「生とは食にあり」

体調不良、嘔吐描写。


 それは朝餉の折であった。
 その美しい顔に子どもの如き無邪気さを湛えながら、御御御付を一口含んだセイバーは、ことりと椀を置き伊織を真っ直ぐに見つめ云う。
「イオリ、今日は外に出るな」
「セイバー……仔細を云わねば何も伝わらん」
 この貴人は時折、言の葉が足りないように思う。伊織も存外足りぬとは自負しているが、セイバーのようにまず結論といった具合は流石にない。
 これは癖のようなものだろうか。伊織が思うに、セイバーはおそらく上に立つ者だ。その真名こそ明かさずであるが、儀の最中見せた情報と、夢で流れてきてしまう彼の過去から、大凡の検討はついている。
 彼の存在や逸話は書物のみからしか識ることはできず、そのどちらも書かれていることが少しばかり異なっていた。
 けれど伊織は、セイバーが日ノ本最古の歴史書に記載された通りの生を歩んだのだと確信している。
 生前会話をする相手もほぼ無く、その唇から紡がれる言は短い肯定のみ。であるから、セイバーは会話がきっと、苦手だ。
「む……。むぅ……その、御御御付が……
「御御御付が?」
「ま、……いや……うーん……
 両の手の人差し指で米噛み辺りを挟み、随分と長考しているセイバーを、伊織は静かに見つめた。
 どうにも仕草や、代るがわる見せる表情が随分と幼く、多彩で、本当に夢で見る彼と同一人物なのかと、伊織はひっそりと訝しむ。
 そんな視線は気付いていないのだろうセイバーは、しきりにうんうんと唸ったあと、漸く言の葉を紡いだ。
「いつもより、少しばかり濃かったのだ」
 それはほんの少しの違和感だった。針の穴ほどの、小さな小さなもの。しかしセイバーの声は確信を持った音だ。
「ふむ?」
 伊織は己の前にある椀を持ち、啜る。味噌の香りも味も、勿論いつものようにしか感じられなかった。
……俺には感じないな。して、どうしてそれが外に出るな、に繋がるのだ」
「きみ、流行りの病か何か……患っているだろう」
「患っている……?」
 何を言っているのだと一蹴できればよかったのだが、何せセイバーの瞳が揺れているのに気が付いてしまった。
 出逢った頃が嘘のように、セイバーは伊織を慈しみ、まるで愛する者を見るように瞳は丸みを帯びるのだ。そんな彼の夕焼けのような琥珀が、己を憂い揺れている。
 彼の姿に胸が針で刺されたかのようにちくりと痛んだ。
……そうか、おまえが云うのだ、そうなのかもしれないな。病み上がりの身だ。気遣いに従おう」
 アサシンの毒を受けて日も浅いのだ。儀の最中、徒に時間を割いていられないが、身体を労るのも勝ち抜く為には必要だろう。
 頷いた伊織に、セイバーは安堵のため息と共に薄く笑った。


 セイバーの言に従い心底良かったと、伊織は褥でぼんやりと思う。
 太陽はちょうど真上に有るらしく、雨もない今日の天気ならば陽春であったろうが、熱に浮かされた身体がかいた汗で冷やされ寒いと夜着を手繰り寄せた。
 霞かかるような思考に悪寒の走る身体は微かに震えている。胃を掻き回されているような感覚に、平らげた朝餉を戻しそうになりつつ、ゆっくりと息を吐き出すことでなんとか耐えた。
 先日のアサシンの毒は兎も角、熱を出すなど何年、いや十何年ぶりか。
 幼い頃、まだあの一夜が訪れるずっと前。湊で苦しく熱い息を吐き出す伊織を、気遣いながら随分と頼もしい掌で母に撫でられた、ように思う。それが伊織の持つ最後の臥せった記憶だ。
 養父に拾われたとき、死した後、一人長屋で過ごしているとき、空腹に倒れることはあれど、身体は病に強かった。
 ここの所激闘故気が抜けぬ日々が続いていたため、その疲れもあるやもしれない。流行り病でないことを祈りながら、障子をぼんやりと見つめた。
 眩い光は薄いそれを貫き、伊織を燦々と照らす。太陽よりは、月のほうが好きだな。なんてくだらないことすら考えなくては滅多に出さない熱に負けてしまいそうだった。
「辛いか、イオリ」
 静かな声音が、伊織に落ちる。熱により、膜を貼った歪む視線を動かす前に、剣を持つ手にしては柔らかいそれが、目元を覆った。火照った己が身体故か、それとも彼が生きていない故なのか、手は冷たい。
