千代里
2024-03-19 12:59:15
11049文字
Public ナグサの話
 

ナグサの話・その4

ナグサがヒヅルらと合流して割とすぐの頃
平穏を感じながらも、昔を振り返った彼の話

 自分が子供の頃どんな性格だったのか、などということはナグサは逐一覚えていない。だが、少なくとも、ここ一年関わりを余儀なくされている神様に比べればはるかに『まとも』な性格だっただろうとは自負している。
 あの神様――カヅチときたら、この前は床下にたぬきが潜り込んだと言って自分まで床下に潜り込もうとしていたし、雨が降って水溜まりができれば必ず飛び込もうとする。その度に首根っこを掴んで、ナグサは彼女を引き止めている。首根っこを掴める大きさになってくれたのは、結果的に彼女の奇行を止めるという意味では役に立ってくれていたかもしれない。
 好きにやらせればいいと思う一方で、自分の目の前で突拍子もないことをされると放って置けない。それが、今のナグサとカヅチのあり方となっていた。
 目につくところにいたら気が落ち着かないが、ずっとそばにいたら気が休まらない。今のカヅチを表すなら、そんな表現となるだろう。
 だからこそ、渡り廊下を歩いているときに、庭先にいる奇行常習犯の神様――カヅチを見つけてしまった時は、ナグサはそっと目をそらそうかと思った。今日の彼女は、庭の木の下で何やらじっとしている。
(また何をしてんだ、あいつ)
 この前のように木登りでもするのかと思いきや、彼女は首を上に向けているだけだった。視線の先にあるのは確かに木ではあるのだが、今は登るつもりはないらしい。
 このまま素通りしてしまおうかとも考えたが、見ないふりをしておいて、後から彼女が枝を折ってきたりしたらそれはそれで目覚めが悪い。
 流石に木ごと折るような真似はもうしないと思うが、それも前例があるので完全に否定しきれない。結局、目を離した一秒後には何をしているかわからない存在であることには変わりないのだ。
「おい、カヅチ。そんなところで何してるんだ」
 素足のまま庭に降りつつ、木の観察に勤しんでる童女に声をかける。すぐに彼女はぐるりと振り返り、
「ナグサ、あれを見ろ!」
 カヅチが指さした先には、木から伸びた一振りの枝があった。何の変哲もない庭の木から伸びた、中くらいの太さの枝。だが、その先端には大振りの木の実――ではなく、黒猫が一匹乗っていた。
「ああ、猫か」
 そんなに珍しいものでもなかろうと思っていたその時、猫がにゃーと鳴く。その鳴き声ときたら何やら哀れみを誘うものだった。
 よくよく見れば、黒猫は然程大きくはない。個体差もあるのだろうが、おそらくはまだ子猫か。どうやら、登ったはいいが降りられなくなったらしい。
「ナグサ、あれ取ってもいいか」
「取ってもいいかってな、お前」
 まるで枝になっている柿を取ってもいいかと言わんばかりの気軽さで問われたが、あれは生き物だ。カヅチの気まぐれで振り回すのは、流石に気が引ける。さてどうしたものか、と助けを求める黒猫を見上げ、ナグサは思案する。
 その時、黒い毛並みの向こうに埋もれた金褐色の瞳と思いがけなく視線が合う。何を思っているかも定かでない獣の瞳と視線がぶつかった瞬間、ふと彼は思い出した。
 それはまだ、自分がこの場所に辿り着く前の頃。生まれた場所を旅立ち、文字通り傍若無人の神様と当て所もなく彷徨っていた頃のことだった。
 
