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千代里
2024-03-15 08:21:19
7028文字
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ナグサの話
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ナグサの話・その3
眼前に迫ってくる棒に対して、瞬きをする間も惜しみ、即座に回避の一手を選び取る。
そこに思考の時間すらない。それは、条件反射としてこの体に身につけさせたものだ。
前に倒れ込むのではなく、後ろに飛び退り、距離を置く。それが彼なりに編み出した回避の策だったのだが。
(ーー次はもうない)
背後にあるのは壁だ。これ以上、距離を置くための空間はない。
己の状態を把握する間もなく、続けて、間髪入れずに突き込んでくる一手。これも、その場で体を捻るように回避する。しかし、やはり体の均衡が取りづらい。とっさに体を動かすと、どうしても左側の重心が軽くなってしまう。かといって、体重移動を意識すれば、
「
……
っ!」
モタモタしている間に、頭上から次なる一手が迫る。
見た目はただの木の棒だが、棒とて思い切り殴られれば痛いし、頭を割ることだってある。
破れかぶれであることは承知で、彼は前へと転がり込む。だが、予想通り体の均衡がぶれてしまう。均衡を取り戻そうと反射的に腕を伸ばしかける。
しかし、伸ばそうとした腕がそこにないことを自覚して、すぐに己の意識を切り替える。切り替えが遅くなった回数の分だけ、彼は痛い目を見てきたのだから。
幸い、今回はわずかなズレのみで狙った位置に転がり込めた。
ふ、と一呼吸置いて相手に向き直らんとする。そのとき、彼は相手ががこちらへと振り向く途中であることに気がつく。
自分は相手の背後にいて、相手はまだこちらに対応し切れる姿勢ではない。ならば、その隙を見逃さない手はない。
右手に握った棒を握り直し、踏み込みと同時に突き出す。その先端が、相手のガラ空きになった背面の中でも、とりわけ対処しづらい脇腹に埋まらんとしたところで、
「隙が見えたからと言って、がむしゃらに駆け込むものでもありませんよ」
言葉と共に、狙っていた箇所が彼の目の前から消える。ハッと息を呑むより早く、
「!?」
己の足を襲った均衡の崩れに、目にも止まらぬ速さで足払いをかけられたと知る。
とっさに受け身を取ろうにも、足りない腕では地面に激突する体を支えることすらままならない。
ーーぶつかる。そう思った瞬間、中途半端な位置で体が空中に静止した。
それが、倒れ込みかけた己の体を、相手が掴んで支えてくれたからだと気がつくと同時に、ゴロリと床に転がされた。もちろん、体を打たないように加減はされていたが、純粋な痛みよりも先に、敗北の悔しさが心の隅に滲んだ。
「ひょっとしたら、その隙が作られたものでもありますから。隙につけこんだと思った先に、罠が待ち受けているやもしれません」
こんなふうに、とダメ押しと言わんばかりに、鼻先に棒の切先を突きつけられる。もしこれが真剣だったなら、己の鼻先はもう存在していなかっただろう。
とはいえ、負けは負けだ。憮然とした顔になりながらも、彼は小さく息を落としてから、片手を使って体を起こす。それくらいの日常的な動作なら、どう力をかければいいかは体がようやく覚えてくれた。
身を起こして、己の持っている得物と相手を交互に見やる。たとえ誘い込まれた隙だったときても、それを埋めるほどの速さがあったら、切先は相手に届いただろうか。ならば、回避にばかり気を取られず、肉を断つ覚悟で迫るべきだったのだろうかーー。
「いやいや。そんなに穴が空くほど見つめられたら、少し照れますね」
試合相手ーー青みがかった黒髪を肩ほどの高さで真っ直ぐに切り落とした青年の頓珍漢な言葉に、継続して体に残っていた緊張まで失せて、彼は細く息を吐き出した。
「別に、見惚れてたわけじゃない」
「おや、そうでしたか」
話を脱線されても困るからと、彼ことナグサは今度は分かりやすく大きな嘆息をした。
目の前の相手ーーハヤメは一時が万事この調子だ。空気の読めない愚か者というには行動は機敏であり、その動きには一目置いている部分もあるが、話しているとどうもペースを崩される。
