祭子
2024-03-13 13:15:31
19917文字
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■MY PROMISED LAND HAD GONE AWAY■

∠[ν]-εγλ0011/09
ルーファウスにはパン屋さんになる以外にも叶わなかった夢があります。約束の地を見ることです。
※Privatter+掲載テキスト(20240313初出)

■MY PROMISED LAND HAD GONE AWAY■
∠[ν]-εγλ0011/09


 セトラの民、星より生まれ、星と語り、星を開く。
 そして約束の地へ帰る。
 至上の幸福、星が与えし定めの地。


「夢のことを、思いだした」
 ルーファウスは午前九時三〇分のダイニングテーブルを見下ろした。
 濃灰色の雲がミッドガルエッジ――壱番アベニュー、四番ストリート――のペントハウス上空をおおっている。気象予報の通りなら、雲はこのまま厚みを増し、長雨へと変わるはずだ。
 ファミリーダイニングフロアもまた蒼然としている。だというのに、卓上だけがやけに明るい。彼手製のホワイトブレッドのおかげだろう。「お尻みたいなかたち」と面白がる、ルーファウスの妻のリクエストだった。
「またいやな夢、見たの。ルーファウス、ね、だけど」
 うなされてなかったよ、とエアリスが怪訝そうにしている。ルーファウスは首を振る。睡眠中に持つ幻覚のことではない。これは。
「将来の夢の話だよ、エアリス」
「『ブレッド屋』さんっていう、あれ」
「正確には『ブレッド職人』だ」
「こまかいこと、気にしないで」
「エアリス」
「ほらほら、久しぶりの三連休なんだよ。おでこのしわ、邪魔」
 彼らの気分転換にと、近ごろは余暇をルーファウスの私的な不動産ですごしている。今回はグラスランド南東部のクアハウスで週末を迎えるはずだった。それがエッジでがまんせざるを得なくなったのは、彼の都合にほかならない。『病気静養中』だというのに、『神羅社長』にはじっとしているひまがないのだ。ルーファウスが、しかし、と目笑する。どれほど多忙だとしても、朝の食卓にルームサービスが並ぶことは稀だった。
 エアリスがブレッドを手に取る。と、彼の目前で割って見せた。粗熱が湯気となって二人のあいだに立ち上る。
「こまかい夫、気にならないくらい、うん、いい香り」
 エプロンをつけることから始まる一日。遅い食事は、彼の目の前にある笑顔のためだ。この贅沢な時間の使い方を、ルーファウスは気に入っている。
「こまかくはない。販売と製造は違う。私はこれを売る気がないからな」
「ごめん。そう、だったよね。ごめんね」
 エアリスがはっとした。
「ルーファ君の夢、かわいくて、すごくすごく優しい夢なのに」
 さびしげな声音だ。眉尻も情けなく下がっていく。
「これ。このふかふかのブレッド、お母さんに焼いてあげたかったやつ、だものね」
 ルーファウスは声音を優しくする。
「お前がしょげるほどのことではない」
「だけど」
 エアリスが口ごもる。相変わらず――声も眉までも――正直だ。彼女の健気に当てられて、ルーファウスが幼い夢を教えたのはもうずいぶんと前のことになる。
 神羅家の献立は、母親の生国スタイルが定番だった。無論、主食も例外ではない。だからルーファウスにとってそれといえば――バターやミルク、副材料の豊かな――リッチブレッドなのだ。
 母親が病床に就いてからというものの、ブレッドはますます柔らかくなっていった。クラムどころか、クラストの焼き色までもが真白になるほどに。彼がこのホワイトブレッドを初めて食べたとき、とても驚いた。しっとりとしていて、口に含んだとたん蕩けるようだったからだ。
 幼少のルーファウスはひらめいた。
 食の細い母親も、これならば。
 ルーファウスがつくれば、あるいはお腹いっぱいに。
 ふっくらとしたブレッドを食べれば、母親の痩けた頬も同じように。
 厨房へと通う彼の足取りは、いつもかろやかだった。初老ベーカーの周囲をうろつくうちに、親しく会話するようになった。ルーファウスが思い切ってかわいらしい目的を打ち明けたとき、老翁はたいそう彼を褒めた。手を貸すとも言った。しかしそれが叶うことはなかった。
 ルーファウスが学習時間をすっぽかしたことがいけなかったのだろう。翌朝のことだ。初老ベーカーは見かけない中年ベーカーに替わっていた。彼が話しかけたところで、目を逸らす。それどころか中年ベーカーはそそくさと逃げる始末だ。
 どうして。
 ルーファウスは不愉快だった。
 使用人が突然解雇されることは、ままあった。無論、父親の差し金だ。保身を図って、周囲の子息への応対がよそよそしくなるのは仕方のないこと。それが立場の違いから生じる不均衡というものだ。ルーファウスも慣れていたから、彼の不満は使用人になど向きはしない。
 矛先は父親へ。
 ルーファウスには父親の気持ちが分からなかった。
 母親に元気になってほしくないのか。
 美味しいものを美味しいと笑って食べてほしくはないのか。
 聞いたところで返ってくるのは叱咤か黙殺だった。納得いかないままに、ルーファウスはやりたいことを奪われる。実父にだ。いつだってそうだった。
 なぜ。
 そうして累積していく理不尽は、いつからか鬱憤へと取って代わった。それは父親のみならず、ルーファウス自身をも咎めた。父親から何一つ取り返せない無力にこそ、彼は腹を立てていたのだった。
 今にしてルーファウスは気づく。父親をこえたいと焦るとき、負の感情こそが彼の原動力だった。その起点は、老ベーカーと夢を失ったあの日の朝だったのだ。ブレッドの芬芳を嗅ぐたび、どことなくナーバスになっていたのも、そのせいか。
「この香ばしいにおいに、何を怯えていたのやら。情けないやつだな、ルーファ君は」
 だが、それもつい数年前までのことだ。
