遮光カーテンの隙間から射し込む僅かな陽の光が、穏やかな朝の訪れを告げている。ゆるやかにめを覚ましたこはくは、うーんと伸びをひとつ。欠伸をふたつ。心地好い微睡みの中で、実はとても疲れていることを思い出した。
昨日はあの憎たらしい恋人と二度も身体を重ねて、甘いあまい空気が徐々に激しく色香を帯びた。思い出すだに顔が火照るほどに。そして間髪入れずに三回目をねだられた。
必死に泣きながらもっともっとと自分に縋る恋人からのお願いに悪い気がするはずもなく、その巨体を支えて息を切らせて口付けた。
「っ、こはくさん、もっと体力、つけないとなあ?」
そう含み笑いをするから、思わずその憎たらしい顔を睨んで口付ける。ゆさゆさ身体を揺らせば、上がる声は嬌声へと変わった。
、その最後の最後、好き、すき
――そう、あまりに盛り上がる斑に、こはくの腰が壊れるまできつく脚を絡めてねだられ続けることまでは予想しなかったが。
人の腰をなんやと思とるんじゃ! しかもアイドルの腰やぞ!?
覚醒と共に徐々に込み上げる怒りは、今こそ相手に向いているものの、内心では自分にも向いていることはわかっている。要するに半分は八つ当たりである。
しかし二人の体格差と体力差を考えろと口を酸っぱく言ったことで、全く意に介さない斑へ募る色々は、こうして朝起きられなくなる度にこはくを襲う。
普通は逆やろが! 見てろ! 今にひんひん泣かせたる!
心の奥で毒づき半分、決意を半分。隣の誰かはもう居ない。
そんな時だ。
寝室から続くダイニング、そしておそらくはその先のキッチンの床を、穏やかだが重たく踏み鳴らす誰かの足音がする。出かけたわけではないらしい。時計を見れば朝七時半だった。
トントン、トントン。
足音の犯人が握っているのだろう包丁が、まな板の上でなにかを切る音。この軽快な音はきっと野菜だろう。
カシャカシャ、カチャカチャ。
固いものになにかがぶつかる音。液体状のなにかを混ぜる音だろうか。
熱した鉄にじゅわっと油を引く独特の美味しい音。こはくは思わず唾を飲んだ。然るべきあとに香る甘い香りは、ああ、きっと卵焼きだ。だし巻きも好きだが最近の好みは甘めのそれだ、と世間話の話題にしたのを覚えていたのだろうか。甘いあまい卵と砂糖の焼かれる香り。
そして少しずつ香りだしたのは、香ばしくて芳醇な鮭の香り。この時期は秋刀魚が欲しいところだが、朝食として甘めの卵焼きに合わせるなら塩鮭もいい
――こはくは思考を巡らせる。
最悪な出会いから何度も衝突し、すれ違い、恐る恐る手を取り、別れを経験し、しかし少しずつこうして共に生きる事実が、色鮮やかな美味しい音に誘われてこはくの胸を満たす。鈍く痛む腰ごと上体をごろんと転がして、気恥しさに布団を被り直した。
「こはくさあああん! 朝ですよおおおおおお!」
その瞬間、けたたましく鳴り響いた大声。声の主はエプロンを胸にドアを蹴破って現れた。そして間髪入れずにフライパンの底をおたまで叩き出す始末だ。
「やかましい! なにベタなことしとんのや! ぬしはんの力で叩いたらおたま折れてまうやろがい!」
思わず耳を塞いで飛び起きかけたこはくを見やった斑から、
「それだけ騒げれば君も元気ということだなあ! ママは嬉しいです☆」
すぐさま降り注ぐ皮肉と笑顔。
そのあまりの憎らしさに、こはくは顔を歪めてまた布団を被る。
「おやおやあ? 朝ごはんが冷めちゃってもいいのかあ?」
わざとだ。絶対にわざとだ。布団を微かに捲り上げながら訊ねるその笑顔と笑い声に、本当は酷く、穏やかに、しかし強く満たされてしまう。こんなことは絶対本人に言ってはやらないが、布団の中のこはくは問う。
「
……今日、なに」
そういうポーズで。ぶっきらぼうなその声で。
「ふふん♪ 君の好きな塩鮭と卵焼きだ。ごはんは炊きたてだし、お味噌汁もあるぞお」
「
……味噌汁、なに」
「なめこと豆腐、大根の葉もなあ☆ 温まること間違いなし!」
自信満々にそうして生き生きと語る斑を前に、とうとうこはくは笑いを堪えられない。
「ああもう、斑はん、ほんまにママやなぁ?」
思わず言えば、
「そう言うこはくさんは亭主関白だなあ? 近頃流行らないぞお?」
斑はニヤリとこはくの目を捉えて笑った。そして丁々発止続くこはくの皮肉が、
「はっ! ほんなら口やかましいママと亭主関白で破れ鍋に綴じ蓋でちょうど
……え
……」
「え
……」
予想外に言葉に詰まる斑によって遮られた。
流れる沈黙。今までどうやって息をしていたのか分からない。ふわりと香る美味しい香りが二人の頬と鼻をくすぐっている。
「
……え? あ、ああ!? ちゃう! そう言う意味ちゃうで!?」
「いやいやいやいや、分かってる! わかってるぞお!? ただ面白いことを言うなあと
……その
……」
「ああ
……うん、まあ
……その
……」
あたふたと言葉を紡ぎきれない二人の姿は、誰が見ても滑稽そのものだったろう。
「まあほら! そういうことだ! それじゃあ朝ごはん、冷めないうちに食べ
……っ、はは!」
誤魔化しごまかし背を向けた斑のスリッパがキッチンへ歩みを進めるその一歩の差を埋めるように、こはくの声が響く。
「
……っ、斑はん」
「んん?」
そうは言うが振り返らない斑。
「結婚、しよか」
真っ直ぐに放たれたこはくの言葉に思わず飛び上がるようにして振り返る斑が、憎たらしくて。本当は、そんなところも嫌いなところもすべてなにもかもが可愛くて大切で仕方ながない。こはくに言わせればそういうことだ。
今更膨らんだその気持ちが弾けて口をついて出て、
「こら! こんなシチュエーションで言うセリフじゃありません!」
いつしか柔らかく眉を下げて笑うようになった斑は、
「
――仕方ないなあ。これからもごはん、一緒に食べようか」
今日もここで笑っている。
「次の休みにレンジフードの掃除でもたいんだが、細かいところ手伝ってくれるかあ?」
「ええよ。ああ、せや。調味料買い足さな。みりん切れるんやろ。あとトイレットペーパーや」
「そうだった! ああ
……そうだなあ、近いうちにフライパンも二人分一度に炒められる大きさのものを揃えたいんだが
……」
「ええね。賛成やわ。鍋もやな」
「ああ、あとやっぱり体力もう少しつけてくれないかあ?」
「やかましい黙っとれ!」
そんな溢れかえる当たり前な幸せは、いつでも朝食の香りとともに二人を包んで待っている。
fin.
こは斑ワンドロワンライ
【いい夫婦の日】
60+7min
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