 ◇◇◇
 
 あれは、とても蒸し暑い日のことだった。
 山奥の寂れた社の虫食いと湿気で腐りかけた畳の上で、一人の少年が死にかけていた。
 比喩ではない。その時、ナグサは本当に自分が死ぬかもしれないと思っていた。
(腹減った……
 その理由のうちの一つは、自分を襲う猛烈な空腹だ。ナグサは、もうここ二日は水以外のものをまともに口にしていなかった。辛うじて非常食として持ち歩いていた干し芋も、昨日の朝には齧り尽くしてしまった。
 本来なら、先日訪れた町で二、三日身を寄せて、その間に鍵の管理が甘い家や隙の多そうな人間を見繕い、そこから食べ物や金銭を掠め取るはずだった。
 だが、ナグサは初手でしくじった。店主が店先から引っ込んだ隙をつき、黄昏時の夜陰に乗じて店先の保存食に手を出そうかと品定めをしていた瞬間、通りがかりの若者にその行為を咎められたのだ。
 まだ手を出す前だったのでシラを切ることもできたのだが、己の気まずい表情が顔に出ていたのだろうか。それとも、大義を得た人間にとって細かい真偽などどうでもいいのか。
 周りにいた町人たちまで集まってきて、多勢に無勢と判断し、どうにか袋叩きになる前に逃げ出せたのは運が良かったのだろう。
 そうでなかったら、ナグサの奇矯な同行者ことカヅチが顔を出して、さらに騒動が大きくなっていただろうから。
(だけど、逃げるのに必死になりすぎたのは、まずかったな……
 盗人を探そうとしたのか、逃げ出したナグサの後を追うように提灯の灯りがいくつかついてくるのが見えた。
 捕まったらまず間違いなく碌な目に遭わない。そう思ったため、ナグサは食料の確保を二の次にして逃走に力を割いた。実際手元にはいくつかの備蓄はあったし、それで急場は凌げると思ったのだ。
 だが、悪いことは重なるものらしい。その備蓄を逃避行の間に落としたと気がついたとしても、すでに後の祭り。自分でもどう逃げたかわからないような状況で戻るような真似をすれば、迷子に拍車をかけることになる。
 その上、運の悪いことはさらに続く。
 辛うじて腰紐にくくりつけていた非常食を齧った頃、ナグサは体に異常な倦怠感と激しい頭痛を覚えた。それが病による発熱だと気がついたのは、この社に辿り着き、ボロボロの畳の上に転がった後のことだ。ここ数日、屋根のないところで雨に降られながら眠っていたから、疲れた体に覿面に悪い意味でよく効いたのだろう。それが、ナグサが死にかけているもう一つの理由だ。
 一度倒れたら、疲労と空腹が限界に達した体は再度立ち上がることを拒み、結局ナグサは昨晩から今までピクリとも動いていない。食べ物や水を欲する意思があるので、死にかけているというのはまだ早いかもしれないが、どちらにせよ限界は近づいてきた。
(あいつ、水汲めたのかな……
 急に動かなくなったナグサに、空気が読めない同行者のカヅチは「わたしは何をしたらいい?」と問うてきた。
 正直なところを言うなら、彼女には何が何でも食べ物を持ってきて欲しかった。
 しかし、この神様にどんな手を使ってでも食べ物を持ってきてくれなどと言おうものなら、道ゆく旅人を殺して奪うか、あるいは山村を襲撃して食料を奪取するなどという、まさに傍に人がいないが如きの過剰な行動を取りかねない。
 彼女はナグサのためなら何でもする。文字通り、なんでも。
 それを知っているが故に、ナグサは「川を探して水を汲んできてほしい」とだけ頼んだ。ちょうど、社には供え物を入れるのに使っていたと思しき器もある。それに入れてくれればいいと頼んだのだが、存外に彼女の帰りは遅かった。ひょっとしたら、この辺りには川はなく、愚直にも水場を求めてどこまでも行ってしまったのかもしれない。
(あっつ……
 頭は真夏の太陽に晒されたかのように熱を持ちガンガン痛むくせに、体は冬場に野晒しにされたかのようにガタガタと震えている。気温自体は高いはずなのに寒気が全く引いてくれない。これはかなり熱が出ている証拠だ。
 しかし、ナグサにできるのはただこうして寝転がっていることだけだ。薬もなければ看病をしてくれる人もいない。そして、それらを欲する気持ちも、もう残っていない。
 重たすぎる瞼を閉じ、せめて体を蝕む熱と空腹から逃れたいと祈り、目を閉じる。このまま眠ったら二度と目を覚まさないのではと危ぶみもしたが、
――まあ、いいか。そうなったら仕方ない)
 眠りに落ちる前に考えたのは、もはや長い共連れとなっていた諦念の言葉だけだった。
 