 ピッチャーを掴み上げるルーファウスは、穏やかな顔つきをしている。どうにも食欲をそそらない色あいが、二つのグラスを満たしていく。生地をこねるルーファウスのかたわらで、エアリスが用意していたスムージーだ。「栄養と味はばっちりだから、目、瞑って飲んで」とけろりと言える胆力に、彼は皮肉の一つも言えなくなるのだった。
 こんな風にして、ルーファウスの朝から爽やかさが欠けることはない。
「あのころの母親は、すでに末期だった。私がブレッドを焼いたところで、さて、食えたのかどうか」
 母親の正しいカルテを思いだす。彼女の死にかかわるすべてを隠匿したのは、ルーファウスの父親だった。固形物が咽喉を通る状態でなかったことを、当時の父親は知っていたのだろう。
 ルーファウスは目を細める。愛恵という――彼の奥底にうずもれていた――エモーションを、エアリスが見つけだしてくれた。だから分かる。子供が落胆しないよう、障害をあらかじめ取り除く。あるいはそれ自体から遠ざけることが、あの男のはぐくみ方だったのだ。
 いったいどれほどのぬくもりのなかで、ルーファウスはすごしてきたのか。
 真先に思い当たることといえば、副社長の愚行だろう。経営権の簒奪を画策し、そしてしくじった。本来なら役員辞任を強いられてしかるべきだった。だというのに、とルーファウスが奥歯を噛む。父親は子供を許した。
 内紛を長期出張というていで揉み消した、あの処遇は間違いなく。突然のボーディングスクール編入を許したことも、きっと。ルーファウスに身に覚えのないそれらも含めれば、さらにあるに違いなかった。
 ルーファウスは父親から十分に慈しまれていたのだ。
「それにしたって、なあ、親父」
 下手くそだぞ、と鼻を鳴らした。父親の温情を、彼はずっと叱咤や黙殺だと思いこんでいた。ルーファウスの信条に当て嵌めるとすれば、何も伝わらないというのは、何もしていないと同義だ。むだなことこの上ない。
「私ならどうするだろう。どうしようか」
 わが子に。
 わが子をいとおしむために。
 わが子をばか者にしないために。
 ルーファウスはエアリスのプレートを見澄ます。正確にはその卓下にある、まだ薄いままの下腹をだ。エアリスが、どうしたの、と憂いたままの顔を傾げた。
「いや、何も。そんなことより、エアリス。私は親父から夢を取り返したぞ」
「すごい。どうやって、ね、いつの間に」
「すぐに分かる。私の傑作だ。腹の虫が鳴る前に食えよ、ほら」
 曇っているのは窓外だけで十分だ。ルーファウスは大仰に両腕を広げて見せる。小さな顔がすっかり晴れ上がるまで、そう時間はかからないだろう。
「これ、最高」
 案の定、ブレッドにかぶりついたところで、エアリスが笑みくずれた。
「ベーカー・ルーファウス、ここに極まれり、だね」
「お前は美味そうに食う。それがいい」
「美味そう、じゃなくて、本当に美味しい」
 ジャムを塗っては一口、クロテッドクリームをそえて一口。エアリスのゆるみきった口元をダークスターが舐めている。巨躯におおいかぶされて、花車な身体は今にもチェアから転げ落ちそうだ。ルーファウスがブレッドを二つ放ってやれば、ダークスターはすかさず彼女から飛び退いた。
「ディー、ナイスキャッチ」
 拍手をしながらも、エアリスの咀嚼は止まらない。ダークスターが得意気に吠える。ひげは麦粉にまみれて真白だった。
「お前たちの食い意地ときたら、まったく」
 ルーファウスはスムージーを飲む。目は瞑らない。この光景を見のがすわけにはいかないからだ。
 長い年月を経て、幼いルーファウスの夢が今、実現している。
「夢は自分の力で叶えるものだと思っていた。違ったな」
 彼の家族のおかげだった。
 結局のところ、夢というのはベーカーそのものではなかった。
 驚かせ、笑わせ、そして喜ばせたかったのだ。自身の考えたやり方で。当時は母親だった。今は妻や愛犬にそうしたいとルーファウスは思っている。
「まさか。私を調理場に立たせるやつが、また現れるとは」
 ルーファウスがぽつりと呟く。彼に尽力を惜しませない女が、おかわり、とバスケットに手を伸ばした。
「ね、ベーカー・ルーファウス」
「何だ」
「夢、毎日叶えられるよ。だって、あなたのホワイトブレッド、何回食べても飽きない。どんどん美味しくなってくし。ね、ディーもそう思うでしょ」
「朝食なら、エアリス、お前のリーンブレッドがいい。それもハードなやつだ。なあ、ディー。お前も香ばしいほうが好きだろう」
「断然ふかふか、ルーファウスのお母さん家スタイルだよね。はい、ディーとわたしで、二票獲得」
 ダークスターはどちらとも決めかねているらしい。ルーファウスとエアリスは顔を見あわせる。と、密やかな笑声を重ねた。二人のあいだでそわついている様子は、いつまで経ってもパピーのようだ。
「ディーったら。これじゃ、多数決にならないよ」
「お前がゲインズブール家スタイルに戻ればいい。ベーカー・ルーファウスが直々にプレゼンをしてやろう」
 聞くか、と彼が問えば、エアリスは嬉々として頷いた。手粉を拭い、しゃんと背筋を伸ばしている。
「まず、噛み応えがある」
「へ」
「わが家の主食が変わってからというものの、私の顎が丈夫になった」
「む」
「お前のバゲットのおかげだぞ、エアリス」
「ちょっと待って。もしかして、焼き時間、わたしが間違えてるって言いたいの」
「そんなことはない」
「なるほど。じゃあ、プレゼンにかこつけた嫌味、だね。いつものやつ」
「褒めている」
「どこらへんが」
「もう一つ、褒めようか」
「ちゃんとね」
「噛めば噛むほど、あれは目が覚める。目が覚めれば、頭も冴える。頭が冴えれば、仕事ははかどる。神羅社長に打ってつけの朝食だ。いつもありがとう、エアリス」
 われながら何というふざけたことを。咀嚼が目覚ましになどなるはずもない。そう思いながらも、ばかを言える相手がいることに、ルーファウスは甘えてしまうのだ。
「お前のおかげだよ。エアリス」
 そして彼が揶揄したところで、エアリスは拗ねない。むしろ負けずと言い返すことができる。ルーファウスはそれが楽しみでならない。
