。待ってたら日が昇っちまうよ」
どうやら、この広い屋敷の管理はヒヅル一人でやっているというわけではなかったらしい。だが、どちらにせよ今は彼女一人で朝餉の準備をしているようだ。
食わせなきゃいけない連中の一人であるナグサとしては、ここで棒立ちで彼女の作業を見ているのも、どうにも落ち着かない。もとより、嘗ては手伝いをする側だった身だ。何もしないでいい状態が許されていたとしても、彼自身の性分が何もしないでいることを受付けてくれなかった。
「何かやれること、あるか」
端的な手伝いの申し出に、ヒヅルは野菜を切る手を止めた。そうしていると、彼女はただの気の良い老婆にしか見えない。
「やれることねえ。それなら、井戸から水を汲んできてもらえるかい。何度も往復するのは億劫でね」
「わかった。井戸だな」
炊事場のそばに置かれている手桶を片手に取り、ナグサは冷えた土間を縦断して外へと続く戸を開こうとした。しかし、ヒヅルはそんなナグサの様子を見て、珍しく驚きを顔に表して、彼の肩を掴む。
「なんだ」
「何だも何もないさ。あんた、夜着のまま外に出るつもりかい?」
「カヅチが寝ているし、あんたは飯の準備がある。俺は一人じゃ着替えられない。裸で出るわけにもいかないだろ」
「ああ、そうか……。今のは失言だったね。アタシが悪かったよ」
急に謝られてしまったものの、ナグサには彼女が何を謝罪しているのか今ひとつわからなかった。
その言葉に何と返すべきなのかも、自分の中で答えが出てこない。謝罪をしてきたのが客人なら、すぐさま笑顔で「気にしないでください」と言うのが正解だが、果たして彼女は客人として扱うべきなのか否か。
「着替えの手伝えが必要なら、うちの寝坊助の旦那を起こしてくるよ。ちょっと待っていてくれるかい」
「別にわざわざ起こさなくても」
待っていて、と言いながらも、ヒヅルはすでに鍋と木でできたお玉を片手に土間から部屋へと向かっていってしまった。
残されたナグサは、手持ち無沙汰となり、結局埋め火のように小さな火の粉を飛ばしている竈門を、じっと見守っていることにした。
程なくして少し離れた場所から響く割れ鐘を叩くような音に、彼女の旦那は存外寝起きが悪いのだな、と思ったのだった。

***

「先に弁明をしておきますが」
棒立ちになって着物を羽織った状態のナグサに腰紐を巻き付けながら、頼んでもいない弁明をハヤメは口にする。
「私は寝起きが悪いのではなく、眠りが深いんです」
「同じじゃないのか」
「違いますよ。目覚めが悪いというと、半分起きてるのに布団にしがみついているようで、いかにもだらしないではありませんか」
そんなものだろうか、とナグサは適当な相槌を打つ。
ヒヅルの作った即席の銅鑼もとい鍋をガンガンと叩いて生じた騒音により目を覚ましたハヤメは、ナグサの着替えを手伝ってほしいという依頼を快く引き受けてくれた。そして、手持ち無沙汰になっていたナグサを自室に招き、今こうして着物を着せてくれているのであった。
「今日は随分と早く起きたんですね。何かあったんですか?」
……重くて起きた」
あまりに端的すぎる説明だったので、何を言いたいかは伝わりきらなかったのだろう。ハヤメは首を傾げ、ナグサに続きを促した。
「カヅチが、腹の上に乗っていた。そのせいで重くて、嫌な夢を……見た、から」
ほんの数十分前の自分の行動だというのに、それを筋道をつけつつ理屈も添えて説明するのは難しい。自分でも不思議だと思うが、己のことを説明しようとするたびにナグサの言葉は辿々しくなってしまう。
「寝直す気になれなかったから、起きていようと思った。それで、歩いてたらばあさんが飯作ってるのを見つけた」
そこで話を区切る。折よく、ハヤメの用意した腰紐がぎゅっと結ばれたところだった。衣擦れの小気味良い音が、ナグサの耳を打つ。
「悪夢を見たから早起きした、ということですか」
「悪夢……なのかはわからない」
嫌だとは思った。だが、それが俗に言う『悪夢』なのかは分からない。
同じ夢を二度見たいとは思わないが、かと言って見なければならないというのなら受け入れることはできる。その程度の嫌悪だ。そして、それくらいの嫌悪をナグサは徹底的に拒まなければならないとは思わない。
「嫌だと感じたのなら、十分に悪夢でしょう。あいにく、私は悪夢を食べられるような力はありませんので、完全に忘れさせることはできませんが」
今度は帯を当てられ、再び腰に巻きつけられていく。そこまで丁寧に着せなくてもとも思ったものの、口を挟もうとする前に、
「話すだけでも、気が休まるということもあるようですよ」
「それは、気休めじゃないのか」
「気休めでも、休みはするでしょう?」
どうにも言葉遊びで誤魔化された感はあるが、ナグサは口元をもごもごさせた上で、彼の意見も一理あると飲み込んだ。
……重くて動けないのは、嫌だった」
とはいえ、話してご覧と促されたところで、具体性のあるものではない。もとより、カヅチがのしかかってきたせいで見たような夢だ。重くて動けない。ただそれだけの内容なのに、ハヤメは続きを促すかの如く黙っている。
「息が苦しくて……動けない。そういうのは、好きじゃない」
布団の中にじっと縮こまっているのとも違う。何かに押さえつけられて、思うように動けない。その状態そのものに対して、漠然とした忌避感がある。ただ、それらの感覚を言葉にするのは難しくて、結局口にできたのはそこまでだった。
「ナグサくん。深呼吸しましょうか」
「ん?」
「いいから。朝の空気が気持ちいいですよ」
帯の締め具合を確認するためだろうか。首を傾げつつ、ナグサは大きく息を吸い込む。
すぅ、と喉を通って体の隅々に冷たい空気が流れ込んでくる。ぼんやりと残っていた眠気も、あっという間に消えていくかのようだった。
「息苦しいの、今はありますか」
「いや、ないけど」
「なら、よかった。帯は苦しくないですか?」
そう問われて、ナグサはすぐに「平気だ」と返した。誰かに着せるのに慣れているのか、まるで布に吸い付いているかのように帯はぴったりと腰に結ばれている。
「では、水汲みに行くんでしたっけ。ついていきますよ」
「あんたはいいのか」
「何がですか?」
「起こされたみたいだから」
あまりに短い質問だったので、すぐに意図まで掴めなかったらしい。
わざわざ起こされたのなら、着替えが終わったなら休んでもいいはずだから、寝直さなくてもいいのかと問いたいのだと理解するのに、ハヤメであっても数秒を要した。
「構いませんよ。ヒヅルの手伝いなら、喜んで手を貸します」
「じゃあ、あんたの分も桶貰ってくる」
そう手早く言うと、ナグサはすたすたと厨に向かって歩き出す。彼の後を追うように、失った片腕を包んだ袖がひらりと揺れた。



