ひろか
2024-02-23 22:58:58
12306文字
Public 観劇録
 

*観劇録*『STAR CARNIVALー星祭ー』感想と考察。

少年Komplexさん『STAR CARNIVALー星祭ー』の感想と考察です。⚠︎内容に関するネタバレと深読みを含みます。

⚠︎内容に関するネタバレ・深読みを含みます。



少年Komplex、第6回本公演。

ショーコンさん、と呼ぶことが多いこちらの団体、これまでも番外企画という形で『THEATER×GAME』や『Alice STORY』に触れてきたけれど、実は本公演を劇場に観にいくのは初めて。番外企画はどれも楽しくて大好きだし、旗揚げ公演である『ANIMAL WONDER WORLD』もDVDで何度も観るくらい大好きなので、観劇を楽しみにしていた。
そもそも解禁されたあらすじから私の好きそうな気配がしていてさらに推しである髙畑岬さんの復帰後一発目の舞台ということで、どきどき、そわそわしながら当日を迎えたのだった。


というわけで、『SATR CARNIVALー星祭ー』の感想と考察です。

今回は観劇後にひたすらXで呟いたので、その内容のまとめと加筆修正みたいな感じになっています。
いつものごとく深読み1000%なので、苦手な方はご注意ください。



◆この星の人々のこと

星の終わりに、普通に生きようとした夫婦が過ごした最もとうとい時間と、彼らが紡いだ未来の物語。
スタカニをひと言で説明するとしたら、私ならこう言う。


まずひとつ言えるのは、物語的にどストライクだったということ。
あらすじを読んだ時の勘は間違ってなかった。

そして人生で一度でも星空や星座が好きだったことがある人ならわかる仕掛けがたくさんあって、観ている間「あっ!これってもしかして!」が絶えなかった。そういうの大好き。

わかりやすく言えば登場人物たちの名前。彼らの名前が星にちなんでいることは役名解禁時から気づいていて、そこから想像できる関係性ってたくさんあったけど、なにひとつ"それだけ"ってものがなくて役名が完全にミスリード状態。それでも"あの場所にあるあの星で、あの星座に含まれている星"という事実がどの役柄にもすごくしっくりくるのだ。
名前ってやっぱり、その人自体やその人の生き方を不思議なことに表現してしまうものだなぁと思う。


私はどの作品でも登場人物たちそれぞれにしっかりストーリーや意味を感じられる作品が好きなんだけど、そういう意味ではスタカニの登場人物たちはみんな愛おしく思えた。


この世界がどういう世界なのかを最も端的に表していた無法者たち。

川井雅弘さん演じるロキオンは、ビジュアルも行動も見るからに世の末って感じでスタカニの世界観を象徴していたと思う。誰もが武器を持ち、奪うことが生きることに繋がる。もっともロキオンはその必死さなんて微塵も出さず、そればかりかこの世界を謳歌することに重きを置いている役だったけれど。
ただ、こんな世界であるからこそ、メイサとカペラがロキオンに惹かれる理由もわかる。ロキオン曰く「(こんな世界なんだから)女は強くて包容力のある男に惹かれる」らしいけど、彼女たちはそれ以上にロキオンの漢気とか、ちゃんと自分達を見て認めてくれる人柄に惹かれていたのではないかな。メイサとカペラにしても各々が武器を持ち、決して守られるだけの存在ではないところが好き。ロキオンという守り手がいながらも、頼りきりにならず自分で道を拓く強さがあるかっこいい女の子たちだった。


対するは軍属のシリウスとミルザム。

ロキオンの「お前まだそんなもん着てんのか」という言葉から察するに、もうこの世界では軍というものは組織として機能していないのかもしれない。それでも軍という立場に身を置き、人々のために戦い続ける正義と誇りがとても気高かった。
鈴木翔音さん演じるシリウスの立場に立つと、スタカニという物語がまた違った角度から見えて。自分の想いと軍の誇りの狭間でとても苦しかったと思う。それでも軍人として使命を全うしようとするあたり、シリウスというのは心が真っ直ぐで責任感が強く、それゆえに葛藤し続けなければならない役柄だったんだろう。
そこはミルザムについても同じで、彼女も真っ直ぐに隊長についていく若き才能だったと思う。彼女が真っ直ぐに自分を見つめるたびに、シリウスは複雑な思いだったんじゃないかな。


