清春
2024-03-21 22:29:23
10714文字
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可惜夜

途中で力つきてる

可惜夜(エスピオン過去編)
可惜夜

 僕は冬が嫌いだ。
 裸足で歩くにはあまりにも辛い。靴がないから裸足で歩くと足は凍傷になった。汚くて臭い服を何枚も重ねないと凍え死ぬ。あたたかい灯りがいつも以上に妬ましく感じる。
 僕は夜が嫌いだ。
 何も見えない。何が来るかわからない。朝を待つためにじっと身を隠すしかなくて、夜はただただ苦痛だ。一度灯りを求めてさまよった時、血走った目をした汚い男が襲ってきたことがあった。……あれ以来夜に出歩くことをやめた。
 僕は、僕が嫌いだ。
 卑しくて、汚くて、学がなくて、何も出来ない無力な子どもである自分が、冬よりも、夜よりも、嫌いだ。
 僕は本が好きだ。
 道端に捨てられていた汚い小説を見つけて興味本位で住処に持って帰ったことがある。開けば当然のように文字ばかり。文字なんて読めないくせに、必死に文字の形を追っていた。ストリートの店の看板、捨てられていた新聞紙、視覚で手に入る文字の情報を全てスカスカの脳みそに叩き込んで、必死に照らし合わせた。一ページ目が読めた時の達成感は凄まじかった。学のない僕でも読めるんだと、あの時知ったんだ。

「お前、随分と必死な目をしているな」
 無遠慮な男のしゃがれたこえがわりこんでくる。
 冬の終わりが近づいて、雪解けがこのストリート街にもやってきた頃。夕焼けがこの掃き溜めを赤く塗りつぶす。僕はというと、ベンチで膝を抱えて座りながら街ゆく人達の話し声に耳をすませていた。だが、しゃがれた声に不快感。たまにいるのだ、こんな薄気味悪くて見知らぬ子どもにも突然話しかける、気味の悪いおじさんが。
「おじさん、うるさい」
「おお、綺麗に喋るんだな。ここらへんは汚い言葉遣いに汚い発音の奴らが多くて聞いてられんのに」
 だが、僕の予想は外れた。口ぶりから察するに、どうやら掃き溜めの人ではない。それに発音が、僕が聞いてきた人の中でいちばん綺麗だ。本の中にある言葉や、ラジオから聞こえてくる話し言葉みたいな、滑らかなもの。思わず聞き入ってしまったが、慌てて取り繕う。おじさんの方は一切見ないよう気をつけながら。
……うるさいってば」
 僕はただ、書いてある文字の通りに話そうとしているだけだ。そう思っても口にはしない。この街では全てを語ることをよしとしないのだ。こっちばかり真実を口にするのは損をするだけ。かと言って偽りは結局自分に悪運を呼ぶきっかけになる。だったら、喋りすぎない。これに尽きる。
「なあ、お前の目の色ここらへんでは珍しいよな」
 それなのに、この男は話しかけることをやめない。正直鬱陶しい。
 目の色なんて知らない。鏡なんて見ないし。ただ、昔、お母さんが『〝​────〟はアタシと同じ色の目。綺麗な綺麗なお星様の目』と言っていた気がする。つまり、あの憎らしい白みたいな、黄色みたいな、そんな目なんだろう。
「おーい、聞いてんのか。クソガキ」
「クソガキじゃない」
「じゃあ名前はなんだ。クソガキって呼んで欲しくなきゃ名乗れ」
……
 自分の名前なんて最後に呼ばれたのがいつだったか朧気で、忘れた。なんて名前だったっけ。そう逡巡していると、おじさんは溜め息を吐いた。
「髪はフケだらけの伸びっぱなしでボサボサ、薄汚れていてきったねえ。鶏ガラみたいに痩せていて気味が悪い。思ったことは口に出さず大人を舐めた態度。ほら、クソガキ以外の何もんでもない」
……名前は忘れた」
 これで文句ないでしょ、と付け足して膝を抱え直す。
