Ykanokawa
2024-03-16 01:23:52
8062文字
Public クリテメ
 

ハーブティーとホットモヒート

※エピローグまでクリア推奨
※エピローグ後にフレチャで同棲しているクリテメが料理を作って食べるだけの話
※薄っすら3章・エクストラネタを挟みます

今回は飲み物なのであまりお腹空かない…はず!
レシピを紹介する作品ではありません。料理して飲んで食べる2人を眺めるだけ。むしろレシピを守っていないので参考になりません。

「今月も、もうそんな時期か」
 配達員から軽めの木箱と一通の封書を受け取ったテメノスはそう独り言ちた。軽いが一抱えはある木箱を玄関先に下ろし、先に見慣れない封書の方を確認する。
……ヒカリから?」
 もちろん公のものではない。生真面目さを感じる私用のサインが差出人に書かれていた。それも宛名はテメノスではなく、クリックの方である。
「ふむ」
 旅の間に随分と仲良くなったな、と思う。最初は一国の王子相手にと気を張っていたクリックだったが、2人とも歳も近ければ気質が似ているところもある。主に鍛錬となると我を忘れがちなところだとか。
 何度となく手合わせを繰り返すうちに通じ合うものがあったのだろう。旅路の終わり頃には彼の臣下であるベンケイの前でつい〝ヒカリさん〟と呼びかけて慌てて訂正する可愛らしい姿が見られた。聖堂騎士としてはよろしくないので気安すぎるヒカリに代わってテメノスが釘を刺しておいたが。
 とは言ったものの、自分を含め、ヒカリは当時の仲間たちと公を超えた付き合いを望んでいるらしい。場を弁えた交流ならば、テメノスにとやかく言うつもりも権利もない。
「危急であれば私の名前もあるだろうが」
 完全に私事に関する手紙。そう判断したテメノスは封書を玄関先に置かれた青いボックスの中に入れた。並んだ小さな青と緑のカラーボックスはクリックがここに住み始めたときに購入したものだ。自分が開けるべきではないと判断した手紙や小包はこの中へ入れられる。
 軽い木箱だけを抱えてテメノスはリビングへ戻った。
「さて……と」
 静まり返った寝室の戸を見遣る。扉の向こうではテメノスの子羊がすやすやと寝息を立てているはずだ。朝日の差し込む時間だが、けして怠慢ではない。つい一刻ほど前に夜勤から解放されておやすみの挨拶を交わしたばかりである。
 午後からはまた大聖堂の警護だというから、ぎりぎりまで寝かせていても罰は当たるまい。聖堂騎士の人員不足はまだまだ解消されていないのだ。
「まあ、ちょうどいいタイミングか」
 テメノスの恋人は基本的に寝汚い部類に入る。テメノスが多少、がさごそ動いたところで目を覚ますことはないだろう。
 普段は隠している戸棚の鍵を開け、道具一式を引っ張り出す。厚手のグローブ、マスク、断ち切りバサミ、乳棒と乳鉢、アルコールランプ。そしてテーブルを覆う程度に大きい敷布。
 テメノスはまずテーブル全体にその敷布を引く。
 差出人欄に〝キャスティ・フローレンツ〟と記載されている伝票を剥がす。固く閉じてある蓋を外せば嵩のある中身がぶわりと飛び出し、土と草の匂いが部屋の中に充満する。山と積まれた生の薬草と香草を敷布の上に取り出すと、底の方からは既に乾燥処理された薬や香草の袋と軟膏や湿布の基剤となる物品があれこれと敷き詰められている。
 後で今月のお返しを考えなければ、と頭の片隅にメモ書きを残し、テメノスはマスクを身に着け、グローブを手に嵌めた。
「少しだけ頑張るとするか」