天変地異というものが多くの場合宗教を生み出すことは、これまでの地球の歴史が証明していることだと思う。ペテル教はこの星の終わりにあって誕生した新興宗教だというから、どれほどこの星の人たちが心の拠り所を必要としていたかがわかるなぁと思った。ペテルの「それっぽいことをそれっぽく喋っているだけ。神だなんだもリゲルが言ってるだけ。でも宗教の始まりなんて、そんなものかもしれないね」というセリフはかなり世の中の真理に近いんじゃないだろうか。

宗教家であるペテルとリゲルはこの物語では大きな鍵を握るコンビで、やっていることだけ見るとかなり無茶苦茶。それでもこの宗教に縋ろうとする人が多いのをみても、世界の終わりだなぁと思わずにはいられなかった。けれどそれぞれの行動原理や思想にどこか共感できてしまう私がいる。やることはぶっ飛んでるけれど、悪人ではないんだよね。感情を知らず、はじめて感情を教えてくれたコトに執着するペテルも、瀕死の自分に手を差し伸べてくれたペテルを盲信するリゲルも、ある意味人間らしさの塊というか。


ある意味、星の終わりという状況になって、この星に生きる人たちの"その人らしさ"や"生き様"が浮き彫りになった結果こそがこのスタカニという作品なんだと思う。星の終わりという人が人の秩序を保てない世界の中で、誰もが一生懸命生きている。
星は終焉前が一番輝くというけれど、彼らの生き様もまさにそれ。すべての登場人物が、最後の最後、その命が尽きるまで星のように輝き続けていた。


そんな中でアルタとコトは、最後まで普通に生きることを決める。残された時間を最後まで普通に、お互いを慈しみながら大切に生きること。それはとても難しいことだったと思う。
みんながその選択をしたのなら穏やかに時を過ごすこともできただろうけど、多くの人が武器を手に取り生きるために秩序を失った世の中で"日常"を貫くことはある意味何よりも難しい。事実アルタは食糧調達に行った先でロキオンたちに絡まれるし、なによりも2人の過去が2人を"普通"から遠ざけていたと言ってもいいかもしれない。"普通"でいようと心がけながらも、既に手を汚した自分たちに"普通"なんて無理だと思っていたんじゃないかな。それが後にコトがスワンに言う「あなたは私たちに"普通"をくれた」というセリフにつながるんじゃないかと思っている。


それぞれにそれぞれの想いと、考えと、正義があって。星の終わりでなくても、それぞれの正義がぶつかってしまうから争いが起こる。反面、自分の正義と思想に基づいて動いているこの星の人々が誰ひとり悪役にならず愛おしく映るのは、ショーコンさんのそれぞれの正義と守りたいものを否定しないスタンスゆえなんじゃないかなと思ったり。

『AWW』でも思ったけれど、そこがショーコンさんの作品の好きなところ。それぞれに正義があって、守りたいものがあっていいじゃない。生きてるんだから。彼らがその気持ちに純粋で真剣だからこそ、この星の人々がこんなにも輝いて、愛おしく映るんだと思う。



◆トレミーのこと

いろんな生き方をしている人がいたけれど、私はトレミーの生き方がすごく好きだなと思って。
星の終わりに、誰が聴いているかもわからないラジオをただひたすら放送し続ける男設定だけ見ればとんでもなく愉快な人物だ。中谷智昭さん演じるトレミーのコミカルでなんだかかわいらしい雰囲気もあって、まさか彼が物語上とんでもない重要人物だなんて思いもしなかった。

重要人物といってもいろいろあるけれど、トレミーの場合は目立った活躍ではなくて彼の一言が、小さな行動が、巡り巡って物語を大きく動かすことになるタイプ。自分のことを「勇気がない」と評していた彼は、なぜか、ないはずの勇気を振り絞って行動する。それ自体がとても勇気のあることだと思うけれど、なによりトレミーのその行動がアルタに、スワンに、どれほどの勇気を与えただろうか。一度は「君は殺されてしまうよ」「下手したら死んでしまうよ」と止めたとしても、相手の気持ちと心意気を受け止め、意を決して「僕も行く」と告げる。ひとりで何かに立ち向かおうとしている人にとってはあまりにも心強い言葉だと思う。トレミーはアルタやスワンのことをとてもかっこよく思っていたんだろうけど、人に勇気を与えられる、誰かの背中を押せるトレミーもとてもとてもかっこよかった。

