頭を下げる母親と元気に手を振る男児を見送ってクリックは息を吐いた。夕暮れの中を並んで歩く母子の後ろ姿は素直に微笑ましく、帰路の無事を祈らずにはいられない。
聖火のロウソクよ、どうか彼らを守り給え。
特別な感傷なく、そう思えたことに安堵する。そして、それだけ大人になったのだとも。これが数年前の自分だったなら、何かを思い、思うところに自分で嫌悪していたに違いない。
「さて」
今日の仕事はこれで終いだ。交代の騎士は既に出勤していたはずだから、なるべく早く帰らねば。
大聖堂内で無用に走るのは法度だが、どうしても気持ちは急く。何せ。
「テメノスさんが帰ってくるから早く家に着いてないと」
その事実を舌の上で転がして、上向いた気分のまま廊下を駆る。今夜は西大陸へ出ていたテメノスが1週間ぶりにフレイムチャーチへ帰ってくる日であった。
クリックも、そしてテメノスも、現在、籍を置き常駐しているのはフレイムチャーチの大聖堂だ。だが、だからといってまったく他所から声がかからないという意味ではない。本部をストームヘイルに持つクリックはもちろん、テメノスとて異端の気配があれば現地の教会から声がかかる。
心情としてはいつでも護衛としてお供したいがそうもいかない。聖火教会と聖堂機関は未だ一枚岩ではないのだ。2人の関係が許されているのは、あの功績があるからに他ならない。許されなくて手を離すのかと問われたら、たぶん、頷くことはないけれど。
――元気かな、テメノスさん。
気持ちが逸る理由はもう一つある。出張に行く前のテメノスの顔色があまりよくなかったように思うのだ。何度、自分が護衛を申し出ようと思ったか。しかし、その度に本人に固辞されてしまった。
平素であれば、テメノスは可能な限りクリックを護衛に指名してくれるので余程のことがあったのだろう。その余程のことが、彼を傷つけていなければいいのだが。
「クリック君」
「あ……神官長」
残る雑用を片付けて、いざ大聖堂を後にしようとしたクリックを呼び止める声があった。穏やかな声に振り向くと、カソック姿が堂に入った男性が立っていた。教皇に代わって大聖堂を取り仕切る神官長だった。
柔和に微笑んだ彼は基本的に温和な性格をしている。それでいて厳格に対処すべきことには容赦がない。最初に紹介されたとき、悪いことをするなら彼の目が届かないところでね、と発言したテメノスにその場で説法していた姿は忘れられない。
「今日はテメノスが戻ってくる日だったね」
「はい。便が欠航したという話も聞かないので今夜、戻られるはずです」
話題を振られてほっとする。何か頼み事をされるのか、と少し身構えていた。そういった用件であれば必ず最初に謝罪を口にする人なのでそれはないと判断できる。
では、何の用だろうか。テメノスに言伝か何か。思いつくのはそれくらいだ。
彼はそんな様子のクリックを見て、目を眇めた後に静かに溜め息を吐いた。
「……やっぱり、テメノスは君に何も言っていなかったのか」
「え? あの……」
「本来、私が伝えるべきではないが、それは道理ではないと思うんだ」
困ったように眉を下げた神官長がゆるく首を振った。ぽそりと、テメノスも強情で困る、と口にする。
嫌な予感が湧き上がって、胸中でとぐろを巻く。隠し事をされている。いや、それ自体はいい。恋人だろうが、秘密にしておきたいことのひとつやふたつあるだろう。けれど、神官長の物言いを聞く限り、その隠し事は。
――僕に、関係しているような……。
夕刻の肌寒い風が、クリックの首筋をひやりと舐めていく。
「あの、神官長……」
ひどい顔をしていたのだと思う。すまないね、と前置いた神官長は頬肉を上げて真顔になった。
「これは私のお節介だ。けれど、君たち2人のためを思うなら、と判断した。それを踏まえた上で落ち着いて聞いてほしい」
「はい」
聞くことに、躊躇いはなかった。
気がつくとクリックは家の前に着いていた。随分と考え込んでしまっていたらしい。巡礼路を下る途中で魔物に出くわさなかったのが幸運だ。手には道具屋で仕入れた夕飯の材料まであるので、完全に無意識下で行動していたらしい。
重たい息が零れる。
考えたところでどうなる。何故、テメノスさんは。どうして。どうしてなんてわかるだろう。でも話して欲しかった。
