【しあわせの川】

シナリオネタバレなし

ミロクジとサクタの雑談

「サクタさんは、ヘラクレイトスの川って知ってる?」


目の前でそう問いかけたのは、オレンジ髪の男。メイクアップアーティストを職業とする彼は、常に愉悦の先を探している。飲んでいたコーヒーから口を離して、彼を見やる。カフェの一角で男は、ミロクジはニコリと笑う。

仕事で知り合ったオレに、何かと絡んでくるようになったのは数ヶ月前のこと。サクタ ヒロというありふれた男のどこが気に入ったのか、知らないし分からない。しかしオレは、彼のことが正直苦手であった。こうして茶会に誘われても、理由を付けて断りたいと思う程度には。


「同一性に関する話だったと思うが」

「そうそう! 『同じ川に二度足を踏み入れる者はいない。その川は同じ川ではなく、その者は同じ者ではない』ってやつ!」

……で?」

「いやァ、とっても素敵な話だなと思ってサ!」


大げさに笑いながら、彼はクッキーを一つ摘み上げて頬張る。味わってから飲み下して、また愉快そうに広角を上げる。青い瞳は友人のものと似た、しかし致命的に違う色を宿す。


「その理論が真実なら、今この瞬間に存在してるオレたちも唯一のモノだ。過去のオレも、未来のオレも、それらの真髄はオレではない。ただ連続している事象ってだけの別物ってことになる。
オレたちの道にはあらゆるオレたちの死骸があるんだぜ」


唐突に出された『死骸』なんて不吉な単語に、一瞬身体が硬直する。ミロクジは気にした様子もなく、またクッキーを一枚口に放り込む。こんな穏やかな店内でそんな不謹慎なことを言わないで欲しいと、オレは頭を抱えたくなる。


死骸ってのは、随分な物言いだろ」

「間違ってないだろ?」

「それがどう素敵な話になるんだ」

「今だってそいつらは、断末魔も遺言も無く死んでいる。そいつらが重なって、オレたちは生きている。これを素敵と言わずになんと言うってんだ!」

「そうか。オレにはあまり理解できない話だな」


ミロクジはこのように、一般とは感性が離れている。本人は自覚した上で語るのだから、非常に厄介である。こういった話は気に入った相手にのみするのだと以前告げられたが、あまり嬉しいとは思わない。彼に気に入られていない幸運な同僚たちは、彼を明るい青年だと思っているらしいが。


「この先の世界はどんな死に顔をするんだろうな!」


パッと顔を明るくさせた彼は、心の底から世界の終末を望んでいる様に見える。世界の死に顔なんて、オレは見たいと思わない。その前にオレに終末が来てほしい、死ぬのなら穏やかに死にたい。

そんなフザけた思考を飲み込むように、再びコーヒーに口をつける。彼の言葉のせいか、いつもより苦いコーヒーが口内に広がった。