そんな彼のラジオはコミカルに楽しく描かれていて、観ている(ラジオなのに観ているっておかしいかもしれない)と自然と笑顔になれるラジオ。だけどトレミーが伝えたい言葉や気持ちを、人の心に寄り添う言葉で伝えてくれるラジオ。眠れない深夜とかに聴きたい。


あの時代、トレミーのラジオに耳を傾け、心救われていた人はどれくらいいたんだろう。
終わりに向かう星で秩序が保てない人々の中、どうすることもできずにいた人たちは少なくないと思う。そんな人たちがもしもトレミーのラジオを聴いていたら、きっと慰めになったんじゃないかな。物語の中ではリスナーはテンテイ・コト父娘(もしかしたらカサギさんも)とアルタくらいだったけど、描かれなくともこの星にいた人でトレミーのラジオを心の慰めにしていた人もいたんじゃないだろうか。

この星の人たちだけじゃなくて、トレミーの言葉は観客の心にまで寄り添ってくれていたと思う。少なくとも私にとってはそうだった。


「君の明日はいい日になるよ、だって君は頑張っているんだから」。
ここの場面、トレミーの表情がどうして翳るのかがとても気になっていろいろ考えたのだけど、トレミーの中で自分がしている行動は、誰かの支えになるとか何かを変えるとか、そういった可能性がないものと思っていたのかもしれないなと思った。トレミーは自分という存在をとても小さいものとして見ていて、勇気がない、何も変えられない、だからといってこの世界で生きていくために武器を取るでもない、ただそこにいるだけのという意識があったんじゃないだろうか。彼がラジオをしているのはきっと自分の言葉が誰かの何かを変える一縷の望みをかけて、という面もある気がする。だけどこの時点ではトレミーはそんなことは起こらないと心のどこかで思っていて、それでも何かを変えたくて言葉を紡ぎ続けているんだよね。トレミーの言葉はかなしくて、怖くて、怯えている人の心に届く、とXに書いたのだけど、もしかしたらかなしくて、怖くて、怯えていたのはトレミー自身だったのかもしれない。星の終わりを目の前にして、自分はこのまま終わって、何も残すことなく消えていくことが怖かったんじゃないかな。

それがアルタを助け、コトたちと出会って、変わっていく。終わってゆくだけだと思っていた星に新たな命が生まれようとしている、そしてその命をきっかけに敵同士が一時的にでも手を結んだそのことをこんなに純粋に喜べるトレミーだからこそ、彼の言葉は人の心に届く光を持っているんだろうな。


「人生とは、歯車のようなもの」。
何度も書いたんだけどやっぱりこの場面が本当に好きで。歯車のような人生という言葉は基本的にマイナスイメージだけど、トレミーのセリフではそうではないんだよね。自分が歯車となって動くからこそ、いつかの、どこかの、誰かの運命を変えられる。これはきっと言葉の持つイメージ通りの意味で"取るに足らない歯車のような自分、いてもいなくてももしかしたら変わらない自分"というように自分を捉えていたトレミーが、"取るに足らない歯車だからこそ何かを変えうる力を持っている"と認識が変わった瞬間だとも思っている。自分の行動が"ベストデイ"に繋がったことが本当に嬉しかったんだろうなぁ。そんな気持ちをまた彼なりの言葉で届けようと、ほろ酔いになりながらも放送を続けるトレミー。
最期の瞬間まで彼の生き方が好きでした。



◆この星の子どもたちのこと

ショーコンさんって、動物とか子どもとかにスポットを当てた作品が多いような気がしていて。世の中の汚いところよりも、そんな世の中でもきらっと輝く誰にも汚せない純粋さを描くイメージがあった。

その点スタカニはどちらかといえば物語の中心は大人たちだ。脚演の片山さんが「うちの団体にしては珍しい内容」と言っていたのはこういうところもあったのかなと思う。それでも、大人に翻弄されて子どもらしからぬ言動をする彼らの中にさえ純粋さがあることが描かれていたのが好きポイントだった。


