よつもり
2024-02-14 12:54:57
10859文字
Public 映画・本のはなし
 

映画『首』(北野武監督作品) 感想

2024年1月9日に鑑賞。感想は数日かけて書きました。
後から読み返すと、読み解けていないな〜という部分も多々あるものの、最初の感想として、これはこの形のまま公開しておきたいと思います。

北野武監督作品『首』!!!!!!!!!!!

とっても面白く鑑賞してきました。
私の戦国知識はかなり浅く、信長、秀吉、家康……あとは辛うじて明智光秀と千利休くらいはなんとなく知っている……くらいのものでした。
この映画には他にも膨大な登場人物が出てくるのですが、それでもほぼ混乱すること無くストーリーを追うことができましたので、脚本と配役、演出が相当に巧みな映画だったのだろうなと思います。
戦国を知っている人はより楽しめたでしょう。

このタイトルにもなっている「首」って何のこと? っていうと、これは
「戦国下剋上ゲームの昇進アイテム」
のことなんですね。
このゲームのプレイヤーとして羽柴秀吉や明智光秀や荒木村重などの、それぞれ領地を持つ武将がいて、それらのトップとして織田信長が君臨しているというピラミッド構造がまずあります。
彼らプレイヤーたる武将の目的は「天下を取る」ということ。
では織田信長のもとに下っている武将たちが「天下を取る」にはどうしたらいいか。
方法はいくつかあります。

①織田信長に気に入られて後継者に指名してもらうこと
Ⅰピエロとして気に入られる
Ⅱ情人として気に入られる
Ⅲ武勲を立てて気に入られる

②織田信長を殺しその「首」を証拠として持ち帰ることで自分が正当な後継者であることを認めさせる

③信長の血縁として立場を相続される

という、①〜③という方法があります。
①はとりあえず置いておいて、②の話からしますと、
この映画は②というルールが周知されている世界での、下剋上ゲームの話なんですね。
実際の戦国時代もおよそそういう時代だったのだろうなということを思うのですが、日本史はやっぱり全然分からないので史実がどうだったかということについては今後私も勉強をしていきたいなと思うところですが
それはそうと『首』に関しては、これはあくまで史実を元にした北野武の「日本史二次創作」というような話だとは思っていて、あくまで史実を受けて北野武が想像と妄想を膨らませて盛大に脚色を加えた話であるというところは間違いないはずです。
そしてその北野武ワールド的戦国時代のあの世界では、基本的に②のルールによって「下剋上ゲーム」が行われているわけです。
「下剋上ゲーム」の目的は、下剋上を繰り返していき、最終的にそのピラミッドのトップに上り詰めて天下人となること。
先に上げた①〜③はその天下取りゲームのルールであり方法なわけです。
これらの①〜③に則った方法を取ることで、天下人になることができる。
そのゲームの中の一番派手であり一番採用される方法として②の「武将の首を取ると、その武将が持っていた領地を自分の物にすることができる」というものがあるんですね。
そしてその方法において、「首」というものは、武将を討ち取ったという証拠アイテムなわけです。
武将がただ死んだというだけではだめで、その証拠アイテムを持ち帰ることで、首となった武将を討ち取ったのは、その首を引っ提げて戻ってきた武将であるということが認められる。

だから本能寺の変の後の明智光秀は一生懸命織田信長の首を探していたし、明智軍と羽柴軍の戦の後、秀吉は首を次から次に持ってこさせて明智光秀の首を探していた。
相手に勝ったところで証拠品の「首」が無ければそれは戦果として認められないからですね。

この②という戦国ルールを内面化し成り上がろうとしたのが茂助という百姓男で、武家の出身でなくとも「首」さえ取ることができればそれは武勲として認められるというのは、どうやらこのルールの一面であるらしい様子。秀吉という農民出身の武将がいるなど、この戦国時代というものは身分が固定されておらず、運と実力があれば上り詰めることも夢ではない。夢ではないけれども、上手く立ち回ることができた秀吉と違い、ただ「首」を取ることさえできればなり上がれると盲信していた茂助の最期を思うと、話はそう簡単ではないということが分かります。

