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犬蓼
2024-03-06 00:32:31
6989文字
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Rouge, Mon rêve
レイちゃんが見た怖い夢のことを話してくれない悩みを美奈子ちゃんがみちるさんに相談する話。
朱鐘さん(TwitterID@akane_mrs_)の作品を拝読した時に湧きあがったものを養分に育った何かです。
私がはるみちの草で朱鐘さんが美奈レイの方なのでそうなっている……はず。
日暮れ間近。街灯が瞬いて白い光を投げかける。美奈子は俯いてブランコに腰掛けていた。
帰宅を促す鐘はとうに鳴り、本来の占有者である子供たちの姿はない。それを見守る大人たちの姿もない。
ぽつんと美奈子一人だ。
大都市の真ん中の公園は極相林の中に倒木でできたギャップのようで、ぽかりと空が広がっている。空は夜と昼とをグラデーションにして徐々に紺青を深め、人工物に席捲された都市にかろうじて残る自然のダイナミズムを見せていたが、それは美奈子の目には映らなかった。ただ人工照明が投げかけた足元の影だけを追っている。
ゆらり、ゆらり。地に足をつけたままブランコを揺する。
足元の影も揺れ、肩から長い髪が制服の袖を撫でて滑り落ちる。
ゆらり、ゆら。
俯いた足元の影にふと別な影がかかって、おや、と思った。自分の頭の形に重なって溶け込む、緩やかに波打つ髪の。
「暗いわね。どうかして?」
かけられた声を反射的に振り仰ぎ、あっこれは、と思った。頭と顔とを面白おかしく打ちつけてしまうのでは。しかし美奈子は急には止まれないのだ。相手への申し訳なさと共に後頭部への衝撃を覚悟した。
結果として。
それは杞憂に終わった。美奈子の真上に被さっていた影が素早く横に避けたのだ。危険を察知する早さ、最短経路で回避する速さ、予期した覚悟の外れたこと、思わぬ顔をそこに見たこと。幾重にも驚いて、美奈子はぱちぱちと瞬いた。
「すごいですね、みちるさん。今のを避けるなんて
……
」
言ってしまって、これはないな、と自省した。まるで後頭部での頭突きを狙ったみたいだ。
そんなことをされるとも言われるとも思っていなかったらしいみちるは軽く瞠って、それからくすくすと笑いこぼした。口元に手を遣り、玉の鈴のような笑声を鳴らす。
「おもしろい子」
みちるの周りには美奈子のような人物はいないのだろうが、美奈子の周りにだってみちるのような人物はいない。歳上だからというものでもないだろう。物腰、言葉遣い、纏う雰囲気。どこをとっても来年の自分たちの身についているとも思えない。
たち
。勝手に一緒にして悪かったかな、と思いながら個別に思い浮かべた仲間たちは、やっぱり一年経っても目の前の歳上の女性のように喋り出しそうにはない。
それとも。
思わぬことが起きて、大きく変わったりするなんてあるのだろうか。美奈子にはわからなかった。
未来の予見は、自分の範疇にない。
「隣、よろしくて?」
内心を圧し潰して隠して、すみません、と笑った美奈子にみちるは問いかけた。断る理由もないのでどうぞと答えたが、この人はそんなに暇なのだろうか。そもそもどうしてここに現れたのだ。
ヒントでも見つからないかと隣のブランコの砂を払ってハンカチを広げる姿を見つめたけれど、よくわからなかった。
ワンピースにボレロを羽織った服装はドレッシー、とも見えるがセンスが違いすぎてわからない。大人であればこんな格好でも仕事なんかに行ったりするのだろうか。ドラマで見た社長秘書がこんな格好をしていた気がする。手に下げた紙袋は表通りのウインドウをみんなで覗き込んだけれど、おこづかいではちょっと届かないね、と話したケーキ屋のものだ。
視線を感じてか、ブランコに腰掛けて振り返ったみちるが小首をかしげた。匂い立つような豊かな髪が肩口に揺れる。そんな何気のない仕草まで気品高く優雅。この人を秘書にする社長ってどんなだ。どちらかと言うと社長として雇う側では?と思いかけて脳裏に浮かんだのは、夜を背に居並ぶ二人の戦士の姿だった。
秘書と社長というのとは違うが、ネプチューンはウラヌスの補助役に回っていることの方が多い印象がある。案外、誰かを輔ける役割もこなす人なのか。