思考は堂々巡り。落ち着きなんて皆無に等しい。上向いていた気分はどこかに行って、ともかく彼が帰ってきたらきちんと話を聞かなければ。そう結論付けて鍵を取り出そうとしたとき、ポストに投げ入れられていた小包に気がついた。
差出人欄には〝ソローネ・アングイス〟と記名されていた。宛名は連名だ。つまりどちらに開けられても構わないということだろう。
梱包材の感触がそのまま伝わってくる小包はクリックの片手に収まってしまうほど。動かすとさらさらと砂のような音がする。連名なので、このままテメノスが帰ってくるまで待ってもよかったのだけれど。
「……いいかな」
何とも悲壮な気分になっていたクリックは固く結ばれていた紐を解いた。乾燥させた麻の中からころりとクリックの手に落ちてきたのは。
「……ソルトミル?」
手のひらより少し大きめのソルトミルの瓶だった。ただし、通常は白い岩塩の粒が詰められているはずが、結晶の合間に別のものが挟まっている。胡椒の粒にも見えたし、乾燥させた香草のようにも見えた。あれだ。肉や魚に刷り込む前に必要な調味料を混ぜ込んだ段階のそれに似ている。
彼女は自由を謳歌するべく、今はソリスティアを気ままに飛び回っていると聞く。それでも、拠点をニューデルスタやウェルグローブに置いているあたり、過去を置き去りにしているわけではないようだ。縛られているというよりは、どうにも放り出すことはできない。そんな雰囲気を感じる。
同封されていた便箋を開くと、彼女らしいざっくばらんな、しかし、気遣いが伺える文面と対面した。
『 どっちが読んでるかわからないから、挨拶はいいよね。
元気にもしていると思うからそれもいいや。
世界って広いと思ってたんだけど、意外と狭いんだね。
いや、この場合は私たちの方が異常なのかも。
どこにいても誰かの噂とか、武勇伝とか、ニュースとか。いろいろな情報が入ってくるからすごいよね。
今さらすごい面子で旅してたんだな、ってそう思う。
あとさ。自由ってすごいけど怖いね。楽しいけど、ときどき迷子になりそう。
前はさ、ちょっと、思ってたこともあるんだよ。あんたたちがまだくっついてなくてまごまごしてたとき。
あんたたちは自由なんだから、恋だって自由にすればいいのに、って。
でも、知った今はさ。なんていうか、うん。
自由な中で、ちゃんと幸せになろうとしてるのは、すごいと思う。
私が知らなかっただけでさ。それはたぶん、とても難しいことなんだね。 』
「……」
すべて読み終えてから、クリックは指で文を辿る。
「自由な中で、幸せになろうとするのは、難しい……」
目を閉じて、深く息を吸い込む。別れ際に神官長から言われた一言を思い出す。
『きっと疲れて帰ってくるだろうから。ちゃんと君が出迎えてやってほしいんだ』
――うん。そう、そうだよ、な。
暖炉の薪が爆ぜる音とともに目を開く。いろいろなことが難しい。ままならないことの連続だ。それでもたったひとり、クリックは選んでしまっているから。
今し方、手に入れたソルトミルと道具屋の袋を手にして、クリックは炊事場へと立った。
ソルトミルの中身は、正式にはハーブソルトというらしい。
岩塩とともに黒胡椒の粒と数種類の香草とスパイスが初めからブレンドされているのだとか。重さがまちまちなものを一つにまとめて偏りが出ないのだろうかと思うが、そこは瓶の方に一工夫されているようだ。
便利と言えば便利だが、普通の家庭では買われない。何故かと言えば塩と香草を別々に購入した方が圧倒的に安くつく。緑が豊かな地方であれば香草などは庭先に生えているものなので、わざわざ高い買い物をする必要がない。
ならば、どこでこんなものが売れているかと言えば、自分で料理というものをしないニューデルスタの富裕層がこぞって購入しているらしい。最近の物流の変化でニューデルスタでは、トト・ハハの香辛料や西大陸の香草を使った料理が人気を博している。
まあ、すぐにパルテ&ロックカンパニーが安価で買えるように改良しそうだけど。とソローネの手紙に一文が添えられていた。味付けが苦手だと言っていたクリックが使ってみればいい、とも。
憶えていてくれたことに少しだけ胸が温かくなる。
