ゆい
2024-03-16 21:50:55
4683文字
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【宗みか】やがて影になる

辰神様しゅうくんと黄金天みかちゃんの話。

 彼の手首に結わえた鈴の音が聞こえない。
 今日はどこで僕以外にうつつを抜かしているのだろう。露天の並ぶ通りを進む前は、確かに僕の後ろをちょこまかと歩いていた筈なのに。いざという時に困るのは君だからと、何度言い聞かせても結局困るまで懲りない能天気さに思わず溜め息が漏れる。しでかす度に神妙に頭を垂れる癖に、涼やかな音色は自ら進んで僕からはぐれていく。数限りない健忘と粗忽にはいい加減慣れてしまったが、春と朝を身と魂に纏う僕をこともあろうに薄汚い路地裏に置き去りにするなんて不敬にも程がある。饐えた空気と重苦しい喧騒が苛立ちを更に加速させて、眉間に寄った皺が増えていくのを止められない。このままでは目の前に手加減無く当たり散らしそうで、手枷の意味も含めて胸の前で腕を組んだ。嫌々ながら背中を預けた壁は、汚らしく湿っていて冷えた肌が少しずつ粟立っていく。そんな僕に向けて今も早口に飛んでくる音は、所々に訛りが混ざり聞き取り辛い。不潔極まりない唾がこちらに届きそうで思い切り顔を背ければ、声にもなれない漣が更に勢いを増す。ただでさえ人の言葉は耳に馴染まないのに、これでは何を訴えたいのか半分も理解出来ない。衣類の着こなしや肌艶を見る限り、どうせ金銭目当ての破落戸だろうがとにかく五月蝿い。自らの不徳や怠惰のツケを他者に押し付けようと騒ぐ己の顔を、一度でも鏡で見たことがないのだろうか。これだから下界は厭なのだ、彼がどうしてもと強請らなければ誰が来たいなどと思うものか。

「‥気安く触れるな。塵が増えるだろう」

 無言と無関心を貫く僕に焦れたのか、垢に塗れた手が臙脂色のジャケットを乱暴に掴む。下に着込んだタートルネックまで一緒に握るものだから、下ろしたばかりの両方に皺と汚れがついてしまう。皆等しく僕より低い背丈のせいでせいぜい胸倉で喚き睨むしか出来ない低能共に、吐く声も自然とざらついて低くなった。神気も宿らぬただの呟きにすら途端に狼狽える無様を見下ろしながら、再度この場に居ない彼を恨めしく思う。この僕を撒いてただで済むと思わないでくれ。きっと近い内に罰の一つや二つは当たるだろう、もし当たらないなら僕が当てる。
 圧とも呼べない空気の揺らぎにすら狼狽える芥共は、それでも最後の足掻きなのか多数を笠に着て再度ぎゃあぎゃあと喚き出す。捨て鉢に迫る手が首元を諦め悪く締め上げ、不愉快な息苦しさがなけなしの忍耐を擦り潰していく。そろそろ、これまでの不敬を理由にすれば多少の羽目は外しても許される頃合いだろう。衣服で隠した鱗が波打ち、術で塞いだ尾が風を切る幻をすぐ耳元で聞く。腹の底から湧き出すざわめきに任せて口を開く寸前、僕とそれ以上の間を一陣の冷気が抜ける。

