アユム
2024-02-24 21:58:25
3831文字
Public khmdワンドロワンライ
 

よわねのはきかた

こは斑ワンドロワンライ【体調不良】風邪をひいた斑と看病するこはくのはなし。※嘔吐表現あり

 しんしんと雪の振る朝だった。いつも通りの斑たちの賑やかな四人部屋。まだ早朝だと皆の寝息が告げていて、ここが星奏館だと斑に知らせる。

 しかしここからは非日常だ。
 目覚めたときに感じる、違和感と呼ぶにはあまりに激しいもの。暖房の風に擽られた頭が痛む。鼻の奥がツンとする。身体の丈夫さに自信がある斑にとって、幸か不幸か今まで親しんで来なかった感覚だった。

 風邪かなにかなのだろうか。こめかみをそっと押さえて、今度は眉間を押さえて。斑は考える。その間にも頭は痛んで止まらない。どくどくずきずき、頭を締め付けられている。

〝ああ、みんなに移しちゃ困るなあ〟

 浮かんだ言葉はそれだけだった。
 善は急げと、ふわふわふらふらおぼつかない足を叱咤して、斑は星奏館を後にしたのだった。


 雪の中で目指すのは、隠れた拠点にしていたマンションの一室だ。星奏館から少し離れたそこに辿り着く頃には、いよいよ本格的に全身が熱くなって目眩がしている。身体に鞭を打ってバイクに乗ってここまで来たが、背中にこはくを乗せていなくてよかったと心底思ったほどだ。

 しかし感じる、一抹の気持ち。
 背中にあのぬくもりが欲しい。足りない。ふわりと笑い、ときに厳しく叱咤するあの子の体温が、なんだかとても足りない。――たまらなく恋しいのだ。

 浮かんだ気持ちを打ち消して蓋をしたまま、着替えもせずベッドに這い上がって身体を横たえた。頭痛、鼻水、倦怠感。加えて胃の辺りがぐるぐる不穏な音を立ててはち切れそうに重たいことには、どうしても目を瞑りたい。斑が青白い唇を噛む。
 眠りに落ちてしまえばいい。忘れてしまえばいい。あわよくば、起きた頃には全快していればいい。
 何故か残る嫌な予感とともにそう願いながら、斑の瞼は閉じられた。


 午後二時を回った頃だろうか。何時間も眠ったらしい。薄目で盗み見た壁にかかった時計。そして微かな違和感がある左隣の枕元。感じるのは人の気配だ。無理やり瞼を開いてみれば、ベッドサイドには求めて止まない桜色が揺れ、斑の髪を梳いている。
……なん、で君が」
驚きに絞り出した声はがらがらと掠れ、やはり寝ても事態が好転しなかったことを物語っている。しかし、
「やっぱり風邪やな。朝はよからふらふら外に出るのが見えたんよ」
こはくの声は続いた。心に染み入る、その声が続いた。
「あんなに足元おぼつかない斑はん見たことないしなぁ。どうせ風邪移さんようにって思ってこっち来たんやろ?」
図星だ。その通り、斑はぐうの音も出ない。もし実際言葉を紡いだとしても、それが咳に変わってしまうことは明白だった。こはくの優しさがこわい。あとはなにがかはわからない。ただただ、こわい。
 斑の瞳を覆う水が増える。
「こんな時くらい甘えろや」
 そう告げるこはくが頼もしければ頼もしいほど、自分がちっぽけで情けなかった。
 本当はこのまま泣きそうなぐらい心がひしゃげていたから、甘やかな声に導かれて声を上げて泣いてしまいそうだった。そのくしゃくしゃの顔だけは見せたくないと、両手で顔を覆う。それを察したらしいこはくはそれ以上追求せずに、ただ枕元に座っている。