「あのね、ルーファウス」
 さて、今回はどう切り返してくるのだろう。ルーファウスは小さなくちびるが開くのを待つ。
「お前の、じゃなくて、堅焼きはねスラムスタイルなの。失敗作じゃないんだから。生卵、びっくりするくらい高かったんだよ。バターなんて、うちの近所じゃ見たことない」
 エアリスがホワイトブレッドを彼の眼前にかざす。と、人差指で表皮を突っついた。
「これはね、贅沢のかたまり」
「贅沢の、かたまり」
 白いかたまりに難なく沈む白い指。ふむ、とルーファウスが首肯する。
「そう。食べものだけじゃないよ。お金持ちの生活って、何でもふわふわ、ふかふかでできてるでしょ。ほら、ベッドルーム、思いだしてみて。ベッドも、デュベも、ブランケットも。わたしのお気に入りのピローもだし、ほかには、えっと」
 あれもこれも、とエアリスが指折り数えている。ルーファウスはゲインズブールの家の寝具を思いだす。なるほど、肌ざわりがまるで違う。
「ね、お坊ちゃま。妻の故郷のこと、そろそろちゃんと分かってくれてるって、思ってたんだけどな」
 それを指摘されると、ルーファウスは譲歩せざるを得なくなる。エアリスの生様を分かっていないと言われるのは、不本意だからだ。
「からかって悪かった」
「いいけど」
「だがな、冗談抜きで美味いんだよ、お前のバケットは。これは本当だ。わが家の朝食は、スラムスタイルのままがいい」
「じゃあ、今まで通りってことで。お休みの日は、ルーファウスがリッチなやつ、焼いてね」
「いいだろう」
「わたし、シナモンロール食べたい。バスケットいっぱいだよ」
 すかさず次をねだる、この油断ならない女がいとおしい。ルーファウスは食材のオーダーをすませておこうと思った。無論、明朝に備えるためだ。
「ね、ルーファウスのリクエストは」
「チーズブールだな」
「やっぱりね。ルーファウス、チーズ好きでしょ。気に入ってくれるって、自信あったの。わたしもあれ、大好き」
 ルーファウスは眉をひそめる。エルミナのレシピノートに乾酪は載っていない。ミッドガルではそれもまた高級品だったからだ。彼の眉間のしわがいっそう深くなる。
「ブールにチーズを練りこんだのは、そうか、お前のアイデアだったのか」
 エアリスが、「何、その顔」と口先を尖らせた。彼の妻と料理のアレンジはひどく相性が悪いのだから、仕方がない。だが、とルーファウスはくすくすと笑う。好物が絡むとなかよくなれるらしい。
「お前は不思議だよ。生地ものとデザートだけは、失敗しないからな」
「言い方」
「事実だ」
「褒めるの、いつまで経っても下手っぴのまま、だね」
「まだ、慣れない」
「だったら、練習あるのみ。ほら、ほらほら」
「いいアイデアだ。この調子で頼む」
「わたし、ルーファウスのほうが、ずっとずっとすごいって思うよ。アレンジ考えるより、シンプルなやつ美味しくつくるほうが、うんと難しいんだから。なのに、これ」
 エアリスがホワイトブレッドをぺろりと平らげる。と、また感嘆の吐息をこぼした。
「ここのホテルのベーカーさんが焼いたやつ、みたい」
「当たり前だ。ルーファ君の本気を舐めるなよ」
「うわ、偉そう。だけど、夢、ちゃんと叶えちゃうんだから、やっぱり偉いね」
 カトラリーをかまえながら、エアリスが微笑んだ。プレートにはエッグホワイトオムレツとグリークサラダ、そして三種のコールドカットがそえられている。そのうちのフェンネル風味のサラミに、彼女は目がない。
「実現できない夢なんてものは、ただの妄想だ」
 あるいは妄執か。
 むだなことに囚われ続けずにすんだ礼を、しなければならない。ルーファウスは夢の協力者への敬意をこめて、サラミを向かいのプレートに移した。
「やった。ありがとう。じゃあ、交換ね。ルーファウスには、えっと、これ」
 口を開けろと言わんばかりに、エアリスがフォークを差しだした。マリボーチーズはルーファウスの好物だった。舌に乗せれば、塩味は味蕾を、豊かな香りが鼻腔を満たす。彼のリクエストしたブールにも、きっとこのセミハードチーズがたっぷりと使われるに違いなかった。
「ほら、もう一口。夢、叶ったお祝いもこめて、どうぞ」
 エアリスの優しさをゆっくりと味わいながら、ルーファウスは思う。無二のパートナーだと。
 一つ返せば、一つ返ってくる。
 返ってくれば、また返したくなる。
 その繰り返しだ。
「祝いなら、もう足りている」
「じゃあ、遠慮なく。残り、わたしが全部食べちゃいます」
 そう言うなり、エアリスはチーズとサラミをいっぺんに頬張った。とたん丸い頬が蕩けた。
「大発見。マリボーとフェンネル、すごくぴったり。今度、これ二つとも入れて焼いてみようっと。最高のチーズブール、期待してね。夢、あなたが思いだしてくれたおかげだよ」 
 エアリスの興奮は覚めやらない。ルーファウスは自身の冒頭の台詞を思いだして、咳払いをする。
「浮かれているところ悪いが、エアリス」
「ん、何」
「私が思いだしたのは、もう一つ、叶わなかった夢のほうだ」
「星座図、じゃないよね」
 ルーファウスは頷く。天体の完全制覇にはまだ届かないものの、彼らは念願の八九つ目――新しい星座――を見つけている。あれは素晴らしい一夜だった。
「えっと、じゃあ、八歳のときのやつかな。それとも、一〇年生のころのこと」
「エアリス。ルーファ君の夢は、いったいいくつあるんだ」
「いっぱい」
 ルーファウスの笑みが思わず苦くなる。ささやかな憧憬から遠大なこころざしまで、夢の数はそのまま――父親の影響下で足掻いていた――ルーファウスの無力の証だからだ。今は違う。『八歳のときの』はこの春に成し遂げた。『一〇年生のころの』もまた、先月やって退けたばかりだった。
 挫けてばかりの子供でいるつもりはない。彼がそう言えば、エアリスは「よし」と手を打ち鳴らす。
「思いだした夢ってやつも、叶えちゃおう。全部叶えて、どうだ、ってお父さんに自慢しちゃおう」
「いや、いい」
「どうして」