 *
 
 次に目を覚ましたのは、空腹からでもなければ、熱にうなされたからでもなかった。
 ケーンとよく響く獣の鳴き声。続く、子犬が唸るような吠え声がいくつか。どうやら、この寂れた社は獣の遊び場でもあるらしく、それらの生き物の気配によって目を覚ますことを余儀なくされたのだ。
 一匹二匹ではない。おそらくは五匹か六匹はいる。そうなると、子供を連れた獣だろうか。がさがさと草地をかき分ける音や獣たちの鳴き声につつかれるようにして、ナグサは不承不承意識を覚醒させる。このままではうるさくて到底寝られそうにもない。
「一体、何がいるんだ……
 熱のせいで唸り声にしか聞こえない独り言を漏らしつつ、ナグサは片腕で身を起こす。
 続けて、ぼろぼろに朽ち果てつつある柱に体を預けるようにして、上体を引き上げた。
 そうして、彼は社の周りの草地に何がいるかを知った。
 夏の日差しをたっぷりと浴びて、まるで焼き目がついた煎餅のような鮮やかな赤毛。その毛並みを堂々と見せつけるように忙しなく飛び交っているその生き物は、何匹もの狐だ。正確には、大きな一匹と複数の小さな個体がいる。きっと親子なのだろう。
 親狐と思しき大きな一体が、子供らの前に何かを置く。おそらくは、捕えてきた鼠か小鳥か。
 すると、子供らは置かれた何かを前足で触ったり、噛みつこうとしたりする。すると、哀れな獲物は子供らの無邪気な攻撃から逃げようと、必死に駆け出す。それを追いかけて、子狐らが一斉に走り出す。先ほどの足音や鳴き声は、狩りの練習をしている子供らのものだったらしい。
(ったく、こっちの気も知らずに……
 いっそ長閑とも言える光景に、ナグサは人知れず唇を曲げる。だが、狐に文句を言ったところで彼らが食べ物を持ってきてくれるわけでもなし。見るともなしに、ナグサは狐たちの狩りの練習光景を見つめていた。
 それらをぼんやりと眺めていくうちに、ナグサはあることに気がついた。
 おそらくは五匹か六匹はいると思われる子狐たちの中に、一匹だけ異なる色合いの子狐がいる。あまりに違う色合いだったので、ナグサはそれが最初狸が迷い込んでいるのではないかと思ったほどだ。ナグサがそう勘違いしてしまうのも無理もないほど、その子狐の毛並みは艶やかな黒だった。他が赤毛とよく言われる赤みがかった金褐色とも茶褐色とも言える毛並みなのに対して、その子狐だけは墨で染めたような色をしていた。
 人の目は、他と異なるものに注視しやすいようにできている。ナグサの目も、自然とその黒い子狐に向けられるようになっていた。
 赤毛の兄弟たちの間を覚束ない足取りで追いかける黒の子狐。その体は他と比べると一回り小さく、何やら頼りない印象を受ける。
……あいつ、他のやつよりも鈍臭いみたいだな)
 兄弟たちが親が弱らせた鼠を追いかけて一目散に駆け出すのに対して、黒の子狐はそれより一足遅れて走り出す。そのせいで鼠に触らせてもらうこともできず、兄弟たちの周りをおろおろと右往左往することしかできていない。要するに要領が悪いのだ。
 結局、追いかけるのを諦めて、黒の狐は社の周囲で一人遊びを始めた。自分の尻尾を追いかけたり、無害な虫を獲物に見立てて追い回したり。そうして夢中になって縁側に近寄ってきた子狐は、そこで初めてナグサが起き上がっていることに気がつき、ぴたりと制止した。