料理というものに触れてしばらく経つが、未だにクリックは調味料を適度に量るというのが苦手だ。子どもの頃はそもそも炊事場に立つなんて行為が許されなかったし、騎士団に入団した後も野営食の準備をする程度。騎士団の面々はやや濃い目の味付けをしていれば満足する者がほとんどだったので、ほぼ全員が大雑把なものだった。やたらがりがりと固い野菜を齧る羽目になったことも、煮込みすぎて固くなった肉を呑み込んだこともある。
真面に美味しい食事を作る、ということを始めたのはそれこそあの旅路の最中ではないだろうか。
薬師と狩人が用意した野営の食事を食べて、その美味さに驚いた。感動を憶えたクリックはよく彼女らを手伝ったものだ。最初はほぼ邪魔にしかなっていなかっただろうに、助かるわ、と言ってくれていた薬師の彼女には感謝しかない。
野菜の切り方も、具材の火の通し方も、ちょっとしたひと手間も彼女らは快くクリックに伝授してくれた。
そんなクリックではあるが未だに味を均一に保つ、ということが苦手だった。
何せ、9人という大所帯だ。キャスティもいちいち調味料を量るなんてことはしていなかったし、オーシュットに至っては量るという概念があったか怪しい。こんくらい、と塩の量を手のひらに乗せて提示されてもそもそも彼女とクリックでは手のひらの大きさが違う。
では、ともに住むようになったテメノスはといえば、彼とて完全に目分量で調理する。こちらは逐一、量るのが面倒という理由であるが適当に見える手つきで美味に仕上げてしまうのだから口惜しい。
――いや、作ってくれるだけで嬉しいは嬉しいんだけど。
炊事場に材料を並べながら、クリックは気合を入れ直す。テメノスが肉の中でも比較的好んでいるミンチ肉、卵、オリーブオイル。食材のストックから玉ねぎと小麦粉、パンの耳を叩いて作ったパン粉を出しておく。
袋に残っているのはトマトとフレッシュチーズ、採れたての香草。こちらの出番は後なので熱が伝わらないよう炊事場の隅へ。
小鍋に水を注ぎ、火を灯した釜戸の上へ。少量の塩を入れればすぐに沸く。
それを待っている間にボウルの中にも水を満たし、売り物にもならない小さな氷の精霊石の欠片を放る。ほのかに輝くそれは水を凍らせる力さえないが目的は水が冷えることなので問題ない。
気泡を吐き出す湯の中に小さめの卵を4つ投入する。手元の砂時計を回転させた。こういった小道具はテメノスが使わないので実質、クリック専用になってしまっている。
玉ねぎの皮を剥いてみじん切りにしたところで、砂時計の砂が落ち切った。
「……あっつ」
お玉で卵を取り出し冷水に放る。3つ目で湯が手の甲に跳ねてしまった。4つの卵を冷水に沈めたついでに自分の手も冷やす。火傷くらいどうということはないのだが、あとで恋人に怒られたくはないので。
鍋とフライパンを交換し、少量のオイルで玉ねぎを炒める。しんなりすればいいのですぐに火から遠ざける。皿の上に玉ねぎを取り出して粗熱を冷ます。テメノスなどはよくこの工程を飛ばしているようだが、玉ねぎが硬いと思ったことはない。
――今度、どうしてるのか聞いてみよう。
玉ねぎが冷めるまでの間にゆでた卵の殻を剥く。半熟に仕上げた卵は柔らかすぎて慎重になる。ややもたついてしまったが、あまり形を崩さず剥くことができた。その頃には玉ねぎもすっかり冷めていた。
炊事場で一番大きなボウルにミンチ肉とパン粉を少量、そして冷ました玉ねぎのみじん切りを入れる。最後に生卵を割り入れて、クリックは件のハーブソルトを手に取った。手のひらに一振りして匂いを嗅いでみる。
「胡椒と……ローズマリーっぽいような……他のスパイスはさすがにわからないな」
ちろりと舐めてみると塩だけでは出せない香りと旨味が舌の上に広がった。岩塩にありがちなえぐみもない。さすが富裕層の口に入る調味料なだけはある。
「うん、これなら合いそう」
ボウルの中へ少し多いくらいにハーブソルトを振り入れ、卵を混ぜ込むように捏ねる。最初は肉のねちゃりとした感触が気持ち悪くて馴れなかったな、と一人思い出して笑った。
粘り気が出て材料が均等に混ざったら肉だねの完成だ。残していた卵の茹で汁と水でぬるま湯を作って手を浸す。かなりぬるいはずだが冷たい肉に埋もれていた手には熱く感じる。