この星の子どもたちといえば、スワンとリゲル。ひとりぼっちで生きてきて、とある大人に出会って人生が変わるという共通点を持つ2人は、この作品の中でなにかと対比される関係にあったと思う。なにかと、というか彼らの人生そのものが対比になっていた。
けれど彼らの違いってひと言で表すと出会った大人が誰だったかによって生まれたものなんだよね。大人に巻き込まれるかたちで年に似合わぬ言動をしていた彼らが、やはり大人の影響で生きる道を変えていく様子に、どんな環境でも消せない子どもの純粋さと子どもに対して大人が与えてしまう影響を感じた。


そういう意味ではスタカニで描かれた"子どもの純粋さ"もまた、これまでのショーコンさん作品とは違う側面だった気がする。どんな世界でも誰にも汚せない光るものとしての純粋さだけではなく、その純粋さゆえに子どもたちが何にでも染まってしまう怖さというか。大人という存在と子どもの純粋さがあわさることで、子どもの命運がこんなにも変わってしまうのだということを暗に示していたんじゃないかと思ったりする。


特にリゲルの運命については、彼が純粋さの塊だったからこそ辿った道なんじゃないかと思った。まだ幼いその手を汚させたのは、彼自身の純粋さだったんじゃないだろうか。

ひとりぼっちで死の淵にいた自分に手を差し伸べてくれたペテルはリゲルにとっては紛れもなく神様のように見えただろう。その手を取ってしまうのは当然のことで、盲信の道に進むのも頷ける。子どもだからこそ、無意識のうちに無条件の庇護と愛情に惹かれてしまうんだよね。育ちを考えても善悪の判断だってまだ曖昧で、ペテルを盲信することで善悪の基準を作ってしまったからその手を染めることになった。

これってペテルが強要したわけではないと思ってて。むしろペテルはただそこにいただけというか、「神だなんだってリゲルが言ってるだけで」のセリフ通りリゲルが勝手に作り上げてしまったものなんだと思う。純粋だからこそ信じたし、純粋だからこそ裏切られた時の絶望と悲しみは怒りになって押し寄せた。

言葉や行動に子どもらしさなんて微塵も、いや子どもらしい無邪気さがあったからこそその言動がいっそ不気味だったリゲル。だけど絶望と怒りの矛先をどこに向けたらいいかわからなくなってしまうところに、彼もまだまだ幼い子どもなんだということを再認識させられた。
「ペテル様も人だったってことですよね!」というセリフは、縋っているようにも、どうしたってペテルの行動を正当化したいようにも聞こえた。どちらにせよリゲルにとってペテルの存在こそが世界のすべてだったことがよくわかる。


普段子ども相手の仕事をしているのもあって、大人になってしまった身として子どもたちにどう接していくかをとても考えさせられた。
描かれていなくても彼らのように年に見合わぬやり方で星の終わりを生き抜こうとした子どもたちがきっとたくさんいたわけで。子どもたちの子ども時代を守れる大人でありたい。




◆スワンとはくちょう座のこと

その上でスワンの話をさせて欲しい。
というかあの、待ち続けた推し役者さんの復帰一発目がこの作品のこの役で本当に幸せだったってことだけは脚本家さんにしっかり届いて欲しい本当に。


スワンという少年は間違いなくこの物語のキーパーソンだ。
彼がアルタたちと出会うことで物語が動き始めて、彼らが生きていた証として星の命運を繋ぐことになる少年。そう考えると、スラム街の孤児に似つかぬはくちょうの名前が彼の運命を暗示しているように思えてならない。

登場したそばから「醜い者」と呼ばれ、汚いだ臭いだ言われたい放題の彼がスワンという名前なのはみにくいアヒルの子を彷彿とさせた。
私の感覚ではスワンは12〜13歳くらいかなぁと思ったのだけど、やっぱりその年頃の子にしては擦れてるし、荒んでる。"少年"という年齢設定の子が「星の終わりくらい普通に死にたかった」「なんにももってねぇからな」と言う哀しさたるやなくて、これまでに世の中の汚いところをいっぱい見て命からがら生きてきたんだろうなと見てとれた。口調も荒いし、「やれねぇ奴からやられるんだ」と自分に言い聞かせるように口にしていたスワン。そんな彼がまさかこの星の未来になるだなんて、スワン自身はもちろん、誰も想像していなかっただろう。