…………
 すぐに踵を返せばいいものも、彫像のように動かないナグサを見ているうちに好奇心が疼いたのだろうか。子狐は、おずおずとナグサへと近寄ってくる。
 しかし、親狐は子狐の無謀な冒険を見逃さなかった。遠く響く独特の警戒音は、黒の子狐を牽制するものだったのだろう。
 親狐の目から見て、寝転がったまま動かずにいたナグサは、十分に距離を置いていれば問題ない相手と映っていたのだろう。しかし、いくらナグサが無害に見えても、流石に近づくのは御法度だった。そういうことだろうか。
 黒の子狐は親の忠告を聞いて、ナグサへ近づくのを止める。だが、そのときにはもうナグサの目と鼻の先まで子狐はやってきていた。
……こいつを、もし捕まえられたら)
 狐の肉など食えるものか分かったものではないが、それでも全く何も食べないよりはマシだ。それに毛皮を剥げば、珍しい黒狐の毛皮を求める商人や職人が高値で買い取ってくれるかもしれない。毛皮売りは、それなりに人気のある商売だとナグサは知っている。
 思わず、手を伸ばしかける。再び、親狐の警戒の声が響く。しかし、黒狐は親の警戒の声そのものに身がすくんでしまったのか、動けなくなってしまったようだ。
 あと、ほんの数寸。それだけで幼い狐の首を締め上げることができる。そこまで自覚し、ふと顔を上げた。
 ナグサが見つめた先には、他の数匹の子供たちを連れてじっとこちらを見つめている親狐がいる。それが、母狐なのか父狐なのか。それは、ナグサには分からない。
 ただ、その姿を見て、熱に火照った体に一つの感情がよぎる。
(どうして、来ないんだ)
 子供が危ない目に遭おうとしているのに。警戒して、危ないよと教えてまでいるのに。
(どうして、助けようとしないんだ)
 なぜ、自ら走り出して子供を連れて行こうとしないのか。
 じっと様子を見守っている兄弟たちもそうだ。どうして、黙って見ているだけなのか。
――――――
 他と毛色が違うからか。他の兄弟達より要領が悪くて、狩りも碌にできない間抜けな子供のくせに、親の忠告を破って人間に近づいたからか。
 だったら、仕方ないと諦められるのか。それだけで、お前は傷ついてもいいと言えるのか。
――……っ」
 喉の奥に空気の塊ができたように、息が苦しくなる。熱とは違う理由で、胸がぐうと苦しくなった。すでに傷が塞がったはずなのに、存在しないはずの左腕が脈打つように痛い。
 そこに傷などないのに。そこに腕は――もうないのに。
 全てを振り解くように、いまだに怯えて竦んでいる子狐の前で、ナグサはわざと勢いよく立った。
 瞬間、止まっていた時が動き出したように、黒の子狐は弾かれたように駆け出していく。親の元へと一目散に走る小さな背中を、ナグサは重たいため息と共に見送る。
 さすがに立ち上がった人間を前にして呑気に子供を遊ばせるほど、狐たちも気は緩んでいなかったらしい。親狐は子狐たちの背中を押すようにして、草むらへと姿を消していく。おそらく、あのまま巣穴に戻っていくのだろう。
 どこかで、ピーヒョロロと鳶の鳴く声がする。空を見上げると、青々と生い茂った深い森の向こう側に黒い影が滑空している姿が見えた。
 