 テメノス・ミストラルとは基本的にものぐさで大雑把であると当人は自負している。ひとつに熱中すると周りを見なくなることもしばしばだ。手を抜けることがあるのなら抜いてしまう方だし、道理や人道に反していない範囲の出来事には目を瞑る不真面目さがある。
 無論のこと、然るべきときには然るべき仕事を熟すし、相応に何匹も猫を被ってみせる。ただ、根の部分は直すに直せないだけで。
 荷の送り主などは度々テメノスのことを真面目で誰よりも正直、などと称するが買い被りが過ぎると思う。
 そんなテメノスであるが、ひと月に一度だけ、絶対に手も気も抜かないと戒めていることがあった。
「いつものことだが、さすがに減りが早いな」
 救急箱を開けて一番上に置いてある切り傷用の軟膏の軽さに溜め息を吐く。もっとも出番の多い薬であるから仕方がないとはいえ、憂いを憶えるくらいは許されたい。
 以前なら、こんなことはなかった。大量に消費する機会と言えばテメノス自身がひどい荒事を片付けた後くらい。他にあるとすれば教会の子どもたちが転んだときだろうか。そもそもテメノスは外傷であれば魔法で治せてしまうのであまり重視したことはなかった。
 減りが早くなった原因は言わずもがな、クリックだ。聖堂騎士の仕事と切り傷は切っても離せないのでそれはいい。いや、心情としてはよくないが、仕事と私のどちらが大事などと尋ねるような面倒くさいだけの恋人にはなりたくない。
 人のいい彼は町人が困っていると迷いなく手を貸す。魔物退治を兼ねた狩りにだって参加する。子どもと遊んでいて小さな彼らを庇って擦り傷をつくるなんてしょっちゅうだ。
 身体を大事にしていないわけではない、とは思いたい。現に彼に持たせている軟膏のケースがすぐ空になると申し訳なさそうに打ち明けてくる。
 ――傷は男の勲章なんて、考えたくもない。
 乾燥させた薬草と生の香草を乳鉢の中でごりごりと磨り潰しながら、眉を寄せる。薬よりも苦い顔をしている自信はある。キャスティのレシピに従ってすべて混ぜ合わせると軟膏の基剤とともに湯煎にかける。
 湿布、消毒液、解毒剤に気付け薬、風邪薬から熱冷まし。
 ひとつひとつを温度ひとつ、容量ひとつ、違えることなく調薬に集中する。アルコールランプで熱する温度を保つのには根気がいるし、いちいち秤を使って薬草の量を確かめるのは大変に手間だ。
 それでもテメノスがひと月に一度のこの作業を疎かにすることはない。
 ――あんな想いは、もうたくさんだ。
 耳元でひどい吹雪の唸りを聞いた気がして、一度だけ、強く目を瞑る。瞼の裏に新雪に撒き散らされた鮮血が甦る。
 ひどく寒い早朝。止まない吹雪。囀る群衆。赤に染まる、テメノスの金と青。
 手を止めて道具を置く。震えを誤魔化しきれなくなりそうだった。
 数度、深呼吸をすれば〝あのとき〟もクリックを……テメノスを助けてくれた薬草の匂いが身体に満ちて幾分か心臓が落ち着きを取り戻す。彼が寝ていてよかった。今の顔はとてもではないが見せられそうにない。
 ――よくないな。
 今のテメノスは知っている。
 あと数時間もすれば寝惚け眼を擦る子羊が、やや舌足らずな声でおはようございます、と告げてくれるだろう。そのまるく甘い声音を知っている。毎日聞いているから、いつだって思い返すことができる。脳裏に描いて、確かに聞いて。震えは止まった。
 短く息を吐き、再び道具を手に取った。
「あとは……ハーブティーか」
 大分、嵩を減らしたテーブルの上をぐるりと見渡し、残りの材料に手を伸ばす。キャスティがあらかじめ乾燥まで終わらせてくれていた薬草類とフレッシュミントが少量。
「ミント、ね」
 青々としたそれに思うことがないわけではない。ましてや〝よくないこと〟を想起したばかりである今は。
「これ自体に罪はないし、薬効としては優秀なんだが」
 何故、〝彼女〟はそう名乗っていたのだか。元の名前も薬草であっただろうに。たまたま目についたものだったのか、それともこの葉のようになりたかったとでも言うのだろうか。確かめる術はないし、持ち前の探求心が疼くこともないのだけれど。

