【ミスルチ】湖に放つ

不思議な鱗をミスラから貰ったルチルが、涸れて怪物が出るようになった南の国の湖にミスラと共に依頼で行くミスルチのお話です。

 ミスラさんの部屋でセックスをして、疲れて少しだけうたた寝をして、そしてやっぱり眠れなかったミスラさんの目元をくすぐって、私は薄く開いた唇にキスをした。ミスラさんは拒まなかった。それどころかまだ服を着ていないたくましい身体で私を抱きしめて、「ルチル」と、名前を呼んでくれた。私は「ミスラさん」って返して、くたびれた腕でミスラさんを抱きしめ返した。
 ミスラさんと『こういうこと』をするようになって、もう数週間が過ぎた。最初こそ身体がおかしくなるくらい痛くて、つらくて、苦しかったけれど(それでも幸福だったけれど)、今じゃあ快感を勝手に拾うようになって、私はミスラさんに溺れている。ミスラさんは自分勝手だけれど、注意深く触れればこれほど優しい人はいないように思えるくらいで、私はだから、ミスラさんのことが大好きだった。二人の関係は誰にも言っていない秘密だったけれど、私は心からミスラさんを愛していた。愛しているからこそ、ミスラさんを傷つける何かに立ち向かえないのがつらかったけど、自分を守ることがミスラさんを守ることなのだと思うと、どうにか耐えられた。
 ミスラさんは母様と約束をしていて、そこには私も含まれていて、私が馬鹿をやると、南の国の魔法使いらしいことをすると(例えば自己犠牲ってやつとか)、ミスラさんは力を失ってしまう。だから私がみんなの役に立たないのは、仕方がないことなのだった。
 大切な人を守るためなら、道化役でも構わないって思うのは傲慢だろうか。何も考えていない、ただ優しいばかりで楽天的な南の国の魔法使いでいることは、私の愛する人を救うのだけれど、他の誰かを救いはしなかった。あぁ、やっぱり私は傲慢だな。そして傲慢な私を、ミスラさんは守ってくれるんだな。
 そう、時折賢者様が私に危険な依頼を割り振っても、ミスラさんがやって来て横取りしたし、私はそれに逆らわなかった。でも、それって、賢者の魔法使いとしてどうなんだろう。そう思わないでもなかったけれど、でもやっぱり、ミスラさんが魔力を失って傷つくところを見たくはなかった。だから大勢の民が苦しんでいても、私はどこか傍観者でいた気がする。それに前に出て戦って怪我を負うことはあっても、無意識に命は落とさないように振る舞っていた。私なんて死ねばいいのにと思うくらいつらい依頼が来ても、結局、私は生き延びるのだった。
 
 
 ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。
 雨音で目が覚めたのは、午前五時過ぎ。ミスラさんは服を着て呪具の手入れをしていて、私はまだ裸のままミスラさんのベッドにいた。慌てて服を着て「おはようございます」って言うと、ミスラさんは羨ましそうに「よく寝てましたよ」と言った。
 ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。
 雨の音は続く。でも、窓を開けてもそこには雨雲はなくて、その音は、ミスラさんの呪具が並ぶ棚から聞こえていることに私は気づいた。裸足のままそこに近づくと、小さな小瓶が水で満たされ、欠けたコルクの間から水が漏れているのが分かった。その瓶の中には大きな、ドラゴンのものみたいな鱗が入っていて、それはきらきらと光って、薄暗い部屋の隅を照らしていた。
「あぁ、それが溢れ出す頃合いですか」
 じっと小瓶を見つめる私に、ミスラさんはめんどくさそうに言った。私はどういう意味か分からず首を傾げたけれど、ミスラさんは静かに私に近寄ってくる。そうして呪文を唱えて、小瓶の中から水を消してしまった。
「それも何かの呪いのための道具なんですか?」
 綺麗なのに、呪いのための道具なんですか?
 私はそう尋ねて、馬鹿を言ったな、と思った。美しい花には毒があるように、美しい生物は毒を持つ。本当にそれがドラゴンのものだったのなら、フウィルリンが持っていたものに近いならば、毒があっても不思議じゃない。
「チレッタに押し付けられたものですよ。あの人、自分が依頼を受けておいて、南の国に旅立つ時、俺に放り投げて行ったんです」
「えっ、じゃあ二十年以上依頼が放ったらかしなんですか?」
「そうなりますね」
「どんな依頼なんですか?」
「この鱗を管理していた人間の家系最後の老人が、もう手に負えない、苦しいから慰めてやってくださいとチレッタに頼みに来たんですよ。雨季にはこうやって水が溜まる、ただそれだけの鱗なんですけれどね」
 なんだ、ちゃんと管理しているじゃないかって私は思って、でもどうしてその鱗は水を溜めるのだろうとまた思った。不思議な鱗だなって、興味を持ったと言ってもいい。
「ミスラさん、これって危険な鱗ですか?」
「いいえ、ただ水をこぼす鱗なだけです。水の恵を気まぐれにもたらす、そんな鱗ですよ。危険なものじゃありません」
……じゃあ、私が持っていてもいいですか? 母様が関わっていたものを、ちょっと見ていたくて」
「いいですよ。ただの鱗ですから」
 ミスラさんはそう言って、再び呪具の手入れに戻った。私は小瓶に入った鱗を抱きしめ、母様、とつぶやいた。
 