 *
 
 狐の親子が去った後、ナグサはようやく得た静寂を噛み締めるように再び眠りについた。次に目が覚めたのは、ドドドと屋根を打つ雨音に叩き起こされたからだ。
「夕立……?」
 外はかなり暗かったが、まだ真っ暗といえる時間帯にはぎりぎり至っていない。おそらくは雨が降っているせいで夜が早く来たように感じたのだろう。
 雨の音はうるさいが、雨があるということは水が無尽蔵に得られるということだ。熱で碌に動けないナグサにとって、まさに恵みの雨である。
 考えてみれば、昨晩からろくに水さえ飲んでいなかったのだ。どこまで行ったのか、いまだ戻ってこないカヅチを待つ必要はもうない。
 すぐに朽ち果てかけた縁側から体を出して、流れ落ちてくる雨を片手で受け止め、何度もあおった。着物が多少濡れようが、口から雨水が溢れでようがお構いなしだった。
 そうして、体にようやく水が満ちたと思った頃、雨に煙った草むらの向こう側から大柄な誰かの影が見えた。それが誰かなどと問う必要はない。
「ナグサーっ!」
 自分よりも二回り近く大きい体躯の女性が、着物を雨にしとどに濡らしながらこちらに向かって走ってきている。彼女こそ、ナグサの奇妙な共連れの神様もといカヅチだった。
 人の手とは思えない樹皮を削り出したような奇妙な手には、ナグサが渡した器がある。そこには、今も降り続けている雨水がいくつも波紋を生んでいた。
「ほら、言われた通り、川の水を汲んできたぞ! 川がなかなか無かったからな。ひとっ走り、隣の山まで行ってきたんだ!」
……雨と混ざってないか、これ」
「そうなのか?」
 そうはいったものの、流石にカヅチの努力が全て無駄だとは思わない。受け取った器の半分はおそらくは雨水になっているだろうが、お構いなしにナグサは器の中の水をあおった。
 先ほどは少しずつしか飲めなかったが、こうしてまとめて一気に飲み干せば、より一層体に水分が満ちてくる。長く休んだおかげもあってか、熱もいくらか引いてきたような気がする。
「あと、ナグサはお腹がすいたって何度も言っていたからな。前にナグサが食べていたもの、見つけてきたぞ」
 隣でつくねんと座っていたカヅチが急にそんなことを言い出したので、ナグサはぎょっとして彼女を注視してしまった。
 見たところ、彼女が誰かを襲ってきたようには見えない。だが、人あらざる彼女のことだ。容姿など、いくらでも取り繕える。
 続く言葉が何なのかと、懸念と不安半分で待っていると、彼女は懐から数振りの枝を取り出した。そこには、赤々とした小さな実がいくつか実っている。
「これは……
「山で見つけてきた! たしか、前に食べられると話していただろう?」
 枝ごと持ってきた分だけではなく、カヅチは目についた実を片っ端から取ってきたらしい。着物の裾からぼろぼろと転がり落ちてきた木の実は、少なくとも腹を満たすには十分な量はあった。
 熱でまだ寒気の残る指で、彼女が転がした真っ赤な果実の一つをつまみ、口に含む。
 柔らかな皮を破って広がったのは、独特の苦味とわずかに残る甘み。その甘みは、ナグサにとっては懐かしさを思わせるものだった。
……前に話していたっていうのは、こいつが今の形になった後のことじゃないな)
 ナグサが暮らしていた場所の近くにも、同じ形の実をつける木々があった。
 とても幼い頃、それをお菓子の代わりに食べに行って、土産として『彼女』に渡したのは自分だ。お気に入りの梅の木の前で、この木の実は食べられるしちょっと甘いと報告したのも。自分とよく似た目元の彼女は、本当ならもっと上等なお菓子の方が好きだっただろうに、美味しいと言って食べてくれた。
…………
 思い出しても仕方ないことを辿ってしまうのは、あの黒狐のせいだろうか。
 ふるふるとかぶりを振り、湧きあがりかけた思い出の断片を沈め直し、代わりに目の前の食べ物に集中する。
 一つ、二つと真っ赤な実を食べていくうちに、少しずつ空腹がおさまっていく。熱のせいで一気に全て食べることはできなくとも、空っぽになっていた体に少しずつ力が戻ってくるのがわかる。
 そうして体が落ち着きを取り戻した頃、ナグサは再び体を横にした。
 外は暗く、雨はあがったものの曇り空のせいで星も見えない。ならば、しばらく休んでから次なる場所へと向かうのが得策だ。
「ナグサ、寝るのか?」
……寝る。朝になったら、また動く」
「そうか! なら、わたしはここにいてもいいか」
 小さく頷き返し、土の匂いが濃い畳の上で力を抜く。
 たとえぼろぼろに腐り果てた畳でも、その時のナグサにとって、その小さな寝床は極上の布団に等しいものだった。
 