武将たちに話を戻しますと、「首」を討ち取ることができたらそれで全てが認められるのかというとそういうわけではない様子。
敵の首を討ち取ることは成果となりますが、例えば信長配下の武将たちの誰か一人が信長の首を討ち取ったとする。
ではその武将が信長の後継者として繰り上がることができるのかというと、これもまた簡単な話ではありません。
天下人になるという野望をそれぞれ抱きつつ、それでも信長に忠誠を誓うという建前をもって配下にいる人々は、誰か一人が抜け駆けで信長の首を討ち取ったとしても、その行為を「武勲」ではなく「謀反」と捉えることになります。
そして「信長様の敵」としてその謀反人を誅することで、今度はその謀反人を討ち取った武将が、信長の跡継ぎとしての正当性を得ることができる。
つまり単に「首」を持って返ってくるだけではダメで、その「首」を得て更には周囲の承認が無ければいけない。周囲の承認を得るためには「正当性」が必要であり、その両方が揃ってはじめて上に繰り上がることができる。
百姓茂助はここの構造までは見えていなかったわけですね。単に首を持って帰れば良いとだけしか思っていなかった。


☆ ☆ ☆

というふうに、映画タイトルともなっている「首」を討ち取るという②の方法はなかなかハードルが高い。ですから武将たちは何とか別の方法で信長の後継者となろうとする。
今現在天下人である信長に何らかの形で気に入ってもらえて、みんなの前で「こいつが俺の跡継ぎな」と宣言してもらえれば、話は一番早く平和です。というわけで、先程書いた①を再掲しますと

①織田信長に気に入られて後継者に指名してもらうこと
Ⅰピエロとして気に入られる
Ⅱ情人として気に入られる
Ⅲ武勲を立てて気に入られる

というような方法で信長になんとか取り入り、後継ぎとなることを目指します。
例えば羽柴秀吉なんかは農民出身であり、文字の読み書きができないなどの不得手はあるものの、信長からいじられるという「いじられキャラ」としての立ち位置としてそれなりに可愛がられています。信長からはいじられ馬鹿にされ「猿」と呼ばれわりと散々ではありますがなんせその役回りで信長に可愛がられているので信長配下の武将たちの間では一目置かれている存在です。秀吉はⅠの方法を使っていると言えます。
また、同じⅠの枠に入る人物といえば、信長の家臣である黒人の弥助でしょう。弥助は信長のことを度々信長にはわからないポルトガル語で「黄色い猿」と馬鹿にしていましたが、これは弥助の信長への人種差別や偏見というよりかは、普段から信長が弥助を「黒い猿」扱いしていることの裏返しだったのでは無かろうかと思います。秀吉は「猿」と呼ばれてもヘラヘラと受け流す立ち回りの上手さがありましたが、この作品で描かれた弥助という人物は自らが受けた侮辱はきっちりと相手に返すというピエロに収まりきらない気概を持つ人物であり、そのため本能寺の変という追い詰められた状況でとうとう信長の首を刎ね、そしてその首を持って姿をくらますという大番狂わせの担い手となります。弥助がここで首を持ち去らずに明智光秀が首を手にすることがあれば、明智には正しく信長を討ち取ったという証拠が残り、もしかすると明智が次の天下人となる展開もありえたかもしれない。

