朝起きて、身支度を整えてから部屋の外に出て。そうしてひとつ深く息を吸う。いつもならば外から流れ込み温まった朝の空気、食堂から香る朝食の匂いに気分が上がるものだが、今日は少し違った匂いが鼻腔をくすぐった。
「甘い……」
ぽそりとつぶやいたところで昨日団長が話していたことを思い出す。この艇に乗り、団長達と行動を共にするようになってもう数年経つが、毎年その話を聞いては次の年の同じ頃にはもう忘れてしまっている。空の民のように恋慕の情が性欲や繁殖に繋がることがない故に、特に興味が沸かないからだろうか。必死だったり、一生懸命だったりと色々な顔を見せてくれる空の民を楽しく眺めているも、能動的に動くようなことはない。
そうか、今日がその日であるのなら。ルシオはひとつ頷くとつい今し方出てきた自室へと踵を返そうとした。何せこの顔だ。艇の中ならば安心だが、仮に団長に頼まれて出かけようものなら、いつも以上の混乱を招くだろう。空の民にとって特別な日を悪戯にかき乱すことはない。今日は部屋から一歩も出ずに過ごそう。ルシオはそう思ったのだ。
しかし部屋に入る寸前のところで、片手を強い力で掴まれ、引かれる。動きを止め、ぱちぱちと瞬きをした後に視線だけで振り返ったルシオは、そこにいたエプロン姿の想い人に双眸を蕩けさせた。
「サンちゃん、おはようございます」
「あ、あ……おはよう。キミ、今日は何か予定はあるか?」
「今日は当番もありませんし、予定も特には入っていませんが……部屋に、引きこもっていようかと」
「……何だと?」
予想外だ、とサンダルフォンの顔が言う。部屋に引きこもるなどと言わなければきっと、厨房や喫茶室に誘われていたのだろう。騎空団の面々とならば特に問題はないが、菓子類を一度作り終わればきっと高確率で出かけようと声をかけられる。ルシオが首を横に振った時に団員達がどんな顔をするか想像に難くない。最初こそ何とも思わなかったが近頃のルシオは彼らのそういう顔を見ると何故か胸が痛むのだ。
引きこもると言ってなお、サンダルフォンはルシオの手を離さずに何やらぶつぶつと言っている。きっと自分が声をかければついてきてくれるのだろうとたかを括っていのだろう。普段からサンダルフォンが嫌だと言ってもついてくるルシオが、誘いを断るなどと露程も思っていない。それはきっと、今までルシオが安っぽいと言われてまで愛を伝え続けたその結果で、そう思うとサンダルフォンもまた自分の思いを受け止めてくれるようになったのだと胸が温かくなった。
「そうだ。こうしよう」
ようやく次の手が決まったのか、サンダルフォンが落ち着きなく周囲を見回す。朝の早い時間だけあってか、日中団員が行き交う廊下にはひとっこひとりいない。それを確認して、ひとつ頷いたサンダルフォンは、おもむろに背伸びをすると、不思議そうに自分を見るルシオの唇に、重ねるだけのキスをした。薄皮を軽く擦り合わせてから、掴んでいた手首を放すと、一歩二歩、後退していく。
「続きがしたければ、消灯時間後に喫茶室へ来い」
「サンちゃ、」
「キミに、ホットチョコレートでも用意して待っている」
「夜じゃなくて今からでも、」
「こんな日に外を出歩きたくはないんだろう?」
消灯時間の後の喫茶室は、基本的に誰も来ない。そこで事に及ばせることはないだろうが、つまりはそういうことで。今すぐにでも、すぐそこの自分の部屋に入って続きを。そんな願望を抱きながらサンダルフォンの背中へを追うようによろめくと、慌てたように躱される。そんな殺生な、と心中で涙目になっていたルシオだったが不意に顔を上げた先、サンダルフォンの耳の先が真っ赤になっていることに気がついて口元を緩めた。本音を言うなら正面に回り込んで可愛らしく真っ赤になったその顔を覗き込みたいものだが、それをすると臍を曲げられてしまうだろう。今年は忘れられないバレンタインデーになりそうだ。そわそわと落ち着かない胸を宥めるように深く息を吐くと、ルシオは自分の部屋のドアノブに手をかけた。
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