 *
 
 翌朝、昨日よりかなり軽くなった体にカヅチが持ってきてくれた果実を詰め込んでから、ナグサはぼろぼろになった社の外へと出た。
 目的地がある旅路ではない。ひとまずは、山を降りる。細かい段取りは、その後に考えようと大雑把な方針を決める。
 ついでに、今度は木の実が目についたら採取しておこうと決め、歩き始めて十分も経たない頃。
「ナグサ、あれは何だ?」
 ばさばさと大きな羽音がいくつか響いたのにつられて、ナグサはカヅチが指さす方向を見やった。
 そこは、ちょうど山の途中にある岩が出っ張っているところだった。そこに一匹の鳶が鎮座している。見れば、その首が何度か下に向いて啄むような仕草を見せている。どうやら、獲物を捉えて食事をしている最中だったらしい。
「鳶だろ。飯食っている最中なのに、指さすなよ」
「そうか。鳶というのだな。あれは鳥のくせに、あんなでっかい獣を食べるんだな」
 そう言われて鳶の獲物を見やり、ナグサは音もなく息を呑んだ。
 鳶が岩場に鉤爪で縫い付けている獲物。それは、どこかで見覚えのある黒い毛並みの生き物で。
――――!」
 気がつけば、ナグサは鳶が舞い降りていた岩場へと駆け出した。
 突如走り出した人間に驚いたのか、せっかくの獲物も掴まずに鳶は空へと飛び上がる。残されたのはバサバサという激しい羽音と、数枚の鳶の羽。そして――岩場に残された、哀れな獲物の残骸。
「ナグサ、どうかしたのか?」
 後を追いかけてきたカヅチにも、ナグサは何も言えなかった。
 彼の視線の下にいたのは、鉤爪に喉を切り裂かれ、嘴が穿たれて無惨な傷跡を晒している一匹の黒い子狐。親の忠告を無視してナグサに近づき、ナグサが追い払ったあの鈍臭い子供だった。
…………
「そいつがどうかしたのか、ナグサ」
 自分が一体どんな感情を抱いているのか、自分自身よくわからなかった。
 親の言いつけを守らない獣が天敵の餌になることなど、ナグサでもよく知っていることだ。雀が猫にやられる場面も見た。ネズミが猫に食われる場面も見た。子ダヌキがカラスの餌になっている所も。
 だから、これもまたその繰り返しで、獣の世界ではよくあることで。
 人の世界でも、よくあること――なのだろう。きっと。
 けれども、それでも思うのだ。
「どうして――……守ってやらないんだ」
 そんな、今更口にしてもどうしようもないことを。
 きっと、親狐が我が身を挺してこの黒狐を守ろうとしたところで、体が小さいくせに粗忽者のこの狐は、いつかは己の過ちで命を落としていただろう。それぐらいのことはすぐに推察できる。
 けれども、ナグサは足を止めてしまった。どうして、と責めても仕方ないことを詰った。
「どうして――
 そのさきに言おうとした言葉は、音にならずに空気に溶けて消えた。瞼の裏で、自分とよく似た目尻の女の幻が、一瞬見えて、それも消えていく。
……ナグサ? どうしてそんな顔をしているんだ? 鳶がお前をいじめたのか? だったら、わたしがあいつを落としてくるぞ!」
 どうやら盛大な勘違いをしているらしい神様に、ナグサはゆっくりと首を横に振る。自分が動揺すれば、彼女は一人で突っ走り始める。それだけはさせてはならない。
「何でもない。それよりも、こいつ――
 気持ちを無理やり切り替えて、ナグサは狐の傷を検分する。
 見たかぎり、毛皮に大きな損傷はない。それならば、肉を削ぎ、毛皮を剥げばそれなりに値がつくかもしれない。そんな計算高い考えが、感傷を振り切った冷静な自分の中から湧き出てくる。
「この辺り、村とか猟師の小屋とかなかったか?」
「それなら、麓に家がいくつかあったぞ。ここからそんなに遠くもない」
「じゃあ、案内してくれ。こいつを買いたい奴がいるかもしれない」
 自分でも薄情だとわかっているが、今はその薄情さを優先したかった。
 こんな場所で足を止めて縮こまっているつもりはない。まだ心臓が動いている以上は、歩き続ける。どこかで膝を折ることになったとしても、今は。
 草むらをかき分けてずんずんと行く女の後を、ナグサは片手に黒狐の遺骸を抱えたまま行く。空から響く鳶の抗議は聞かないふりをして。
 
