平行線もいつかは交わるらしい。カウンターの中から、いつもよりこころもち深いような微笑みと共にそう言ったのはシャイロックだった。どういうことだと尋ねる前に、ムルの底抜けに明るい声が後を引き取ってしまって、その真意はわからない。
「そりゃ、いつかは交わるさ! 完全にまっすぐな線を引けるのは神様しかいない。つまり、すべての平行線は交わるってこと。この世のあらゆるものごとは不完全で、時間の経過と共にさらなる混沌に導かれてゆくんだ! それって最高だよね?」
答えがイエスであることはわかっている。たとえ、ムルが何を話しているのかはわからなくても。フフ、と俺の口から笑いが零れると共にぐらりと上体が傾いだ。それを見たシャイロックがたしなめるように言う。
「そろそろ店じまいに致しましょうか。お連れ様もお帰りになられたようですし」
「え、オーエン!?」
慌てて隣席を確認するが、シャイロックの言葉どおり、そこには誰もいなかった。体からほんのわずかに酩酊感が引いて、代わりに微かな寂しさが沈殿する。グラスから滴る水滴も、椅子をあたためた体温も残さずに、男は消えた。まるで最初からずっと一人で呑んでいたみたいだ。
「あのね、シャイロックのせいだよ」
シャイロックが平行線がどうとか言ったときに、舌打ちして消えちゃった! ムルの無邪気な糾弾に、シャイロックは苦笑を浮かべた。
「すみません。お客様の会話に口を挟むべきときは心得ているつもりでしたのに」
俺は慌てて両手を振った。
「いや、シャイロックが作ってくれたカクテルの感想から始まった話だっただろう。あんたが会話に入るのはおかしくないよ」
「味覚というのは複雑なものです。甘いだけに感じられるお菓子だって、実際はさまざまな要素を縒り合わせて作られている。ですから、私はどなたの好みだって否定したくはないのですが……」
それでも、と彼はさきほど浮かべたのと同じ、祝福するような微笑みを浮かべた。
「甘党のオーエンが、お出ししたカクテルのオレンジビターの隠し味に気づいてくださったばかりか、褒めてくださったのは、嬉しかったですね」
「にがあま、うまいよなぁ……一口もらった俺にとっては、まだ甘々って感じだったけど」
ああ、平行線とは甘党と辛党のことだったのか。西の魔法使い特有の曖昧で詩的な表現の意味を、やっと理解しかけたように思った矢先、
「交わってるねぇ~、平行線!」
ムルが囃し立てるように放った言葉で、またよくわからなくなってしまった。困惑と呼ぶほどでもない、手持ち無沙汰な気持ちで隣の空席に目をやり、ふと気づく。
「あ、あいつ、グラス持っていっちまったんだな」
「光栄なことです」
「回収したいけど、どこに消えたのかわからないな……」
消えてしまわれるのは、それが困る。後を追うことができない。コミュニケーションの途絶。いつもなら腕なり脚なり掴んで引き止める――そんなことをしても無意味と言われる割にはいつも効く――のだけど、酔いで判断が遅れてしまった。
俺の言葉にシャイロックとムルは示し合わせたように顔を見合わせた。
「さあさあ、もう店じまいですよ」
*
ふう、と零れ落ちた自分のため息に自分で驚いた。魔法舎の廊下は白い月明りに照らされて静謐で、うら寂しい。
そう感じるのは俺が寂しいと思っているからなんだろう。酒を飲んでこんな気持ちになることは滅多にない。俺はなにを望んでいた? 最後まで二人で楽しく酒を飲みたかった、まるで友達みたいに。そんな気持ちを知られたら、あいつは嘲笑して悪罵して、そしてやっぱり最後には消えてしまうのだろうけど。
ノブを回して、自分の部屋の扉を開く。自然と落ちていた視線が、部屋の中の気配に瞬時に上向いて、それから俺は声をあげて笑った。
「オーエン!」
俺の部屋で帰りを待っていたのは自分のくせに、オーエンは、げぇ、という顔をした。
「まだ酔ってるのかよ、最悪」
おまえの酔い方は本当に下品で云々という文句は耳を素通りしていく。だって、俺の部屋にいるのはこいつだし、その手には空のグラスが握られているし。
「あんな苦い酒がおいしいなんて嘘だよ、騙されていい気味って言いに来ただけだから、もう帰……」
嫌味な笑みと共に流暢に流れていた言葉はそこで途切れる。平坦な、少しだけ幼い子どものようなトーンで、男は尋ねた。
「なにしてるの?」
答えのわかりきった問い。ハグした腕の中の細身の体に体温が宿っていることを意外に思う。答えに達したら、この体温は消えてしまうだろうか。
酔った頭で自分の考えを訂正する。帰らないよ、こいつは。だって、もう抱きしめてしまったし。なにもかも、もう遅すぎた。
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