受け取った木箱の重さと冷たさにクリックは肩を震わせた。まるで雪でも詰まっているかのように冷たい。配達員が厚手のグローブをしていたのが気にかかっていたが、この冷え具合なら納得がいく。
ただ、確実に詰まっているのは雪ではない。すぐにそうと察せたのは伝票の差出人欄の文字が個性的だったからだ。
欄をはみ出して大きく書かれた文字。跳ねや歪み具合は気になるものの、鏡文字や綴り違いはなく〝オーシュット〟と書かれている。欄外にはぐりぐりと描かれた丸っこい似顔絵らしきもの。
「……これ、テメノスさんかな?」
思わず小さく笑ってしまい、その伝票は木箱の蓋から丁寧に剥がしておく。これはたぶん、クリックの恋人の宝物のひとつになるだろうから。
大企業の社長が写った新聞やとある学者の論文記事、劇場の半券や復興途上の町から届いた寄付金の御礼状。そんな品々がスクラップ帳に保管されていることをクリックだけが知っている。
さて、彼女からの贈り物ということは悪いものではないはずだが、これは一体なんだろうか。戸棚の奥から時季外れの手袋を取り出して、しっかり固定されていた木箱の蓋を外した。
「うわ」
声を上げてしまった。ぎっしり詰め込まれていたのは細かな氷の精霊石だった。まだ効果が残っているらしく淡い光が漏れている。どうりで雪のごとく冷たいはずだ。
その氷の群れに埋もれるようにして名前もわからない葉っぱに包まれた何かがある。精霊石を掻き分けて触れてみると葉っぱの表面は妙に柔らかかった。例えるならじっとり濡れたタオルのようだ。ぺらりと張り付いた葉を取り去ってみる。
「……肉?」
新鮮な、とはいかないまでも深みのある赤色に変じた塊肉が鎮座していた。鼻を近づけてみると強い香草と塩の匂い。塩漬け肉の塊のようだった。大量の氷の精霊石のおかげか、やたらと吸水性が良さそうな葉っぱのせいか。変な匂いは一切ない。
蓋の裏側に貼り付けられたポストカードを捲ってみると、そこにはやはり特徴的な文字が躍っている。躍動感たっぷりな羅列を読み解くに、この肉は彼女の仕留めたキングイグアナの肉らしい。どうにか旅の仲間にも分けられないかと、人間の村の村長コハゼに相談した結果、この贅沢な梱包が生まれたらしい。カードの隅にコハゼのものらしい筆致で、上手くいっていなければ無理に食べないように、と一文が添えられていた。
もう一度、くん、と鼻を鳴らしてみるが匂いはよくある塩漬けされた肉のそれだ。色も正常に見える。オーシュットの想いはちゃんとこのフレイムチャーチまで届いたようだった。
しかし。
「どうしようかな……」
塊肉を前に考える。
肉はクリックの好物だ。串に通してグリルするもよし。鉄板の上でじゅうじゅう炙られる様だってご馳走だ。ほろほろになるまで煮込まれた肉もいいが、脂が焼けるときの香ばしさは捨て難いものがある。
ただし、困ったことにクリックの恋人は肉を好んで食べない。進んで口にするのはもっぱらミンチ肉が主だ。君と違って胃袋だって若くないんですよ。とは彼の談だが、クリックより一回り年上のベテラン騎士は美味そうにスペアリブをかっ喰らうので単に運動量と体質なような気もする。
グリルにしようがステーキにしようが、彼が食べないということはないだろう。けれどせっかくのオーシュットの好意だ。どうせなら美味しく食べられた方がいい。
「うーん、テメノスさんが美味しく食べる肉料理……」
しばし、唸りながら悩んだクリックの頭にぽっ、と妙案が浮かんだ。
「あ、そうだ」
あれがあったじゃないか。自らの閃きに気をよくしたクリックは、肉の包みを箱へと戻すといそいそと炊事場へと運び込んだ。
フレイムチャーチはワインの里である。
山の中腹に位置する冷涼な気候で、広大な牧羊地とワイン畑が町の両脇に広がっている。
そんな町に住まう人々の晩酌は当然のようにワインだ。供されるのは燻製されたチーズや羊の腸詰めが定番だった。
その町で育ったテメノスもワイン党であり、普段は食の細い彼もワインに合うツマミはぽいぽい口に放り込む。おそらくはきちんとした食事という枠組みに捉われていない気安さがそうさせるのだろう。
そして燻製といえばチーズと腸詰めだけではない。
「よいせ、っと」
オーブンに薪を放り込み火をつける。じりじりと燃えてきたのを確認して扉を閉じる。使う頃には温まっているだろう。