 ◇◇◇
 
「ナグサー、あれ取れないか?」
「今の俺が木登りができるように見えるのか」
 かつての記憶から我に返り、ぴょんぴょんと飛び上がるカヅチに、ナグサは呆れまじりの言葉を返す。
 あの頃は随分と大きかった彼女も、今となってはナグサよりもずっと小さい。そのせいもあって、彼女が何度飛びあがろうと、木の枝にしがみついた子猫には届かない。
 カヅチとナグサが木の下であれこれと話している間に、子猫も決意したらしい。その体を少しずつ持ち上げ、子猫の目線からは遥か離れた地面へと狙いを定める。
 そうして、意を決してぐうと体に力を込めて、軽やかに飛び上がりかけ――
「あっ!」
 しかし、その踏ん切りは、最後の最後に生じた躊躇いに邪魔される。
――――!」
 中途半端な形で宙に投げ出された子猫を目にした瞬間。
 すでに、ナグサは子猫の落下地点に向かって駆け出していた。
 どうしてそんなことをしたのか自分でもわからないまま、片方しかない手を伸ばす。だが、その手は子猫の毛筋に触れても、その体は掴めない。
 そこまでわかった瞬間――彼の足は地面を蹴った。前へと投げ出された体のおかげで、足りない距離が埋まり、その手のひらが猫の体を受け止める。
「ナグサっ!?」
 カヅチの声を聞くまでもなく、体が地面にぶつかる衝撃に息が詰まった。受け身はとろうとしたものの、存在しない片腕では精々肩からうまく地面に落ちて勢いを少しばかり殺すことしかできない。
 だが、彼は感じていた。自分の腕に抱き込んだ子猫の柔らかな体を。その鼓動が今も確かに脈を打っていることを。
「ナグサ、なんで急に転んだんだ?」
「別に転んだわけじゃない……
 いちいち説明するのも煩わしく、最低限の弁明をしながら身を起こす。
 同時に、ふしゃー、と猫の鳴く声が聞こえて、そちらへと視線をやる。見れば、親猫と思しき黒白ぶちの大きな猫が、ナグサに向けて毛を逆立てて威嚇しているところだった。
 すぐさま子猫を解放してやると、薄情なことにも黒猫は一目散に親猫の下へと駆けていく。親猫も、すぐさま子猫の首元を咥えて一目散に藪の中へと消えていった。
 その姿を見て、ナグサは自分でも気づかないうちに小さく息を吐いていた。
「んー、ナグサ?」
「ん、何だ」
「ナグサ、さっきよりなんだか嬉しそうだな」
……嬉しい?」
「おう。さっき猫を見てたときは、なんだか雨が降りそうな顔をしてた」
「どんな顔だよそれは」
 そんなことを言ったせいで、カヅチは自分の顔をぐにぐにと手で触って何か伝えようとしていたが、あいにくナグサにはさっぱりわからない。
 だが、彼女が何を言いたいかはわかる。
……そんな顔、してたのか)
 試しに自分の顔に触れてみる。だが、自分がどんな気持ちなのかなどと、今の自分にわかるわけがない。もう随分と前から、そんな『普通』らしいものを自覚したこともない。
 それでも、嬉しそうだと言われるのは――悪い気はしない。それもまた確かなことだ。
「カヅチ。そろそろ行くぞ」
「おう! で、どこに行くんだ?」
「さあ。ばあさんのところ行って、飯でも貰うか」
「そうしよう! 甘いやつがいいな!」
 自分でもこの気持ちをどう整理していいかわからないから、とりあえず片割れの童女を呼ぶ。彼女の返事に知らず知らずのうちに目を細めながらも、彼は立ち上がった。