さて次に、方法のⅡとして「情人として気に入られる」というものがあります。武家社会には男色文化があり、武人たちはそういう性的であったり恋愛的関係をもってお互いに取り入ったり、駆け引きをしていたのだろうということですね。
この映画で関係が明示されているのは、まず森蘭丸と織田信長。つぎに、荒木村重と織田信長。荒木村重と明智光秀。あと、一回の視聴だけでは良く分からなかったのですが、明智光秀とその家臣にも関係があったとみていいんでしょうか。それとも荒木村重の嫉妬による思い違い?またそのうち視聴することがあればまた確認してみたいのですが。
森蘭丸と織田信長はまさに生々しく性交渉のシーンがありましたね。森蘭丸が信長の寵愛を受けていて、本能寺の変でもお慈悲として信長が蘭丸の首を落としてやった様子に私はかなり感銘を受けました。この作品における信長は狂気の人物だと思いますが、寵愛をかけていた蘭丸を苦しまずに一瞬で死なせてやるという愛情があったんだという感動ですね。同時に弥助の首も落としてやろうとしていた様子に、弥助の方はありがた迷惑だったと思いますが、このくだりに私は信長の、自分の家臣に対する愛情の在り方を見たような気がするんですよ。
この映画のタイトルの「首」ですが、首は下剋上の昇進アイテムとなると同時に、首を落とされることはお慈悲であり解放なのではないかなと私は思うところでもあります。首を巡るゲームのプレイヤーでいることはかなりハードです。一度プレイヤーとしてゲームに乗り込んだのなら、いつ自分の首が刎ねられるかわかったものではないという緊張感に晒され続けるわけです。信長配下の武将たちは、信長の首とその地位を狙うと同時に、自分たちも部下や敵から首を狙われ続けているわけですから。そのような緊張感に晒され続けている武将たちにとっては、首を刎ねられるということはゲームオーバーであり負けを意味するとともに、それは同時に解放をも意味するのではないかと思います。
そのような解放を受け入れたのが、明智光秀の最期ですね。茂吉に首をくれてやると言い、自ら首に刀を突き立てました。武士であれば切腹というお作法が無ければそれは名誉な死では無いのではと思いますが、あの最後の明智光秀はゲームを降りることを決め、自らゲームオーバーを選び取り、自らで自らの首を落としにかかったという、壮絶な最期でした。壮絶だけれども爽快感もある。自分でゲームを降りることを決めることができるのは自由なことですので。

話が逸れました。信長の寵愛を受けていた森蘭丸の話をしていましたね。
他にもⅡの方法を取って信長に取り入ろうとしていた人物がいて、それが荒木村重です。
この村重の立ち回りを考えると私は本当に可笑しい気持ちになってしまうんですよ。なんでかと言うと、この映画で描かれている村重の行動原理っておそらくⅡしか無いんですよ。
この映画の冒頭は荒木村重の謀反から始まります。信長の寵愛を受けていた村重は同時に光秀とも関係を持っていて、村重と光秀との関係を訝しんだ信長が村重の忠誠と愛を試す様に刀に刺さったまんじゅうを村重に食べさせ村重の口は血みどろに。村重はその出来事を契機におそらく「あんな狂った上司のもとでやってられっか」と反旗を翻したものの失敗。そして元の愛人であった光秀に匿われ、光秀といちゃいちゃしながら過ごしつつ、光秀が信長に抱かれるかもしれない、であったり、光秀が心変わりすることを恐れ、最期は光秀に見切りをつけられるのですがその時も光秀に別の男ができたのではないかということを叫ぶわけです。
この映画で描かれる村重という男は相当な恋愛脳なんですよね。下剋上ゲームの攻略方法の一つである恋愛というものに絡め取られてしまい、その視点しか持つことができなくなっています。恋愛関係にあれば光秀を操作することができると思っているし、光秀を繋ぎ止めることができていたと思っていた。だから光秀が村重を捨てようとしている時、村重は光秀に別の男ができたと解釈しますが、光秀の側からすれば他に男ができたかどうかは全く関係なく、下剋上ゲームにおいて一度は負けているはずなのに光秀の情愛に訴えてコソコソと生きながらえ、そのくせ光秀が信長に殺されそうになった時に生き延びるためにとっさに付いた嘘「お慕いしておりました」に嫉妬し、けちをつけ、光秀が自分のもとを離れることを恐れ、光秀を打倒信長に焚き付けることでもう一度下剋上ゲームに返り咲けると思っているのが、村重という男なわけです。
しかし光秀という男は、その最期に自分で自分の首を切り落としてゲームから離脱することができる気概のある男なので、そんな気概のある男から見たら村重は相当に情けない、首を落とすまでの価値もない男なんですね。
だから村重のことは捨てました。というお話でしょう。

ちなみにⅡの方法はあくまで一部の武士同士の趣味であり、
百姓出身の秀吉は「男色は理解できない」と言い、
徳川家康は普通に女が好きというわけです。
(家康が女を選ぶくだりは面白かったですね。後ろはて後ろ?私?!っていう。ベタで展開は読めているけれどもそれが面白い。)