「お師さん、ここにおったんやねぇ」

 ちりん、と僕が選んで与えた涼やかさが鳴り終わるより早く、場違いに甘ったるい声が路地裏に響く。反射的に声を睨んだ輩共から鋭く息を飲む音が上がり、あらゆる横顔に怯えにも似た色が走る。彫刻のように動きを止めた眼差しの先を一拍遅れて僕も追えば、つんざくような光の中で見慣れた闇が何時も通りに笑っていた。痩せ過ぎの身を隠す、ゆったりとしたシルエットが風も無いのに嫋やかに揺れる。折り目正しく纏った漢服崩れの長着の上に刺繍と飾り紐で飾り立てたロングコートを気怠く羽織り佇む姿は、一見無秩序だが不思議と人の目を惹き付ける色気がある。拾った頃は何を着せても俯きがちで、何時もどこか後ろめたそうに背中を丸めて立ち尽くしていたのに。瞬きの間に見違えた影は煌めく陽光を一心に浴び、蕩けるような笑み以外は全て深い黒に沈んでいる。相変わらずだらしない顔だと呆れ混じりに思うけれど、僕とそれ以外では見え方が違うようで締め上げる手に歪な力が篭ってまた少し不快が増した。思わず浮かべた不機嫌に目敏く気付いたのか、猫のような眼差しからさっと温度と色が消える。それまで背後で組まれていた両手が音も無く身体の横に落ち、また脚口が淡く捲れて黒いレギンスが露わになる。光を背に暗がりへ溶けた筈の長い影の輪郭がゆらり波打ったことに気付いた者は、きっと僕以外に居ない。そして、踊るように身体の前に伸びた右手が視線の高さでぴたりと止まる。思いがけない動きに僕を除いた全員が目を見張るのを待って、人差し指が破落戸達の居る空間を丁寧に丸くなぞれば、今度は確かに悲鳴が鳴った。弾かれるように僕から離れた手はそのまま勢い良く垂れ伏し、他の塵と一緒に地面を掻いたり宙を掴んだりと忙しない。まるで目に見えない何かに巻き付かれたり噛み付かれたりしているようだ。そう、例えば、主に似て執念深い龍とか。

「めっちゃ探したで。ちょっと道聞いてくるから待ってて言うたのに、何でさっさと居なくなるん?」
「方角さえ分かれば進めるからね。それに、君が花売りの娘と必要以上に話し込んでいたから、邪魔しないであげたのだよ」
「んあっ、話し込んでたんやなくて押し売りされてたんよ。分かってて茶化すんやもんなぁ」

 呻き引き攣る声々を踏み分けて、いつの間にか鈴の音が僕の真横に立っていた。先程より幾分澱みの抜けた笑みで僕の乱れを直す手は、打って変わったように優しい。そうなるように仕込んだのは僕だ。力を厭わず、判断に迷わず、僕にしか打ち解けぬよう躾けて諭して嵌め込んだことを、何時まで経っても僕は正しいと信じている。
 瞬く間に伸ばされて整っていく布地と隙無く動く指に、ざらついた心が少しずつ凪ぎ始めていく。鼻歌すら奏で出しそうな頬へ思わずこちらも手が伸びかけるが、耳の先を僅か掠めた鬱陶さが寸でのところで衝動に勝った。一寸の虫ですら五分の魂を宿す。いくら地面で意地汚く藻搔く塵でも、人目であることには変わりない。

「影片、そろそろ彼等を仕舞いたまえ」
「‥でも。みんな、久しぶりのお外で楽しそうやし」

 彼にしては低い声が見え透いた言い訳を小さく零す。何時ものことながら気分の移り変わりが分かりやすい子だ。すっかりくすんだ頬と竦めた肩にそんなことを思う。少し尖って結ばれた唇だけはあからさまに不満を示しているが、僕の目を見て言い放つ勇気は無いらしい。自分が伸ばした皺の跡をわざとらしく凝視するいじらしさに今度は素直に手を出して躓く指へ己のそれを絡めてやる。まだ叱られても嗜められてもいないのに下がる眉と泳ぐ視線が、どうか早く落ち着くように。祈る相手は自分だが、気休めは多ければ多い方が良い。なるべく穏やかさを想起させる声を意識して俯く名前を呼べば、数秒遅れで硝子細工を思わせる眼差しが僕に刺さった。

「帰ってから僕の庭で遊ばせてやれば良いだろう。こんな場末の路地裏で塵と戯れても、得るものは一つも無いよ」
「‥‥お師さんが、そう言うなら」

 納得はまるでしていない声音が、それでも僕に従うことを選んで溜め息混じりの諾を吐く。蜂蜜と露草を溶かした瞳から波が引くように彩度と温もりが消える。結んだばかりの指に一度中途半端に力が篭って、握り返す前に離れていく。緩慢な瞬きの末にすっかり造花と化した影片は、くるりと身を翻して尚続く狂乱へ鈴の音と共に向き合う。薄い身体の合間から聞こえる不協和音は峠を越え、力無い悲鳴に混じって嘆願と命乞いが時折癇癪のように空気を揺らす。人に許された可動域を軽く超えて青黒く固まる腕や、泡を吹いて途切れた意識を置き去りに引き伸ばされて震える首が、ロングコートの翻りに合わせて一瞬だけ視界を埋める。形が変わる程にあちこち圧し潰されて悲鳴の代わりに体液を垂れ流す目玉と運悪く目が合ったが、振りかぶられた影片の腕に遮られてすぐに何も見えなくなる。

