隣のおじさんは朝早くに家を出、夜遅くに──時には日付が変わってから帰って来ることもあったので、顔を合わせることがほとんどなかった。たまに両親の会話に出てくるのと、その母だという、老婆というには少し若い雰囲気のしっかりした女性の存在くらいしか。
だが、彼が旧い友人の子(だと母は言っていた)を引き取ってから、彼の出勤と退勤の時間は以前と少し変わり、隣家の少年が姿を見ることも増えた。夜泣きなのか、遅くに赤子を背負って歩いているのを窓から見た時はだいぶ驚いた。そういうのはたいてい母親か、でなければ年上の女きょうだいがする。働き盛りの男がするのは珍しく、また、たまに見かける男はそんなことをしそうに見えなかったからだ。
だが、何か歌って聞かせているらしい声は優しげなもので、きゃっきゃと楽しげに上がる赤子の声を聞かずとも、彼が案外上手に、こまやかに育児を担っているのだと知れた。勿論日中は稼ぎに出ているのだから、そうもいかないだろうが。
ふと、少年は思った。子守を手伝うといったら、おじさんは褒めてくれるかしらん?と。実は、顔に傷のある、しかし笑うと魅力的な「おじさん」は近所の子ども達の間でも少し話題の人だったのである。
ある日曜のことだ。
おじさん──水木は縁側で赤子をあやしていた。
一時期真っ白になってしまった髪の毛は、ほんの少し色を取り戻して、灰色のような、淡い茶色のような髪色をしている。だが、年寄のような髪色と裏腹、その顔立ちは若々しい。そしてよく見ると瞳が青みがかっていて、それらが合わさると、すこし外国の人のようでもある。
回覧板を届けにきた少年は、玄関に回る前、生け垣から「おじさん」の姿を見かけて声を上げかけた。
だが、その時、彼はうんと優しい目をして赤子…よりは少し大きそうだが、とにかく小さな体を膝に抱き上げてゆらゆらさせながら、あれは雀だよ、なんて話しかけていて…。確かに庭には何羽かの雀がいて。あぶあぶと反応しているが、幼子にわかっているかは怪しい。ふさふさの栗毛の髪は、おじさんの旧友とやらに似ているのだろうか?
きゃっきゃとおじさんの指をしゃぶりだした子に、整った相貌を崩して笑う男は、なんというか…少年の身の回りにはいない類の人間だった。
なんというか…妙にあか抜けていて。
「まんまか?ん?」
ちゅぱちゅぱ小さな口で指を吸うのに任せて、おじさん、は笑う。なんだか胸が奇妙にざわつく。
「ん? あ、」
あ、あ、と小さなもみじのよう手がひらひら動いた先に、おじさんは生け垣から自分を見ている小学生を見つける。垂れがちの瞳が見開かれ、そうすると、彼の人の目は大きいのだなと知れる。
どきん、と少年の心臓が大きく音を立てる。
「ええと、お隣の。タケシくん?」
水木氏は小さな子を抱えたまま微笑み、小首を傾げた。直接挨拶したことはなかった気がするけれど、どうやら彼は少年の名を知ってくれているらしい。
ぶわ、とタケシ少年の頬がなぜか染まる。回覧板もってきました、という声はみっともなくも上ずっていた。だがどうしようもない。
「ああ、お手伝いか。それは感心だ」
水木氏はそうっと赤子を縁側に寝かせ、そのままサンダルをつっかけ庭に出、生け垣まで歩いて出てきてくれた。回ってこいと言ってくれたら中まで届けたのに、とタケシはドキドキしながら思う。赤ん坊特有の匂いを纏わせた男は、はい、と手を差し出す。タケシは手が震えないよう気をつけて、回覧板を手渡す。
「ありがとう」
深く、落ち着きのある声。タケシは顔を上げられなくなった。
「ごめん、おじさん、怖いだろう」
照れてうつむいてしまったのを、どうやら水木氏はそうとったらしい。タケシは慌てて顔を上げ、首を振ったが…、見上げた顔は、怖いどころか…。
「タケシくん?」
なぜか赤くなった少年に、水木氏はぽかんとしている。それはそうだろう。そうだろうけれども。
「……お兄さん」
「え?」
「おじさんじゃ、ないです! お兄さんだと…思います!」
「……?、ええと…、ありがとう…?」
あっけにとられた様子の水木氏の後ろ、ふぇ、と小さな声が聞こえた。水木は弾かれたように振り向き、まだ泣き出してはいないのを確認し、ほっと胸をなでおろした。その横顔の何ともいえない美しさをまざまざとさらしたことなど気にもせず。
「あの子、鬼太郎というんだ」
「き、きたろう…?」
うん、と水木は少し幼気に笑い、そうして付け加えた。
「大きくなったら、仲良くしてくれたら嬉しい」
「…は、…はい…っ」
ありがとう、ともう一度水木は言って、養い子のところにすっとんで戻り、どうした〜と抱き上げてやる。
──タケシ少年はその後自分がどうやって家に帰ったのか記憶が曖昧で、夕飯時にやっと我にかえったのであった。
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