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吾妻
2024-02-14 16:24:54
6143文字
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アークナイツ
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secret scent
■バレンタインにかこつけて、つきあってるテキーラくんとドクターがダラダラ話をしたり、さり気なくイチャイチャしたりしている話です。
バレンタイン成分が冒頭にしかないですがご容赦。
最後の書類にサインを書き入れた瞬間、とてつもない解放感に包まれて、思わず深い安堵の吐息を漏らしてしまった。
途端に集中力が切れて、思考がぼやける。何しろここ数週間をごっそりと持っていってくれた案件だった。
今日こそは業務時間内に片付けてやると意気込んではいたものの、デスクの上に置かれたデジタルクロックを見遣ると無情にも日付は変わってしまっていた。定時を報せる鐘の音
――
を模した艦内放送
――
も一切耳に入らなかった。我ながら、追い込まれたときの集中力には恐れ入る。
「今の書類で最後だよね? お疲れ様」
脱力して椅子の背もたれに沈み込むと、図ったようなタイミングでデスクの上にカップが置かれた。思考が追いつかず、ぼんやりと立ち上る湯気を眺めていたら、有能な秘書が完成したばかりの書類をデスクの上から退避させていった。まかり間違って濡らしたりしないようにとの配慮だろう。いつものことながら、気遣いが行き届いている。
コーヒー
――
かと思ったが、随分と甘い香りがする。仕事中は疲労も空腹も感じなかったのに、無事に片付いた瞬間にどちらも湧き上がってくるのだから、人間の体とは不思議なものだ。こんな時間に来訪者もいないだろうとフードを下ろし、被りっぱなしだったフェイスマスクも外してしまった。バイザーに遮られていたデスクライトをまともに浴びると、目がしぱしぱする。
「
……
こんな時間まで付き合わせてすまない」
「俺は別に、大したことはしてないよ。でも、ここしばらく本当に忙しかったよね。大丈夫? 調子が悪いところとかない?」
耳にするりと溶けるような柔らかい声が心地よい。有能な部下であり、プライベートでも親しくしている彼の声が、私は好きだ。どんなときも穏やかで、労りに満ちていて、心の尖りを和らげてくれる。
世の中には、リラクゼーションを主目的とした囁き音声が売り出され、一定の市場を獲得しているというが、彼の声を聞いていると「まぁわからなくもないな」という気持ちになってくる。実際、耳元で囁かれると余計な体の力が抜けてしまうし、寝かしつけられることも多々
――
いけない、理性が乏しくなって思考がかなり緩んでいるようだ。
「流石に疲れたけど平気だよ。山は越えたし、これでしばらくはゆっくりできそう」
「よかった。この書類、明日出せば大丈夫だったよね」
「そう。念のために明日また再確認したいな。今はちょっと頭が回っていないから」
「了解。じゃあ明日リマインドするね」
「助かるよ」
本当に隅から隅まで気が利く男だ。前職の影響も大いにあるだろうが、そもそも彼自身が視野が広く、頭の回転が早いからだろう。一を言葉にすれば十を返してくれるような細やかさは、平時はともあれ繁忙期ともなると目の前しか見えなくなる自分にはありがたい。
ともあれ、これでもう今日は何も考えなくてもいいはずだ。
ひとまずは彼
――
テキーラが用意してくれた飲み物を、冷めてしまわないうちに頂くとしよう。それにしても珍しいこともあるものだ。彼は生まれ育った土地柄ゆえかコーヒーにはとても詳しくて、気分によって豆を変えてくれたりはするものの、見るからに甘そうな飲み物を用意されたのは初めてだ。