スタカニという物語を通して一番変わったのがスワンだと思う。
前夜祭で岬さんが「家族も友だちも知らない彼がいろんな人と出会ってどう変わっていくのか」とおっしゃっていたけれど、その言葉通り、人とのかかわりを通してスワンの思いや感情、それに伴う行動はどんどん変わっていった。

これも子どもの純粋さに通ずる話だけど、スワンには心のどこかに誰かに必要とされたい気持ちがあったんだと思う。それって子どもに限らず人間なら誰しも持っている望みだと思うし、誰かに必要とされたり役に立ったりすることで自分を認めてあげられる節はあると思うのね。だからこそスワンはアルタやコトとの出会いを通して自分という存在を受け入れられ、頼られたことが嬉しかったし、彼らの想いに応えたい一心で丸腰だろうが構わずに立ち向かっていくんだよね。「俺はその気持ちに報いたい」と話す彼は満身創痍だったはずなのにその目は強い決意を宿していて、最初の荒んだ目とは大違いだった。


そして「普通に死にたかった」と言った彼が「もし叶うならふたりとこの先を生きてみたかった」と自分の命に希望を持てたことがスワンの一番の変化だと思った。必要とされ、頼られ、自分の存在を許されたことでスワンはそう思えるようになったんだよね。

そんな彼の心の変化が見えたのが、コトがテンテイとカサギに言葉をかける場面。
テンテイに対して「親不孝な娘でごめんなさい」と謝ったコトに「一番の親不孝は親より先に死ぬことじゃ」とテンテイが返す。そのやりとりを、スワンは「ふーんそういうものか」みたいな顔で聞いている。スワンには親がいないから、2人のやりとりに現れる親子愛みたいなものはわからない気持ちだったんだと思う。
けれどコトがカサギに「本当のお母さんみたいに思ってた」と言った時には目元を緩めてやさしく笑うんだよね。それはスワンがアルタやコトに対して抱いていたものに近い気持ちだったからだと私は思って、いつのまにかアルタたちはスワンにとって大切でかけがえのない家族になっていたんだと感じた。コトも言ってたけどそこに血の繋がりなんて関係ないんだよね。だからスワンもコトがカサギに向けたその言葉が実感を持って耳に届いたんだと思う。

そう思わせてくれたアルタとコトのために迷わず死ぬ道を選ぶスワン。その選択に後悔はなくても、涙声で「もし叶うなら」ともうひとつの本当の気持ちを吐露するのがとてもせつなかった。
"人は忠義で死ぬんじゃない、人は人のために死ぬんだ"。
最終的な物語の終わりも含めて、スワンが選んだ道はまんまこの言葉だなって思う。


スワンの変化に焦点を当てるなら、もうひとつ印象的だったのが彼の持っている感情のこと。この物語の中でスワンの感情にはどんどん色が増えて深みが出たと思う。

考えてみればスラム街で頼る大人もおらず、ひとりでなんとか食い繋いでいたスワンは感情そのものが単調だったのではないだろうか。
その日のこと、目の前の一瞬で精一杯だった彼に何かを深く感じる余裕はなかったはず。深く感じることがあるとしたらそれは、世の中や自分に対する絶望感とか恨みとか、きっとそういうものばかりだった。
けれどこれもまた、アルタたちとの出会いで変わった。殺気に満ちて世の中すべてに不信感を抱いていた目が、仲間との会話を楽しんだり腕に抱いたテラに注いだりするやさしい眼差しに変わっていく。アルタたちと過ごすうちに彼なりにいろいろなことを感じて、経験した結果、スワンの感情はとても色彩豊かになった。その変化がお芝居を観ていてわかるのがまたすごいよねぇ物語序盤と終盤の彼、別人かってくらい違うもの。

