らい
2024-02-12 11:59:38
4376文字
Public みどゆづ
 

ミロのヴィーナス

みどゆづ♀(弓弦女体化注意)/2020.6.13


 学院から帰っても、八百屋の仕事が待っている。
 そんな放課後の帰り道は、豪雨でぬかるんだ泥のごとく足が進まないというのに、最近では、さほど苦ではなくなっていた。どんよりと曇っていた心は、すっきりと晴れやかである。歩道のアスファルトを踏みしめる足は軽く、まるでスニーカーに羽でも生えているかのようだった。


それでわたくし、心を鬼にして坊ちゃまを叱りました。夜更かしした挙句、お菓子を食べながら、女性比率が多めの漫画を読むなど言語道断。すぐに取り上げて、力ずくで寝かしつけた次第でございます」


 切れ長の瞳をきゅっと吊りあげ、弓弦が呆れたように溜め息をつく。白い肌に映える泣きぼくろは艶やかで、美術館に飾られている一級品さながらの輝きを放っていた。
 さすがは数多の名作を世に送り出している『画伯』である。
 本人の存在自体が生ける芸術品なのだから、その指先で描かれる絵が神々しい光を帯びているのも、当然といえるのかもしれない。


「まったく、手の掛かる主人でございますね」


 弓弦は、呆れ顔で短い息を吐く。ゆがんだ眉の均整をとるように、口角が引き締まる。いかなる表情を浮かべていても美しい横顔に、翠はくぎづけだった。
 翠が柄にもなく浮かれている理由は、ただひとつである。今この瞬間、憧れの画伯にして芸術の女神(と呼ぶと、彼女は謙遜するのだけれど)、伏見弓弦と帰路を共にしているのだ。
 尊敬の二文字がいくつあっても足りないどころか、となりに並ぶことさえもおこがましく感じるほどに崇めている女神さま。
 これほどの『しあわせ』を感じる放課後は、果たして存在するのだろうか。意味もなく自問自答しながら、あふれんばかりの幸福に満たされてしまう。少なくとも『八百屋の手伝い』という、どうにも気乗りしない仕事がかすんで見える程度には。


 イブイブライブで出会ってから、積極的にアプローチを続けてきたおかげで───弓弦との距離は、ぐっと縮まっている。サインは未だに許してもらえないので悔しさはあるが、それでも時折、実家の八百屋を手伝ってくれるようになった。
 普段の彼女はたいてい姫宮家の坊ちゃまに付きっきりなので、本当に『たまに』の頻度ではあるのだけれど───本日の桃李は、1年B組の生徒たちとカラオケに出かけるようで、満を持して『伏見先輩の八百屋デー』が巡ってきたというわけである。流星隊の仙石忍から情報がまわってきて、すぐさま声を掛けたかいがあった。深海奏汰の言葉を借りるとするならば、今の気持ちはそれはもう『ごきげん』である。
 『憧れ』が傍にあるだけで、己の人生に偉大な効果をもたらす。ゆううつな道のりさえも晴れ渡って映るのだから、まったく不思議なものだった。


「坊ちゃまが読んでいた漫画の出所は、恐らく衣更様でしょう。今度お会いしたら、きつく物申して───と、失礼。わたくし、少々おしゃべりしすぎてしまいましたね」
えっ。いや、あの。大変?でしたね……それは」


 長いこと見とれていたので、さっぱり話を聞いていなかった。翠はハッとして、慌てて相槌を打つ。
 そうでしょう、大変なのですよ。子守というものは。
 弓弦は、困り眉でほほえんだ。もう、いけないお方、と伏せた瞼から伸びるまつげが、影をつくる。
 翠はさほど作文は得意ではなかったが、『完璧な芸術品』とは、まさに彼女を形容する言葉に違いなかった。上品で、綺麗で、優しくて、それでいて天才的な絵心に恵まれていて(なぜか鉄虎は「いや、正気スか?虫眼鏡とかでちゃんと見たほうがいいッスよ、百均にも売ってるし」と首を傾げるのだが。今度、じっくりとプレゼンせねばなるまい)、伏見画伯の存在そのものが、非の打ちどころのない作品なのだ。
 マジで無理・鬱だ死にたい・飛び降りたい。足元まっくらの五七五は、彼女といるこの時間だけ、一句も詠まれることはない。自宅までわずか数百メートルの短い道のりは、さながら聖火台に通じる希望の導きのようだった。


(伏見画伯のファンになって、よかった……!)