頭脳労働が続いていたから糖分補給にと気を回してくれたのだろうか。
……
なにかを忘れているような気がしないでもないが。落とさぬように両手でカップを包んで持ち上げ、口をつけた。濃厚な甘みと、ほのかなアルコールの香り。
(ホットチョコレートに、ラム酒
……
)
喉を伝ってとろりとした熱が体の中へ落ちていく。本当に珍しい。どうして急にホットチョコレートなんか
――
と考えたところで、はたと気がついた。
「
…………
今日、何日だっけ」
「二月十四日、だよ」
どんな質問が飛んでくるのか既に想定済みだったに違いない。
カップに唇を当てたまま、恐る恐る上目遣いに見上げると、デスクを挟んだ向こう側に立つ、穏やかな微笑を浮かべた恋人と目が合った。
「
………………
」
血の気が引いた。
うろうろと視線を彷徨わせて、デジタルクロックとモニター画面と通信端末を順繰りに見てみたが、全て同じ日付を表示している。
二月十四日。つまり、バレンタインデーを。
「
………………
あの」
たっぷりと数秒黙り込んだ後に、観念して口を開いた。
「なに?」
優しく問い返す声に含みはなく、怒っている気配もない。というか、そもそも彼に怒りを顕にされたり、嫌味を言われた覚えは一度もない。
「その、覚えていたんだ、先月末あたりまでは
……
。みんなの話題に上るようにもなってたし、なにか用意しようという気はあって、でも
……
」
というか、数日前からやたらとお菓子を差し入れされるなと思っていたのだ。皆、忙殺されている上司を気遣って、さり気なく置いていくものだから、落ち着いたらゆっくり確認しようと大事に保管はしていたのに、それらがバレンタインのフライングだとさえ気づいていなかった。彼女ら(一部彼ら)にも明日以降きちんとお礼を言わなければならない。
――
が、それはそれとして。今は眼前の問題をなんとかしなければ。
「
……
すっかり頭から飛んでたんだ。ごめん」
どれほど言い訳を並べ立てたところで事実は変わらない。ここは潔く罪を認めよう。
バレンタインをすっかり失念していたのは不覚だ。だが、そもそもここ半月くらいの記憶がほとんどないのも事実ではある。こんなことになるなら、先んじて用意を済ませておくべきだった。繁忙期はいつ襲ってくるかわからないのだし。
ホットチョコレートのカップを持ったまましおしおと詫びれば、視界の端でテキーラが数度目をしばたかせる。その後、口元に手をやって、小さく吹き出した。
「こら、笑い事じゃ
……
!」
「ハハ、ごめんね。ドクターがあんまり可愛いから、つい」
「かわ
――
」
「全然気にしてないよ。っていうか、ドクターがこの数週間どれだけ忙しかったのかは、秘書を務めてた俺が一番よく知ってるからさ。なにか用意しようと思ってくれただけで嬉しいよ」
そのホットチョコレートだって、ちょっとした差し入れってだけだしね、とテキーラは穏やかな笑みを崩さない。
戦場でも、事務作業でも、プライベートでも。彼はいつも朗らかで、他人を不快にさせない立ち居振る舞いをする。
広い視野で清も濁もよく見えているくせに。
見た目よりもずっと繊細な感受性で、さまざまな物事についていつも考えているはずなのに。
さも、悩み事などありませんという顔をして、自身の感情や欲望を後回しにしてしまう。
奉仕の精神といえば聞こえはいいけれど、それではあまりにも。
「
……
君はちょっと私に甘すぎるんじゃない?」
いつもなら胸のうちに留めておける言葉が、疲労による理性減退によってするりと口から出てしまった。
「あんまり甘やかさないでくれないかな。職務上は確かに私の方が立場は上だけど」
プライベートともなれば話が違って
……
くるはずが、違ってないから困るのだ。彼が元々、気を許した相手に対して世話を焼きたがるタイプであることも重々承知ではあるけれど。もう少し、こう、柔らかかったり脆かったり尖っていたりする部分を見せてくれても良いと思うのだが。