 しばらくして、一度ベッドサイドを離れたこはくがスウェットを持って現れた。
「汗かいたやろ?着替えよか」
寝巻きの位置まで把握しているこはくは、まるで質素なそれを斑に差し出す。愛用している柔軟剤のいい香りがふわりと香る。
「ああ……うん、そうしようかなあ」
少し顰めた眉を下げて、斑は半身を起こしてそれを受け取った。ありがとうと口を開きかけたその瞬間だった。
……っ!?」
 一瞬のうちに胃の中に不快感が広がって、どくりと心臓が跳ねる。酷く胃が震えている気がする。これは俗に言う吐き気なのではないだろうか。
 しかし認めたくはない。認めてしまえば本当に、もっと気持ちが悪くなりそうだ。病気に屈服するのは嫌だ――それよりも、えも言われぬ恐怖が勝る。
……斑はん? もしかして気持ち悪いんか?」
 答えようにも既に喋ることができない。なにかが溢れ出しそうなのに、それでも頷いたら負けだ。肯定したくない。こわい、こわいこわいこわい。
「ちょお待ってな! すぐ洗面器……
「ぐっ……ぅッ……
「えっ、あっ……間に合わん!? くずかごでええ!?」
……っ」
 焦るこはくの手でベッドサイドのそれを差し出され、いよいよ口の中に酸っぱくて熱いなにかが迫り上がってくる。吐くのだろうか。嘔吐するのだろうか、頑丈な自分が。頭の中がぐるぐる回る。胃の中身もぐるぐる回る。何度も何度もそれが突き上げるように食道を焼くのに、口を開けない。
 こわい。
 未知なるなにかを怖いと思う日が来てしまったことが怖いのかもしれない。
「ぅ゛っえ゛」
「吐いてええよ、辛いやろ」
 つらい、つらくない、――つらい。こわい。たすけて、こわい!
「ええよ? な? 気持ち悪いんやろ?」
 首を横に振りたいのに、それもできずに咄嗟に右手で口元を覆った。途端に指の間からぽたぽた流れる黄色いそれが胃液だと、認識してしまえば終わりは訪れる。
「え゛っ……っ、う゛ぉぇぇっ!」
勝手に妙な声が出る。胃が焼けるように痛んで飛び跳ねて、手のひらに受け止めきれないそれがゴミ箱に落ちた。
「斑はん、吐いたら楽になるから」
……いや、だあっ……いや、」
嘔吐の合間にようやく力なく叫んだ科白。いやだ、いやだいやだこわい!
「だぁいじょうぶ」
 しかしその感情に重なるように、優しい優しい声がして、斑の全身はびくりと跳ねる。背を撫でるのはこはくの右手。左手でゴミ箱を支えながら器用に優しく背中を摩る。
あたたかい、その焦がれた手のひら。
「ほら、平気やから。げぇってしてみ」
「っ――
「いつまでも口開けんと鼻ばっかり痛なるで」
 こわいこわいそれが徐々に迫り、促すようにこはくの手が優しく背を撫でる。ぼろぼろと勝手に涙が溢れ、その後に続く声なき声。
「ぉ゛う゛ぇえ゛えっ……っ、ぇ゛っ、う゛ぇッ!」
「上手上手、な、力抜いて」
 こはくの声に導かれ、胃の中身がゴミ箱に流れ出す。
 べしゃりと液体がビニールを叩く音。ツンとした独特の匂いを初めて知った。不味い不快な味も胃のひっくり返る辛さも、食道と喉の焼けるような痛みも。すべて初めて知ったことだった。
「っう゛ぐっ……
 流れ出すその吐瀉物にも嫌な顔ひとつせずこはくの右手は背中を撫で続け、その目は慈愛に満ちて細められて。導かれるままに本能のままに胃の中身を吐き出すことしかできない。
……ッ、……! っ、がはっ……!」
 何度も何度も胃がなにかを出そうと動くのに、とうとう吐くものがなくなったのだろう。がらがらした喉でえずくばかりになった。
 ぼろぼろ、ぼろぼろ、涙を零してゴミ箱を抱えたまま身体を丸める。
「もう出ぇへん?」
背中を摩る手が、その優しい声が、見つめる慈愛に満ちた瞳が、斑の心に降り注いであたたかい。
 何度か咳をしてから、斑はようやく顔を上げた。
……っ、はぁ……ぅぅ……
 未だ口中に広がる嫌な味に顔を顰め、あまりの疲労感に息も絶え絶えで再びベッドに沈み込む。
「斑はん、手。右手拭こな。口も」
 いつの間にか差し出されたベッドサイドのウェットティッシュを受け取って力なく手を拭い、口元を拭い、斑は今度こそ本当にベッドに沈む。
「寝てええよ。ようけ頑張って疲れたやろ。うがいしたい? できる?」
……いい」
「ほんなら、これ消毒して片付けてくるわ。ああ、あと新しい袋も持ってくるから。ちっと待っとき」
 てきぱきとそう残したこはくの優しい笑みと声が脳内に広がって止めらない。心地好いそれが、しかし徐々に徐々に遠ざかる。いやだ、いやだこわい。胸に溢れ出して流れ出す。
……こは、くさん」
 必死に声を絞り出した。
 拭いたとはいえ一度は汚れた手でこはくの手を掴むことははばかられ、なんと呼び止めたいのかもわからぬまま、斑が口を動かそうと逡巡する。
「ん?」
踵を返して二歩と半分を戻ってきたこはくは、やはり優しい笑みを浮かべて斑を見やる。そのことが酷く嬉しい。斑の瞳にできた涙の膜が重たく熱くなり、今日何度目かわからないそれを零す。そのまま、
……さみしい」
ようやく伝えたその言葉。
ずっとずっと胸にわだかまったまま吐き出せずにいた言葉。
……こわい、っ……
「うん」
 こはくの右手が、汗で額に張り付いた髪の毛を払った。
 あたたかい。胸の中に空いた穴に滑り込んで膨らんでいく気持ちも、情けないと思ったその弱音も、少しずつ愛おしいものに形を変えて胸を満たす。
「ほら、ちゃんと言えるやないか。えらいで。ええこ」
 子供に言い聞かせるような声で微笑む恋人を見つればあたたかな手で額を撫でられ、髪を梳かれ、いつの間にか眠ったようだった。



 真っ暗な世界に咲いた桜の花弁が、夢の中で斑を包む。

〝だぁいじょうぶ、もう平気やで。ひとりやないよ〟

 愛おしくて頼もしい、その声が何よりの薬になることを知った日。真っ暗な世界はいつの間にか春のように色づいて、胸のつかえは消えていた。

fin.

こは斑ワンドロワンライ
【体調不良】
60min+45min