はとこ
Public
 

海に浮かぶ鳥籠

ショウリ×ミカル あまりハッピーな空気ではない #翔藍春待ちチャレンジ

 錆び付いた留め具を外し、烏色の格子窓をそっと開く。重苦しい蝶番の軋み音の先にあったのは、穏やかな夜の海の潮騒。夜の帳が下りたこの時間は街の声も静かで、明かりも控えめになるから、夜の海の存在がより際立つ。同じように海に面しているのに、煌びやかな歓楽街の光や物騒な銃声音が響いていたボクの生まれ故郷とは全然違う。だから、海なんて見慣れているはずなのに、毎日朝昼晩眺めていても飽きない。多分、ボクはこの街から眺める海が好きなんだ。
 窓枠に頬杖をついて、口ずさむのはボクの十八番。少し前まではカジノや広場で歌っていたのに、ここでのボクのステージはこの小さな部屋の、おんぼろの窓辺だ。でも、このステージも嫌いじゃない。海を好きなだけ眺めることができるし、潮騒によるバックミュージックも慣れると面白いし。
 歌っているとつい色々なことを忘れて没頭してしまう。ボクの後ろに同居人がやってきて、いきなりボクの口を塞ぐまで、自分の命が誰かの掌によって握り締められていることさえも忘れてしまうのだ。今みたいに。
 頰に指が食い込んだのは一瞬だけ。すぐに力が抜けたけど、ボクの口は相変わらず塞がれたまま。
……おはへひ(おかえり)」
「声がでけえぞ、『ミカ』」
「ごめんなさい、『ショウ』」
 ボクが素直に謝ると、ようやく口を塞いでいた手がするりと離れていった。ふわっと甘く香るのは彼が愛用している煙草の匂い。ボクは全く構わないと言っているのに、彼はボクのいるところでは決して吸わない。ボクの喉が悪くなってしまっては困るから、と。
 振り向けば、今夜空に浮かんでいる三日月よりもきらきらした金色の髪を持つ彼――『ショウ』が微笑んでいた。
「歌うなら、俺の耳に届くくらいの声にしろ。それなら、いくらでも好きなだけ歌っていい」
「うん」
 頷いてから、ボクはそっと続きを歌い始めた。ショウが命じた通り、すぐそばにいる彼の耳に届くか否かの小さな声で。
 ショウは笑みを深めると、ボクの膝にそっと寝そべった。さら、と柔らかい彼の金色の髪がボクの紺色のスラックスの上に落ちる。彼はボクの髪を綺麗だとやたらと褒めて触れるけど、彼の髪も同じくらい綺麗だと思う。歌いながらそっと指先で髪を触ってしまうくらいに。するとショウはいつも気持ちよさそうに青い目を細める。その様が海を散歩しているとたまに出会う猫にそっくりだ。その猫もとても人懐っこくて可愛いけど、ボクの膝の上に寝そべる彼もすりすりと頰を寄せて好意を示すから、最近少しだけ可愛いと思うようになってきた。それと同時に、この海の街へ連れてこられた時に告げられた、「お前が好きだ」という彼の言葉にようやく異物感を覚えなくなってきた気がする。
 そう、ボクはこの膝の上で甘える男にある日突然誘拐された。睡眠薬入りの紅茶を飲まされ、目が覚めた時にはここにいて。いきなり、好きだと告げられて。

『一ヶ月、この街で俺と恋人として暮らしてくれ。それさえ受け入れてくれれば、お前はこの場で死なずに済むし、一ヶ月後に約束どおり兄貴の元へ帰してやる』

 そう、脅されて。
 ボクは兄――マルコ一人残して死ぬわけにはいかなかったし、ボクを脅しながらボクへの愛を告白した異国のマフィアの男が非道な人には思えなかったから、彼の要求を飲むことにした。
 だから、今のボクは『ミカル』ではなく『ミカ』であり、彼、『ショウリ』ではなく『ショウ』の恋人。
 でも、それはそういう「設定」というだけで、彼はボクのことを愛おしげに見つめたりこうやって甘えたりしてくるけど、ボク自身が彼にそういう気持ちを示すことはないし、それを強要することもなかった。ボクはただ、彼のそばにいさえすればいいらしかった。
 ボクは、彼の自分への気持ちに異物感は覚えなくなってきたものの、信じているわけではない。ボクの彼に対する認識も「恋人のふりをした誘拐犯」のままだ。でも、一日、また一日と一緒に過ごす日数が増えていくうちに、少しずつ何かが変わっているような気はしている。それはボクも彼に惹かれているということなのか、それとも全く別の感情なのか分からないけど。
 歌がフィナーレを迎え、その余韻が潮騒の音に飲まれていくか否かというところで、ショウが体を起こした。
「そろそろ眠るか」
 ボクは頷くと、そっと自分の両手をショウへ差し出した。
 ショウはふっと優しく微笑むと、ジャケットの懐からあるものを取り出す。それは夜の海と同じ色をした手錠だ。
 それがボクの手首にそっと嵌め込まれる。かしゃん、と小さな金属音を響かせてボクの自由を奪うこの光景を目にするたび、子どもの頃出席した結婚式を思い出す。嵌められるのは手首じゃなくて左手の薬指で、嵌められるものは手錠ではなく指輪だけど。ボクに手錠を嵌めるショウの顔が、その時の新郎によく似ているから。
 ボクに手錠を掛け終えると、ショウは格子窓に手を掛けた。
 重い金属音を立てて閉ざされる窓の向こうで、変わらず聞こえてくる潮騒の音に耳を澄ませるために、ボクはそっと目を閉じた。