 
「呪われた湖ですか?」
「はい、魑魅魍魎が跋扈する、危険な湖が南の国にあるそうです」
 賢者様は真剣な顔をしてスパゲティをすすり、私にそう言った。側には消し炭を食べているミスラさんと、それを複雑な表情で見て配膳してゆくネロさんがいて、私はどうかお皿まで食べないでくださいよ、と思ってから、こう賢者様に返した。
「そんなこと、聞いたこともないんですけど……
「涸れかけの湖らしくて、昔はティコ湖に並ぶくらい美しいと言われた場所らしいんですけど、今じゃあ荒れ果てて、大変なことになっているらしくて。連続しますが、またルチルに頼みたいんです。土地勘がある人が良くて」
「それはガルダ湖ですね。枯れそうなんですか。知らなかったな」
 不意にミスラさんが会話に入って言った。さすが長く生きているだけ、私より詳しい。もしかしたら母様が、話して聞かせたのかもしれないけれど。
「そうだ、ミスラも一緒に行けば安心ですね! ルチル一人じゃちょっと心配なのでお願い出来ませんか?」
 ちくり。
 きりきりと胸が痛む。賢者様は私がすごく弱い魔法使いだと思っていて、それは事実なんだけれど、やっぱりちょっとショックだった。私だって選ばれた魔法使いなんです、困っている人々を助けたいんです。でも、力が弱いのは事実だから、こういう危ない依頼には必ず誰かと組むことになっているだけで。
「別にいいですよ。魑魅魍魎がいても、殺せばいいだけです」
 ミスラさんはそう言って、お皿まで食べようとした。私はそれを止めて、「分かりました」って賢者様に返した。
「それじゃあ食事が終わったら出発しましょう。ネロさん、ミスラさんにおかわりをください」
 こうやって、私は一つの依頼を受けることとなった。魑魅魍魎が跋扈する危険な湖に、私の故郷にあるという、その湖に行くことになった。ガルダ湖とは聞いたことがないから、私の知らない、開拓地じゃない地方のものだろうか? でも全てはミスラさんが知っているから、私がどうこうする問題でもなかった。今回もまた、私は自分の身を守ることばかり考えなきゃいけない。少し悔しかったけれど、それは愛しいミスラさんを守ることでもあったから。
 その時、私のポケットからぴちゃん、って音が鳴った。そうだ、まだ部屋に置いていなかったんだって、ミスラさんから預かった瓶を部屋に置いて来なかったんだって思い出して、でも水はどれだけ溜まったろうかと考えた。綺麗な鱗から流れ出す水。賢者様にも見せたかったけれど、彼女は忙しそうに次の依頼を他の魔法使いたちに割り振りに行って、忙しなさげだったから私は一人ポケットから取り出した瓶を見つめた。
 水はもう半分ほど溜まっていた。
 
