いを
2024-02-23 21:08:19
1829文字
Public ブツメツフツマ
 

ひとつの夜の光

倭、無告。
お名前だけ公紲さん【higasa_onink】
お借りしています。

 倭がはじめて無告の顔を見たのは、たしか7歳とかそのあたりだったと思う。その時の無告はすでに左目が見えておらず、危なっかしそうに家の境内の砂利道を歩いていた。倭が物珍しそうに左目を見ていると、男はくちびるに人差し指をあてて「し」と言った。涼しい顔をして、男は鳥居の外を見つめる。鳥居の外――街路樹が植えられている道路に、黒い影が蜃気楼のように揺らいでいた。黒い麻の着物を着た男は影から目を離して倭を見下ろした。
「あれが見えますか」
「うん」
……そうですか。まだ幼いのに」
 哀れむような顔を男はした。そのときはなぜそんな表情をしたのか分かっていなかったが、今ならすこし分かる。おそらく決められた道、というものを歩かなければならないことを哀れんだのだろう。物心ついたときから「視えていた」から。無告は厳しい修行の結果見えるようになったという。その時の倭の想像力では、厳しい修行をしたから左目が見えなくなったと思っていた。それを覆したのは無告自身だった。この学園で非常勤講師をしていた無告が「七億不思議によって奪われた」と隠すこともなく答えた。名前は知らないが、姿はしっかりと覚えている、とも。そして倭の武器が日本刀だと聞くと、「その選択は正解です」と笑った。
「あんたはなにで祓うんだ」
「これです」
 言葉少なに手袋に覆われている、数珠をかけた右手を掲げる。拳か、と理解するくらいには倭も大人になっていた。机の上を見ると、書類がめちゃくちゃに散らばっていた。ふうん、と頷いて用事を済ませた倭は無告に背を向けた。「刑部さん」。男の口調はどこまでもやわらかい。真綿のようだった。「あなたは私のようにならないように」その言葉に、倭の顎がかすかに動いたが、否定も肯定もせず、そのまま職員室を出た。
 屋上に出ると、もう空は暗かった。ちりぢりに星も出ているようだった。冷たい風が短い髪を揺らす。無告は左目を、倭は右目の視力を失った。互いの家の不吉を押しつけられたみたいですこし、面白かった。
 星も月も白くて、片目だけだと眩しい。もし左目も失ったら、こういった細い光も見えなくなるのだろうか。太陽のような激しい光も見えなくなるのだろうか。左目だけ閉じると、ぼんやりとした暗闇が目の前に覆い被さった。
 完全に失明しているわけではないが、やはり片目だけの生活は意外と大変だった。机の上のコップを倒すし、教科書も首を動かさなければ読めない。右側を歩く人間とぶつかることもザラだ。それでもそれを不幸だとは思わない。不吉だとは思うが。望んで怪異を見えるようになったわけではないが、あの男は望まれて見ることを選んだのだろう。自分の道、なんていうものは倭も無告もない。選べなかった、あるいは、選ばなかった。選ばなかったとしたら、それは報いだろう。選ぼうとしなかったものの、当然の報いだ。そろそろ帰ろう。くだりの階段を一歩一歩、おりる。靴音が暗い廊下に響いた。右目が見えなくなってから、聴覚が敏感になったように思う。風が吹き抜ける音、誰かの足音、鳥の羽ばたく音、車が走る音。それは役にはたったが、べつに求めていたものではなかった。「私のようにならないように」男はそう言った。諦めたような顔で、哀れむような顔で。

 私が、私のようにならないでほしい、と願うのはなにも彼だけではない。目を伏せて文机の上に置いてある写真たてを持った。無垢の木でできた写真たては、陽に当たって飴色に輝いている。プラスティックの透明な板ごしに、昔の私と昔の隠岐路公紲が笑っていた。左手でそっと透明な板に触れる。いつからこんな風に触れられなくなったのだろう。頭を撫でたり、背中をさすったり、肩を軽く叩いたり、昔はできていたというのに。彼が嫌がるからだとそう思い込んでいる。そう。思い込んでいるのだ。彼くらいの年齢になったら、大人からのふれあいは好まないだろうと。左手をぎゅっと握りしめる。痣だらけの手の皮膚が引きつってわずかに痛む。彼には――公紲には、私のようになってほしくない。幸せであってほしい。私の手を離れていつか、いずれ、大人になってゆくのだろう。彼の人生に私が必要なくなる時が、きっとくる。――いや。もう、〝そう〟かもしれない。それがすこし、痛い。だからこそ、私のような大人になってほしくない。
 彼のちいさな手とあたたかな体温を思い出す。そのやわらかなぬくもりが、つきりと胸を刺した。