 汚い? 気味が悪い? 育ちが悪い? そんなの知っている。そもそもこんなところ、まともでいれるわけがないし、綺麗な格好なんかした日には真っ先に襲われる。金目のものを奪われるか、犯されるか、殺される。それに小綺麗な人間は高く売れるらしい。……どこを売っているのかよく知らないけど、そんなことを話しているのを聞いたことがある。だから、汚いのは身を守るために必要なことなのだ。
 ストリート街の汚い人間たちから、比較的マシに汚い格好をしていたおじさんにほんの少しだけ視線を移す。ベンチに寄りかかりながら僕を観察するように、じっと見ていたことに気づいて居心地が悪くなった。
 ……この人、普段はここら辺にいないんだろうな、と考える。小汚いけれど、襲われないように最低限の身なりをしているだけだ。生まれてからずっとこのストリート街にいたらなんとなくわかる。目が澱んでいて、単純に視力の悪い人間が多いから、そういう人間は簡単に騙されるだろうけど。
 そんなおじさんは僕を見ている。こういう目、物語の中にあった「訝しがる」なのだろう。役に立った。
「名無しか」
……あった気がするけど、呼ばれたのが昔過ぎて忘れた。もう呼んでくれる人もいないし、困らない」
「そうか、悪いな」
 僕は驚く。まさか謝られると思わなかった。というか、謝る行為を自分にされるのは初めてだった。むず痒い気持ちになって、僕は口をもごもごさせてしまう。
「お前、腹減ってるか」
……は?」
「腹、減ってるか」
……単語は、わかる。お腹は空いているけど……
 しかし、語りすぎた。そろそろ黙らないといけない。後悔という感情が浮かぶ時はだいたい手遅れだ。
 おじさんが右の手のひらを上にして、差し出してきた。咄嗟のことに「なに」と返してしまう。いつの間にかおじさんのペースに巻き込まれていると、僕は気づけなかった。
「おじさんはその年で人生諦めましたって面したクソガキが大嫌いだが、同時にほっとけないんでな」
 不敵に笑うと、拳を握ってぱっと開く。さっきまではなかったコインがあって、目を瞬いてしまった。
「えっ」
「すげえだろ。これでなんか買ってやるからついてこい。比較的マシな店主の露天あって、そこのロールドックとか食えるか」
……食べたことないから知らないけど、口にできるものならなんでも食べる」
 正直、空腹感を誤魔化すために街ゆく人達の話し声に耳をすませ、理解できる言語を増やしていたところはある。最早内蔵と骨しか入ってないであろう薄い腹がきゅると鳴る。
「生きるのに必死でいいことだ。最初からそうしてろ」
 おじさんはそう言うと、僕を露天が立ち並ぶ路まで連れていった。僕は金なしだからゴミ捨て場から食べられそうなものを漁っているためあまり立ち寄ったことは無い。ここらへんでは営業店があるせいかユーエリカの軍警察の〝目〟が届いている。よほど腕に自信のあるクズ、あるいは情けをかけてもらおうとする子どもや老人しかいない。堂々と盗みを働く度胸のない僕のような人間は、そもそも近寄らないのだ。ここよりもさらに奥の掃き溜めに留まる。
 いつの間にか日が傾いてきた時間帯になっており、仕事終わりの大人で溢れていた。おこぼれを狙う汚い子どもも路地裏にいるのが見える。
 おじさんはスリに遭うことも、物乞いに引っかかることも無く、露天で目当ての物を二つ買って一つを僕に与えた。
「ほら、食え」
 ゴミ捨て場にあるようなものよりかは綺麗な黒パンに、黒ずみがちらほらある葉っぱと、ほんのちょっとの肉が挟まれ、茶色っぽい液体がかかっている。葉っぱをどければ赤い何かも見えた。初めて見るものだが、葉っぱを食べてお腹を壊したことが何回もある僕は少しだけ嫌悪感を浮かべてしまう。