いや。
「やっぱり、はるかさんだけ特別ですか?」
片眉下げて訝られた。美奈子は狼狽えた。栃麺棒を食った。失言だ。濁音を撒き散らして首と手を振る。
「いえ! その! 今日はご一緒じゃないんだなって!」
墓穴の底にさらに墓穴を掘った、かと思った。深い海のような色の眼差しが、一つ瞬くまでの間、美奈子をじっと見つめくる。
「そう言うあなたも、今日はひとりね」
眼差しは、瞬きやわらいで緩んだ。海溝の暗がりが見間違いであったかのように。
けれどそのやわらぎがかえって美奈子には、暗がりに篝火を焚いたような閃光の眼差しを思い起こさせた。
「いやー
……
あたしたち、いつも一緒ってわけでもないのでー」
へらりと笑って後ろ頭に手をやった。
応えて微笑する。
「私たちもそうよ。いつも一緒というわけではないわ」
向けられた海の色は心に宿る鏡だ。青き深淵に世を映す。
ああそうだ。この人は、同じだ。美奈子は思わず口角を引き締めた。
「みちるさんて
……
」
失言ついでだ、聞いてしまえ、と思いきる。
「夢、見ます? 怖い夢」
一笑に付されたらその時はこちらも笑って誤魔化して流してしまおう、と予防線も張っていたのだが活きることはなく、みちるは美奈子の眸を覗き込むようにじっと見て、それは、と言った。
「例えばどんな?」
まさしく鏡にこちらの感情ばかりが映るようで、どぎまぎしてしまう。美奈子が空虚を噛んで口籠ったのを見て、みちるは少し目を細めた。
「それは例えば、世界が壊れるような夢?」
陽は落ちゆく。美奈子は無意識にブランコの吊り手を握り直した。手のひらがひやりとして、鉄の匂いを嗅いだ気がする。
みちるは不安定であるはずのブランコを揺らすことなく、ぴんと背筋を伸ばし紙袋を膝の上で両手に抱え、両足はつま先まですらりと揃えて座っている。その姿が、この人の心根の内を表しているかのようだった。
「その夢は、あなたが見た夢?」
肩にかかる髪房を払う。やわく量感のあるひと束は、波が洗うように繊手の甲をすべり流れた。
その仕草は、声音はたおやかだけれど、青い鏡の洞察力は美奈子の予防線を軽々踏み越える。剣士が無拍で相手の間合いに入り込むように。
剣士はこの人ではないけれど。
「
……
いいえ、違うわね。それはあなたの役目じゃない」
言い当てられる、と美奈子は思った。どうしてこの話を振ったのか、夢を見たのは誰なのか、その夢を見た本人に尋ねないのはどうしてなのか。全部言い当てられる、と思った。それは、さすがに、気まずい。
話して悪いわけではないが、そこまでの心の準備はなかったのだ。と、思ったのも、見透かされたかもしれない。鏡の眼差しと丹花の唇がふっと緩んで、見るわ、と答えた。
ほっとした。踏み込まれなかったことも、みちるが横暴に踏み込んでこない人であることも。
この人になら相談を持ちかけて良いのではないかと、再度、思う。
「
……
その夢のことって、はるかさんに話します?」
きしりとわずかに金属音で軋む。美奈子のでない。隣の、みちるが掛けたブランコの。
あ、と心中に呟く。美奈子の勘が、何もかも遠く隔たったところに在るような目の前の人の持つ、隠された近しい感情を察していた。
「言うわ」
と、揺らがぬ表情で美しい人は答えた。
「私が見る夢は情報だもの。咄嗟の判断に関わるかもしれないでしょう? だからちゃんと
……
共有するわ」
やや含みがあったような。
だが目下、美奈子の優先順位は自身の悩みにあった。みちるの言葉の隙間をつついて興味を満たすより、進行形で思考回路を占拠する人についてを解きたかった。だから心に浮かんだのは、言ってくれない長い黒髪の後ろ姿だ。彼女はなぜ、独り抱えてしまうのだろう。
じゃあ、とむくれた気持ちで美奈子は言った。
「みちるさんは、はるかさんに話してない夢ってないんですか?」
きしり、と確かに吊り手が軋む。鏡の虹彩がこの大きな都市のたくさんの灯を映しただけかもしれないが、その問いかけが失言であったかと思うほど、海辺が波濤を立てる煌めきで輝いた。
あるわ、と。そして間を置かず継いで、みちるは答えた。
「前世」
流麗な声音に美奈子は息を詰める。記憶をただ話したのなら情報になってしまうでしょ?と奏で、続けた声はマイナス二百二十度の冷ややかさで、それなのに触れればきっと、熱い。