☆ ☆ ☆

さてさて、もういちど①をみていきますと

①織田信長に気に入られて後継者に指名してもらうこと
Ⅰピエロとして気に入られる
Ⅱ情人として気に入られる
Ⅲ武勲を立てて気に入られる

といううちのⅡまでお話したので、次はⅢとなります。
Ⅲは正攻法というか、私達が一般的に想像する戦国武将というものはこういうものだろうというそのままのイメージですよね。このⅢを体現した登場人物がまさに西島秀俊演じる明智光秀なんですよね。
この西島秀俊じゃなくて明智光秀がとても良くってですね。なんて言ったらいいんでしょうね。明智光秀というあの人物は、そもそも信長と絶望的なまでに折り合いが悪いんですよ。
信長は村重と光秀が男色の仲だということを大体察している。そして信長は村重と男色の関係にある。そして信長はもちろん光秀を配下として可愛がっていて、光秀のことを男色的に自分のものにしたいと思っている。
一方の光秀はというと、それが嫌なんですよねえ。光秀は出世の欲をあまりガツガツと表には出しませんが、もちろん光秀にも天下人になりたいという欲はあるあったはず。ですから光秀は武勲を立てるという方法で真っ当に自分の有能を示し、信長に認められることを目指していますが、では信長はと言うと、多分信長は武勲を立てて信長に貢献するということはもはや全員に当たり前に課していることで、さらにお気に入りには武勲を立てる以外の働きを求めているわけですよ。
だから、村重は信長の情人になっているし、秀吉は猿だし、光秀のことも気に入っているからこそ信長は光秀にチューしようとするわけですね。もう自分のものなので更に自分のものにしちゃいたい。
でも光秀は信長が嫌なんですよ。あの信長の狂ったパワハラには相当うんざりしているし、頭おかしいんじゃないかときっと思っていると思います。信長に触られたくないし、多分生理的に合わないと思っている。自分は武勲を立てたいのに体の関係を求められるああ嫌だ。
というのが光秀ですが、では彼は男と寝るのが嫌なのかと言うと、村重との仲があるので、そういうわけでもないんですよね。あくまで信長と絶望的に折り合いが悪いだけなんですよ。
信長が家臣たちに無茶振りをしたりすると、すぐに光秀が割って入るじゃないですか。あれは光秀に正義感があるとか、そういうことではなくて、光秀は信長と絶望的に折り合いが悪いから、信長の言動一つ一つに気が立ってついつい訂正を入れたくなるのだろうなあということを思うわけです。
でも信長にしてみれば、自分がお館様で自分がルールなのに、光秀はなんだか不満げで、納得がいっていない様子で、表向きは「真面目にお仕えします」みたいな表情をしているのに、わりとすぐに信長の言動に「ゲー」みたいな反応するので……きっと信長はかわいがりたくなっちゃうんですよね。征服したくなるというか、分からせてやりたいと思うんじゃないかなと思います。
そういう風に、真面目は真面目ですが、真面目というよりかは立ち回りが下手で、その潔癖さで突き進んでいってしまったのが光秀という人なんだと思います。そうですね、「潔癖」という言葉がこの映画の光秀には似合います。

というわけで、あの手この手で何とか信長に気に入られようとする家臣たちと、自分の跡目を餌に家臣たちをこき使い働かせようとするという関係の信長とその配下たちですが、信長は自分の跡目を実際、自分の子供に継がせようとしていたということが作中判明します。
(その判明の仕方のくだりは……よくわからなかったな。あれは魔術的なものが使われたということでいいのかな?)

というわけで、
③信長の血縁として立場を相続される

という方法もありますが、これはそもそも親子関係や血縁関係に無ければいけないので、それ以外の人は入り込む余地がありません。というわけでここではさらっと触れるに留めておきます。徳川幕府の時代になると後継ぎは血縁から、というこの方法を取るようになりますよね。これは権力が安定した時代でなければ成立しませんね。