「叶わなかった、というのは語弊があるな。これは諦めた夢だ」
「諦めたって」
 珍しい、とエアリスが瞠目した。
「夢、ただの妄想のままにしておくの。あなたがそれで気、すむの」
「妄想とは違う。それから、これは納得するしない以前の話だ。なあ、エアリス」
 ルーファウスはナイフの上にフォークをかぶせる。と、組んだ両指をテーブルに置いた。
「新しい星を発見することならできるかもしれない。私たちのようにだ。だがな、見つけた星を手に取って、家に持ち帰ることは、どうだ」
 エアリスがまばたきを繰り返す。そうしてしばらく睫毛をふるわせたあと、力なく首を振った。
「同じだよ。不可能に執着するのは、時間のむだだ。諦めたほうがましということもある」
「二人でも、だめかな」
 予期せぬこたえだった。今度はルーファウスが目を見開くばんになった。
「それは」
「手伝うよ。ね、教えて」
 ナプキンで口元を拭ってから、エアリスが身を乗りだした。肘をつくな、と叱らない。無作法が気にならないのは、彼が緊張しているからだろう。
「至上の幸福、星が与えし定めの地」
 手汗が止まらないのは。
「約束の地だ」
 セトラが、ルーファウスの最愛だからだ。
「約束の地を、自分の目で見ることだよ」
 夢を託せる唯一の女は、しかしその能力を失っている。
 だからこれは言わざるべきことだ。理性にそう窘められようとも、この柔らかいというのに鋭い翠眼を前にすると、ルーファウスは口を閉じるすべを失ってしまう。
「ああ、エアリス」
 誤解を生まないだろうか。ルーファウスは懸念をいだく。
 エアリスには稀有な血筋にまつわる消えない悲しみがある。両親を、自由を、そして『普通』を奪われ続けた日々のことだ。そのすべてに神羅の大願がまつわりついていた。いまだルーファウスが約束の地へ拘泥していると思われるのは、心外なのだ。
 あるいは、と彼のつく吐息は深い。エアリスのことだから落胆するのかもしれなかった。パートナーの力になれないことをだ。
「違う。違うんだ、エアリス」
 彼女を傷つけるつもりなど、毛頭なかった。ルーファウスがこの話題を持ちだしたのは、ただ聞いてほしかっただけだ。
 いつものように。
 思い出の――エアリスらしく言えば――宝箱に押しこめたままの、昔話を。
「セトラに訴えたいわけではない。お前だから教えた。分かるな」
 ルーファウスがそう告げようとしたときだった。
「初耳」
 エアリスがきょとんとした。軽い口調のまま、へえ、と続けた。思いもよらない応答に、ルーファウスはたじろぐ。
「いやがらないのか」
「何で」
「お前は私の会社に」
「いやがる理由、もうないもの」
 そうして小首を傾げるだけで、彼の冷汗を引かせるのだからまいる。食卓がくつろぎのひとときへと戻るにも、さして時間はかからなかった。
「ただね、ちょっとだけ吃驚した。あなた、約束の地のこと、隠喩だとか符号だとか言ってたでしょ。信じてないんだって、思ってたから」
 すっかり乾いた手でブレッドを掴む。ジャムをすくいながら、ルーファウスは首を巡らせる。彼の脳裏にいつだったかの台詞がよみがえった。
「星もライフストリームも、私には生命循環の機能維持のためのシステムだとしか思えない。約束の地も、結局のところは何かの隠喩か符号だろう」
 エアリスが「夢も希望もない」と呆れたそれは、メテオショックを経て得た彼なりの存意だった。それでも、とルーファウスが切なく微笑する。
「信じていたよ、ずっと。本当だ」
 夢の始まりを、ルーファウスははっきりと覚えている。
 二月だった。若い母親と乳児がミッドガルに到着した、その夕方のことだ。
 父親がかつてないほど上機嫌で帰宅した。八歳のルーファウスより子供じみていたから、彼は驚いた。とてもだ。理由を聞けば、父親は「教えてやろう」と――珍しく――書斎へルーファウスを誘ったのだった。
 約束の地と、そして手に入れたばかりの『古代種』の話は止まらなかった。
「親父のやつ、夕食のことなどすっかり忘れていたぞ。あんなに浮かれた親父は、見たことがないな」
 やれやれ、とルーファウスは首を竦めた。
「お父さんって、本当、ロマンチシストだよね」
「どうだか」
「だって、お伽話、信じてる」
 セトラが悪戯っぽい顔つきをしている。ははっと、ルーファウスは声を立てた。
「あいつにとってはノンフィクションだった。親父が約束の地をほしがっていたことは、お前のほうがよく知っているはずだ、エアリス。だから」
 エアリスからすいと視線をずらす。彼女の後方、大窓の向こうには朝日にけぶるミッドガルがある。
「だから、私が見つけてやろうと思った」
「ルーファ君らしい」
 嬉々として、エアリスがフォークを指揮棒のように振った。
「お父さんに褒められたかったんでしょ。それとも、喜ばせたかったの」
 どっち、と聞かれて、ルーファウスはこたえる。
「両方だよ」
 当時を顧みながら、コールドカットを食べる。ルーファウスの頬がゆるむのは、マリボーとフェンネル、何もこのコンビネーションが美味かったからではない。すっかり素直を取り戻した己がおかしかったのだ、とても。
 だが、これがいい。
 ルーファウスは偽りのいらない会話が好きだ。好きになったのだ。素直が、彼の生きていくうえで欠かしてはならないものなのだとも痛感している。理由は、二つ。
 一つ目に。
 弱みを克服するには、弱さと向きあわなければならない。それには己の弱点を受け入れる実直な気持ちが必要だ。
「ルーファ君は、あれでいたいけない子供だったというのにな」
 いつからかルーファウスは素直を失い、それと同時に彼の欠点を映す目をも失くしてしまった。
「だね。捻くれちゃったね」
「それもぐにゃぐにゃにだぞ。いつの間にか、親父より先に見つけることが目的になっていた」
 ナイフを持ったまま、ルーファウスは人差指を立てる。同意を乞う彼に、エアリスが頷いた。
「そうだ、勝ち目ばかりを探していた。われながら、手に負えない高慢ちきっぷりだったよ、あれは」