『ハーブとしてはとても優秀よ。嫌な想いがあるなら、すっきり飲み干してしまいましょう』

 いつだか薬師の彼女がそう断じて手渡してくれたとある飲み物を思い出す。うん。これは彼女に倣って後で飲み干してしまおう。
 薬に比べ、ハーブティーはまだ楽だ。少なくとも温度や量で大失敗するということはない。
 とはいっても、これもテメノスや彼の身体に合わせた配合が決まっているので手は抜かない。レシピ通りに薬草と香草を混ぜ合わせると、数種類のハーブティーが出来上がった。疲労回復、免疫向上、消化促進。
 すっかり片付いたテーブルに手際がよくなったものだと自賛する。
 出来上がったハーブティーの茶葉をそれぞれケースに入れて炊事場に向かう。日頃から愛飲しているハーブティーは、湿気の少ない戸棚の中にストックしている。
 戸棚を開けると居並ぶ茶葉の瓶が目に入る。明らかに目減りしている瓶へ作ったばかりの茶葉を足していく。
……うん?」
 奥まった箇所にある明らかに放置された瓶を見つけて、テメノスは首を傾げた。目ぼしいハーブティーはすべて自分が調合しているから、初めて見るということはないはずだが。何が入っていただろう。
 疑問に思い、手に取って――
 ラベルを確認するまでもなく、それが何なのかわかってしまった。
「これ、は……
 ルイボスティーをベースに、レモンバーム、カモミール、少量の玉ねぎの皮とオレンジピール。
 あの旅路の最中に、キャスティからテメノスが処方されていたそれだった。
 彼女はよく仲間たちに自ら調合したハーブティーを渡していた。それぞれの気質や体調に合ったもので、オズバルドなら眼精疲労、アグネアやソローネには疲労回復と美容効果の高いもの。健康体そのもののオーシュットさえ、おふくろのお茶を飲むといつもよりいっぱい食べられる! と喜んでいた。
 テメノスに渡されていたそれは安眠に特化したものだった。ただ眠るだけならば安眠草でよいのでは。そうと口にしたところ、目先の寝不足を解消しても体質を改善しなければ意味がない、と叱られてしまった。
 始めてみれば納得がいく逸品で、これを口にした夜は比較的よく眠れたような気がする。
 ただし、あくまでも比較的という話で、元々、眠りが浅い上に何かに没頭してしまうと集中が途切れないテメノスである。結局、旅の間にその体質が改善されることはなかった。なかったはず、なのだが。
 ――いつから、これに頼らなくなったのだったか。
 既にあたりがついている問いを心の裡だけで吐き出して、テメノスは瓶を抱えたまま蹲った。
 ――だって。
 だって、ひとりではないベッドは寒くない。たとえひとりで潜り込んだとしてもすぐに隣を温めてくれる体温を知っている。
 寝入り際に漫然と考え事をする癖だってなくなった。今日あったことを楽しそうに話してくれる声がある。テメノスもつい揶揄うポイントとタイミングを探してしまうから、そんな暇がない。
 悪夢を見なくなる日は来ない。おそらく、それは忘却と同じことだ。悪夢は見る。テメノスも、そしてクリックも。いろいろな方面に真逆なふたりだったが、歩いてきた道が互いに平坦ではないことは同じだった。テメノスはクリックの歯軋りで目が覚めるし、クリックはテメノスの譫言で目を覚ます。
 同じ夢を分け合うことはできないけれど、幸いにも手を繋ぐことはできる。
 訥々と話をしているうちに再び眠りに就くときもあれば、そのまま夜明けを迎えることもある。そんな日の夜はいつもより早くベッドに入って軽く触れ合って眠る。連続して悪夢に魘される日はほとんどない。
 だから、このハーブティーの出番はない。なくなった。
……
 心臓が破裂しそうな当惑と、締め付けられるような羞恥という、矛盾したものに一気に襲われた。
 テメノスはハーブティーの瓶を開ける。すっかり香りがとんでしまったそれをすべて大き目の薬包の中にぶち撒けると目の細かい網目状の小袋へと入れてしまう。
 ハーブティーとしては楽しめないが入浴剤代わりにはなるだろう。どうせ疲れて帰ってくるクリックのために、最後に役立ってもらうことにする。
 マスクを取り払って数時間ぶりに窓を開けた。
 窓の向こうからはフレイムチャーチのそよ風が吹いてくる。今日の風はまた一段と涼しい気がした。
 冷涼な風が火照ったテメノスの頬を撫でていった。