だけどそれってきっと、スワンがもともと持っていたものでもあると思っていて。星の終わりという世紀末にあって、彼が持っていたものが花開いたり、見つけられたりする余裕がなかっただけ。それがここにきてようやく花開いたんだなって思った。
そうやって芽生えて色が増えた感情はプラスのものだけじゃない。コトがリゲルに撃たれた後のスワンの表情、ここまでの諸々でとても柔らかくやさしくなった彼の表情には似ても似つかないほど殺意に溢れていた。物語序盤の殺意とは比べ物にならないほど強い殺意。それは命より大切な誰かの存在を得たからこそ生まれてしまったものだと思うし、胸の内から湧き上がる黒い感情に今まさに飲まれそうになりながらリゲルの背中を見ている表情の気迫や凄みに息を飲むほど圧倒された。


そんな変化を経て、ひとりぼっちだったスワンは人のために全力で駆け回ることになる。
戦うアルタと合流して抱いていたテラを任せ、「ふたりといられて楽しかったぞ!」と叫んだスワンの体勢ははくちょう座のかたちそのもので、彼の背中には翼が見えた。

そして「なんにも持ってねぇからな」と自嘲気味に呟いた彼だけが持つ美しい手で、この星に生きたいろんな人の未来を繋いだ。
スワンはトレミーに「君はこの星の未来になるよ」と言われるけれど、彼自身がこの星の未来だったというよりは、テラという"この星の未来"を未来に運んだんだと思っている。スワンはアルタやコトにもらった光を胸の中で燃やしながらその役目を引き受けた。

はくちょう座の星言葉は"信念を持ち我が道をゆく"。
スワンが"スワン"という名前でこの星に生まれ落ちた意味はここにあった。


というか後夜祭で"スワンというキャラクターの意味"が語られるの純粋に怖い。



◆物語の結末について

「あの星に行くのは俺たち大人じゃない」。
この星がどんな経緯で終わりに向かうことになったのかはわからない。それでもこの星の大人は多かれ少なかれ手を汚してきた。だからあの星に行くのは、未来を生きるのは大人じゃだめなんだ。


アルタとコトが出したその結論を、私はどうしても素直に歓迎できなかった。
ひとつの物語の落とし所としてはとてもきれいで腑に落ちるものだったので、あくまでこの星の大人たちの決断に物申したい、という気持ち。

正直、言わんとすることはわかるのだ。特にアルタとコトは仕事とはいえ大勢の人を殺めてしまった罪の意識から、その方法を持ちながらも他の星に逃げることを拒んでいたわけだし。何の罪もない、美しい手を持つ者を未来に送り出すことは一見理にかなっているように見える。

だけど、スワンの覚悟は?その先は?
一度死を覚悟した人がもう一度生きる覚悟を、それもこの星全員の命を背負って生きる覚悟を決めるのってものすごく難しいことだと思う。それを年端もいかぬスワンに背負わせるのはたとえこの星の大人たちにそういう意図がなかったとしてもあまりにも重かったと思うし、なによりどんな場所か、何が待ち受けるかもわからない宇宙に生まれたてほやほやのテラとふたり放り出すのはさすがに無責任がすぎる。

結局のところ大人たちはみんな、生き残る責任から逃れたかったのかもしれない。死ぬことよりも生きることの方が何百倍も難しいというけれど、それをスワンとテラに背負わせた大人たちの姿に子どもの純粋さとの対比を感じてしまった。もっと言えばそれを感じること自体が私自身が"大人サイド"になってしまったということなのかもしれない。


それでも私はこの結末がとてもしっくりきたのだ。うまく言えないけれど、"人の生き様の美しさ"に重きを置くのであればこれ以上にない結末だったと思っている。

「テラを任せられるのはスワンだけ」というアルタとコトの言葉を素直な心で受け止めたスワンは、この先するであろう苦労はまったく見えていなかっただろう。現実的なことを考えるならやっぱりスワンとテラだけを行かせるのは最善の手ではもちろんなかったし、なにより酷な話だ。第三者的な目線で見るとそう思うし、大人たちに言葉にした以外の意図があったかとか、もう少し冷静に考えられなかったとか、いろいろ思うところはあるけれど。だけど登場人物たちの想いと選択がどれも彼らの精一杯だったとわかるから、この物語の中では私はそれを"美しい"と思いたい。