「たっく、ユーエリカは栄えた国のはずじゃねーのかね……
 そうぼやきながらおじさんは僕と同じものにかぶりつく。「ん、妥協点」と呟いて、口の端についた、茶色い液体を指で拭った。
 僕は真似をしてかぶりつく。葉っぱはお腹を壊すだけだからまだ我慢出来るし、という思いからだった。……そうだった、のだが。気づけばロールドックなるものは、あっという間に僕の口に吸い込まれた。口の周りがベタベタしている。
「そんなに美味かったのか? ……普段どんなもん食ってんだよ」
 おじさんが呆れ半分、同情半分に僕の顔を服の袖で雑に拭いていく。多少綺麗になった。
 ​───ふと、目の端でスリをしている人間が映る。あいつは腕がいいからここら一帯でも軍警察の〝目〟を掻い潜れる数少ない人間だ。僕はそっとおじさんの服の裾を引っ張る。
「早く、ここから離れよう」
 しかし、今日は運が悪い。さっきここに来るまでに扮装していた軍警察がいた。あいつは腕がよくても自分がやったということをひけらかしていたから、情報を売られてしまったのだろう。軍警察に捕まり、鞭打ちで済むだろうか。さっき狙っていた人物はそこそこ金を持っている人だったように見える。こんな掃き溜めを通る方が悪いのだが、盗みの方が圧倒的に悪い。あのスリ野郎はきっと、軍警察の憂さ晴らしで死んでしまう。
 だからこそ、僕はさっさとこの場を離れるに越したことはないと考えた。変ないちゃもんをつけられても地位も金も家も名前もない僕には命を差し出すことしかできない。そんなの、ごめんだ。僕はまだ本を読みたい、せめてあの小説を読み切りたい。……死んでたまるか。
 スリ野郎が扮装軍警察にとっ捕まっているのを横目に、おじさんの腕を掴んで元の掃き溜めに戻った。
……お前、気づいていたのか」
「軍警察のことなら、当たり前。あそこら辺には〝目〟がある。あんなところで悪さしてる馬鹿な奴の巻き添え、くらいたくない」
 ユーエリカ軍警察なんて、掃き溜め付近には近寄らない。僕らに人権はないのだ。いてもいないものとして扱われる。そんな僕らに構いにくるのなんて、職務を盾にした、ただの憂さ晴らしだ。
「ふうん、なぜ気づいた?」
「おじさんもそうだけど、無理に小汚くしてるっていう意識が見える。もっと上手くやらないと、目敏い人にはすぐバレちゃうよ」
……俺も下手か? 上手く紛れ込めていると思ってたんだけどよ」
「下手ではない。少なくとも軍警察よりはずっと自然。だけど、不自然」
……はは、お前、ずっとベンチで座って何してんだと思ったら、そういうことか」
「違うよ。あれは言葉を聞いていただけ……いや、なんでも、ない」
 また喋りすぎた。僕が口元を手で覆うも、おじさんはまだ喋る。どうも、この人は調子が狂う。ついつい喋りすぎてしまうのはなぜなのだろう。
「なあ、名無しのクソガキくん。俺の隠れ家まで付き合え。飯奢っただろ」
……僕、ご飯を恵んで欲しいと頼んだ記憶はない。だから従う理由は……
「うるせ。いいからこい」
 意地でも動かない、と足に全体重を乗せるも不健康にガリガリな汚い僕には到底無理で、腕を引っ張られればズルズルと引きずられた。諦めて歩き出すとおじさんは「素直でよろしい」とほくそ笑む。

 今日は月が大きくて明るい。夜だというのに顔がはっきり見えて気味が悪い。おじさんについていった先はボロ臭い掘っ建て小屋。中に入るおじさんに手招きされて入る。中は椅子とテーブルだけ置いてあってベッドは見当たらない。ここで寝泊まりしているわけではないのは一目瞭然だが、テーブルの上に、見たことも無い、小綺麗で角張った塊があった。僕は思わず後ずさる。