 プライドの高いこと、それそのものは彼の美点だろう。が、父親との力量差を自覚するとき、高潔であるべき自負心はかたちを変えた。慢心だ。それはルーファウスをしばしば短慮な男へと貶めるものだった。
 駿馬が老馬に負けるはずがない。見目ばかりのサラブレッドと侮るな。もっとうまく走れる。
 走らなければ。
 並びついて、追いこして。
 勝たなければ。
 一勝にこだわるあまり、父親を害しようとしたこともある。結果は散々、恥辱を受けたのはルーファウス当人だった。
 ゆがんだプライドこそ、彼の欠点にほかならなかったのだ。
 神羅電気動力株式会社、その組織再編の只中でルーファウスはようやく自身の実力不足を認めた。痛切にだ。多角化しすぎたグループを解体しながら、彼はいまだもって悩み続けている。いったいどのようにしてこのコングロマリットを御していたのだろうかと。だが一企業を生み、強大に育て上げた父親はもういない。
 素直に教えを乞えばよかったものを。欠点が邪魔をして、ルーファウスはすぐれた先代から多くを学び損ねたのだ。
 二代目はばか社長だ。そう嘲笑されようとも、彼が腹を立てることはない。せっかくの副社長というポストをむだにすごしたことは、事実なのだから。
 無論、ばか社長のままでいることを、彼の――本来の清廉な――自負心が許しはしなかった。だからルーファウスは未熟の過去と向きあうことにした。まさかの自省だ。改めて副社長時代の愚挙や失態を振り返ることで、己の慢心を諫める。次こそ過たないやり方をさぐるための、これが近道になるはずだった。
 くそ高い鼻をへし折られるたびに癇癪を起こしていては、何も得るものがない。
 ルーファウスはテーブルランナーを目でなぞりながら、口唇をひん曲げる。そうと分かっていても、幼稚だった過去を顧みるというのは面白くないものだ。こんなときは、と碧眼が初秋らしいシェニール織から離れる。
 エアリスを見る。彼女はルーファウスの鏡だった。
 星を救い、多くのいのちを生かしたセトラだ。今もなお星の願いに応えることのできる、二人といない存在なのだ。
 だというのに、彼女が驕心をいだくところをルーファウスは見たことがなかった。謙虚とも違う。エアリスはただこう言うのだ。自分のしなくちゃいけないことは、自分ががんばるしかないよね、と。
 ルーファウスにもすべきことがある。星への負債返済だ。エアリスの真摯を私淑すれば、この先、彼の生様を妨げるようなプライドなら捨てる覚悟はできている。
 二つ目の。
 ルーファウスが素直を重んじる理由、それは思い出の宝箱を開けるときと同じだ。
「何でもいい。一度でいい。とにかく親父に勝ちたかった」
 折衝も功利も考えず、ルーファウスはただ本当のことを話せばいい。そうして心のうちを吐露するたび、彼が――長いあいだ、一人で――溜めこんでいた澱がそそがれていくのだと、そう気づいたからだった。
「勝ちたかったんだよ、私は」
「約束の地の取りあいっこも、なの」
「そうだ」
 ルーファウスは若気の浅慮を見据える。彼にそれをためらわせない聞き手がいるということ。慣れない自戒を、そうして手助けするパートナーがいること。エアリスと話し終えたあとは、爽然とした気分になる。ああ、とルーファウスが感嘆する。何という僥倖だろう。
 だからこの場所で、二人のあいだで、ルーファウスには偽りを吐く口が必要ないのだ。
「あいつから奪ってやろうとな」
 夢。
 約束の地を見ること。
 父親への健気が叛心へと変わった、夢の成れの果てだった。
「仕返しする気だったってこと」
 エアリスが図星をつく。ルーファウスは当時の彼に失笑する。
 冷静で体裁を飾りならがも、その実、余裕などまるでなかった。夢と名づけたものの、彼がその夢幻的な呼び方で隠したのは、ただの劣等感だったからだ。
「やられっぱなしというのは、好きではない」
「だからって、夢、横取りしちゃおうなんて」
「エアリス、その笑い方は何だ」
「負けん気だけは、お父さんに負けてないよ、ルーファウス。だけど」
「笑っていないで、ほら、言えよ」
「夢、二人して叶わなかったから、引き分けだね」
「ああ、そうか。確かにドロンゲームだな」
 二人は食事を続けながら、口が空になったタイミングで言葉を交わす。時折、彼らの含笑とカトラリーのふれる音がするなか、時計の針は温然とまわっていく。やがて。
「わたし、あなたに何て言おう。残念だったね、でいいのかな。それとも、わたし」
 エアリスが静かに言った。視線は食卓から彼へ、ついと移る。戯れ口はもうおしまいらしい。おのずとルーファスの背骨が伸びる。
「ざまを見ろでも、慰めでも、お前の思う通りに」
「だけど」
「エアリス。いいか、これだけは言っておく。私は引き分けを残念だとは思っていない。引き分けるというのは、あの男と並び立てたということだからな」
 翠眼が真丸になった。
「すごい男に。親父にだぞ」
 それに映るルーファウスへと、彼が頷いて見せる。よくぞ認めた、と。
「十分だよ。あれ以上に、いい結果は望めなかった」
 父親は偉大だった。
 富や名声にとどまらず、ミッドガルという一強国すらも築き上げたのだ。建国は人の才知で得られるきわみと言っても過言ではないだろう。だが斯様な男でさえ、掌握できなかったことがある。
 それが約束の地だった。
 ルーファウスはときめいた。
 ギルと人材、そして膨大な年月を費やしたところで、父親は夢のかけらですら掴めないでいたのだ。星の神秘を手中に収めれば、どれほど胸が空くだろうか、と。
 無尽蔵の魔晄溜まりを見せつけて、彼は父親に「これがほしかったのか」と言ってやりたかった。そうすれば自負心を傷つけられ続けた日々、あの留飲も下がるに違いないはずだった。
 父親が死んだあと、ルーファウスはなおのことこの夢にのめりこんだ。