戸棚の奥に仕舞われているスキレットと金網を引っ張り出す。
何故、わざわざこんなものがテメノスの家に揃っているのかと言えば、その昔、大人たちの晩酌に憧れた子どもたちに散々強請られたのだという。けして安くはなく、頻繁に使うものでもないのに、なんというか、あの人らしい。
1度、自分たちでやらせてブドウジュースでも飲ませておけば静かになりますから。ワイン蔵に忍び込まれるよりいいでしょう。
なんて悪態を吐いていたが、その声は大分、まろく優しかった。
「……でも、あれは自分が忍び込んだことがある言い方だったな」
オイルを敷いたスキレットに一掴みのヒッコリーチップを乗せながら考える。
けして短くはない期間を共にしてきた今ならわかる。あれは欲求を感じたまま放置された子どもが次に何を考えるか知っている物言いだった。結構な、いや、かなりの行動派である恋人を思い浮かべて溜め息を吐く。
「さて」
肝心の肉の表面を撫でてみる。塩漬け肉と言っても、余分な塩抜きと乾燥は済んでいるらしい。あの葉っぱのおかげなのだろう。焼くだけでも美味いだろうが、どうせならひと手間かけて食べる人が好むものにするのがいい。
スキレットの上に網を置いて肉を乗せる。少し考えてから、どうせならチーズも燻すことを決める。
薄い陶器の耐熱皿の中へチーズを入れ、肉と十分な合間を確保して置く。途中で浮いてくる水分も大敵なので拭うための清潔な布巾も手元に用意する。
オーブンに手を翳すと十分な熱が伝わってきた。スキレットごとオーブンに入れて扉を閉める。あとは中の熱が下がらない程度に取り出して肉の向きを変えたり、チーズの汗を拭き取ったりするだけだ。
「あっ、と」
炊事場の窓を閉じたままだったことに気がつき慌てて開ける。
まだクリックが初心者だった頃、換気が不十分な部屋で行い、スモークの煙に燻されて家中のカーテンを洗濯する羽目になった。その上、食材の水分が残ったまま燻してしまい、金網に直置きされたチーズが溶けて焦げ付いてしまっていた。
金網も、楽しみにしていただろうチーズも、駄目にしてしまったのにテメノスがクリックに与えた罰はカーテンの一斉掃除だけだった。確かにカーテンとは窓から下ろすとかなり嵩張るものだし、水を吸うと結構な重量ではある。けれど、そうせざるを得なくなったのは他でもないクリックのせいなのだから当然の報いというやつだろう。
それなのに、すべてのカーテンを干したクリックを待っていたのは、無事だった部分のチーズでソーセージを巻いたツマミとよく冷えたワインだった。それらを味わいながら失敗しないコツを教授願った記憶がある。
「もっと怒ってもいいのに」
複雑な心境に囚われる。別にすき好んで怒られたいというわけではない。
クリックが勝手にそこに心の壁があるように感じているだけだ。
まだ旅の身の上であった頃、彼が怒りを露わにしたところを見たのは一度だけ。あの不気味に迫った夜の合間の出来事で、そのただ一度とて、けして己のための怒りではなかった。ただ自らが誇りに、親身に思う者たちへの冒涜を堪え切れなかった。そんな当たり前に湧き上がって然るべき怒りだ。
テメノスの性格がよいかと問われたら、正直に悪いと思う。人が悪いかと言われたら、その通りと頷くしかない。
基本的に彼は理不尽だし、横柄だし、態度は不遜そのものだ。だというのに、クリックにはつまらない我儘だとか、甘えだとか、それこそなんでもないことへの愚痴や怒りをなかなか露わにしてくれないだけで。
名実ともに恋人だというのに、そういったところは、なんとなく。
「さびしいなぁ……」
「何がです?」
「うわっ!?」
すぐ傍らで落とされたテノールの一声に驚いて、クリックは大きく肩を震わせる。
「て、て、テメノスさん!」
「はい、そうですが。何です? 私と住むのがそんなに嫌になりました?」
「違います!」
全力で否定すると、窓が開いているのだから迷惑ですよ、と返ってくる。やっぱり怒りはしなくとも性格は悪い。
苦言を呈そうとしたクリックだが、熱されたオーブンに気づいたテメノスの口元が嬉しそうに緩んだのを見てしまった。息が詰まる。燻されたチップの香りが炊事場に漂っているので何を作っていたかは推理せずとも明白だ。
「家では久しぶりですねぇ」
「オーシュットさんから肉が届きまして」
「玄関にあった伝票とカードを見ました。ちゃんと自分の名前を書けるようになって何よりです」