 
「こんなに綺麗なところなのに、呪われているんですか?」
 食事を終えた後すぐに、ミスラさんの魔法でガルダ湖と呼ばれる、底が見えかかっているどこか寂しげな場所に行った時の私の感想は、そんなものだった。ただ、湖の周りには土産物屋の廃屋や、くたびれた旅館などがあって、渡し船は底が破れて半分涸れかけの湖に沈んでいた。
「魑魅魍魎が跋扈するらしいですけどね、何もいませんね。帰りますか?」
「いいえ、もうちょっとここで過ごしましょう。綺麗ですし、ネロさんが持たせてくれたバスケットもあります。ピクニックでもしましょうよ」
「あなた、本当にチレッタによく似て能天気なところがありますね。怪物が出てきたらどうするんです?」
 ちくり、ぴちゃん。
 ——私を閉じ込めるのはだあれ? チレッタじゃないわね、ミスラでもないわね?
 私はまたちょっと傷ついて、なぜかポケットに入れたままの瓶の音と、女の人の声を聞いた。でもミスラさんは聞こえなかったのか、ぼんやりと綺麗な湖を見ている。私はバスケットを草むらに置いて、ポケットから小瓶を取り出す。するとそれはもう溢れそうなくらい水が溜まっていて、どこから漏れたのか表面が濡れてつるつるとしているから、私は危うく落としそうになった。するとどういう仕組みなのかコルクが開いて、水が水溜まりのような湖に向かって垂れてゆく。それは長い道となって、一瞬のうちに草むらを薄く水浸しにしてしまった。小瓶の中の鱗はきらきらと輝いている。瓶を取り落としそうになったので、私は仕方なく、その鱗をつまんで日にかざす。
「あ、それ、悪いものじゃないけれど、この湖とは相性が悪いみたいですね。ほら、怪物が出てきました。それに、何か女の気配もする」
「え?」
「あ、ルチル。半分ヘビ、半分恐竜のような怪物がたくさんこっちに向かって来ますよ」
「えええ?」
「大丈夫ですよ、俺が全部倒しますから」
 そう言って、ミスラさんは言葉通り全部倒してしまった。でも化け物を倒しても、私がつまんだ鱗からは水が溢れ出続けて、草むらは湖に変わった。
「ルチル、鱗を湖に捨てて」
「えっ、でも母様が残したものですよ」
「チレッタは詳しくは言いませんでしたが、その鱗を守る家系の者は、涸れた湖の近くに住んでいたそうです。このガルダ湖と同じ、涸れた、ね」
「どういうことですか?」
「水路を作って移動する精霊なんでしょう、その鱗は。北の国の湖が失われたのは気に食わないですが、次に選んだのが南の国の湖っていうのも、チレッタに来た依頼らしくていい」
 ——見つけた、新しい住処。早く道を作らなきゃ。
 私がつまんだ鱗が言う。これはミスラさんにも聞こえたのか、どんどん溢れ出る水は草むらを水浸しにして、私たちの膝あたりまで湖は広がってゆく。
「ほら、湖に放ってやってください。チレッタが北の国で受けた最後の依頼を他でもない息子のあなたが成就させるんです」
 そう言われて、私は思い切って鱗を湖に向かって投げた。きらきらと光る鱗は放物線を描いて、ぽちゃん、と湖に落ちる。私たちは急いで箒を出して湖から離れ、あ、ネロさんから預かったバスケットが湖の底に、と思った時にはすでに遅かった。ガルダ湖は大きく広がり、土産物屋の廃屋近くにまで草原を満たす。それは一瞬のことで、これが強い精霊のみわざか、と私は思った。
「チレッタならこれが精霊のものだって分かってたでしょうに、どうして放っておいたんでしょうね」
「さぁ、母様はちょっと気まぐれなところがありましたから」
「知ってます。あなたに少し似てる。鋭いところとか。……あなたは囁かれたんですよ、あの鱗の精霊に。そしてあなたは選び取った。これでもまだ、自分が無能だと思いますか?」
「え?」
「あなたが悩んでることくらい、この俺なんですから分かってますよ。強い俺に守られるのが嫌なんでしょう。そういうところもチレッタに似ています。人に頼りたがらないところとかね。でも、あなたは十分強いですよ。俺には当然負けますけどね。でもまぁ、手に負えない時もありますが」
 ミスラさんは濃いくまが浮かぶ目元を緩めて珍しく笑って、湖の上をゆったりと箒で回った。私はそれをぼんやり見て、その美しい光景を目に焼き付けた。彼が持っていた、優しさとともに。
 討伐された怪物、蘇った湖、私に語りかけて来た、水路を作る鱗の精霊。正体は分からないままだが、多分あの鱗は、北の国の湖の主人のものだったのだろう。何らかの理由で湖を涸らし、新天地を南の国に求めた。それは母様のようで、私はなぜか湖から目が離せなかった。もちろん、珍しく優しさを見せたミスラさんからも。
 私は湖ぎりぎりを飛んで、水面に手のひらを浸す。それはまだ冷たかったが、美しい草原が沈む水底には、きらきらと泳ぐ魚たちが見えた。多分、あれが鱗の正体なのだろう。
「ルチル、行きますよ」
「あ、はい。依頼、終わりましたもんね」
 ミスラさんが呪文を唱える。私たちは魔法舎に戻る。
 ミスラさんのあの言葉は本意なんだろうか? 私は十分に強いって、あれは本当のことなんだろうか? 私は誰かを守れるんだろうか? ミスラさんの助けなしに?
「ルチル」
「はい、今行きます」
 切り取られた空間の中に、私は箒で入る。
 私が湖に放った鱗は、いつまでここを満たすのだろうか?
 私はいつまで、ミスラさんを愛するのだろうか? ミスラさんは、いつまで私を愛するのだろうか? タイムリミットはいつ来るのだろうか?
 いや、今は考えるのはよそう。考えたって、いいアイディアは浮かばない。今はただ、湖を作る精霊の力を感じ、ミスラさんの言葉を覚えていよう。私のくだらない悩みを見抜いていた、愛しい人のことだけを考えていよう。