いを
2024-03-05 17:53:29
3522文字
Public ブツメツフツマ
 

雨明かりの庭

無告。
・(幼い頃の)公紲さん【higasa_onink】
お借りしています。

 ぱた、と庭先に水滴が落ちる。雨でも降ってきたのだろうかと視線をあげて、庭を見る。けれども外は晴天で、雨が降る様子もない。
 筆を持つ手がうろうろとする。やがて無告はため息をついて、硯に筆を置き、写経も途中に庭に出た。
 乾燥した空気だ。そして庭には梅が咲いていた。それももう、散り際だ。腰を気張らし程度にこぶしで叩きながら、梅の木の下に立つ。
 春一番か、強い風が着物の裾と袖を揺らした。
……あ」
 懐にこっそりと入れたままだった本を今さら思い出す。袷に手を滑らせて単行本を取り出した。幸福の王子。広場に立てられた王子の像が、宝石でできた自分の目や体じゅうの金箔を、つばめに頼んで貧しい人びとに与える、「王子」。
 目を細めてその本を見下ろす。
「自己犠牲が、尊いというのですか」
 本に問いかけても、なにも語りかけてはこない。語りかけてこないものに、会話はできない。成り立たない。
 裸足に草履の足もとをぼんやりと見下ろす。白くちいさな花びらがてんてんと落ちている。腰を折って花びら一枚、手に取った。
……
 うつくしい、と思う心が、ひやりとした手で撫でられる感覚に陥る。
 そのとき、境内をだれかが歩く音が聞こえた。幼い子どもだった。細い、子どもらしいすらっとした身体の少年は無告を見つけると丸く形のいい頭をちいさく下げた。
「公紲くん」
 名を呼ぶと、彼はどこか安心したような表情で笑った。
「無告くん」
 まるで確認するような口調に、ふとくちびるがゆるむ。「はい」と答えると、公紲も梅の木の下に立った。
「これは、梅ですか?」
「そうです。梅です」
 公紲の前に、指先でつまんだ花びら一枚を差し出す。ほんのすこし薄い虹彩が晴天の空の下、輝いたように見えた。
 黒い手袋に白い梅の花は、コントラストがくっきりと浮き彫りにされている。公紲はそっとその指から花びらを取ると、太陽に薄い花びらをかざした。
 まだ幼いおとがいは白く柔らかい。それでも彼の表情はどこか大人びて見えた。
 無告は腰を落として、公紲の頭をそうっと撫でた。
「花は好きですか」
 不思議そうにこちらを見て、首をかしげる少年にふと微笑む。
「あちらには椿、沈丁花……クリスマスローズもあります」
「椿は知っています」
「そうですか。公紲くんの家にもあるんでしょうね、きっと」
 彼はちいさく笑った。そして、なにかに気づいたように首をかしげる。
「無告くん、それはなんの本ですか?」
「幸福の王子、という本です」
 手に持っていた単行本を公紲に渡すと、興味深そうに装丁を見つめた。
「あ、聞いたことがあります。王子の像と、つばめの……
「そうです。……自己犠牲が尊いとされた時代の話ですね」
「自己、犠牲……
「短いお話です。すこし、読んでみますか?」
「はい」
 本堂につながる階段に腰かけると、ちょうど足もとにクリスマスローズが咲いていた。白く、清らかな花。「これがクリスマスローズです」と指差すと、「きれいです」と笑った。彼はきれいなものをきれい、と言える子なのだと安堵する。
 文字列をゆっくりと辿り、読み聞かせていく。公紲は文字を追いながら無告の声を聞いていた。
「つばめは、つぶやくように言いました。〝お手にキスさせてくださいませんか?〟〝おまえがやっとエジプトへ行くことになってうれしいよ、小さなつばめさん。おまえはここに長くいすぎた。でも、わたしのくちびるにキスしなさい、わたしはおまえを愛しているのだから〟」
「愛している……
 ぽつり、と囁くようにこぼした公紲はその瞳を無告に向けた。
 手をとめ、彼の目を見下ろす。
「行いけんにして、自ら賢となるの行いをさらば、いずくに征くとして愛せられざらんや。優れた行いをして自惚れない、そんなひとが愛されないわけがない、という意味の言葉です。難しいことですが、そうありたいものですね。あなたも……
 つとくちびるを噤む。
……?」
 純粋な瞳が無告を見上げた。なんでもないというようにかぶりを振る。
 再度、彼の頭に手を置いた。「公紲くん」しっかりと、かみ砕くように名前を呼ぶ。
