いを
2024-03-15 17:45:25
3909文字
Public 刀神
 

テーブル上で金魚が渇く

小夜子のこと。
・八雲さん【yasuinokikaku】
お借りしています。

 卒業式は意外とすんなり、そして呆気なく終わった。
 卒業証書をもらい、最後のホームルームも終わったあと小夜子は賑わう校門前のすみに体を寄せていた。
 手持ちぶさたに卒業証書が入った焦げ茶色の筒を持っている。無意味に筒を振ってみると、紙の音もなにも聞こえなかった。ぴっちりと、筒にくるまっている証だろう。
 桜の木にはまだ花が芽吹いておらず、芽がほんのすこしくっついている程度だった。
 卒業生と教師、そしてほんの少しの在校生が賑やかな声で話している。その輪に踏み込む勇気もなく、ただ達筆な字で「卒業証書授与式」と書かれている看板を見ていた。このセーラー服に袖を通すのもこれで最後かと思うと、なんだか呆気なく感じた。
 べつに、制服に未練はない。が、「学生だから」という甘えはもう通用しなくなる。小夜子は天照に入り、命がけで戦う毎日が続く道を選んだ。それは誰でもない、小夜子自身の意思だ。
「雨宮さん」
 ふと、静かな、大人しそうな声が聞こえて振り向く。図書委員の女子生徒だった。顔は知っている。名前も。昼休みによく熱心に受付で本を読んでいた子だ。
「三年間、早かったね」
 彼女も卒業証書を持っている。小夜子は「そうね」と頷いた。
「でも実りのある毎日だった。本もたくさん読めたし」
……あなたも、とても本が好きだったわね。きっとわたしよりも好きだったんじゃない」
「好きの大きさは、自分以外には分からないよ。私自身も、雨宮さん自身も。重さがないから」
 詩をうたうようにつぶやき、彼女は笑った。いたずらっぽく。あまり見たことのない笑顔だった。
「あなたは、第一志望だった大学へ行くんでしょう? 大学、受かってよかったわね」
「あ、覚えていてくれたの」
 彼女はほおを自然と赤く染めて、嬉しそうに顎までの髪の毛を揺らす。白い耳がかすかに見えた。
「私、小説家になるのが夢なんだ。雨宮さん、もし私の名前をどこかで見かけたら、手に取ってね」
「あなたの本名だったら分かるわ」
「きっと本名で出すよ。私は私の名前が好きだから」
「そう」
「雨宮さんは天照に行くって聞いたけど、本当?」
 彼女のまっすぐな視線が、小夜子を見つめている。心配そうな表情だった。
 小夜子は頷き、「本当よ」と答えた。
「わたしくらいの年齢の子だってたくさんいる。命の保証はないけど、やることがあるから」
「強いね」
……だったらいいけど」
「それじゃあ、私行くね。お母さんが待ってるから。また、連絡するね」
「ええ」
 彼女は軽く顔の横で手を振って、セーラー服のスカートをひるがえして去っていった。
 視線をつ、とあげる。
「いつからそこにいたの」
「数分前です。ご友人との会話は聞いていないのでご安心ください」
 桜の木の枝に、ふくろうがとまっていた。片翼、片目のふくろう――軍刀、天霧の姿だった。
……ふうん。べつにいいけど。聞いていたって」
「目立つのは本意ではないでしょう、主。人間の卒業式というものをこの目で見ておきたかったのです。私を振るってきた代々の主はみな大人だった。学校にこうして通う学生はいませんでしたから」
「あなた、結構珍しい物好きなのね」
「そうかもしれません」
「卒業式はもう終わりよ。じきひともいなくなるわ」
「私はもう少し眺めています」
「ああ、そう」
 興味深そうに天霧は同じ背格好をした学生たちを見下ろしている。人間の姿にならないのは、せめてもの良心だろう。
 小夜子は鞄を持ち、脇に卒業証書が入った筒を挟んで校門から出た。生暖かいようで、すこし冷たい風が小夜子の髪の毛をさらった。
 そのまま街路樹が立ち並ぶ道を歩く。もう少し歩くといつも通っている本屋がある商店街に入る。
 商店街の中で視線をふと横に向けると、見知った柄シャツが見えた。サングラスごしに、なにか見ている。なにを見ているのか分からないが、少しの間それを眺めていた。ぼんやりと、身長が高いなと思う。柄シャツの主、八雲は視線に気づいたのかこちらをみとめたようだった。
「小夜子ちゃん」
 いつものトーンの声で、八雲は笑った。小夜子は表情を変えずに首を動かした。
「どうしたの。学校早い……あ。もしかして卒業式?」
「ええ」
「今日だったんだ。おめでとう」
「どうも」
 ぽつりと呟くと、八雲は苦笑する。彼が出てきた店は古着屋だった。ここは小夜子も知っている。よく通る場所だから。
「なにを見ていたの」
「服をね。ちょっと」
「ふぅん……。今日はお供つれてないのね」
「お供……白映くんのこと? 今日はオフだから、俺も白映くんもお休みだよ」