軽くかぶりを振って立ち上がると、周囲の景色が改めてナグサの視界に入る。
ここは、今の住処の敷地内に併設している道場だ。剣術の指南に使われるような形式ばったものではなく、大きさもさほどのものではない。しかし、ある程度派手に体を動かしていい場所が必要であるとして用意されたものらしい。
今まで、この建物を使ってきたものの中には、武芸を身につけようと志す者もいたらしい。その者の希望を受けて、居住のための家とは別に、修練のための建物を用意したという経緯があったと、以前教えてもらっていた。
武芸という型にはまったものでなくとも、取っ組み合いの仕方くらいは肌感覚で理解している。しかし、やはり正式な訓練を積んだものの前では手も足も出ない。
まして、この隻腕の身では、なおさらのこと。今までも、逃亡の隙を見つけるための手法を身につけていただけで、相手を排除するための方法は知らないも同然だ。
それは今後何かあったときに身を守れないからと、半ば強制的に稽古をつけさせられて、早数日。乗り気ではなかったものの、試合という形式になれば流石に自ら負ける気にもなれず、ナグサは自分なりに試合相手に一撃を入れる方法を模索し始めていた。
「考え方自体は、間違っていないと思いますよ」
いきなり思考を読み取ったように話しかけられて、ギョッとしてナグサは目の前の相手を見返す。すると、ハヤメはもっともらしい顔つきをして、
「ナグサくんは小回りがききますから。相手が体格によって見落とすところを突くという考えは、私は的外れとは思いませんがねぇ。
……
どうかしましたか?」
「
…………
別に」
思考を読まれたような気がして気分が悪いーーという感情も、生まれた瞬間にすぐに凪いでいく。そんな一時的な感情の揺らぎなど、いちいち口にする必要のないことだ。
「では、そろそろ今日は終わりにしましょうか。さてさて、今日のおやつは何でしょうね」
何やら子供のように声を弾ませると、ハヤメはナグサに近寄り、彼の片腕を包んでいる着物の結び目を解く。失った片腕は着物の袖を通してはいるものの、その大部分がないために、袖が大きく余って動く時に邪魔になる。そのため、袖を片側で片結びしていたのだ。
片腕しかない身では、結び目を結ぶのはもちろんのこと、解くのも不得手となってしまう。とはいえ、ナグサは結んでくれと頼んだわけではないのだが、ハヤメが勝手に試合を始める前に結び、そして今解いていったのだった。
「それに、私はともかく、ナグサくんは着替えてきた方がいいでしょう」
何故そんな面倒なことを、と思った矢先、道場の木戸をガタガタと引く音が響く。
視線をやった先には、半ば予想通りというべきか、ナグサにとっては見慣れた騒々しい少女の姿があった。
「ナグサ、見つけたぞー!」
見つけたも何も、隠れたつもりはないのだが。そんな無言のツッコミをするよりも先に、ナグサは珍しく本日二度目の驚きに普段は平坦に凪いでいる瞳を見開く。
「
……
カヅチ。何だ、その格好」
騒がしい少女ことカヅチは、いつもはナグサが見たことない花びらをそのまま形にしたような変わったつくりの着物を着ている。今ではすっかり見慣れたが、やはり市井の只中では浮く装いだ。
だが、今日の彼女はナグサにも見覚えがあるような仕立ての着物を着ていた。彼女の白緑の髪に似合うような淡い桃色の布地は、さながら彼女の周りだけ春爛漫な世界を広げているかのようだ。
「これは、ヒヅルに着せてもらったんだぞ! 見ろ見ろーっ」
何やら妙な言葉遣いで己の姿を主張しながら、カヅチはぐいぐいとナグサに迫ってくる。ナグサは言われるがままに彼女を眺めてやるも、それは文字通りただ見ていただけだった。
それでも、カヅチにとっては満足だったらしい。普段は短くなっている彼女の側頭部の角にぽつぽつと梅の花が咲くのが見えた。
「ナグサが、着物を着るの面倒だーっていつも言っていたのが分かったぞ! じーっと突っ立って動くなって言われたんだ。あれがメンドウなんだなっ」
「
…………
まあ、大体そんな感じだ」
ただ突っ立っているだけで着付けてもらえるなら、全然面倒の内に入らないのだが、と思ったのは口にしないでおく。片腕では紐を結べないから、着物を着づらいという意味で言った言葉ではあったのだが、ここで実演を求められてもそれこそ面倒だ。