「あなたには、幸せになってほしい。自己犠牲のもとの冷たい幸せではなく、やわらかくあたたかい場所で。そうなるように、あなたの力になります」
 薄い色の光彩が、滲む。無告は安心させるように笑い、頭から手を離した。再び本に視線を落とそうとしたとき、袖をちいさな力で引かれる。
「無告くんは?」
「え?」
「無告くんはしあわせにならないんですか?」
 再度口を閉ざす。しあわせ。しあわせになってほしい。そう軽々しく口に出しておいて「自分が幸せになる覚悟」というものがない、などと。公紲に知られないようにぐっと手のひらを握りしめる。けれど子どもは幸せになるべきなのだ。幸せであるべきなのだ。大人になってから「幸せになる」ことへの臆病さから遠ざけるために。
 ざっと風が吹く。まだ、冷たい風だった。
……いつかね」
 そっと、本を朗読するように囁くと、彼はそれ以上言葉を追うことはなく、袖から手を離した。自分の白い襦袢が見える。それから目をそらし、本を見下ろす。
「〝町じゅうでいちばん貴いものをふたつ持ってきなさい〟と神さまが天使のひとりに言われました。そこで天使は鉛の心臓と死んだ小鳥を神さまのところへ持っていきました。」
 そこで神さまは「おまえの選択は正しかった」と言うのだ。無告はその綴りを読めなかった。公紲の手は膝に置かれている。まだ成長途中の、未完成な手だった。
「つばめも王子さまも死んでしまったけれど、死の先に救いがあるという最後です」
 本を閉じる。自分の心に蓋をするように。
「本当に、死んだあとは幸せになれるのですか?」
……本当かどうかは、分かりません。ここにいるものはみな、生きているものたちです。死んだことがあるものはいません」
 風が再び吹き、薄桃色の花びらが舞った。
 公紲の髪の毛に、花びらが絡まるようにしてくっついている。それをそっと取りのぞきながら、願うように彼に伝える。
「あなたのような年齢の子は、死というものが遠いものであるようにと私は願っています。まだ、できるなら死について考えるべきではない、と……
 できるなら。思考の自由を奪うわけではない。それでも、生きていてほしい。生きて、どうか誰よりも幸せになってほしい。
「どうか死で救われる生ではなく、幸せで救われる生になりますように」
 公紲のまだ小さな手を両手でつつんで、握る。祈るようなしぐさだった。
……つらいこと、かなしいことがあったら、私に伝えてください。つらいと、かなしいと。私はそれを受け入れます」
 まだ幼い彼の身のまわり。大人の身勝手な言葉、行動が見える。
 大人を嫌うことがないようにと願う。いつかこの子も必ず大人になる。そのときに自分自身を嫌いにならないように。自分を、せめて愛せるように。
「そうだ、公紲くん。お腹すきませんか? 檀家さんからおまんじゅうをもらったんです」
「いいんですか?」
「ええ。私ひとりでは食べきれなくて」
 本堂につづく階段をおりて、自室に直接つながる端居に上がり、公紲を招く。靴を揃えて彼も端居にあがり、無告の部屋に入った。
 い草の香りがまだわずかにただよった。
 文机の上に置いてある4個入りの饅頭を差し出す。
「どうぞ」
「無告くんは食べないのですか?」
「ああ……。そうですね。半分こしましょう」
 畳に直接置かれた鉄の急須と、茶碗を戸棚から取り出して茶を入れる。ひととおり、ひとのために出す食器はこの戸棚に置いてある。家族と顔を合わすことがないようにという、両親からの贈り物・・・であった。
「そこの端居で食べましょう」
「はい」
 今家族は全員出払っている。家の隅――端居で食べてもそれを咎めるものもいない。
 木の盆に急須と茶碗をのせて、端居に坐る。
「正座はしなくて大丈夫ですよ」
 ここは、あなたの家ではないから。気を楽にしてください、と呟くと、すこし安堵したように表情をほころばせた。
 公紲の足が沓脱石についていないのが、微笑ましく思った。
 饅頭を一口かじると、黒糖の甘さが広がる。
 無告の部屋の窓から見える位置。それは梅の木があった。あの音はきっと花びらが落ちる音、この子のちいさな足音を知らせるためのものだったのかもしれない。
 春に降る雨のような、冷たいものではなかった。
 たしかに今生きている、あたたかい命の音だったのだ。