 『プレジデント神羅』の跡目は死人からのもらいもの。それを悔しく思ったものの、彼が困ることはなかった。約束の地という一次エネルギーがあれば、ミッドガルどころか全世界の二次エネルギー供給が神羅電気動力株式会社の独占事業となる。会社を大きくすることで、ルーファウスは実力を示せばいいのだ。
 一度でいい。ルーファウスは父親の偉大をこえたかった。さいわいなことに、父親の遺物にはルーファウスを夢へと導く羅針盤――エアリス――が残っていた。
 そして彼は約束の地を見た。
 奇しくもメテオショック、その日のことだった。
 カームで目の当たりにした神秘を、ルーファウスが生涯忘れることはない。ホーリーとメテオの拮抗。そして星の楯を支えるべく吹き荒ぶ――生きとし生けるもののいのちの源泉――ライフストリーム、これこそが父子の夢見た『約束の地』の正体だ。
 夢のついえた、その瞬間だった。
 八基の魔晄炉が汲み上げるライフストリームなど、取るに足りない量でしかない。人間が制御できるのは、所詮この程度だ。そう痛感するほどに、地上に渦巻く緑光は甚大にすぎた。
 さらに愕然としたのは、ルーファウスもまた彼のこいねがった約束の地の、その一部だったということだ。
 父親の用意したギミック――『L』という負け犬印の避難路――がなければ、彼は星の守護獣に殺されていた。ルーファウスは精神エネルギーとなってライフストリームと一体化したのだろう。学者の言い方をまねれば、星に還る、だ。そして。
 あの日、セトラのホーリーを支え、メテオへとぶつかり、ルーファウスだったものは砕け散っていたのかもしれなかった。
「ただのエネルギー溜まりとは違う。そもそもの話、私はなぜあれを約束の地だと信じていたのだろう。とてもではないが、人間の手に負えるものではなかった。まるでファンタジーじみていたが、違う、あれは」
 ルーファウスは首を振る。
「現実だった。私がこの目で見た」
 どれほど荒唐無稽な光景が繰り広げられようとも、碧眼に映ったものを彼は否定しない。事実を受け入れられないことと、理解のおよばないことは、まったく違うのだ。ルーファウスは前者のような愚者になる気はなかった。そして勝気な性分は後者であることに苛立っていた。
 それもすぎた話だ。ルーファウスは今や持論に自信を持っている。
「ライフストリーム。あれは、やはり生命循環の機能維持のためのシステムで間違いない」
 わずかに身を乗りだす。と、ルーファウスはにやりとした。先ごろの会話を彼女も覚えているはずだ。案の定、そういうとこは変わらないね、とエアリスが言った。
「皆のいのち、だよ」
「分かっている」
 ルーファウスはグリークサラダを掻きまわす。薄い笑みが消えていく。父子揃って、何という神秘を浪費していたのだろう。
「そんなものを使いこんでいたとはな。は、気分が悪い。悪趣味だ。私の約束の地なんてものは、はなから存在していなかったということだな」
「だけど」
「違うのか」
「違わない。だけど、あのね、ルーファウス」
 何やらエアリスが言いあぐねている。ルーファウスは眉を上げて見せた。
「気にするな。私は夢の代わりに、もっと価値高いものを得た。真実だ」
 星とセトラとジェノバ、ホーリーとメテオ、そしていのちを巡る神秘。ルーファウスはメテオショックにはっきりと突きつけられたのだ。
 どれほどの富を築こうとも、その日暮らしの連中と何も変わらない。
 巨大企業のトップに立ったところで、彼の下にごまんとある労働者と何も変わらない。
 ルーファウスが見向きもしなかった、そのほか大勢と何も変わらない。
「私に夢を諦めさせたのは、真実を教えたのは」
 ルーファウスは只人なのだと。
 神秘の中枢にかかわることなど、許されないのだと。
 ちっぽけないのちでしかないのだと。
「星と、お前だよ」
 部外者だったからこそ、彼は生き長らえ、こうしてブラックオリーブとキュウカンバーを食べている。滑稽な話だ。が、ルーファウスは情けないとは思わなかった。追いかける価値のある夢だった。
「夢見ていたころは、楽しかったんだよ。本当だ。お前風に言えば、どきどき、というやつだな」
「『神羅社長の大冒険』だね。ね、いちばんどきどきしたの、何」
 エアリスの双眸は、かわいらしいものを見るときのそれをしている。きっとルーファウスが少年の顔をしているからに違いない。
「ああ、どれだろう」
 たとえば古代種の神殿か。
 出現と消失、その一部始終をルーファウスは上空から見ていた。樹海が小間切れの角塊になり、それらが宙に浮かんで巨大建造物を築き上げるさまをだ。いったいどのような構造計算をしているのだろうと、考えるひまもなかった。すごい。彼の頭にはそんな陳腐な言葉すら浮かばなかったのだから。
「信じられるか、エアリス。あっという間のできごとだったんだぞ」
「映画みたいな。どっかんばったん、スペクタクルなやつ」
「つくりものとは迫力が違う」
「いいな、うらやましい。下からじゃ、よく分からなかったから。と言いますか、わたし、それどころじゃなかったんですけど」
 お忘れかしら、とエアリスが口先を尖らせている。ルーファウスは綽々と顎をしゃくって見せた。
「お忘れも何も、あのころのセトラのことなど、私は何も知らない。約束の地への案内人でしかなかったからな。人でなしの神羅社長のことを、まさかお前は忘れたのか」
「人でなしも何も、あのときの社長さん、いい人だったよ。わたしに自由くれたから。でも、ちょっとだけ」
「ちょとっだけ、何だ」
「ほんのちょっとだけ、さびしかった。いらなくなったら、あっさり捨てちゃうんだって。神羅、ずっとずっと、わたしにしつこかったのにね」
 碧眼と翠眼が優しく睨めつけあう。と、彼らは弾けるように笑った。同じタイミングで。
「景色どころじゃなかったお話、いっぱい思いだしちゃった」
「まだ話していない『半分セトラの大冒険』があるなら、聞くぞ。あとでな。今は私の話を聞いてくれ。神殿だが、あれだけは上から見るべきだった」
「いいよ。自慢、どうぞ続けて」
「エアリス。なあ、エアリス」
 ルーファウスは当時の光景と、そして高揚ぶりを思いだす。