……クリック君」
「んん……
「クリック君」
「んぅ……
「クリック君」
「んー……あとすこし……
……子羊くん」
「子羊じゃありませ……っ! あ……
 テメノスはようやく起きたと胸を撫で下ろす。この子羊の寝起きが悪いのは今に始まったことではない。夜勤からの仮眠で疲れが溜まっていることも知っている。
 それでも、起こす方は少々難儀するのだ。
 ぱちりと澄んだ青玉を開いたクリックは、慌てて窓の外の日の高さを確認する。急げば間に合う時間ですよ、と教えてやればわかりやすく萎れて肩を落とした。
「す、すみません。テメノスさん」
「フフ、この御礼は何で返してもらおうかな」
「うっ……か、帰りに何かお土産でも」
 あくまで律儀で誠実な態度を崩さないクリックに笑ってしまった。
「そんなものいりませんよ。そんなものより、できるだけ早く帰っていらっしゃい」
「は、はい。わかりました」
 ベッドから身を引こうとするテメノスの腕を、クリックの手がそっと阻んだ。額にふわりと温かいものが触れる。
 こんな距離感を誰かに許す日がくるとは。なんて感慨を抱きながら甘んじる。瞼に、鼻先に、頬に、最後には唇に。優しく触れるだけの口づけを。
「おはようございます。テメノスさん」
「はい、おはよう。クリック君」
 甘えん坊の子羊がテメノスの肩口に顔を埋める。わからなくもない。こんな穏やかな日に心地よいベッドから起き上がって現実と向き合うには、ちょっとした気合が要る。さて、どこまで甘やかしていつ叱咤してやろうか。テメノスがそんな風に考えていると、すん、と肩口でクリックが鼻を鳴らした。
「ん……テメノスさん?」
「はい?」
 すんすん、と肩口から首筋までを鼻でなぞられる。匂いを嗅がれているのはわかる。わかるのだが、変な気分になりそうでテメノスはそんなクリックの額を軽く叩いた。
「犬ですか君は。いいから顔を洗って身支度をしてしまいなさい」
 熱っぽい顔を隠すためにそそくさとベッドを降りて寝室を後にする。ままならない日だ。まったく。