……なに、これ」
「本部への連絡機器。触るなよ」
「ほんぶ……?」
 聞いたことの無い単語だった。眉をひそめて聞き返せば、おじさんは溜め息を吐いてどっかり椅子に座り込む。
「まあ、それはいい。お前をこんなところまで呼んだのは勧誘だ。俺たちのところに来い」
 僕は首を傾げる。何を言っているのか意味がわからなかった。
 おじさんは手招きする。僕は角張った塊に怯えながらも、近づくと伸びきった髪の毛をガッと、あげられて顔も、額も顕になる。今まで顔に垂れかかっていたものがなくなって何もかもが明瞭になった。
 おじさんは野性的な目をしている。血走った野犬みたいなものではない、獲物を見据える強者の目。
「まず耳と目がいい。カンも冴えてる。それにお前は学がないだけで頭がいいぜ。こんなクソしかない掃き溜めにいるにはもったいない。活かせる場を俺が整えてやる」
 悪魔の囁き、と。本で読んだ言葉がよぎる。
 ​────悪魔は昔存在していた亜人で聖職者たちが総力を上げて退治した存在……だが、この時の僕はそんな詳細を知らず、ただ特に意味もわかっていない「悪魔の囁き」と思い浮かんだのだ。それがあながち間違いでもなかったことを知るのは、また別の話だ────。



 僕が生きたストリート街は汚いんだと、外に出て改めて知った。
 まず空気が違う。あのストリート街はあちこちに排泄物を放置しているし、それを掃除することもないから鼻が曲がるほど臭い。ずっとあそこに暮らしていたら慣れてしまうが、外から来た人はみんな口を揃えて「ドブ」「臭い」と言っていた。前者はよくわからないが、どう見ても悪口だろう。臭いだとか何よりも、人生を諦めた人間しかいないからどっしりと重く沈んだ、最早瘴気と言える澱みが酷い。あんなところ、住んでいたら余計にダメになる。
 少し離れただけで異質さが際立つストリート街を横目に、開けた道へと両目を凝らす。それなりに整備されているから歩きやすい、なんなら掃き溜めの方が崩れた道が多くて歩いたら足の裏が血だらけになることなんてざらにある。
 と、掃き溜めの文句を連ねて掃き溜め含めたストリート街全域よりよっぽど歩きやすいと言ったが、今回ばかりはそれだけではない。なんせおじさんは僕のために子ども用の靴を用意してくれた。歩いてて足の裏が痛くならないとはなんて素晴らしいのだろう、と感動したものだ。
 ……おじさんに誘われるがまま出てしまったことに後悔はなく、未練もない。ただ、不安はある。自分のほとんど骨と皮だけになっている足元に視線を落として、思考を回す。
『俺たちのところにこい』
 そうおじさんは言った。複数形になっているということは、仲間がいるのだろうか。よくわからないが、警戒は怠らず。信用しすぎず。あと靴への感謝は忘れず、だ。
 気色悪い自分の足から、あの場からすくいあげてくれたおじさんに視線を移す。背が高く、空と近いなと考えながら口を開いた。
「どこまで歩くの」
「仲間の車があるんだがちっと遠い。だから俺が最近まで使ってたベースキャンプに行って、お前汚ねえから洗浄の魔具で洗う」
……?」
「ああ、やっぱ知らねえか? 車は馬車みたいなもんだ。馬車より快適だぜ。ベースキャンプは俺の仮拠点。拠点はわかるか?」
 おじさんが僕の知らない単語を口にする度に首を傾げていれば、丁寧に拾っていく。しかし説明は雑だ。なんとか理解には到れるが、おじさんはそのことをわかった上で雑なのだろう。
 くるま。べーすきゃんぷ。せんじょう。まぐ。また知らない単語。どのような文字になるのか、接続語が何か、それらはかろうじてわかるくらいで、何を言っているのかわからなかった。馬車、なら聞いたことがある。馬が引いて移動するためのものらしいけども、形状はよくわからない。なんせあんなところ、馬車なんて通らないのだから。
