「な、なんやこれ!?」
星奏館のキッチンに聳え立つ巨大なフラスコ。いつだか子供用の番組で見たマッドサイエンティストが使う〝いかにも怪しげなフラスコ〟とは少し違う、格式が高そうなその仰々しい器具一式を見て、こはくは思わず仰け反った。
「んん? これかあ?」
「他に何があるんや、このどデカいガラス
……ああ、雑学実験番組にでも出るん?」
最初こそ驚いていたが、今や興味津々と言った様子でその器具を見つめるこはくを前に、斑は頬を緩ませて、
「サイフォンと言ってなあ!」
そして少しだけ得意げに笑う。
「コーヒーを淹れる道具なんだ。前々から喫茶店を開いている知り合いがいて、〝お古を是非君に!〟と推されて有難く頂戴したってわけなんだが」
そう自慢げに、しかし心底嬉しそうに笑う斑。
「せっかくだから星奏館 に置けば、みんなの日々の彩りになるかもしれないと思って」
その物言いもやはりこの人然としていて、思わずこはくの頬も綻んだ。
「ふぅん。ええね」
「ナイスアイデアだろう? 腕が鳴るぞお!」
早速珈琲の抽出にかかる斑を眺めながら、こはくは、ふと二人の出逢いに想いを馳せる。
お互い荒んだ生い立ちをして手を組んで、心を持ち寄って、いつしか背中を預け、心の奥底の弱い部分に触れ合い握り合い
――その間もこの男は〝誰かに分け与えること〟だけは惜しまなかったように思う。
しかしそれはどこか嘘のある美徳でもあり、まるでそれを免罪符のようにして、斑は誰かに許されたがっていた。少なくともこはくの瞳にはそう映る。
それが今はどうだろう。少しずつだが確実に姿を変えている。柔らかく、少しずつ。
徐々に香り立つ珈琲が鼻腔を擽る。チクリとした胸の痛みはなんだろう。こはくはそっと胸に右手をやり、心臓の音を感じた。
〝みんなの日々の彩りになるかもしれないと思って貰ってきたんだ!〟
こぽ、こぽ、と規則的に上がる珈琲の蒸される音を前に、斑はにこにことサイフォンとこはくを交互に見ている。少しだけ二人を隔つ湯気の向こう側で。
「二人分なら二十グラムの粉珈琲だそうだ。ああ、今度は豆を炒るところから始めても楽しいだろうなあ! 喜びそうな面子の顔も浮かぶことだし」
――本当に少しずつ。
「斑はん、」
「んん?」
いつでも集団を見て、しかしその渦中に自分を置かないこの男。その男に、手を取ること、渦中に飛び込むこと、信じること、楽しむこと。それらを教えられたのは、他ならぬ自分なら嬉しい。そして教えられたのも、他ならぬ自分なら嬉しい。そんなことを望んでしまうほどに、こはくの独占欲は育ってしまった。
二人を隔つ湯気が揺らぐ。ゆらゆら、ゆらゆら。白く曇って見えない表情。彼は今、どんな顔でこの情景を見ているのだろうか。どんな気持ちを感じているのだろうか。チクリチクリと胸が痛い。
コーヒーカップに注がれるのを待つばかりとなった珈琲たちを尻目に、こはくは口を尖らせた。半分は無意識に、しかし半分には不本意ながら自覚がある。やがてこはくは、ぬいぐるみに固執する子供のようにして斑を見やった。
「
……その、〝喜びそうな面子〟呼ばへんの? そっちに振舞ったらええやん。わしがコーヒー飲まれへんの知っとるやろが」
嫌味か、と最後に付け足して、自分のこの言葉こそ嫌味なのだと子供の自分を思い知る。こはくの目の前に黒い嫉妬が渦を巻いた。
その刹那。
「
……初めて淹れるコーヒーは君に飲んで欲しかったんだ」
はにかむように笑う斑がコーヒーカップを差し出した。湯気の向こうから。
「
……は?」
こはくは目をしぱたかせる。
意味がわからないままコーヒーカップを受け取る指が熱い。
「味見を頼んでもいいかあ?」
「さよけ。毒味にわし選ぶなんて、ほんま趣味悪いで。冗談キツいわ」
そう毒づいて一口を啜る。
熱い。口も舌も焼けるほど熱い。
耳が熱い、頬が熱い。胸が熱い。
どうしたって芳醇な何かが身体中に広がって止まらない。悔しくも胸の高鳴りを抑えられないこはくを前に、斑も一口、自分のカップに口をつける。
ふわりと肌を撫でる湯気。
「今日はコロンビアにしたから、比較的甘くて君にも飲みやすいと思ったんだが
――」
そう言いながらプイと明後日の方向を向いてしまった斑を盗み見れば、その耳も頬もこはくとおなじ。湯気に攫われ撫でられ、真っ赤に染まる。
「
……まぁ、うん、
……なかなかいけるんちゃう」
「そうかあ」
「
……ミルクもらうわ」
「ああ」
ぎこちない会話に感じる少しの違和感と、胸に広がる珈琲の香り。斑の香り、こはくの香り。ゆらゆら、揺れて止まらない。
この気持ちはなんだろう。二人で答えを探しながら流れる不思議な時間。
「また飲んでやらんこともないけど」
「ありがとう! なら、次は奮発してブルーマウンテンにしようじゃないか!」
「よう知らんけど茶葉みたいなもんなん?」
「まあ初めはそんなものだよなあ! 確かに考え方は茶葉と同じだし、
……けど甘いカフェラテしか飲めないもんなあこはくさん。うん、毒味ご苦労!」
「やかましい! また嫌味か!」
そうして二人で笑いながら、こはくはミルクを継ぎ足して砂糖を二つ。もう原型を留めていないと斑がまた笑う。
「おっ! こはくちゃーん、カレシにコーヒー淹れてもらったァ!? 苦いの飲めまちゅか〜?」
「えっ! これ三毛縞くんのサイフォンすか!? すごっ! 結構な年季ものっすね!? 僕も飲みたいっすー!」
唐突にキッチンの扉が開き、飛び込んできた賑々しさたち。
「ああ! 豆も粉も買い付けてあるからまだまだ淹れられるぞお!」
「HiMERUもご一緒してもよろしいですか?」
「もちろん!」
「みんなー! 三毛ちゃん先輩が喫茶店開いてるんだぜ〜!」
「そうだ、光さんには焼きたてパンも用意しなきゃなあ!」
今まで流れていた空気はどこへやら。あの赤い顔も少し揺らぐ声も、瞳も、まるでなりを潜めている。そうして豪快に笑う男をこはくはよく知っていて、きっと、そのどれもを心から好ましく思っている。
荒く、時に優しく研磨され、多面体のようにキラキラ輝き始めたこの男を、心から好ましく、たまに妬ましく、やはり愛おしく好ましく思っている。
気づきかけたその執着心の答えに少しだけ蓋をして、ドアを潜る面々の波を笑いながら押し留める。湯気の渦中で斑と二人、目が合った。反らすでも睨むでも茶化すでもないその瞳。よくわからない、しかし好ましく思う、欲しいと思うその瞳。
今はまだ、この優しい湯気に揺られていたい。
fin.
こは斑ワンドロワンライ
【コーヒーの日】
60+1min
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