「
……
ホワイトデーにはちゃんと用意するから、欲しいものがあったら教えて」
別に、全ての関係性が公平で平等であるべきとは思わないし、既にかなり自分が彼にもたれかかっている自覚はある。が、それを当然と割り切りたくもないのだった。少しくらいはこっちにももたれかかって欲しい。
「
……
」
深夜の執務室に沈黙が満ちる。何が饒舌な男をこれほど無口にしたのだろう。
「
……
何か変なことを言った?」
理性減退時、奇行に走る悪癖がないわけではないので、残りのホットチョコレートを飲み干してから問うてみた。
「ううん、違うよ。ドクターが俺とのこと、ちゃんと考えてくれてるんだなって思ったら、嬉しくて」
それ、ちょうだい。と手を差し出されて、テキーラの手に空になったカップを委ねる。
「
……
当たり前だろう。なんの覚悟もなしに、部下に手を出したりしない」
「先に手を出したのは俺の方だけど?」
執務室に備え付けの簡易キッチンに向かいながら、テキーラがおどけた声を寄越す。
「ああ言えばこう言う」
その背中に、子どものように頬を膨らませて小言を投げた。
確かにこの関係は、テキーラからの誘いに乗る形で始まったものだ。うっかり体の繋がりを持ってしまってから、いわゆる〝恋人〟という枠に収まるまでそれなりの時間がかかった。だからと言って、なあなあのままズルズルとここまで来たわけではない。彼も分かっているのだろうが、今日は私の沸点が低くて、すぐに拗ねたくなってしまう。
「さっき出したのは糖分補給用の差し入れみたいなものだし、ドクターがそんなに真剣に受け止めてくれるとは思ってなかったんだ。まぁ、日付が変わって一番最初にそれっぽいものを渡したい気持ちがあったのも事実だけど
……
本当に渡したいものは他にあるしね」
しばらく、カップを洗う音が響いて、やがて止んだ。上背のある男の頭部にくっついた垂れ耳と、やけに大きな尻尾をぼんやりと眺めていたら、カップを拭いて戸棚にしまい終えた男がデスクを振り返る。
「それに、俺の欲しいものはホワイトデーまで待たなくてもすぐに貰えちゃうものなんだけど」
「
……
? 体で支払えとかそういう?」
「そっちも欲しいけど、それとは別かな。今日はお仕事で疲れてるだろうし、ちょっとだけどお酒も入ったからもう眠いよね? だから、このあとの時間を少しだけ俺にくれないかな?」
彼の言う通り、激務を駆け抜けた体はだいぶ限界で、このまま抱かれたりしたら途中で寝落ちしかねない。それはあまりにも失礼というものだ。
ではこのあとの時間で一体何を? 全く要領を得ないのだが、とにかく頷くことにした。元々今日は仕事にケリをつけてどちらかの部屋で過ごすつもりではあったし、ちょうどいい。
「じゃあ今日は俺の部屋で、ね」
やけに爽やかな笑顔で促されて、もう一度小さく頷いた。
*
ドライヤーの音が止み、丁寧にブラシを入れられた髪がふわりと顔の横に落ちてきた。
乾かす前に丁寧に擦り込まれたヘアオイルの、上品ながらも甘い香りが漂う。ドライヤーをかけてもらうこと自体は最早慣れたものではあるものの、今日はやたらと手入れが入念だ。
多忙になるとついつい私生活を犠牲にしてしまうたちなので、常日頃あちこちからお小言を頂くのだが、テキーラと付き合いだしてからというもの、髪の艶が増しただの、肌や唇の血色が良くなっただのと褒め言葉をもらうことも増えた。
多少は健康に気を遣う気になったのか、と医療部の面々が胸を撫で下ろしているらしいと小耳に挟んだが、結局のところ全て彼の功績であって、自発的に生活改善や意識改革を行ったわけではない。彼がとにかく世話焼きで、私はお世話されているだけなのだ。あまりにも気遣いが行き届いていて、このままだといずれ一人では呼吸もできなくなるのではないかと時々思う。