 歩きながら言葉を教わっていると木が生い茂る所に入った。夜にこんなところに入る人などいるわけなく、肌寒くて、不気味な雰囲気を保っている。
 少ししたらおじさんの言っていた通り、人が住んでいた形跡のあるところに着いた。なぜかここら辺は火もないのに暖かくて、火もないのにパッとランプに灯りをつけていたり、おじさんが着ていた服を脱ぎ捨てたらどこからともなく出てきたパリッとした綺麗な服に着替える。よく見たら、薄汚れていたはずの顔や髪の毛などが、なぜか汚れの落ちた綺麗なものとなっている。身なりを正すと多少若く見えた。
 ぽかんとしているとおじさんっぽいお兄さんへと変貌した彼は、腕をまくりながら近づいてきた。思わず後ずさる。
「そのきったねえ服を無理矢理脱がされたくなけりゃ自分で脱げ。俺は桶を用意しなきゃいけねえんだ」
「自分で脱ぐ」
 身の危険を感じた。皮膚まで引き裂かれそうな恐怖がそこにあった。僕はボロボロの布切れと成り果てた服を脱ぐ。これしかないからおじさんのように脱ぎ捨てることはできない、丁重に取り扱っていると
「そんなのもう着る必要ねえ。俺の服着せるから捨てとけ」
 そう言うものだから、僕はぽいっと投げる。
 全部脱ぎ捨て終えると、痩せこけて汚れた全裸の子どもの出来上がり。冬の終わりなだけで、夜ならばまだ寒いはずなのに寒さを感じない。なぜこの場はこんなに暖かいのか、訳が分からないがこれが外の世界なのかもしれないと思考を放棄することで片付く。気がづけば僕がすっぽりおさまる大きさの桶の中にはたっぷり透明なお湯をはられていて、おじさんは両手に何かを持って僕を手招きした。そして桶の中に入れられて、膝を抱える体勢で座らされる。浸かっているお尻と足だけが暖かい。
「まず洗い流す。で、そのあとは浄化。あんな瘴気の場に少し居た俺ですら参ったっつーのに、お前はけろっとしすぎだ。普通の子どもならすぐ死んでるだろ」
 どこへの怒りなのか。おじさんは文句を言いながら、僕の入っている桶よりぐっと小さい桶で、お湯をかけていく。頭、肩、と順々にお湯が落ちていく様子がなんだか面白い。こんな大量のお湯を使うのは初めてだ。そもそもお湯が久しぶりで、確か冷やかしで掃き溜めを巡回していた軍警察に真っ黒の熱いお湯をかけられた以来だから……いや、もうあそこの記憶を呼び起こす必要は、無い。
 うへー、きったねえなおい、とおじさんが呟きながらもどんどんお湯をかける。僕にかけられたお湯はどんどん黒ずみ、汚くなっていった。ガラスみたいに綺麗だったのに、と思っていたらすぐに元の透明なお湯になる。不思議だ。外の世界にはこんなに不思議なことが起きる。
「お前、汚すぎてわかりにくかったが……この髪……
 おじさんが何かを言いかけて、口ごもらせる。なに、と聞き返せば返答は来ず、思案の間だけが広まった。
 髪色がわかるほど綺麗になっている、ということでいいのだろうか。雨に打たれた日は自分の毛先だけ青空色、他は月色をした毛だというのがわかる。すぐ汚れるから忘れがちの色だ。
「なあ名無し」
 世間話のつもりなのだろう。伸びきった汚い髪の毛を丁寧に洗いながら僕に話しかけてくる。何を聞かれるのだろう、とぼんやり思いながら、遠くまで見える夜空の方を向いていた。
「お前、人を殺したことはあるか」
 きらりと。しろい星が頭上で流れた。僕の世界の時は止まったかのように感じたのに、夜空は相変わらず朝に向かおうとしている。
 一瞬止まった呼吸活動を開始するべく、息をするように言葉を吐いた。