満足げにうんうんと頷く。その何のてらいも打算もない笑顔に、ちょっぴり詮のない嫉妬心が湧いた。この人に努力を認めてもらうというのは結構、大変なことだ。素直に羨ましい。
もやもやしたものをどうにか昇華している脇で手を濯いだテメノスが炊事場に立った。バスケットの中から食パンの半斤を取り出し、食材ストックを覗く。何かに手を伸ばしかけてから、ふむ、と一拍置く。
――あ、これは。
今度は澱みなく動いた指先がミルクの缶と卵、チーズを拾い上げた。
「……今、何か省略しましたよね」
「おや、バレました?」
悪びれもせず肩を竦める仕草があざとい。普通の三十路なら間違いなく似合わないだろうに、クリックの目にはそれが可愛く映ってしまうのだから病気なのだと思う。一度、親友のオルトに愚痴ったところ、ストームヘイルの吹雪より冷えた目でそうか、と一言だけを頂戴した。
言ってはみたが、特にクリックに不満があるわけではない。何せテメノスの料理ときたら、何かとレシピの工程を省くくせに最終的にはクリック好みに美味しく仕上がっているのだ。非常に口惜しいことに。
「まあ、面倒なのも本心ですが、こちらの方がちょうど良いタイミングでそれをお昼にできるかと」
「え? これを使うんですか?」
「ええ。ホワイトソースを作る別の料理もあるんですが、それよりは楽で」
会話を交わす間にもテメノスの手はすいすいと動いている。
食パンをいつもより心持ち薄く4枚をカットする。カットついでに包丁の先でつんつんと数か所に穴を作っておく。
大きめのバットに卵を溶き、ミルクを注ぐ。少量の砂糖を入れペッパーミルを数度、回す。ミルクティーのような卵液に黒い粒がぱらぱらと散らされる。
「本当は具材を挟んでからが一般的なんですが、私はパンを両面浸すのが好きなので」
その卵液にカットした食パンを沈めてしまう。しばらくの間を置いたらひっくり返してもう片面にも卵液を浸す。そこまで進めばクリックにも彼が何を作ろうとしているか見当がついた。
「フレンチトースト、ですか?」
「を、利用したホットサンドですかね。それよりそろそろ肉を裏返す頃合いでは?」
指摘されてクリックは慌ててオーブンの扉に手をかけた。
よい色に染まった肉の塊がでん、とまな板の上に置かれている。スモークの匂いが空きはじめた胃袋を刺激する。
テメノスの握る包丁が肉の側面に当てられ、2箇所ほどを薄く削ぎ落す。熱しておいたフライパンで軽く炙ればじんわりと脂が溶けだし、香ばしい肉の匂いが立ち昇る。
「うん、いい具合ですね」
不意にテメノスがフライパンの肉片をフォークで刺した。ずい、とそのまま突き出されて面食らう。
「あ、の、テメノスさん?」
「? 味見しないんですか?」
きょとりと不思議そうにこちらを見る瞳に邪気はない。せめていつものような揶揄する含みがあったなら。そちらの方が安心できた。
――この人は……。
他所でそういうことはしないよう、後で言い含めなければ。そう決意しながら思い切ってフォークに齧りついた。それを見届けるとテメノスもまた残った肉片をフォークで拾い上げて口に運ぶ。
最初にぶわりとスモークの香りが鼻腔いっぱいに広がる。歯を立てれば隠れていた肉汁と香ばしい脂の甘さが相まって口の中でとろけそうだ。
脂も美味いのにしっかりと肉の繊維も残っていて噛み応えがある。噛めば噛むほど肉が解れて純粋な肉の旨味が溢れ出てくる。その味わいにさらに彩りを加えるのが塩漬けの塩味と複数の香草の風味だ。脂がのった、こっくりとした味なのに香草がその脂をさっぱりと洗い流してくれるのでいくらでもいけてしまう。
「うん、さすがオーシュットですねぇ」
燻製肉を味わっていたテメノスがどこか緩んだ表情で仲間のひとりを褒めた。ちょっとだけ。ほんの少しだけ面白くなくて唇を尖らせると、その頬を摘ままれた。
「君への御礼は今、作ってあげますから待ちなさい」
苦笑したテメノスは包丁を持ち直すと肉の側面から薄く燻製肉を切り出す。まだ温かいフライパンで薄切りの燻製肉を炙る。バットの卵液を吸った食パンの上にチーズと炙った燻製肉を重ねると、崩れそうなほど柔らかい食パンをもうひとつ重ねてサンドする。それを2つ。
フライパンにバターを落とし、フライ返しを使って2つのサンドイッチを並べて投入する。溶けたバターとほのかに甘いフレンチトーストのミルクの匂いが合わさって、とうとうクリックの腹がきゅうと鳴った。