「私、思い出は分かち合いたいの」
脳裏で、暗がりに焚かれた篝火の閃光が爆ぜる。その美しい烈しさ。そんなところまで似てるなんて、ずるい。
おおう
……
と呻めき、美奈子は額の汗を拭う仕草をした。
「危ないところだった
……
一瞬、はるかさんの気持ちが分かりかけました」
秀麗な眉が顰み、声は抜けた。
「は?」
この人にこんな顔をさせるのは初めてだ、と美奈子は思ったけれど、この子はいつも埒外から意表を突いてくる、とみちるは思っていた。
思い起こしていたのは互いの正体も知らず、使命を共有することさえ拒んでいた頃のこと。それなのに頓興とも取れる純粋さについ絆されてしまったのだった。思わず、笑声が溢れる。
「あなた、本当におもしろい子ね」
あの頃の振る舞いを思うと、今のこの慣れ親しんだ態度の許されていることが、ひどく危うく感ぜられる時がある。いつかまた隔てられる時が、隔たりをつくるべき時が来るのではないかと。
みちるは輝かしい虹彩の大きな眸を覗き、意志でもって頬を緩めた。
「あなたの大切な人が怖い夢を見ていたとして、それを話さないなら理由は一つよ」
それぞれの心に一人ずつ。思い浮かべてみちるは告げ、美奈子は瞠り見つめ返した。
「あなたの心を曇らせたくないから」
心配、気掛かり、不安や懸念。それら重たいもの全てを抱えずにいてほしい。大切な人だから。
美奈子は背の熱くなるのを感じた。
「そんっなの! お互い様でしょ!?」
金属音を高鳴らせ立ち上がり、思わず声を裏返らせる。美奈子を見上げ、ひどく困ったように、少し悲しげに、みちるは微笑んだ。
「そうね。お互い様ね」
撥ねたブランコが返ってきて膝裏にぶつかった。いたっと声を上げ美奈子は腰を折る。背を屈め、膝裏を撫でた。痛くて、悲しかった。
大丈夫?と訊かれて頷いた。常にない、見上げる形の海の色の眼差しは鏡の様。憂鬱の顔色が映る。さっきの
含み
を思い出した。
みちるは何かを、きっと言わなかったろう。言われなかったはるかは、傷つかなかったろうか。
慰めるように、夢は情報だと言ったでしょう、と丹花は紡ぐ。
「もしその情報が不確かで、曖昧なものなら、共有する価値はないわ。不安にさせるだけでしょう?」
違う?と問いかけられて、美奈子は歯噛みした。それでも、と思う。
「それでも、あたしは、言ってほしいです。独りで抱え込まないで」
縁の鋭い人工林の中にぽかりと開いた小さな空にも一番星は瞬く。見上げた海の色は微笑んだ。
「あなたはそう言ったらいいわ。私でなく、その人に」
告げて立ち上がり、美奈子の背後のずっと遠くを見る。
「お暇するわ。あなたにもお出迎えがあるようだし」
驚いて視線の先を追うと、木陰に見え隠れるする黒髪が揺れた。はっとして喜びが湧き上がる。嬉々として彼女の名を呼ぶ声が上ずった。
「レイちゃん!」
見つかってしまっては仕方ないと、不承不承の空気をかもしながら歩み寄ってくる。レイを出迎えるのに振り返りながら、敷いていたハンカチを取り上げて払う姿が目の端に入った。
「あんたねぇ
……
サボるならサボるで言ってきなさいよ」
不機嫌を描いて貼ったような渋面にへにゃへにゃと笑いかけた。
「レイちゃんたらー! そんなにあたしのこと心配してくれたの?」
黒目がちの眸が篝火のゆらめき爆ぜるようにかっと見た。おおこれは図星だ、と美奈子はますますにこにこする。ますますにこにこは篝火に薪を焚べて、さらに一層、燃え立たせた。
「アルテミスが! よ! 学校帰りにいなくなったから、どこかで拾い食いでもしておなかこわして、倒れてるんじゃないかって心配してたの!」
しないわよ、拾い食いなんてしないわよっと力強く否定していると、背後で玉の鈴の笑声が楽しげに鳴った。ころころと笑いこぼす合間に、あなたたちは後悔しないで、と囁かれた気がしたが、返り見た時にはただたおやかな微笑だけがあって耳介の記憶は定かでない。食えない人だな、と美奈子は思った。わかっていたつもりだけれど、本当に、食えない人だ。
「今日はお一人なんですね」
とレイが言ったので、それはあたしが言ったよ、と美奈子は言おうかと思った。けれど。
「落ち合う予定だったのだけれど、はるかの用事が押してしまったの」
と、みちるが答えたのでその言葉の出どころはなくなってしまった。みちるは軽く紙袋を上げて示して、だから、と言った。