「なんでそんなことを聞くの」
「いや、なんとなくな」
……
 なんとなく、で聞くことなのだろうか。このおじさんは何がしたいのか。
 ……殺し。殺す。人間は生きるために生き物を殺す。牛も豚も鶏も害虫も害獣も。
 なぜこんなに落ち着かないのか。身に覚えがある、としか言えない。
 だが。屠殺や駆除が罪ではないなら、僕がしたことは、罪に問われないはずだと言い聞かせている。

 ​────あの日も、夜だというのに顔がはっきり見える夜だった。
 月があまりにも大きくて明るかったから、少し路地裏に出た。夜は怖いから、灯りが恋しかった。その時通った道に、血走った目をした男がいた。何も気にせず通り過ぎようとした僕の目を見て、突然襲いかかってきて、それで。
『お前、あいつが産んだガキだろ』
『その目、コレクター気質な貴族様がいたく欲しがっているんだ』
『あの時は取り損ねた。あいつもうまく逃げ隠れしてやがって。……ほら、ママのところにつれていけ。四個もあれば、おれは遊んで暮らせる』
『逃げようとするな。そうだな、まずはお前の片目をえぐろう。そうすれば、逆らわないだろ。ほら、目を開けろ』
『今日は月が明るくて、俺たちみたいなゴミには助かるな』
 ​────相手も僕も、無我夢中だった。
 背中を荒れた壁に叩きつけられるように押され、そのまま顎をがっしり掴まれて顔を持ち上げられる。目元に手をかけられてそのままを力をこめられると脂汗が溢れた。今までお腹が減りすぎて死ぬかと思ったことも、寒すぎて死ぬかと思ったこともあった。それでも、目をえぐられるなんて経験はない。
 目をえぐられたらどうなるなんて、僕にはわからなかったが「死にたくない」という一心でいっぱいになった。涙が溢れ、このままじゃダメだと、なんとかしないと、焦燥に駆られる。幸い拘束されずだらんと垂れた両手がある。右手に力がこもる。全身が有り得ないほど熱く、血管がはち切れるかと思った。
 そして、生まれて初めて人を力いっぱい殴った。
 ゴン、と頭を思いっきり床に打ち付けて、真っ赤な血が土にじわりじわり広がり、男は動くことは無かった。
 この時、僕の力は強いということを知った。強く殴るだけで人が死ぬなんて思わなかった。だって、僕の腕はこんなにも不健康に細い。大人が勢いよく飛ぶなんて考えるわけない。
 このストリート街では、大人も子どもも関係なく、殴られれば殴り返す。そういう所だし、そういう人しかいないのだ。だから僕は殴り返される覚悟で殴った。
 だのに、この有様。逃げるようにその場を去って、次の日になっても、男の死体は騒ぎになっていなかった。なんせこんな掃き溜めで人が死のうがどうってことない。時間はきっちり巡るし人は腹が減る。無関係の男が死んでようが、それを気に病もうが、今日生きるための腹の足しにはならない。だから、誰も見ないし気にしない。僕の犯したことは、屠殺よりも意味の無いことだ。

……
 問に対し、沈黙を選んだ。真実を伝えたところで何になる。もしかしたらこのおじさんは、あの男の関係者かもしれない。復讐のために近づいたのかもしれない───僕が殺したということを誰も知らないのになぜ知っているのだ、などあるがこの時の僕はそこまで頭が回っていなかった​───どうであれ、真実を語らず、しかし騙らず。それが一番だと判断した。
……
 おじさんは何も聞いてこない。肯定と捉えたのか、定かではない。
 結局、その後は当たり障りのない話のみだった。何を食べて生きてきたのか、どうやって寝ていたのか……主に生きるために何をしてきたのか、ということばかり。頭だけでなく体まで丁寧に洗いながらおじさんは聞いてきた。