 洗面所からクリックが己の癖毛と格闘している声が聞こえる。
 ゆったりとした朝ならテメノスが手ずから梳いてやるところなのだが、残念ながら今は時間がない。
 クリックを起こす前に仕込んでいた香草サラダと厚切りハムを挟んだサンドイッチから重しを除け、斜め半分に切って薄紙に包む。林檎をひとつとペリエをひと瓶、一緒の紙袋に収めてしまえば昼食代わりの軽食が出来上がる。
 紙袋をテーブルに置いたところでケトルがぴぃ、と高い声で鳴いた。
 残していたミントの葉を千切り、ライムを輪切りにする。いつもはホットワインを入れている取っ手つきのグラスにミントとライム、常備しているメイプルシロップを少量加えてからステアスプーンを使って軽く潰していく。
 グラスの中からミントの香りがぶわりと立ち昇ったところで、ケトルから湯を注ぐ。ライムの皮と果肉が相まって清涼感の溢れる、胸がすくような匂いが胸を満たした。
 テメノスが2つのホットモヒートを完成させたところで、クリックがダイニングへ顔を出した。既に大方の装備を整えている。テメノスの手元にあるグラスを見た青玉がわずかに顰められた。
「テメノスさん、僕、今から出勤なんですが……
「知ってますよ。アルコールなしで作ってありますから安心なさい」
 グラスに鼻を近づけたクリックが小さく本当だ、と呟く。信用の無さを欠片ほど嘆いてみる。
「ありがとうございます。いただきます」
 さすがにこんなときまで食前の祈りはしない。軽くグラスを掲げて謝意を伝えたクリックは湯気を冷ましながら口をつける。ふうふう、と息を吹きかける様があどけなくて可愛らしい。
 それを見届けてからテメノスも自分のグラスを傾けた。
 真っ先に鼻腔をくすぐるのは目の覚めるフレッシュなミントの香り。ライムの皮の苦みがほんのり味蕾を刺激したか否かというところで、メイプルシロップの甘さがやんわりと舌を包み込む。喉を通り越して残るのはミントとライムの爽やかな後味。ホットにしたことで、ほとり、と温かい優しい感覚が胃の中に落ちていく。
「はあああ……
 3分の1ほどを飲んだクリックが目をしぱしぱと動かし、天井を見上げながら長めの息を吐く。言葉にはしていないが身体には沁み渡っているらしい。それは重畳ではあるが。
……君も若くない息を吐くようになりましたねぇ」
「え、いや、そんなことは……っ!」
「フフ、冗談です」
 半分程度はきちんと冗談だ。ただ若いばかりではない仕草が増えた。世の恋人たちは相手のそんな一面を目にすると恋の方が冷めるそうだが、不思議なものだと思う。
 だって、君がひとつずつ大人びていくことが、私はこんなにも愛おしい。
「そういえば、ヒカリから手紙が届いていましたよ」
「えっ!?」
 起きて一番の大声にこちらの方が驚いた。そんなに重要なものだったのだろうか。
 額に汗を浮かべたクリックが、何やら恐々とした目でテメノスの顔を伺う。
「その、中身は……?」
「読んでいませんよ。玄関のボックスに入れてあります」
 その答えを聞いたクリックは露骨にほっとした様子で残りのモヒートを啜る。内心で唸る。
 ――そういうところは、まだまだ子羊くんだな……
 それではまるで、いや、現にそうなのだろうが、テメノスに知られたくない秘密があるようではないか。テメノスでなくたって好奇心に駆られて暴きたくなる。
 ――まあ、相手はヒカリだ。
 疚しいことではないだろう。何せ、揃って誠実と実直が戦装束を纏って歩いているようなものである。どちらかが道を外れようとしたって、もう片方が意地でも連れ戻しにかかるだろう。
 それに免じてもう少し知らないふりをしてみようか。
 モヒートの最後の一滴までを飲み干したクリックが、ご馳走様でしたとグラスを置く。お粗末様、とテメノスもその隣にグラスを置いた。癖で予洗いをしようとするのでその手を止めて、代わりに紙袋を押しつける。
「私だって忙しいときくらい弁えます。そろそろ本当に急がなければいけないでしょう?」
「あ、はい。すみません。ありがとうございます」
 最後に明日の洗濯は僕がやりますから、と付け加えるのが彼らしい。ダイニングで見送ろうとしたテメノスだが、真正面に立ったクリックが不意に両腕を広げる。ぎゅう、と軽く抱き締められて目を瞬かせてしまう。また、すん、と鼻を鳴らす音。やっぱり、という甘さの滲む声。
 すり、とテメノスの髪に頬を擦りつけたクリックが耳殻に声を転がす。
「いつもありがとうございます、テメノスさん」
……――っ!!」
 その言葉の意味するところを正確に拾い上げてしまって、テメノスはクリックの腕の中で固まった。傷薬、ちゃんと大事に使いますね、なんて追い討ちをかけられて動けなくなる。声が出せないから、何のことですか、とすっ呆けることもできやしない。
 もう一度、テメノスを抱き締める腕に力を込めて、それで満足したのかするりと抱擁を解かれた。起き抜けと同じように額に唇の温もりが落とされる。
「いってきます!」
 ちゃんと怪我には気をつけますから。
 溌溂とした声が告げて玄関の扉を開閉する音が響いても、テメノスはしばらくの間、動けずにいた。
 足音が聞こえなくなってから、遅れてきた恥ずかしさに襲われる。つい数時間前と同じように蹲る他なくなった。誰が見ているわけでもないが、だからこそ一人で耐えるのがつらい。
 ――子羊くんのくせに。
 夕飯のミネストローネには彼の好みではない野菜をたっぷり入れてやろう。食べながらきちんと〝いってらっしゃい〟と言わせずに出て行ったことへの説教だ。食後には疲労回復のハーブティーを淹れて。
 うん、それから。
 彼が望むのであれば、使われなかったハーブティーの入浴剤の風呂に一緒に入ってやってもいい。