向かってくる女がグラスの中身をこちらに向けてくるのが、スローモーションで見えた。本当にそんなことがあるんだな、と思った。怒りや焦りはなくて、妙に感心してしまったというか。
しかし、呆けてしまったヴィクトルの腕を誰かの手が力強く引っ張り、ヴィクトルは無傷で済んだ。代わりに液体──シャンパンを浴びることになったのは、黒い髪とスーツの、
「勇利!」
ヴィクトルが本当に我に返ったのはその瞬間だったと思う。勇利はうっとおしげに髪をかきあげ、滴ってくるシャンパンの雫をぺろりと舐めた。行儀の悪い仕草だが、それを言ったらそもそも人にシャンパンをぶっかける人間の方が問題がある。
勇利が冷たい眼差しでパーティ参加客の女を見下ろしながらぺろりとシャンパンを舐めた瞬間、冗談でなく会場がどよめいた。面白くない。ヴィクトルはムッと眉をひそめる。
「甘いや」
勇利は淡々と述べた後、結局女性には何も言わず、まだ腕を掴んだままだったコーチを見やる。
「大丈夫?」
「…あ、ああ。…いや俺はいい、勇利が」
やっと我に返って、ヴィクトルはハンカチを取り出し勇利の額や頬を拭う。
勇利は少し顎をそらして、ヴィクトルが拭きやすいように体勢を整える。堂々とした様子で、ともすれば傲慢にも見える表情だったが、妙な迫力があり、誰も何も言えない。
「…ヴィクトル」
潤いのある唇が呼ぶ。ハンカチを持つ手をとめて、男は弟子を見る。唯一無二の相手を。
「ぼうっとしてちゃダメだよ」
ふ、と微笑む顔は、ああ、なんとしたことだろう!
あまりの色気に、さしものヴィクトル・ニキフォロフでさえ頬を染めることとなったのであった。
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