「ふっ、あっはっは」
「わ、笑わないでください」
「くっ、フフ……もうすぐですから待ってください。皿を2枚、そして珈琲か紅茶。好きな方をお願いしますね」
小さく肩を震わせながらサンドイッチをひっくり返すと綺麗な焦げ目がついている。端から溶けたチーズが零れてこれまた胃袋を刺激する匂いがする。
これ以上、直視していたらまた醜態を晒しそうだ。もう少しの我慢、と自分に言い聞かせてクリックは彼の指示を完遂すべく食器棚へ向かった。
リーフレタスの上に厚いホットサンドが乗せられている。隣にはちょこんと味見ついでに置かれたスモークチーズ。
ざくりと斜め半分に切られた食パンの断面から、チーズが溶け出す。覗く燻製肉からは芳しいスモークの匂いが立ち昇る。食パンの表面には程よく綺麗な焦げ目がついていて、見ているだけで口の中に涎が溜まっていく。我慢をして食前の祈りはするのだけれど。
クリックが用意したのは浅煎りの珈琲だ。よい肉とバターを使った料理にはすっきりした酸味のある珈琲がよく合う。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
祈りを終えたクリックが早速カトラリーを持ち上げると、対面でテメノスが小さく笑った。やや行儀悪く大振りに一口を切り取って持ち上げる。上質なフレイムチャーチ産のチーズが伸びて、燻製肉から脂が染み出る。旨味が皿に落ちてしまう前にかぶりついた。
「――!」
しっとりとした優しい甘さの食パンが口の中で溶ける。次にやってくるのは燻製肉の強い塩味と香草の香ばしさ。野性味溢れる燻製肉の塩味をミルク分の多いまろやかなチーズがしっかりと受け止め、後味に隠し味の黒胡椒がぴりりと味を引き締める。
一口咀嚼して飲み込むまで、口を開けなかった。開いたら香りも風味も全部、台無しになりそうで。
「お気に召したようで何よりです」
まだ何も言っていないのに機嫌よく笑ったテメノスがそう言う。何故、と思っていると、全部顔に出てますよ、と答えが返ってきた。
「まあ、私も初めて店で食べたときは感銘を受けましたが」
「テメノスさんがですか?」
「私だって食に関心を向けるときくらいあります」
自らもカトラリーを動かして味わう頬が、若干、赤みを帯びている。美味しいものにありついたときの彼の表情だ。小食気味な彼がパンを二切れ味わっているのは珍しい。
――すみません、オーシュットさん。
抱いていたつまらない嫉妬を捨てて、クリックは素直に弓を奮ってくれた少女へ感謝した。
「そういえば、先ほどの話ですが」
クリックが淹れた珈琲を啜りつつ、テメノスがそんなことを言い出した。何かあっただろうか。首を傾げるクリックに、テメノスは君が口走ったことですよ、と追撃する。
「私と2人暮らしでは寂しいそうなので」
「あっ、いや、それはですね……!」
「君が本部に顔を出したいだとか、ご友人に会いにいくというのなら、止めませんよ?」
「だからそれは」
「ただし」
かちゃり、と珈琲カップの底とソーサーが音を立てる。テーブルへわずかに身を乗り出したテメノスの細い指が、クリックの唇をそっと塞いでいた。
うっそりと微笑んだ美しいかんばせが、有無を言わせぬ口調で息を吐く。
「きちんと無事でここに帰ってきてくださいね」
約束できなければ、許しませんので。
夏でもないのに一気に身体が熱くなる。たぶん、今、鏡を見たら耳まで赤い自信がある。
すっと指が引かれたと同時にテーブルの上に突っ伏して顔を隠す。いや、そんなことをしたところで暴く達人相手に意味はないかもしれないが、それでも矜持というものがある。
「……それはずるいです、テメノスさん」
「おや、なんのことだか」
添えられていたスモークチーズを食んで相好を崩すテメノスは、今晩、そのチーズと燻製肉で晩酌を楽しむのだろう。家の中でアルコールを口にすると彼は途端にやや甘えたになる。それでいて翌日はしっかりと記憶が残る。
――絶対に恥ずかしがるまで甘やかす。
静かに覚悟を決めたクリックには知る由もなかった。張り切りすぎた結果、翌朝、ベッドから出て来ない恋人に一苦労することなんて。
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