 ……洗われている時、体はくすぐったくて参ったが、おじさんは至って真面目な顔で洗うものだから反抗するのはやめた。
 問に対して僕はあまり上手く返せずにいたが、僕の知らない単語を使いながらおじさんは頷くから、理解はしているのだろう。
「<浄化(パージ)>」
 洗い終わったのか、手が髪の毛から離れたと思うとまた知らない単語を呟いた。途端に、僕の頭から体にかけて星のような光が降りかかる。なんだろう、これ。
「おじさん、ぱーじってなに」
「ん、ああ……おまじないだよ、おまじない」
……おまじ……ない……?」
「これもわからんか。ま、お前も神様に助けてーとか、祈ったことあるだろ。そういうもんだ」
「神様……
「なんだ、神様も知らんか」
「単語としては、知ってる。でも、そんな存在見たことないし、祈ったことも無い」
……はは、そりゃそうだ。俺も、見たことねえわ」
 不思議なことに、おじさんは嬉しそうに笑っている。僕の発言が気に入ったのか、そんなことはわからない。しかしありのままの考えを受け入れてもらえるのはありがたいことだ。
 なんせ、この大陸は信仰心が重視されがちだ。各国には信仰神と呼ばれる人間が信仰し、尊重すべき神が存在している。教会や聖堂に行って祈りを捧げたり、奉納したり、色々あるらしいが掃き溜めの僕は話を聞いたことがあるだけで、細かいことはさっぱりだ。それに、僕には目に見えない相手をどう信じればいいのかわからない。見えているものですら信じきってはいけないというのに。
 びちゃびちゃに濡れている僕は布類で拭かれるのかと考えていると、途端に体や髪の毛から余分な水分が消えて乾いていく。不思議な現象に首を傾げていたら「これもおまじない、ってやつだ」とおじさんが言う。おまじないとやらはよくわからないが、そういうことにしておこう。
 その夜、防寒になるのかわからない薄い布にくるまって寝た。ベースキャンプ周辺だけ暖かいというのもあるが、なぜかこの薄っぺらな布だけでも安心できて、何年ぶりかに落ち着いて寝れた。

 ​────朝日を浴びるよりも先に起きると、既に起きていたおじさんが早起きを褒めてくれる。長時間寝るのは身の危険があるだけなんだけども、おじさんに褒められると感じるむず痒さが意外と嫌いではないから素直に受け取る。見たことがない白いパンと乾燥肉、というおじさん曰く簡単な朝食を出されて僕は大事に大事に食べた。一日一食、というより食べない日の方が多い生活だったから当たり前のように食べ物を与えられてありがたさと、驚きが入り混じる。食べ終えれば直ぐに出発した。何時間か歩けばおじさんの仲間と合流し、くるまとやらに乗り込むこととなった。
 少なくともユーエリカの国境は越えた、と思う。この国は関所が多いし国を行き来する管理が厳しいため必ず通らなければいけない。

 組織加入後は、それはもう血のにじむような努力の日々だった。筋力をつけて

「ちょっと、君大丈夫!?」
 ……誰の声?
 薄れゆく意識の中、鼓膜を突き破るような声に眉を顰める。僕はもう限界だ。このまま死なせてくれないか。




 ありがとう、ミルクにイチゴジャムを混ぜたような、優しくて甘い君。名前聞きそびれてごめん。でも僕には君に伝えられる名前が無いから、そもそも対等になんてなれないから。だから、ごめんね。
 でも、生まれて初めて、夜が明けて欲しくないと願ったのは、間違いなく君の言葉に救われたからだと言える。
 あの、月が大きくて明るい日にした選択が全て間違っていても、僕の生き方が間違っているとしても。これは僕が選んだ道だから。全て無駄だったと、否定したくないんだ。