 そういえば白映はいつもなにをしているのだろう。すこし気になったが、小夜子には関係のないことだ。
 相づちをうって下を見ると、コンクリートの道に丸い黒いしみが見えた。雨粒だった。すこし肌寒いと思っていたら雨が降ってきていたのか。
「雨」
 無意識に囁くと、八雲はサングラスをすこしずらして空を見上げた。「ほんとだ」と答え、スマートフォンの時計をそっと見下ろす。
「小夜子ちゃん。ちょっと、雨宿りしていかない?」 
「いいけど……。どこで?」
「近くにコーヒーと甘いものが美味しいカフェがあるから、そこで」
 小夜子が頷くと、八雲は小夜子の前を歩き出した。雨粒は徐々に大きくなっていき、範囲も狭まってきている。通り雨だったらいいのだがと、そう思うのが惜しくもあった。なぜ、と胸中で思うも、答えは結局いつも見つからない。
 八雲が入ったカフェは昔からあるような喫茶店だった。重厚なベルベット風の赤いソファに座ると、すぐに店員が水をふたつ持ってきた。水差しもある。
「なにがいい?」
 メニューにはたくさんのコーヒーとケーキの種類が並べられていた。
「卒業祝いにね」
 そう彼は言った。
……? どうして?」
「どうしてって」
 八雲は不思議そうにたずねる小夜子を見て、ちょっと困ったように眉尻を下げた。
「せっかくの偶然だし」
 メニュー票をぺらりとめくりながら彼は続ける。
……卒業式だし?」
……。そう」
 困らせるのは小夜子の本意ではないので、大人しく頷いた。「じゃあ、ブレンドを」と伝える。
 サングラスの奥の目が、「それだけ?」と伝えていた。
「あなたが食べればいいじゃない」
「まあ、そうなんだけどね」
……ごめんなさい」
 視線をさげる。なんだか、謝らなくてはいけない気がしたのだ。
 小夜子はいつも学校以外では大人に囲まれていたけれど、八雲の前だとなにを伝えればいいのか、なにを伝えたらいいのか分からない。
 八雲は「謝らなくていいよ」と笑った。
「小夜子ちゃん、甘いの好き?」
「甘すぎるのは苦手ね」
「そうなんだ。ここのチーズケーキがね、あんまり甘くなくて美味しいのよ。どう?」
 どうとは、と一瞬考えて、気を遣ってくれているのだと知る。メニューにチーズケーキの写真がのせられていた。つやつやとしているチーズケーキだった。
「甘すぎなくて」
「甘くないなら、食べる」
 素直に伝えると、八雲は「はいよ」と笑った。甘えることができないのだと自覚する。自然に浮かんだその甘えの意味を考えても分からなかった。
 八雲が店員に注文しているところをぼんやりと見つめる。
 奥でエスプレッソマシンの音が聞こえてきた。
「じき、雨もやむみたいだよ」
「そう。よかった、傘持ってきていなかったから」
 本当に、通り雨だったらしい。今日の雨は本当に知らなかった。天気予報をこまめに調べるような、そんなマメな人間でもない。
 コーヒーのいい匂いがする。すう、と八雲に気づかれないように匂いを嗅ぐ。果実感のある匂いもしている気がした。ほんのり、レモンのすがすがしい匂いもした。
「小夜子ちゃんは大学行かないの?」
「え、ああ。そうね。天照の仕事に専念するから」
「そうなんだ。……小夜子ちゃんは強くなるよ、きっとね」
「だったらいいわね」
 他人事のようだけれど、小夜子は小夜子自身のことをいつもそう見ていた。
 司――叔父も、そうだった。
 自分のことをいつも他人事のように言っていた。けれど本については、違う。まるで文章に自分を投影するような生き方だった。そう考えると、文章から生まれた存在だったのかもしれないとさえ思う。
「叔父が」
「叔父さん?」
「叔父が、5年前妖魔に殺されたの。だからわたしはずっとその妖魔を探している。その妖魔を殺すためにわたしは天照に入った。叔父は鯉朽隊弐段。強いひとだった。それでも、その強いひとが殺された。だからわたしは叔父よりももっと強くならなくちゃいけない」
 八雲はその言葉を聞き遂げてくれたようだった。
「叔父さんのことが大好きだったんだね」
……分からない。でも、叔父は優しかった。ただ、それだけよ」
 コーヒーの香しい匂いとともに、飴色の机の上にコーヒーカップが置かれた。白磁の、きれいな色のカップだった。
 八雲の前にも、それは置かれた。
 角砂糖は八面体をしていた。蛍石のように。
 八雲はそれをコーヒーに溶かして、銀のスプーンでくるりと混ぜた。
「それはきっと、小夜子ちゃんにとって大事な叔父さんだったってことだよ」
「そうかもね」
 また他人事のように呟くと、彼はくすりと笑って白磁のカップの取手に指をつまんで、一口飲んだ。
 はめごろしの窓に雨粒がくっついていたが、もう新しく張り付くことはないようだった。
「雨、やんだわね」