「キャスティさんはこれを9人分だもんなぁ……」
食べ盛りと大食漢がいたものだから、実は10人前くらいの分量だったかもしれない。それでも足りないかも。薬師団でも皆で料理したもの、と笑っていたが、つくづく尊敬してしまう。
温めた指を布巾で拭って冷水に沈めたままのゆで卵をつつく。中まで冷えているといいのだが。別に中が固くなったって構わない料理だが、テメノスの好みは半熟だ。そのために新鮮な卵を買ったのだから成功したい。
水気を切ったゆで卵の表面に小麦粉を塗し、手のひらで肉だねを広げて包んでしまう。ハンバーグなら平型にして中心を凹ませるが、これはゆで卵にぴったり肉の層を密着させる。隙間を残さないことと肉だねの表面を滑らかに包むことがコツだと教わった。肉だねと卵が馴染むまで時間を置いた方がいいことも。
今のうちにもう一品を、と隅へ追いやっていた袋に手を伸ばそうとした。そのときだ。
玄関の鍵が開けられる音がした。窓の外を見ると日はすっかり沈んでしまっている。できれば完成した状態で出迎えたかったが、いろいろとあり過ぎた。
ドアを閉じる音。鍵をかけ直す音。外履きから靴を替える音。息を吐き出す気配。
耳を澄ませて、その中に潜む濃い疲労を見つけてしまう。一瞬、苦しく呻いた心臓には知らぬ振りをして口角を持ち上げた。何があったとして、疲れていることには変わりないのだ。出迎えるときくらいは笑っていたい。
ふわり、と空気が揺れてようやく1週間ぶりにダイニングに家主が現れた。
「ただいま戻りました」
まったく疲れました、とわざらしく吐露する声が既に懐かしい。さらさらと揺れる銀糸の髪は、若干艶を失くしてしまっているような気がした。気づいてしまうとただでさえ血色がよくない顔が青いように見えるし、肌や唇もかさついているように見える。
今すぐ抱き締めてしまいたいのを堪えて、クリックはおかえりなさい、の声を絞り出した。
「すみませんね、長く空けてしまって」
「いいえ。テメノスさんこそ、お疲れさまでした」
「本当ですよ。疲れました。教会は私をなんだと思っているんですかねぇ。馬車馬じゃないんですよ」
他愛のない世間話を交わしながら、テメノスはダイニングから身を乗り出してクリックの手元を覗き込んだ。その頬がわずかに綻んだことに気づいて安心する。
荷と羽織っていた外套をリビングのソファに投げ捨てると、ダイニングを越えて炊事場へと入ってくる。当然のように丁寧に汲み水で手を洗い始めるテメノスに慌てた。
「テメノスさん、お疲れなんでしょう? あちらで少しでも休まれては」
「私がここに立っていたいんです」
暗に否は聞かないと言っている。そうなるとクリックも何も言えなくなるから困る。傍にいたいのはクリックだって同じなのだ。
テメノスはクリックが手を伸ばしかけていた袋を覗くと、今日は赤ですね、と呟く。飲み過ぎないでくださいよ、とは今日ばかりは言わないことにする。
馴れた手つきでトマトとチーズを取り出したテメノスが、クリックの隣を陣取って包丁を握る。トマトはヘタを取って薄切りに。フレッシュチーズも同じように一口大に。
そちらは任せてしまうことにして、クリックは小さめの鍋にいつもより大胆にオイルを注いだ。
「それ、次ください」
「はい。……あ、塩はこれを」
「これは?」
オリーブオイルとソローネから受け取ったハーブソルトを手渡す。テメノスも見馴れないものだったようで簡単に説明する。なるほど、と頷いた後にクリックと同じような所作で香りと味を確かめている。
「これは確かに便利かもしれませんね」
「僕としては有難いですけど、普通の家庭に要りますかね?」
「いえ、案外、君と近いところから流行るかもしれませんよ? 軍の遠征に嵩張る食糧はなるたけ持っていきたくないでしょうから。傷薬にも使えないスパイスとなるとねぇ」
「あ、なるほど……」
昔、現地で狩った肉の味を思い出して納得する。塩ばかりが振られたそれは獣特有の臭みが鼻につく代物だった。野営食で贅沢など許されるものではないが、食事というものは全体の士気に直結する。これが1本あればいろいろと在り方も変わるのかもしれない。