 閉じた瞼から滑る暖かい雫が、セイバーの掌を濡らした。
「せ、いばー……うつる……
「ははは、随分と参っているな。私達英霊……サーヴァントは病など罹らぬよ」
 からからと笑ったセイバーの音が心地良い。濡れると、戒めようとした言の葉は終ぞ紡がれず、代わりにか細い声で、気持ち良い、と掌の中の小夜がうっそり潜められた。
「イオリ、食べられるか?」
「ん……なにか、あった……か?」
 保存の効くもので、今の弱った己が食せるものがあっただろうか。訊けばタケルは声を落としつつも、誇るように云う。
「カユ、というのだったな! キルケーに教わった。これならば今のきみでも食せるだろう」
 だが、とセイバーは続ける。
「顔色が悪いな。食欲は無いか」
「あいにく……むしろ、」
 胃が震え、言葉を飲み込んだ。持ち上げることすら億劫な腕で口元を素早く抑え、びくり、びくりと背を震わせて、横を向いた伊織は息を詰めた。体勢を代えたことで、セイバーの手は解かれる。
「ぐっ……っ、は、……っ」
「そのまま吐き出せるか? 我慢はしないほうが良いらしいからな」
 眼前に何かが置かれた。桶だろうか。しかし良い年した己が、この美しい御人の前で汚いものを撒き散らすのも気が引けて動けずにいる。
 そうしている間にも喉が震え、口の中には酸味が広がった。反射的に流れる涙をセイバーの指先が拾って頬を撫でる。すまぬな、と小さく謝罪された後、上体を支えられながら起こされ遠慮なく、指が口に突っ込まれた。
 口の外に出すまいと耐えていたそれはぼたぼたと重い質量の音を響かせながら眼前の桶が受け止める。つんとした酸の臭いに誘発され、セイバーの指が喉奥を刺激しなくとも意に反し溢れ出ていった。
「っは、けほ、けほっ……っ、くっ……
 一度決壊してしまえば抗うのも難しく、涙を流しながら伊織は、身体を支えるセイバーの腕をぎゅうと掴んだ。
 情けなさと、申し訳無さと、汚してしまった罪悪感。これから穢を処理させるという事実に熱で弱った精神が参ってしまっている。
 そんな伊織の肩を、ぽんぽんと子供にするようにあやす仕草がなんとも似合わずふ、と力が抜けた。
 やがて。咳き込む音も、水音も聞こえなくなった頃。
 嘔吐により身体の力が入らない上に、吐瀉物を見たり嗅いだりてしまえばまた戻してしまいそうで、目も開けず、あまつさえ呼吸も止めていた伊織。しかしセイバーがそれを察知し身体を抱き起こす。
「よーしよし。偉いぞ、イオリ。まだ燻っているか? 吐き出せぬなら、もう一度手伝おう」
 伊織を己に凭れかけさせながら、その顔色を伺う。真白だったそれはいくばくか見られるものとなっていた。
「い、い……。は、っけほ。すまないが、水を……
 ひりつく喉でなんとか伝えれば、目元を隠された。汚した指はいつの間にか奇麗に拭き取らている。ゆっくりと、まるで腫れ物を扱うように褥に寝かされた伊織は、浅く速い呼吸を繰り返していた。
 近くにあった桶はセイバーと共に遠ざかり、しかし直ぐに水を持って彼が戻ってくる。
「水は自分で飲めそうか?」
「ああ、すまない……
 焼けた喉で出す枯れた声が痛々しく、セイバーは険しい表情だ。
 聞き苦しい声ですまぬと、口にはせずに謝罪しながら上体を起こそうと腕に力を入れるが、事実全く入らず。僅かばかり持ち上げていた頭や身体は、床に打ち付けられる前にセイバーが危なげ無く支えていた。
「これでは飲めぬな……。イオリ、きみに触れることを許してほしい」
「せい、ばー?……なにを……
 眼の前で椀を煽ったセイバーを唖然と見つめる。かさの減った水に、熱で浮かされようとも理解の速い思考はセイバーの意図を容易く導き出した。
「まて、せいばっ!……っ」
 口どうしが触れる。固く閉ざされた伊織の口を舌でこじ開け侵入させると、それを伝い、ゆっくりと水を流し込んでいく。身体も熱ければ口内も随分熱く、舌先で感じる伊織の熱の高さにセイバーの夕焼けは険しく顰められた。
 与えられる水を無下にするわけにはいかず、こくり、こくりと、伊織は少しずつ嚥下していく。その様はまるで親鳥から獲を貰う雛鳥のようだ。
 瞳をきつく閉じ、震える指先でセイバーの衣に縋り付く仕草は、セイバーにとってはなんともいじらしかった。