自分が得物として使っていた棒を道場の片隅に運び、髪をまとめていた手拭いをおろして、頬を流れ落ちていく汗を拭う。そうして一息ついていると、ぱたぱたとカヅチが駆け寄ってきた。何が楽しいのか、ぐるぐるとナグサの周りを回っていた少女は、不意にぴたりと足を止めると、こてんと首を傾げる。
「ナグサ、何か臭うぞ」
「におう? 何が?」
お前の梅の花の香りか、と言いかけたら、トントンと別の軽い足音が聞こえた。体重を感じさせない独特の足運びは、黙って二人の様子を見守っていたハヤメのものだ。
「汗の臭いでしょう。その格好で戻ったら、ヒヅルに怒られますよ。だから、着替えた方がいいって言ったんです」
ハヤメの指摘を受けても、ナグサは眉を一つ顰めるだけだった。
つい最近まで泥に塗れたような生活をしていたせいだろうか、改めて自分の体に意識を向けても、彼らが言うような臭いは感じない。それとも、人ならざる者が故の嗅覚でも働いているのだろうか。
「あんたはいいのか」
「私はほら、汗は気分以外でかきませんので」
試しにカヅチの方を見やったが、彼女は再びこてんと首を傾げただけだった。普段は人のようにしか見えないのに、ハヤメもカヅチもこんな所で人あらざる者の側面を見せてくる。
準備をしていたのだろう、ハヤメは籠に入れた着替えの着物をナグサに渡し、自分は道場を外と仕切っている障子戸の方へと向かう。彼なりに、着替え中は目を逸らすという気遣いをしてくれているのだろうか。もっとも、気遣いもきの字も知らなさそうな童女は、ナグサの前から退こうともしなかったが。
(
……
面倒だな)
嘆息しながらも、汗でべたついた着物が鬱陶しいと思っていたのは確かだ。久方ぶりに結んだ袴の紐を片手でどうにか解き、続けて同じように着物を押さえていた腰紐を解く。散らかった着物は足で片隅に退かしておき、手拭いで手が届く範囲の汗を拭き終えてから、渡された着物に袖を通す。
「カヅチ、紐やってくれ」
「お、久しぶりにぐるぐるしてぎゅーするんだな!」
「締めすぎるなよ」
以前、彼女に着替えを手伝わせたところ、内臓が出るのではないかと締められたことを思い出し、牽制の一言を投げておく。忠告の甲斐あってか、彼女が巻き付けて縛った紐は、やや不恰好な結び目ではあったがしっかりと締まってはいた。
「カヅチ、ここ押さえておいてくれ」
帯の方もどうにか彼女の手を借りて、結び終えることができた。こちらも見栄えは悪いが、住処でくつろぐ分には十分だ。そもそも、今までは腰紐で終えていただけだったので、今更丁寧な着付けにこだわる必要もない。
着替えを終え、汗まみれになった着ていた着物をぐるぐるとまとめて抱え、少し開いたままの障子戸へと向かう。そのまま外に出ようとした彼は、そこで足を止めた。
「おー、雨が降ってるぞ、ナグサ」
「通り雨か
……
」
カヅチが道場に入ってきたとき、彼女の着物は濡れていなかった。ということは、もたもたと着替えている間に雨が降り出してしまったのだろう。ハヤメの姿は見当たらないが、もう彼は戻ってしまったあとだろうか。
道場から一歩外へと踏み出そうとしたナグサは、そこで隣に立つ童女を見やり、
「お前、素足で来たのか」
「おう!」
力一杯頷くカヅチ。そんな良家の令嬢みたいな着物を着せてもらったのに、どうやら彼女は裸足で歩いてきたらしい。
ナグサも普段は外だろうが畳の上だろうが裸足でいることが多かったので、今更素足で活動することに目くじらを立てるつもりはない。ないのだが。
(
……
結構降ってるみたいなんだよな)
時間にしてほんの二十分かそこらだったはずなのに、地面はかなりぬかるんでいる。篠突く雨は、普段は柔らかな庭先の土を容赦なく泥だらけの地帯に変えていた。その上を歩いていけば、間違いなく着物に泥がはねる。何より、傘もないのだからまずもって着物が汚れる。
(ばあさん、怒るだろうな)
それに、自分の違う装いをいの一番に見せにきたカヅチも、ひょっとしたら着物が汚れたら落ち込むかもしれない。せっかく咲いた梅の花を散らすのも、何だか気が引ける。
しばしの逡巡の末、彼は一度ぐるぐると丸めた着物を広げて、カヅチの頭の上に被せた。少し汗くさいかもしれないが、そこは容赦願うこととする。
「ナグサ?」
「それ、被っておけ。おぶっていく。そんな格好で泥の中、歩いていくわけにもいかないだろ」
「おぶう?」
「背負っていくって言ってるんだ」