「お師さんが優しい神様で良かったねぇ」

 労うふりをした明らかな侮蔑の声が、追い打ちのように狭い路地裏に反響していた。再度視線の高さで開いた掌は、地の凹凸を雑に撫でて腹立たしげに拳へと戻る。また不自然に広がった裾口へ、路地裏の薄闇とは明らかに濃度の違う影がいくつも飛沫を上げて飛び込んでいく。影片が己の影に棲まわせる龍はいずれも幼く神気の浅い無垢ばかりで、加減と節度を主人同様まるで知らない。じゃれつけと指差されたものが玩具なのか命なのか考えることもせず、命じられれば善悪問わずに牙を剥いた。品位あるいきものとして躾けるよう何度も注意しているが未だ成長は見られず、むしろ少しずつ悪化している。まぁ、僕の耳も痛い苦言だから、あまり躍起になって強いることもなかなか出来ないけれど。
 影を全て仕舞い終えた影片が不意に右手を下ろし、先程まで僕に掴み掛かっていた愚か者の前へきっちり拳一個分の距離を置いてしゃがむ。汚れや穢れを纏わぬようにきちんと裾を気にして屈む背中は、怒っているようにも浮かれているようにも見える。地獄の方がまだ質が良い白昼夢の中、影片は背中を丸めた爪先立ちで、幼子のように膝を抱えながら汗と涙に塗れた戯言を熱心に見下ろす。外側だけは麗しく整った影に見下されて、愚者は壊れた蓄音機のように何度も忙しく助けを乞うていた。自分が神と呼び縋る者が寸前まで己の息の根を握っていたと知れば、一体どんな顔をするのだろう。咄嗟に手を伸ばされても届かぬ場所で浴びる絶望が一番暇潰しに効くと、罰当たりに嘯いたのは果たしてどの友人であったか。何時も適当に人理を誑かして回る彼等の与太話も、時にはこうして役に立つ。

「先に手出したのはそっちやのに、『助けて』なんて虫が良い話やね。おれなんかに手合わせる暇があったら、人を見る目でも磨いたらええんちゃう?」

 赤子をあやすにはうってつけの声で紛れも無い毒を吐き、影片は鈴を連れ立って軽やかに笑う。降り注ぐ温度差は仰ぐ顔から光と名のつく全てを吸い取り、より一層影片の纏う影は濃くなっていく。まるで誘虫灯だ、それもとびきり悪質で悪辣な類の。今日も例に漏れず身の程を忘れた虫が爛れた瞳で掌を見せるから、開ききる前に無頓着な腕を掴んで僕の手元まで引き上げる

「‥溺れる者は藁をも掴む。君が混ざりものだとしても、神であることには違いないからね」
「そこで出来損ないとか半端者って言わんところ、やっぱり大好きやで」

 人と神が歪に仕立てた稀有な星が抵抗一つ無く傍らに戻り、僕にしか見せない笑みをへらりと零す。そのまま蛇のように僕の腕へ巻き付いた手は今日も愚直に僕だけを選び、影は更に冴えていく。花びらのように踵を返し、さっさと連れ立って光の方へ歩き出す足元にはもう既に新しい闇が生まれ始めている。

「お師さんお腹空いてへん?せっかく街まで来たんやし、何か美味しいもの食べてから帰ろ」
「こんな掃き溜めにいて、よく食欲など湧くものだね」
「掃き溜め育ちやからな!たまにはあんな過去も役に立つんやねぇ」

 機嫌良く先を急ぐ横顔は、当然空を切った縋りの手も敢え無く潰えた嘆きの声もすっかり忘れて輝いている。未熟な龍達も鈴の音に合わせて段々と濃くなる影の中で蠢き出すが、一つ睨めばたちまち大人しく黒に溶ける。やっと目障りが消えたのだ、数十分ぶりの蜜月に割り込むなんていくら眷属でも許さない。

「おれの神様のお通りや!お天道さんも道開けや!」

 その他諸々の有象無象を掻きす程の一際陽気な声が上がり、絡んだ腕ごと天道へ二人揃って躍り出す。かみさま、とまた一つ救いを求める声が上がった気がしたけれど僕達には関係無いから無視をした。