話している間にも手は動いている。小麦粉と溶き卵、パン粉をそれぞれバットに並べたら、肉だねを順に潜らせていく。丁寧に塗して余計なパン粉を落としたら、熱されたオイルの中へ静かに投入する。
しゅわしゅわとオイルが弾け、黄金色の気泡が肉だねを包み込む。オイルに入れたら衣がバラけてしまわないよう、すぐには動かさない。そう教訓を胸の裡で反芻しながら、注意深くトングで転がして火を通す。
手元でことん、と音がした。クリックが集中している小鍋の横にオイルを切る用の網が置かれていた。
――あ。
やってしまった。置いた本人を見ようとするが、視界の片隅で小さく首を振られてしまった。揚げ物の最中に余所見は厳禁だ。
金串で浮いてきた肉だねを突く。火が通ったことを確認したら網の上でオイルを切る。それを4つ。キャスティやテメノスなら一気に数個揚げてしまうが、初級者のクリックでは1つずつが無難だ。
最後の1つが揚がる頃には薄く汗ばんでしまっていた。
「クリック君」
タイミングを図っていたらしいテメノスに裾を引かれる。振り向き様に唇に冷たい何かを押しつけられ、反射的に口を開けた。
一噛みすると口の中で薄切りにされたトマトの甘みと酸味が弾ける。重ねられたフレッシュチーズがまろやかな塩味でそれを引き立て、バジルの香りが爽やかに鼻腔を駆けていった。
絡められたハーブソルトとオリーブオイルがクセになるアクセントを生んで、つい、もうひとつ、と手が伸びそうになる。その見た目にも鮮やかなカプレーゼの皿を持った当人は自らも一口食んで、本当にさらに手を伸ばそうとしていたのだが。
「ダメです。ここで全部、食べる気ですか」
「子羊くんのケチ」
「……ワインと一緒に食べる分がなくなりますけど」
奥の手を出せば彼は渋々といった体でダイニングテーブルへ皿を運んでいく。ついでとばかりにグラスを2つ攫っていったから、これからワインを選ぶ気だろう。
その間にこのメインであるスコッチエッグを盛り付けてしまわなければ。額に張り付いた前髪を払って、クリックは食器棚に向かい合った。
テーブルの中央に赤と白と緑が映えるカプレーゼ。適量にかけられたハーブソルトとオリーブオイルがランタンの灯りにきらきらと煌めく。隣には軽く炙ったバゲットをいくつか置いた。
いつも通りに向かい合う2人の目の前には揚げたてのスコッチエッグ。添えているのはリーフレタスとレモンのくし切り。グラスの中にはテメノスが選んだ深い色の赤ワインが注がれている。
欠かせない食前の祈りではあるが、少々、早足になってしまった。まあ、こんな日くらいは許されてもいい。
テメノスは楽しそうに、クリックは緊張気味に、それぞれスコッチエッグにナイフを入れる。ざくりとした衣が割れて、透明な肉汁とともに卵の黄身がとろりと溢れた。クリックは大きく肩を上下させる。
「よかった……」
「大袈裟ですねぇ。硬めになったとしてさほど味が変わるものでもないでしょう?」
「でも、テメノスさんはこちらの方がお好きですよね?」
クリックにとってはそれが重要事項だ。誰かのために作るものなら、誰かの好みに合ったものがいい。いつも彼がそうしてくれるように。
押し黙ったテメノスは美しい翡翠の瞳を瞬かせた後に、じっとクリックを見遣った。軽く頭を振り、いただきます、とだけ口にする。普段なら軽口のひとつも返ってくるだろうに。
半分に割った後、からりと上がった衣に半熟の黄身を絡める。一口分をフォークで持ち上げるとパン粉の香ばしさが鼻先に届く。匂いに釣られるまま口に放り込めば、一瞬、熱さに面食らう。が、それがまた醍醐味だ。
じゅん、と溢れた熱い肉汁が口いっぱいに広がる。濃い目に味を調えたのでソースはいらない。肉の臭みはハーブに抑えられ、岩塩の塩味と辛めのスパイスが舌を刺激する。ともすれば強すぎるその刺激をまったりと包むのが半熟の卵の黄身だ。ほぼ生に近いのにしっかりと熱が入っていて、温かい黄身が舌の上でねっとり融ける。そこにワインを含めば、程よい酸味が引き出されて熱さと油とを喉の奥へ流してくれる。
我ながら良い出来に仕上げられた、とほっとしてテメノスを伺う。彼もまたワインの一口を堪能し終えたところのようだ。帰ったときの血色の悪さはどこへやら。緩められた唇は薔薇色に、頬も薄く染まっている。