――
が、やはり今日の〝お世話〟は力が入りすぎているように感じる。先程も、浴室で丁寧に丸洗いされたばかりだし、ふわふわと肌触りのよい部屋着まで着せられて、至れり尽くせりにもほどがある。更に、語りかけてくる声も髪を撫でる指先もひたすらに優しくて、激務から解放された体は半分くらい眠りに囚われつつあった。
「エルネスト
……
」
「ん?」
「
……
これが、その、君のしたかったこと?」
「そうだけど」
「そうなんだ
……
。ええと、それで君は、楽しかったりするのかな
……
こんなふうに私に、世話を焼くのが
……
」
「勿論とっても楽しいよ。ドクターは嫌?」
今度はひたひたに化粧水を含んだコットンが頬や額に押し当てられる。やけに堂に入った手付きで、本当にこの男は何でもできるな、と感心してしまった。以前さり気なく言及したら、最近になって勉強したと言っていたが、やけに飲み込みが早い。
「
……
嫌じゃない」
「だったらよかった」
もちもちにされた頬にそっと触れるばかりのキスが落とされて、すぐに離れていった。
(
……
流石に今日はこのまま就寝かな)
先程から、〝そういうこと〟を連想させる身体的接触はない。浴室で丸洗いされているときでさえそうだったのだから、おそらく今日はもう大人しく寝る流れなのだろう。仕事が片付くまで見て見ぬふりをしてきた疲労が、時間を経るごとに心身を侵食しているのを感じるので、正直寝かせてくれるのはありがたい。だが、修羅場中にあれほど甲斐甲斐しく補佐をしてくれた彼に何かしらのお返しをしたい気持ちもある。難しい問題だ。
一通りのヘアケアとスキンケアが終わったのか、器用な指先がつやつやのサラサラになった髪を撫でてくる。やたらと満足げな気配が伝わってくるので、本当に楽しかったらしい。
「
……
おしまい?」
「眠そうだね。あとちょっとだけ待って」
そう言って、テキーラが手に取ったのは、私でも見覚えのある小瓶だった。掌に収まる程度の青色のそれは、彼が普段使いしているフレグランスだったような
――
怪訝な気配に気づいたのか、テキーラがこちらを見る。穏やかな微笑を浮かべたまま、慣れた手付きで自身の手首の内側にフレグランスを吹きかける。ふわりと嗅ぎ慣れた香りが室内に漂った。
「ドクター、前にこの香り好きだって言ってくれたよね」
「確かに言ったけど
……
よく覚えてたね」
「忘れるわけないでしょ。だからさ
――
」
吹きかけた香水を手首を擦り合わせてなじませてから、テキーラは片手をこちらに差し伸べてきた。さっぱりとした香料を漂わせる手首が首筋に触れて、耳の裏側から喉元に掛けてをゆっくりと撫でられた。途端に、普段彼が身に纏っている香りが自分に移って、その事実に少々動揺した。
何故動揺したのか、自分でもわからないままに戸惑っていると、もう片方の手首も反対側の首筋に擦りつけられる。
「これで、俺と同じ匂いになったね、ドクター?」
さも当然の事実を言われただけなのに、心臓が跳ねてしまった。この奇妙な高揚感はどこからやってくるのだろう? この香りが彼に抱き締められているときの記憶を想起させるから? 彼の言動に隠し切れない独占欲の気配を感じるからだろうか。
おそらくは、そのどちらもだ。
自身の感情や欲望を後回しにしがちな男が、ふとした瞬間に覗かせる執着に、私はとても弱い。
「本当は、他にもちゃんとしたプレゼントはあるけど、それはまた今度」
身をかがめてきた男の鼻先が首筋に埋まる。
「朝まででいいから、俺だけのものでいてよ、ドクター?」
テキーラは、今さっき自らの手で念入りに香水を纏わせた耳朶の下あたりに唇を押し当てて。そっと、まるで祈りの文句のように囁いた。
【終わり】
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