ワープ装置の件に決着がついた後、星に残ることになった彼らは互いへの思いを口にする。物語中盤で口にしていたらその先がなんとなく不穏になる、いわば"フラグ"になりかねないその気持ちを敢えてこのタイミングで吐露することに、彼らは自分たちの行く末に対して覚悟を決めたんだなと思った。


ここのテンテイの場面がね、私は大好きで。
なんなら作中一番印象に残ったと言ってもいいかもしれない。

テンテイとカサギはこの物語の中ではいつもアルタやコトを見守る立場にいて、彼ら自身の気持ちが思い切り表れる場面やセリフってそんなになかった。だからこそカサギの「星の終わりまで私は先生の助手ですよ」とか、テンテイの「わしは無力じゃ」とか彼らの気持ちがストレートに伝わるセリフにぎゅっと心を掴まれた。
娘のコトやその旦那のアルタだけじゃなく、他の登場人物たちに対しても常に道標となっていたテンテイ。そのテンテイが、「孫が旅立つのだ、孫が未来を生きるのだ!そして、娘は死ぬのだ」と項垂れる。アルタやコトの意思をきちんと汲み取って、尊重して、旅立つスワンに一点の曇りもないエールを贈ったその胸に、こんなにやるせない思いが隠されていたなんて。しかもテンテイはそのままカサギとお酒を酌み交わして終わりを迎えたというから、娘の命を救えなかった無力さは決して癒えることがなかったんだと思う。たとえコトがどれだけその運命に納得していても、親として娘を助けたかったんだろうな。そんなテンテイにただ寄り添うカサギも素敵だった。


世紀末の物語では、登場人物たちの最期はぼかされてしまうことが多い気がする。だけどテンテイとカサギの最期を含め、スタカニは宇宙を駆けるワープ装置の映像を背景に彼らの終わりが語られた。
いままで私の目の前で懸命に生きていた彼らの命はもうないんだ、ってそこで一気に理解させられる演出に頭を殴られたかのようなショックを受けた。幕が開いてから2時間と少し、その生き様を客席から見守ってきた彼らの終わりがこんなにも明瞭で簡潔な言葉で語られるなんて。彼らが彼ららしく最期を迎えたこと、そしてスワンとテラが青い星にたどり着いたこと。映し出されるテロップを呆然と眺めながら、愛おしい星の終わりを知った。


そして冒頭の映像がもう一度流れる。

「じゃああの星はなんて言ってるんだ?」
「わかんないけど、伝わってるよ!」

同じ映像なのに物語の最初と最後で見え方がまったく違うなぁ、と思いながら暗転する客席で物語の余韻に浸っていると、ふと舞台中央に光が差す。


そこにはテラを抱いたスワンの姿があった。
物音ひとつしない静寂の中で彼は深々と頭を下げる。


舞台中央、たった一人深々と頭を下げる彼の姿が胸に焼き付いている。
スワンがひとり頭を下げるこのカーテンコール、あぁ、生き残ったのは彼らだけなんだと感じさせる衝撃的な終わり方だった。カーテンコールというよりは本当に物語のラストシーン。あれは観客への礼であると同時に、あの星に生きていた人々への礼でもあったのだと思う。


その時、そうかと思った。
コトの「伝わってるよ!」のメッセージ、きっとここに辿り着くんだ。

青い星に降り立ったスワンが深々と頭を下げた、そこに言葉も音もなかったけれど、彼の胸にあふれていた想いに対してのコトからの返答が「伝わってるよ!」だったんだ。時系列的にも光の速さ的にも、直接的に互いの思いが通じたわけではないだろう。だけど何かを伝えてくる遠くの星からコトはたしかに何かを受け取り、伝わってるよと返し、その星では未来を抱いて降り立ったスワンが生まれ育った星の人々に頭を下げていた。


あの瞬間、スワンであり、岬さんであった彼。
とてもとてもきれいで、静かで、すうっと心に染みこんでいくような幕引きだった。


2人と、2人が築き上げた文明には、あの星の人々が生きた光が降り注ぐのだろう。
それこそ何億光年も未来まで。



〈『STAR CARNIVALー星祭ー』公演情報〉
※敬称略
制作:少年Komplex
公演期間:2024年1月31日〜2月4日
会場:調布市せんがわ劇場
脚本・演出:片山徳人