 何というギミックなのだろう。
 彼は年甲斐もなく機窓に張りついた。このときばかりは父親のことなどすっかり忘れた。神羅の学術レベルは科学や工学を筆頭に、どの分野も抜きんでていた。それらを身近に育ったルーファウスは、大抵の不可思議――巨大ポットのなかのモンスター、炎や吹雪を噴くマテリア、陸海空を制する軍用機――には慣れているはずだった。まったくそうでなかったのだ。
 星と――そのいとし子――セトラの英知を目前にして、ルーファウスははしゃぐことしかできなかった。いつだったかの父親のように。
「親父の気持ちがよく分かったよ。どきどき、だ。どきどきし通しだった。とんでもない夢を見た」
 渋味が彼の眉間にしわを刻んだ。サラダドレッシングのせいだ。レッドワインビネガーと過去とを深く味わううちに、それもすっとほぐれていく。
「夢から覚めて、いっそ清々したくらいだ」
 ルーファウスは息をついた。爽やかな酸味だけが鼻口を抜けていく。
「ルーファウス、お喋りな人なのに。こんな楽しいこと、ね、今まで何で黙っていられたの」
 不思議、とエアリスが言った。
「親父との勝負だぞ。ドロンゲームに納得しているつまらない男のことは」
 ルーファウスは人差指でくちびるをふさぐ。
「黙っておきたいだろう。悔しいからな」
「結局、黙っていられないあなたのこと、わたし」
 エアリスがゆるゆると首を振る。言葉にならないといった風に。その続きを、ルーファウスは花開くような笑みで聞いた。大好きだよ、と。
「聞けてよかった。教えてくれなかったら、ルーファウスとお父さん、引き分けだって思いこんだままだったから」
 スムージーを注ぎ足してから、エアリスは手を組みあわせた。このハンドサインのあとに決まって続くのは、ルーファウスでは知り得ない何かだ。聞きもらすまいと、耳を澄ます。
「だって、ルーファウス、自分で本当のこと確かめた。お父さんのできなかったこと、あなたはちゃんとできた」
 ルーファウスは、あ、と呻きに近い声を上げた。
「ね、これって、すごいことでしょ」
 父子揃って目指したもの。
 それが本物の約束の地ではなかったことや、実は星の神秘を目の当たりにしていたことにも気づくことのできないまま、父親だけが死んだ。
「だからね、ルーファウスの勝ち。お父さんに自慢できるよ。すごい男の一歩先、立てたんだから」
 ルーファウスを否定しない女に、彼は一心に見入る。
「勝ち星、ちょっとずつ増えてきたね。やったね、ルーファウス」
 ルーファウスは、まただ、と思った。
 エアリスと暮らしていると、ルーファウスの知らないことが減っていく。今回のこともそうだ。ただの思い出話のはずだった。
 彼らは確かに同じ思い出の宝箱を覗きこんでいるというのに、違う何かが見えている。
 ルーファウスでは見落としてしまう何かを、エアリスは見つける。
 そして不思議なことに、それはルーファウスが必ずほしかった何かなのだ。
「すごいな」
 エアリスが立ち上がる。と、幅広のテーブルごしに握りこぶしを突きだした。ルーファウスはフィストバンプへと応える。迷うことなく。
「本当にすごい」
 ルーファウスが見上げるのは、すごい女だ。
 もう一人では思い出の宝箱を開けられない。強く、ルーファウスはそう思った。
「座れよ。さっさと朝食を片づけるぞ。やりたいことができた」
 気分のいい朝だ。この幸先のいい一日の始まりに乗じて、ルーファウスはほかの夢も叶えてみたくなった。
「次はどの夢。ルーファ君、一二年生の夏の夢かな」
「いや、ルーファウス神羅・ゲインズブールの夢だ。妻と二人でなければ叶わない夢なんだ」
「いいね。やろう、やろう」
「ご賛同いただき感謝する、マダム」
 ルーファウスが気取って目礼する。次いで――マスメディア向けの――微笑を浮かべれば、彼女の頬が硬直した。
「スカッシュのコーチになりたい。お前専属のな。私の切なる夢だ」
 エアリスいわく「目、ちっとも笑ってない」顔で、ルーファウスは続ける。
「いい加減、私の尻にボールを打ちこまれるのには、うんざりしている」
 スカッシュはルーファウスの好むインドアラケットスポーツだ。ミッドガル時代、彼が不動産を買うときは――戸建は勿論のこと、ホテルやアパートメントハウスにすら――スカッシュコートを私設するほどだった。短時間でリフレッシュするにはちょうどよかったのだ。
 実際、ルーファウスがコートへと入りびたるのは役員会議後だった。理由はもはや言うにおよばずだろう。
「八つ当たりか」
 壁ならば何でもよかったのだ。叩きのめしたい一心だった。ルーファウスにとって壁は、父親そのものだったから。
「困ったやつだな」
 四壁の狭い空間、真正面にそびえるそれとだけ打ちあう。一人きり、黙々と。息を切らし、だらだらと汗を垂らす。鬱積した感情もろとも流しつくすまでだ。
 父親が死んだところで、壁は消えなかった。むしろうず高くなるばかりだ。ルーファウスは、だからいつまで経ってもラケットが手放せない。そしてプレーする姿はとてもではないが他者に見せられるものではなかった。
 あの転機を迎えなければ、スカッシュコートが本来の用途を取り戻すことはなかっただろう。そして壁の向こう側を知らないまま、いまだもがいているはずだった。ルーファウスがほっと息をつく。長く変わらなかったものが、変わる。一度変わり始めれば、それはそれは目まぐるしく。彼の――感謝に堪えない――転機を、世間では『大いなる福音の雨』と呼んでいるらしい。
 ルーファウスのパブリックな笑み顔がくずれた、そのとき。
「八つ当たりなんて、してない。しない」
 福音をもたらした女がふくれた。ルーファウスはきょとんとする。お前のことではないよ。彼にそうと言わせなかったのは、しゅんと伏せられた睫毛だ。
「わざとじゃないってば」
「いや、これは」
「本当だよ」
「故意だと言われたほうが、余程ましだぞ。少なくともボールがコントロールできているということだからな」