 ――こんな時くらい他人に、私に……。頼るのも悪くないだろう、イオリ。
 背を撫でながら、セイバーは椀をまた持ち上げた。
 椀に汲んできた水はまだ半分は残っているが、どうも水すら身体は受け付けないらしく、息も絶え絶えに二口目を拒絶された。
 首を振り、否を表現する彼はとたんに幼く見える。
 そう言えば、伊織の現在歳を考えれば、セイバーが死したその歳よりも下であった。幼く見えるのも道理だと一人う頷き、見守るように伊織の直ぐ側で座りこむ。
 浅く熱い呼吸を繰り返す頭をゆっくり撫でれば、薄らと夜空を見せる伊織。熱が高い故に、意識は朦朧としている。
「私には解らぬが……人は……こうされると、落ち着くのだろう?」
 血の繋がる親兄弟たちからはついぞ与えられなかった温もり。
 江戸の街で見る、繋がれた手に、触れられた温もりに笑顔を見せる子供のように穏やかたれと、セイバーはその髪を撫でる。
 犬や猫にするような可愛がりではなく、慈しみをのせた柔らかな手に、伊織の表情はいくばくか和らいだ。
「ああ……なつか、しい……な」
 朧げな湊の温かな記憶を、夢現のなか伊織はみる。髪を撫でる手が、時折熱を確認するように額に乗せられる温度が、ただただ懐かしく、そしてどうしようもなく苦しい。
「イオリ、今は……。私が側にいよう。だから……なにも考えずに、眠ると良い」
 その声は母に程遠いはずなのに、子守唄のような安らぎを覚えた。


 冷たいものが額に乗せられた。
 水の中を揺蕩う感覚から覚醒した伊織は、身体に重石が乗せられているかのような気怠さを覚えつつも、ゆっくりと瞳を開く。
 寝起きにぼやける視界は数度、瞬きを繰り返せば鮮明になった。
「起きたか。熱は引いたようだが……どうだ?」
「昼よりはずっと楽になった。ありがとう、セイバー」
「うむ。顔色も……ましだな。食欲はあるか?」
 日が沈み、月明かりと蝋に照らされたセイバーの顔は安堵の色を浮かべていた。昼間もキルケーに教わったと言っていたのを伊織は思い出す。
 臥せる身であるなら、食事に頓着しなくとも流石に摂らねばと理解しているらしい伊織は頷いた。
「折角だ、頂こう」
「ではよそってこよう。キルケーが温かいまま保存できる魔術を施してくれてな。直ぐに食べられる」
 食事はまだかと無邪気に強請る姿はそこになかった。
 彼は既に死した身で、本来ならば伊織よりも年を重ねている。見聞きするものが初めてで興奮している、なにより、この時代では命に従わなくて良いというのが、ああも凪のような笑みを見せる由なのだろう。
「力は入るか? なければキルケーのようにカユを……
「もうすっかり起き上がれる。不要だ、セイバー」
 軽くふらつくのものの難なく起き上がり呆れた視線を向ける。無理をしているわけではないと覚ったセイバーは、面白くないと頬を膨らませながらも椀と匙を手渡してくれた。ほんのりと湯気をたてるそれを一口、含んで咀嚼する。
 柔らかく煮込まれた米は昆布と鰹の出汁がきいているからただの白粥であっても随分と食べやすかった。水を摂れないことを予期していたのか、汁気がやや多めの粥だったが、伊織の身体を慮ってのことなのだと理解している。
 やんごとない身分の彼が、己の手で作った事実が、こそばゆい。
「食べたら疾く寝るように。まだ油断はできぬからな」
……ん。ああ、解っている」
 飲み込んで、また小さな一口を放り込んで咀嚼していく伊織の頬が、瞳が、懐かしい日々をなぞり穏やかになった。
 普段なら顔色一つ変えず、美味しいも不味いも関係なく。つまらない生を送る伊織であったというのに。それが今、頬を緩ませ、粥を食していた。
 熱というのは、鮮烈なものに埋もれた感情すら引き出すものかと、セイバーは人知れず瞳を細める。
 ――それはきっと、熱に浮かされた故の、泡沫なのだろうなぁ。
 明日には、表情を一切変えず、己の身体を動かすための栄養補給として、ただの義務のように食すのだろう。
 だがそれでも。
 僅かに食の楽しみを思い出したのならば、それが、セイバーが初めて作る食事によって引き出せられたのなら。
 これ以上の幸福はあるまいと、夕陽に似た琥珀をそっと瞼に隠したのだった。