いを
2024-02-12 20:44:22
2179文字
Public 刀神
 

海鳴りにあずけておいて

スミのこと。
・雪月さん【higasa_onink】
お借りしています。

 目を伏せると、海鳴りが聞こえてきた。
 まるでオルゴールのような音だ。キリキリとぜんまいを回すと、軋んだ音をたてて流れる音。
 ギヤが軋む音が止むと同時に、瞼を上げた。
 庭の古木がそのギヤの音と同じように軋む。風が強いのだろうか。
 机の上に置かれたノートが、ぱらぱらとめくれる。硝子窓の隙間から風が吹き込んできているようだった。
 腰を上げて、硝子戸に手をふれる。
 隙間はこれからずっと開いたままだと分かっているから、それ以上窓には触れなかった。
 兄の部屋はここから百歩ほど歩いたところにある。兄嫁の部屋はそのとなり。甥と姪はまだ兄嫁の部屋で寝ているらしいが、そのうちそれぞれ部屋をあてがわれるのだろう。ふたりの顔はもう覚えていない。産まれてから数回しか会ったことがない。兄嫁がスミと自分の子どもを会わせるのが嫌、らしい。まるで身体に染みこんだ血のにおいを避けているようだと思った。
 家の中ですれ違った兄嫁は、きつい顔だちを余計鋭くして、スミをまるでいないもののように扱った。
 兄もスミを見ることを厭うようだった。兄の目がスミを貶すように見ていることはもう知っている。
 けれど、もうどうも思わない。
 裏口から庭に出た。
 湿ったにおいがする。もう少しで雨が降るかもしれない。
 サンダルをつっかけて、佇む。鈍色の雲は、あいかわらず重たげだ。
 髪の毛の重さで、首筋が痛い。手のひらで首をさすっても痛みはひかなかった。
 これがなければ、任務でももっと軽やかに走れるのかもしれない。そう考えても、伸ばし始めて一度も鋏をいれたことがなかった。整えはしても。
 すう、と息を吸う。ゆっくりと吐いてから、庭を出た。
 道沿いには木々が生い茂っている。これ見よがしに大きな竹垣が長く長く、連なっていた。
 舗装された道路を歩く。そういえばなんのために外に出たんだっけ、と思ったが答えは出なかった。
 頭の中に今の色のような雲がかかっているようで、地面を見下ろした。
 裸足に、色が剥げかけた古いサンダル。
……これ、俺のじゃない」
 ぼそりと呟いてから、そういえばこのサンダルは自分のものではないと気づく。
 ふいに、無意識に持ってきたスマートフォンがけたたましい音をたてて鳴った。
 登録していない番号だということは大方、任務だろう。
「はい」
 と、いつものトーンで呟く。
 平坦な声なら、会話は続かないだろう。相手もスミと似たような声で事務的に伝えてくる。
 危険な刀神が見つかったらしい。
 刃佩流はその刀神を斬ることを選んだようだった。
 それならスミがなにかを言うことはない。
 ――お前に発言権はない。
 兄がそう言うのだから当たり前だ。たとえ壱段であろうと、スミにその資格がなければ仕方がない。諦めるのは慣れている。

 だが、おおよそ二十年近く続けている縁があった。
 巌那家との縁だ。
 長女、雪月との縁談をすすめたのは互いの両親だが、彼女に秘めているものがあることは知っている。
 秘めている、のだから、スミが口を出すことはおそらくないだろう。
 ――家を潰したいのか、と問うと、あなたに話す筋合いはない、と斬りつけるように雪月は答えた。
 それもそうだ、と思った。当時まだ顔見知り程度の関係で、彼女の奥底にある本心を覗くことなど烏滸がましい。
 忘れてはならない。
 こちらが「下」なのだということを。
 どんなことをされても、どんなことを言われても耐えなければならないと、常々言ってきた両親は兄が婚約すると、スミのことを忘れたいように感じているようだった。
 そういう、においがした。
 けれど雪月はスミに横暴な態度は見せず、彼女が言うことはほとんど間違いがなく、そして正しいことだった。
 スミに「つらい」「悲しい」「苦しい」という感情はない。
 だから、なにを言われてもつらくもないし、悲しくもないし、苦しくもない。
 ただ、どうして、なんのために自分はここにいるのだろうと思う。
 きっと雪月は、このような浅はかな本心は知っているだろうし、もしかすると――苛立たせていることもあるのかもしれない。
 言うべきことは言うが、そこに「本当」があるのだろうか。
 これが、自分の本心とはたして言えるのだろうか。
 それでも雪月と話をしていると、まるで自分があるように思えた。

 せめて俺が人間らしくあれたら、違っただろうか。
「雪月」
 人を、神を斬った手。
 お互いさまだ。
 お前も俺も、人を斬り、神を斬った。
 きっと人間がいうところの天国なんていう場所にはいけないだろう。
 それでもお前と地獄を歩く覚悟くらいはできている。
「ひどい顔」
 オフィスの中で、ほのかな照明で照らされた彼女は笑った。
「眠れなかったの」
 と、すべて知ったように問う。頷きかけたが、一度だけかぶりを振った。
「今日は任務だから」
 ひと言だけ話すと、雪月は「そう」と軽く肩をすくめる。
「ヘマはしない」
 死んだら阿弖の家が喜ぶだけだから。それがスミの、ささやかな反抗だった。
「ヘマをされたら困るわ」
「だから、生きて帰る。お前も」
「そうね」
 そう頷いた雪月のとなりに立ち、すこし下にある細いおとがいを横目で見下ろした。