☆ ☆ ☆

というわけで「戦国下剋上ゲーム」というものがあって、プレイヤーたる武将たちはそのゲームのルールで定められている方法の何れかを選択し、そのゲームをなんとか勝ち上がっていこうとする、というのがこの『首』という物語の基本構造だと私は思います。
ゲームとか、ルールという言葉を使っていますが、これはあくまで比喩になります。ルールブックがあって、明文化されていて、審判がいて、というゲームのことではありません。
その時代であったり、その世界を生きている人々もしくはその人々のうちの一部にだけ共有される通念とでも言いましょうか。物事を動かしていく時に、ある程度「この場合はこうする・こうなる」という動き方や判断についての共通の了解が取れていて、その解釈も同程度に共有されているという状態のことです。
この北野武が描いている戦国時代というものは、まだ日本の領土が細かく分割されていて、それぞれの土地に一国一城の主がおり、一国一城の主同士が、更に領土を広げいつかは全てを手に入れるという野心を抱いている。
(もしくはその様に野心を抱く者が一定数いるため、自国を防衛するためにやむを得ず、防衛としての観点から領土を広げていくことを考えざるを得ない。)
そしてその領土を広げた先に天下統一というものがある。天下統一を目指し天下取りに参加する人々の中では、その天下を取る方法としていくつかの方法があることが、言葉にされずとも周知されている。
その周知された方法に則り、人々は動いている。
という状態が、とてもゲーム的なんですよね。

私がこの映画で面白いなと思ったところは、この「戦国下剋上ゲーム」の中で多くの武将たちを従え、同時に武将たちから首を狙われている信長について、彼はかなりの狂人として描かれていた人物だと思っていますが、彼もまたこの戦国下剋上ゲームのルールから逃れられないどころか、彼が一番ルールにがんじがらめにされている人物だというところだと思うんですね。
暴力パワハラセクハラのオンパレードのやばいやつではあるんですが、彼がその様に高圧的に暴力的に振る舞うというのは、「戦国下剋上ゲーム」で首位の位置について、それ以上目指す上がいないための振る舞いなのではないかなということを思ったわけです。
「戦国下剋上ゲーム」のトップに躍り出た者の振る舞いとして、信長は正しくそれを行っていると私は思います。「戦国下剋上」とはそういう世界です。
信長はどういう人物かというと、私は「狂人」という言葉をあてはめたいかなと思うのですが、ただしそれは「戦国下剋上ゲーム」というゲームに最適化しているゆえにそのように成った、という形なのかなと思うわけです。
というか、最適化しているからゲームを順調に進めて首位に立つことができた、とも言えるのかな。
彼の狂いっぷりが生来のものなのか、それとも演技であるのかはわかりませんが、私はどちらにせよ、信長の立ちふるまいというものはこのゲームの行き着く果てであり、このゲームそのものを体現しているようにも思えたんですね。
そして、首位である彼がゲームをとことん内面化して、そのゲームを体現すること「しか」できないということが、彼の限界を示しているようにも思えました。信長は戦国下剋上ゲームに最適化し、囚われ、そのものと化しているがゆえに、次のゲームの創始者にはなれないんですよ。

そんな「戦国下剋上ゲーム」の寵児・信長と対比されている人物がやがて天下人となる人である家康であると私は思うんですね。
そしてその対比の象徴として、「男色趣味」と「醜女好き」という要素が立ち上がってくるのではないかなと私は思うわけです。

この『首』の時代は「戦国下剋上ゲーム」が行われていますが、このゲームというものはルールブックも審判も存在せず、ざっくり言ってしまえば「なんとなく」「雰囲気で」ゲームが運用されているわけです。
そしてルールブックも審判もいないゲームですので、そのルールというもの時と場合によって変化したり、時にはいつの間にかルールが変わっているなんてこともありえます。
もっと平たく言ってしまえば、時代が変われば価値観も変わる、というやつですね。この「戦国下剋上ゲーム」はいつまでも続く終わりなきゲームというわけではなくて、時代の変遷とともにいつかは次のルールに置き換わり、新たなゲームが始まることになる。
そんな次の時代のルールを作り出すであろう人物として描写されていたのが家康であると、私は思います。史実としてもそうなることは確定ですが、この映画のキャラクターの描写としても、そこは意図して描かれていたのではないでしょうか。

