いとま
2024-02-23 20:40:10
1795文字
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信頼とクレープ

噺田と伝紬君のお話。

 軽快な音を立て、改札が開く。
 邪魔にならないようにそそくさと改札の前を去ると、冬のつんと冷えた匂いがした。その匂いに混ざって、甘い匂いが胸に広がった。この駅の近くには、甘いものを売っている店などなかったはずだ。新しく開店したという話も聞いたことがない。なら、と目で広場を探る。ああ、あれか。
 冬の灰色の景色には目立つ赤やピンクでまとめたキッチンカーが、広場でクレープを売っていた。人、主に若い女性で賑わっている。……クレープか。
 俺は遅れて改札から出てきた小さな影を振り向く。一緒に歩いて来たはずだが、人波に揉まれて離れてしまった。手を繋いでいたらこんなことにはならなかったのは重々承知なのだが、あの子はあまり俺と手を繋ぎたくないのか、繋いでいても油断した時にすっと離してしまうことが多い。油断している俺が悪いのだが。
「伝紬、クレープ食べるかい?」
 俺は伝紬の手を繋ぎ直しながら尋ねる。伝紬は俺を見上げた後、広場のクレープ屋をちらりと見た。数秒の沈黙の後、伝紬は小さな頭を横に振った。いらないか。
「半分こは」
「いい……
「そうかい」
 量が多いから、というわけではなさそうだ。普段はお菓子をぱくぱく食べているから、甘いものは好きなはずだと思ったのだが。
 あまり勧めてうざいと思われてもな。俺は伝紬の手を引き、広場を離れてバス停へと向かった。
 伝紬……、どこかへと去った元妻が置いて行ったこの幼い男の子は、本当の父親ではない俺に遠慮をしているらしい。一緒に暮らすようになってからしばらく経つが、まだ完全には心を開いてくれない。……まぁ、人間なんてそんなものか。
 子育てなど経験したことがないため、全てが手探りだ。手探りなのは皆そうなのだが、俺はそれに加えて覚悟が出来ていない状態で引き取ることになったのだから、余計に接し方が分からない。この短い期間で子育てのコツを網羅出来たら、親という生き物は苦労していないか。
 妻の方へ行った方が幸せになれるんじゃないかと考えたのは、一度や二度ではない。現に今も、こうして遠慮させてしまっている。……どうしたものか。
 バス停のベンチは、あと一人座れるくらいのスペースしか空いていなかった。伝紬を座らせようとしたが、知らない人が嫌なのか俺から離れようとしない。
 少し考えた後、ベンチに座り、膝に伝紬を乗せることで解決した。伝紬は膝の上で大人しく景色を眺めていた。時々「鳥」と指差される鳩を眺め、「あの鳩はキジバトだね」という小さな知識を与えるなどしてバスが来るのを待った。
 軽快な音を立て、改札が開く。
 邪魔にならないようにそそくさと改札の前を去ると、冬のつんと冷えた匂いがした。その匂いに混ざって甘い匂いが胸に広がった。……この匂いは、いつだか嗅いだ覚えがある。しかも、この場所で。思い出そうと記憶を探っていると、すぐ後ろを付いて来ていた伝紬が、広場の方を指差した。
「父さん、クレープ屋がある」
 言葉の調子は落ち着いていたが、目はきらきらと輝いている。俺の胸の高さくらいまで成長した伝紬を見て、あの日の幼い伝紬との記憶が掘り起こされた。
「食べるかい?」
「うん」
 伝紬は頷くと、早く行こうと俺の手を引いて進み始めた。
「このクレープ下さい」
「じゃあ同じやつを」
 渡されたチョコソースのかかったクレープを見て、胸焼けしないだろうかという不安が過る。そんな不安とは無縁の伝紬は、さっそく嬉しそうにクレープにかぶりついていた。
 食べ進めながら、「これ美味しい」と報告をしてきた伝紬を眺める。……クレープを買えるようになったか。勿論、クレープだけではない。あの日のような遠慮は、段々とされなくなっていった。今では俺が買うか訊かなくても、「これ欲しい」とねだられる。当たり前と思えることでも、その当たり前がたまらなく嬉しかった。
「何にやにやしてんの?」
 俺を見上げ、伝紬は訝しげに首を傾げる。「怖いよ」と付け足された。最近は中学生になったからか、生意気を言うことも増えてきた。本当に傷付くようなことは言わないし、一線を越えた発言はしないから見逃しているが。伝紬に信頼された証だと思うと、それすらも愛おしく思える。
「生意気言うようになったね」
 俺がそう言うと、何も知らない伝紬は不思議そうな表情をしていた。