見たかった光景に満足してクリックもさらにカトラリーを動かした。
時折、レモンを絞り、合間にカプレーゼを摘まみながら、穏やかな晩餐が過ぎていく。1週間という別離後の恋人にしては会話が少ないが、2人で同じものを同じ場所で食せる幸せが確かにそこにあった。
「テメノスさん」
「はい?」
皿が半分以上、空になった頃合いでクリックは居住まいを正した。バゲットの上にカプレーゼを乗せて即席のブルスケッタを楽しんでいたテメノスが小さく首を傾げる。
「今度、僕の父に会うことになったなら、どうかお連れください」
バゲットがテメノスの皿の上に落ちた。何かを言いかけた薄めの唇が、何も告げずにきゅ、と閉じられる。用意していた言い訳を押し込めたのだろう。逡巡する目が彷徨って秀眉を寄せる。おそらくだが、心の中で神官長を罵倒しているに違いない。
あの一件でテメノスの名声は各所に響くことになった。そして傍らに在ったクリックの名前も同時に報じられる機会が増えた。過去、貴族であった誰かの耳に入る程度には広まってしまったのだ。
「テメノスさん」
何を言おうか、迷った。
何故、一言告げてくれなかったのか。何故、相談してくれなかったのか。何故、ひとりで行こうと決めてしまったのか。考えて、考えて、ひとつしかなかった。
クリックを守るためだ。クリックから、今の暮らしを奪わないためだ。
「勘違いはしないでください」
自惚れを足すのなら、テメノス自身がクリックとともに在る暮らしを奪われたくなかったから、もあるかもしれない。けれど、それは望んでいることだから別にいい。
気に入らないのは、許せないのは、そうして未だに彼に守られているクリック自身だ。そして守るばかりで守らせてくれないテメノスに対してだ。
「僕は、あなたの許を離れるつもりはありません。家に戻るつもりもなければ、貴族の地位や財産だって、もう今さらです」
「それは……そうでしょうが」
「テメノスさん」
翡翠の瞳が不安ではないものに揺れる。滲んでいたのはただ純粋なクリックに対する心配の色だけだ。
彼がクリックを信じていてくれたことに胸を撫で下ろし、手を伸ばして細い指先を捕まえた。
「どうか、僕に逃げ出してしまったものへ向き合う機会をください」
ひゅ、と息を呑んだテメノスがクリックの瞳を覗く。逸らそうとはしなかった。逸らすわけにはいかなかった。彼はきっと、そこにあるクリックの決意を探してくれているだろうから。
やがて苦笑を浮かべたテメノスが深く息を吐き出した。
「君には厳しくしてきたつもりなんですが……いつのまにか過保護になっていたようです」
思わず笑ってしまった。あなたが厳しかったのは、いつでも言葉だけですよ。なんて言ったら、やっと力を抜いて笑ってくれた彼は拗ねてしまうだろうか。
「……嫌な想いをするかもしれませんよ?」
「知ってます」
「思い出してつらくなることがあるかも」
「僕が背負うものです」
「後悔するかもしれない」
「それでも、あなたが隣にいてくれます」
僕は、ちゃんとした自由の中であなたと幸せになりたい。それがどれだけ難しいことだとしても。
それには、きっと必要なことなのだと、今のクリックは思うのだ。やっぱりどこまでも相容れないかもしれないし、後悔するかもしれないし、もしかしたら昔以上に憤ることがあって我慢ならなくなるかもしれない。
それでも、この人は手を離さないでいてくれるだろうから。
参りました、と告げるテメノスが捕まえた手を握り返してくれる。
「わかりました。約束しましょう。……でも、今は君が用意してくれたものを最後まで食べたいかな」
「あ……す、すみません」
慌てて手を離す。フフ、と笑ったテメノスは落としたバゲットを食み、残りのスコッチエッグにレモンを絞った。クリックはフォークを持ち上げてカプレーゼのトマトとチーズを刺した。テメノスの好物であるからたくさん食べてもらいたいのだけれど、今は彼の作ったものが食べたい気分だった。
「食べ終わったら、ちゃんと甘やかしてくださいね」
「はい、もちろん」
幸せを作るのは難しいけれど、作ることが出来たなら、たぶん、こんな味がするのだろう。
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