信長は家康を敵視しあれこれの方法で家康を殺害しようとしますが、家康は常に飄々と目くらましをしその場を乗り切り、ときには影武者を何人もとっかえひっかえして消費し生きながらえ、足軽の格好をしてみたりなどしながら暗殺を乗り切り、とにかく逃げに逃げに逃げる様子が描かれているわけです。
信長からは敵視されていますが、信長と表立って対立することはなく、とにかく逃げに逃げに逃げている内に、他の信長配下が動きを見せていき、信長は本能寺によって討たれ……と家康に都合の良いように状況が変化していく。
それまでの「戦国下剋上ゲーム」であれば、ただ逃げ続けるだけの家康というものはもしかすると勝ちに近付く事ができなかったプレイヤーかもしれませんが、この信長の時代、「戦国下剋上ゲーム」が爛熟し切っており、信長というゲームを体現する者がトップに君臨しているという状況自体が、そのゲームのマンネリと終焉を予感させているわけです。

この映画では「男色」という要素が描かれていますが、これは「戦国下剋上ゲーム」で上に行くための方法であると同時にその「男色」があるか否かで「戦国下剋上ゲーム」をどれくらい内面化しているかということが測れるようにできていたように思います。
例えば信長は蘭丸も抱くし村重も抱くし、光秀のことも抱きたいという、男色オールオッケーな人物。
そしてその信長の配下であり、冒頭で「男色は分からない」と零していた秀吉は、信長の後を引き継ぐことになることは史実として皆が知っていることであり、
そしてやがて徳川幕府を開くことになる家康の性事情に関しては、この映画でははっきりと「醜女好き」ということが描かれているわけです。家康は女が好きで、しかも女好きの中でも特殊な部類の趣味嗜好なわけです。

男色好きな信長から、
男色は理解できないという秀吉、
そして醜女が好きな家康。

という、男色への理解があるかどうか、男色を内面化しているかどうかということがそのまま「戦国下剋上ゲーム」の内面化の程度を示しているのではないでしょうか。
男色を良しとされる価値観の時代は終わりゆき、やがて家康の天下がやって来るわけです。

(実際のところ、江戸時代において男色ってどういう扱いだったのでしょうね。この映画では男色というものが戦国時代を象徴する趣味として扱われていますが。そのうち調べてみます。男色とか衆道の文化については勉強しようと思えば、きちんとまとまった本が多そうですね。)

という、「戦国下剋上ゲーム」を上り詰めた果ての信長という存在と、次のゲームの創設を予感させる家康という、この二人の対比によって、時代の移り変わりというものが表現されているところが、私は『首』の本当に面白いところだなあと思うわけです。

その様に思えば、光秀という人物は彼もまた男色を内面化している人物として描かれているために、そもそも勝ちに行くことはかなわないということが最初から決定している人物なんですね。というか、史実としてそうであるからということではなく、キャラクターの描写として、男色という属性を光秀に付与しているということで、彼もまた「戦国下剋上ゲーム」に囚われて逃れられないプレイヤーであることを暗示しているというか。
だから光秀は最後、自分の首を落としたんですよね。また光秀の最期の話に戻りますが。「男色=戦国下剋上ゲームの内面化」であるとするならば、光秀も男色を嗜んでいることが明らかにされているので、彼も相当に強くゲームを内面化しているということがわかります。その描写の程度を考えると、もしかすると光秀は信長と同程度にそのゲームの強者として描かれていたかもしれません。そして彼が相当に強くゲームを内面化しているからこそ、そのゲームの重要アイテムが「首」であることも理解しているし、だから最後は自ら「首」となりそのゲームに殉じたとも捉えることができます。

戦国時代の頂点だった信長が討たれ、次点としての光秀も文字通り首になり、秀吉に渡った権力はやがて家康に渡るだろうと。そのように大河的な時代の移り変わりを表現しつつ、そういう移り変わりを感動的に情緒的に描くのではなくて、男色という趣味であったり、首という生々しいアイテムであったり、所々に挟まれるたけしのコントであったり、そういういくらか引いた視線で、面白おかしく描こうとしている感じが、私はとても好きでした。感動的であったり情緒的なのが好きな方もいらっしゃると思いますが、私はこの映画くらい身も蓋も無い方が好きですね。

というのが私の『首』の感想の大枠となります。
まだ語りきれていない話題がぽろぽろとありますので、それはまた思いついたときに書いていきたいと思います。
一回の鑑賞では拾えていない描写や解釈があると思いますし、私の解釈も今後変わっていくこともあると思いますが、ひとまずは、初見の感想としてはこのような形となります。
とても面白い映画でしたね

おしまい。