 今度は目が泳ぐ。ころころと変わるエアリスを見ていると、彼もついつられてしまう。
 ルーファウスはたまらなくなって大笑した。奥歯まで丸見えの、恥ずかしい顔をしているに違いなかった。
「前回は横っ腹に食らったのだったか。あれにはまいった」
 だが、とルーファウスは独り言ちる。児戯のようなボール遊びも、たとえ体中が打撲傷だらけになるのだとしても、楽しい。彼の掻く汗はいつも爽やかだった。
「ごめんなさい。わたし、ボールについていくので、いっぱいいっぱいなの」
「ちょうどいい機会だ。一から覚えてみないか。お前は要領さえ掴めば、上達が早い」
「こつなんて、あるの」
「あるぞ。ビリヤードにも書生にもあっただろう。何にでもある」
「やった、教えて」
 ルーファウスはペントハウス専属のマネージャーへと連絡した。コート内の室温を指示しながら、目をやったのは朝食だ。二人分にしては多すぎるそれは、あらかた食べ終えていた。
 もともと彼は小食ではない。加えて胃が『妻の手料理』を覚えてからというものの、食思は増した気がしている。にわかに脳裏をよぎったのは、父親だ。ルーファウスは思わずへそをさする。ぞっとした。薄い腹部には、加齢に負けた父親と同じ血が流れているのだ。
 マネージャーへ「急いでくれ」と念を押す。携帯端末を放る。と、ルーファウスは深く、そして何度も首肯した。
「腹ごなしにも、あれはちょうどいいしな」
 夢と、ついでに基礎代謝の維持も叶うはずだった。
「腹ごなし」
 ルーファウスとは対照的に、エアリスが眉をゆがめている。
「腹ごなしどころか、吐いちゃいそう」
 それから、もしかして、とルーファウスを睨んだ。
 こつどころか基礎も知らない初心者を、縦横に走るよう仕向けていたのがいったい誰なのか。彼女はようやく気づいたらしい。
「意地悪」
「失礼だな」
 ちょろちょろとボールを追いかけるエアリスは、まるでヒーリンの栗鼠だった。とてもかわいらしいので、ルーファウスは彼の制球力を駆使してしまうのだ。それはもう、全力で。
「私はただ栗鼠を見ていたいだけだ」
「わけ分からない」
「私の夢はどうなる」
「一人で遊べば、青痣、できないよ」
「意地悪は、お前だ」
「失礼しちゃう。痛いのなんていやでしょ、ね、ルーファウス。わたしだって、怪我させるのいや」
「痣なんてものは、どうだっていい。私はラリーをしたいと言っているんだよ」
「だったら余計に邪魔だよ、わたし」
「スカッシュは二人でプレーするものだ。エアリス、違うのか」
 残念そうに、エアリスがカトラリーを置く。
「違わないから、はい、ご馳走様」
 ルーファウスは嬉しかった。それはきちんと『ご馳走様』のかたちをしていて、彼の夢につきあうという印にほかならなかった。
「お前のその諦めの早さは、くそ」
「くそ」
「いや、前々から悪癖だと思っていたのだが。いいぞ、今日は美点だな」
「諦め、じゃないよ。わたし、もう知ってるから。ルーファウスの教えてくれること、結局、全部楽しいことだって。だからね」
 エアリスは小首を傾げる。と、テーブルナプキンを口元へと押し当てた。
「これは前向きな譲歩です」
 彼女がそれを畳み終えるより前に、待て、とルーファウスは口を挟む。すかさずだ。
「優しく教える」
 彼を喜ばせるエアリスから――とても大切な――食事を取り上げる。ルーファウスにはそんな気など、さらさらないのだ。
「消化不良を起こさないように、うんとな。だから、ほら、残すな。行儀が悪いぞ」
「どうかなあ。筋トレの鬼コーチみたいに、角、生えたりして」
「ビリヤードのマスターよりも、書写の講師よりもだ。本当だ」
 己のまろい声音を聞きながら、ルーファウスは思う。幼子を諭したことはないというのに、幼子を諭している気分だと。
「エアリス。これでも、まだ『ご馳走様』と言えるか」
 ルーファウスはテーブルを見まわす。デザートはヨーグルトだ。マーマレードソースからピールだけを選る。と、サラミとチーズに重ねてから、エアリスの口へと突っこんだ。
「わ」
 ルーファウスも同じものを食べる。玩味する。二対の目尻に、幸福のしわがよる。
「塩味に甘味を混ぜるだけでは、ありきたりだろう。そう思ったのだが、これは」
「想定以上の成果、ってやつ。皮の苦いとこ、すごくあうね。ね、ルーファウス」
「何だ」
「ご馳走様、撤回します。しなきゃだよね。だって」
 エアリスが万歳をする。と、テーブルナプキンをぶんぶんと振りまわした。
「これ、最高」
 照明の下でリネンレースがはためく。ややもせず、それが彼女の大腿を再びおおった。ルーファウスは安堵した。
「私の大発見だな。褒めろよ」
 エアリスが深く頷く。次いで顔を上げたところで、ルーファウスは目を細めずにはいられなかった。
「天才シェフ。わたしの胃袋掴み上手。すてきすぎる夫さん」
 眩しい。
 なぜ。 
 ルーファウスが窓外に一瞥を投げるものの、気象予報ははずれてはいなかった。黒々とした空からは、いつの間にやら雨が降っている。
 では、雲切れからかっと差す、あの一瞬に似た光はどこから。ルーファウスはすぐさま光源に気づく。
「ルーファウス、最高」
 ああ、これか。
 大口を開けて笑う陽光が、ただ、まばゆいだけだ。
「最高な私に報いろよ」
「任せて。目指せラリー、ええと、まずは一〇回だね。がんばるから」
「お前なあ。目標値が低い、低すぎる。この私の夢だぞ」
 フォークを伏せる。と、ルーファウスは手のひらを突きだした。
「いいか、エアリス。五〇回だ」
 悲鳴と雨音に耳を傾けながら、ルーファウスは思う。せっかくの休日は少しの晴れ間もないままに終えるのだろう。悪天は彼らの行動を制限する。だが退屈を与えることはできないのだ。
 幼いころから、ルーファウスは一人、叶わない夢ばかり見てきた。二人だと叶うことを知った。そして夢はさらに増えていく。
 今日もまた、ルーファウスは新しい夢を叶えることに忙しい。


■END■
(約束の地)

20240313