庭にある井戸は、どこから汲み上げているのか、いつでも新鮮な水が湧き上がっている。手桶を滑車に吊るして井戸へと下ろせば、桶が水に沈む感覚が縄越しに返ってくる。そのまま、再びがらがらと滑車を回せば、手桶には清水がたっぷりと入っていた。
「ついでだから、顔も洗いますか」
「別に洗うほど汚れていない」
「少しずつ汚れはたまるものですよ。水はたくさんあるのですから、じゃんじゃん使いましょう」
野宿ばかりの生活の頃では、水場が無かったから顔を洗おうなどと思い立たなかった。水場があったら、それはそのまま行水の時間となる。結局、洗顔だけをするという行為を意識したのは、実に一年ぶりだったかもしれない。
ハヤメに促されるままに、片腕で水をすくい、水を顔にぶつけるようにかぶせる。びしゃびしゃと水が跳ねて着物が少し濡れてしまったが、こればかりは仕方ない。
程よく顔が冷えた頃に、ハヤメが横から手拭いを差し出してくれた。しとどに濡れた顔面を手拭いでこすれば、水滴の残滓だけが肌に残り、随分とさっぱりとした。
「悪いものではないでしょう?」
ハヤメに無言で頷き返し、洗顔に使った桶の水は庭に一度流してから、再び汲み直す。そうして三つ分の桶に水を入れて、厨に繋がる戸を開くと、ちょうど米が炊ける香ばしい匂いが鼻先をかすめた。
「婆さん、水汲んできた」
「お疲れさん、助かるよ。そっちの辺りに並べておいてくれるかい。それだけあれば、掃除にも使えそうだ」
ヒヅルが指さした辺りに桶を並べ、やることはやったとまずは一息。あとは道場で体を動かしておくか、それともまだ仕事があるだろうか。そう思って振り返ったナグサは、
……?」
不意に、ヒヅルに自分の手をとられる。その手の上にぽんと載せられたのは、恐らくは炊き立てだろうと思われる麦飯の握り飯が一つ。
……これは?」
「早起きして手伝いした駄賃だよ。お腹、空いただろう?」
そう言われてみれば、空腹だったかもしれない。とはいえ、飢えて仕方がないというものでもなし。自分一人早く貰うほどでもないと言う前に「いいから」とダメ押しまでされてしまった。
「食っていいのか」
「食わずにどうするんだい。飾っておくとでも言うつもりかい?」
「いや、そういうわけじゃ」
どうやら、食べるまで彼女は納得しなさそうだなと思い直し、載せられた麦飯にかぶりつく。炊き立ての飯独特の水気と、微かな麦飯の甘みが広がり、十分に咀嚼する前に口の中で溶けていくようだった。中途半端に齧った握り飯はくずれやすい。一口が二口に増え、それが丸ごと食べるまでに変化するのに数分も必要なかった。
麦飯を食べ尽くしたころ、格子窓の向こうから雀の鳴く声が聞こえてきた。どうやら、ようやく日が昇ったようだ。そうなると、まず間違いなくあの姦しい童女は目を覚ますだろう。
「俺、カヅチの様子見てくる」
「そうかい。朝食は後四半刻ほどにはできるよ。身支度するなら手早くね」
「分かった」
簡素な返事もいつも通り。ただ、いつもと違うのは空きっ腹だった腹が少し満ちていることと、顔が妙にさっぱりしていることだけ。
まだ、これらの感覚に馴染みはない。ただ、嫌な夢を見たときの粘つくような不快感はもうない。
「あいつ、変なところに転がってないだろうな」
そんな軽口を叩けるぐらいには、心に軽さが戻っている。その理由は分からずとも、一歩前へと踏み締める感覚は悪くない。そう思いながら、彼は自室の襖を開き、部屋の隅で丸まっている童女を目にして、ほんの少しだけ口角を緩めた。