膝を折り、カヅチを背負いやすいように屈む。片腕しかないものの、そこは彼女がバランスを取ってくれることを願うしかない。
カヅチもようやくナグサが何をしようとしたのか理解してくれたようだ。ぱっと顔を輝かせると、初めてのおんぶが嬉しかったのか、ぴょいとナグサの背中にへばりつく。
「おお! 何だか空を飛んでいるみたいだ!」
背中ではしゃぐ童女の声とは対照的に、ナグサは一歩を踏み出すだけでも全神経を集中していた。
幸い、背負われ方自体は、市井の子供たちを見てカヅチも知っていたらしい。片腕でどうにか均衡を保ちつつ、背中にかかる重みを意識しながら、辿々しく歩み出す。自分の耳元にかかる彼女の柔らかな髪の毛と、微かな梅の甘い香り。それらを感じながら、ぬかるんだ地面を己の足で踏み締めていく。
せっかく着替えた着物も雨で濡れてしまうが、こればかりはハヤメに後で詫びるしかない。そこまで考えたときだった。
「ナグサ、あっちにでっかい蛙がいる!」
「あっ、ちょっとお前
……
っ!」
背中におぶわれていた彼女が、不意に均衡を崩して片側へと体重をずらす。おそらくは、そちらに蛙がいたのだろうが、あろうことか、そちらはナグサの片腕がない左側ーーもっとも体重の変化を大きく受ける方だった。
予想通り、体がぐらっと傾ぐ。微妙な均衡で姿勢を維持していた体が倒れ込むのが、感覚として理解できる。
本日二度目の転倒を覚悟しながらも、ナグサは咄嗟に右手を伸ばしてカヅチの体を掴もうとした。せめて、着物を汚さないように受け止められたら。そんなことを考えて、衝突の瞬間を待っていたのに、
(
…………
?)
いつまで経っても、体が地面にぶつかる痛みが来ない。どうしたのかと、咄嗟に瞑った瞳を開くと、そこには大写しになったカヅチと、
「できるなら、傘を取ってくるまで待っていてもらいたかったのですがねぇ」
「
……
あんた、何も言わずにいなくなっただろうが」
「
……
あっ、そうでしたね。言うのを忘れていました。すみません。つい、うっかり」
とぼけた調子の青年の声に、ナグサは自分の体を支えてくれたのが誰かを知る。倒れかけたナグサを片手で支えた者ーー視線を上げた先にいたのは、本日の試合相手でもあった青年のハヤメだ。
「とはいえ、自分の力だけではどうにもならないときは、もっと気軽に呼んでもらっていいんですよ」
「あの場所から、わざわざあんたを探しに行けって?」
「
……
うーん。たとえば、大声を出すとか?」
「あ、それならわたしにもできるぞー!」
話の流れを読まないカヅチが、本当に息を吸い込んだのを目にして、ナグサは慌てて「今はいいんだ」と制止する。そうでもなければ、本当に彼女は鼓膜を破らん勢いで大声を出しかねない。
「ともかく、これで人手が足りるでしょう? カヅチちゃんをおんぶする手と、それとこっちの手も」
改めて姿勢を直してカヅチを背負い直したナグサに、ハヤメは手を添える。落として泥に濡れた着物を拾い上げ、ハヤメは背中にナグサの背中に乗っているカヅチに持つようにと言いつつ押し付けた。
続けて、彼は道場にあったらしい傘を二人へと差し掛ける。そうすれば、ナグサもカヅチも雨に降られずに済んだ。
彼は、傘は差し掛けたものの、カヅチをナグサから預かるとは言わなかった。それが彼がカヅチを持つような面倒を避けたかったのか、それとも別の理由があったのか、ナグサにはわからない。
ただ、彼がカヅチを預かろうと言い出しても、首を縦に振らなかっただろうと、ナグサにはそんな自分の姿だけはすぐに分かった。
「では、戻りましょうか。あいにくの雨ですが、雨を見ながらのおやつも乙なものでしょう」
「
……
あんたも、食い意地が張っているんだな」
彼に助けられっぱなしの自分が何だか居心地が悪くて、思わず関係ないことを口走ってしまう。だが、ハヤメはその意図までは気づかなかったらしい。
「そりゃあ、ヒヅルが作るものですからねぇ」
答えになっているのかならないのか分からない返答のおかげで、ナグサの気持ちもいくらか紛れた。
道場から家に戻るまでのほんの数分の雨の道。傘の下、奇妙な影を浮かべた三人組が行く。
土の匂いがほろほろと咲き誇る梅の香に混ざり、ゆるりと三人の間を通り抜けていった。
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