「差し入れ」
レイがなんだか感心したように相槌を打ち、紙袋に書かれたケーキ屋のロゴに気づいて、こんな寄り道をしていて大丈夫なのかと生菓子を案じている。焼き菓子だから大丈夫とみちるが答えていた。美奈子はずっと前にこんなことがあったような、と記憶の引き出しを開けては閉めてまた開けて、そういえばあの時一緒にいたのはレイではなかったのだった、と思った。
あの時は、うさぎと一緒にはるかのあとをつけ、そこにみちるが来たのだった。思い出してみたら全然違うシチュエーションだ。
「じゃあ、またね。ごきげんよう」
他愛ない立ち話の終わりに、みちるはそう言って二人に背を向け歩き出した。すらりと伸びた背筋の後ろ姿は出会った時の印象のままだ。そして食えない人、それは全く確かなことだけれど、その食えない人の見えない腹の底を今日、少し見た気がした。
「みちるさん」
美奈子はふと呼び止める。
「初めて会った時に訊いたこと、おぼえてます? イエスかノーでお答えください、って」
青く波打つ髪が揺れて振り返った。
「覚えているわ」
暮れかかる。空は残照。一番星は宵の明星。波濤にかかる煌めきのような街の灯の前に立って、海の色の眼差しは真っ直ぐと通る。
「嘘をついたわけじゃないわ。あの時はそうではなかったの」
射かけられたように見つめ返した。
あの時は。では、今は。
問い重ねることはできたような気がするが、美奈子はしなかった。
継ぎのないのを見て、みちるはひらりと片手を上げて踵を返す。二人でひらひらと手を振り返し、雑踏に消える背を見送った。
いつも変わらず美しいわ、とレイが嘆息こぼす。
「ひとつ違うだけなのに、来年のあたしたちがああなるとは到底思えないわね」
呟きに、美奈子は思わず破顔した。だよねーっと言うと、レイはひどくひどく胡乱なものを見る顔をした。
「えっひどくない? ヴィーナスの微笑みに向けてそれはひどくない?」
するとレイは、あんたは確かにヴィーナスだけど今の顔はそういうのじゃなかったわ、と言った。
「ボール三個くわえたゴールデンレトリバーとかそういうのだったわ」
三個。いっぺんにだろうか。どんな顔になるんだ。
思わず脱線しかけた思考を、そんなことより、とレイが遮った。
「みちるさん掴まえて何話してたのよ」
あんな忙しそうな人を、とそれもまたひどい言い様だと思った。あちらから声をかけてきたのに。
だがそれは瑣末事だ。美奈子はにーっと口角を引いた。
「気になる? やっぱり気になっちゃう?」
喜び勇み問いかけると、うるさい、とあしらわれる。
「じゃあいいわよ。気にしないから!」
素直じゃない、と思う。気にしてよ、としなだれかかると、なんなのよあんたは、と払われた。絶対心配していたのに、本当に素直じゃない。
自惚れなんかではない。こういう時に心配しないはずがないレイの心優しさを、美奈子は知っているのだ。
地面に置いていた通学鞄を取り上げ、砂を払う。
「だいたいさー、レイちゃんのせいよ? レイちゃんが言わないから、みちるさんに訊いたんだから」
軽口のつもりで言って、振り返って、面食らった。
「何をよ! なんであたしが言わないと、みちるさんに訊くのよ! そんなの、あたしに訊けばいいでしょ
……
!」
怒ったように眉を吊って、泣いてしまいそうに目が潤んで、唇を噛むように結んで、それらが全部照れ隠しであるように頬を染めたレイがいた。
感極まって美奈子は飛びつく。
「やきもち? レイちゃん、やきもち妬いてくれてるの?」
えっへへーと抑えきれない喜びを顔中に覗き込むと、ますます眉は吊り、眸は燃え立ち潤む。美奈子を力いっぱい振り払って、黒髪翻し背を向けた。
「違うわよ! もういい! 帰る!」
けれどその背けた向こうで、言いすぎたのをちょっと悔いているのを美奈子は知っているし、そんなところが大好きなのだ。
「あっちょっと! 待ってよー! レイちゃーん!」
追いすがる、美奈子をちらりと肩越し振り返る。煌々灯る篝火の眼差し。追いかけ、追いついて、手を握る。
一番星の明るさで美奈子は笑った。
日は暮れ果て夜が帷をおろす。街は灯に瞬き、そしてその頭上に、月が昇っていく。
了
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