 明日になったらまた死にたくなってるかもしれないけど、とりあえず今は最高……!ありがとう世界……!こんにちは世界……
 まっかな風船、ピンクのあめ、まっしろな鳩、オレンジの太陽、頭いっぱいに幸福の象徴をふわり、ふわりと浮かべながら、翠は弓弦を見やった。紫の穏やかな瞳が視界に飛び込んでくる。やわらかく緩んだ眉に、つられて微笑みそうになり───とつぜん、弓弦の横顔が消えた。翠は、半歩前で立ち止まった。


「?どうしたんスか……?」


 ゆっくりと振り返ると、弓弦がぴったりと静止していることに気づく。その足元には、一匹のトイプードルがいた。愛くるしい茶色のわたあめは、短いしっぽを人懐こく振りながら、「きゃん」とはしゃいでいる。
 ああ、なんだ……。散歩ちゅうの小型犬か……
 獰猛なドーベルマンや、風格のある土佐犬だったら、さすがに驚いていたけれど。愛嬌たっぷりに跳ねるトイプードルに、危害を加える気はなさそうだ。翠はほっと胸を撫で下ろす。


「あらやだ、ごめんなさいねえ」


 初老の女性が、リードを引っ張りながら飼い犬を呼び戻す。


「あっ、はい……


 翠が後ずさると、弓弦もやや遅れて「いえ……」と返事した。
 しかし、平常どおり穏やかな笑みを携えながらも、その上品なくちびるは引きつっている。強力な接着剤でも塗りたくっているのではないかと疑ってしまうほどに。
 そして、小さな犬は離れない。弓弦の細い脚をキャンプファイヤーに見立てて、ぴょんぴょんと踊っている。
 飼い主の女性が、のんきに笑った。


「この子、女の子のことがすっごく好きなのよねえ~」
「そ、そうで、ございますか。あ、だめです、そこは、およしになって、およしになってくださいまし」
「遊んで、遊んでっておねだりしてるわぁ」
「ん、そ、それ、それは、こう、光栄で、ござい、ござひ、あっ、ございます……ひ、ひ、いい子ですから、いい子、いい子、おすわり、おすわりしなさい、まて、まてまてまてまて、まてといっているのに、あの」


 弓弦の様子が、あからさまにおかしい。
 わんわん、と犬が懐くたび、弓弦の眉は垂れ下がり、きゅっと引き結んだくちびるの輪郭が、たよりなく滲んでいく。まるで水に浸した、絵の具にまみれた筆のように。
 ばうばう。
 あらまあ。
 あの、わたくし。じつは、いぬが。
 きゃんきゃん。
 だめよ、そんなことしちゃあ。
 いぬの鳴き声、女のひとの困り顔、そのあいだに挟まれているのは、いったい誰なんだろう。翠には、なぜだかよくわからなくなっていた。
 完全無欠の美の女神さまが、どこにもいない。いま視界に映っているのは、無邪気な犬に怯えている女の子の姿である。ただただ普通の、どこにでもよくいる女の子しかいないのだ。


「ええと。……大丈夫……?」


 翠は、とっさに弓弦の手首を引っ張った。心の底から尊敬してやまない画伯が噛まれるかもか、単純に怯えているからかわいそうとか、きっと理由は山ほどあるのだけれど、少なくともこの一秒に、りっぱに着飾った理由など存在しなかった。気が付けば、無意識のうちに手が伸びていて、華奢なからだを引き寄せていたのである。
 翠がもっとも驚いたのは、弓弦がすんなりと腕のなかに収まったことだった。艶のある黒髪がなびき、やわらかな胸がぽふん、と着地する。そして──あじさい色のまなざしが、翠の瞳をつらぬいた。


「こらっ!お行儀が悪いわよ!」


 元気いっぱいのトイプードルは、「わん!」と返事する。


「ごめんなさいね」


 飼い主は軽く詫びると、茶色のかたまりをひょいと抱え上げる。そうして、もういちど頭を下げると、申し訳なさげに去っていった。
「またね」と言わんばかりにわん、わんと吠えながら、短い手足をばたつかせる犬の姿が、遠ざかっていく。


……高峯さま。申し訳ありません……わたくし、お見苦しいところを」
「え?……あ」


 翠の胸板をそっと押し返すと、弓弦は頭を下げた。
 スカートの前で組まれた指先は、寸分の狂いもなく揃っている。『いつも』の画伯だった。誰よりも上品で、綺麗で、あとは───果たして、なんだっただろうか。どくりと波を打つ脈の鼓動が、思考の邪魔をする。
 これまでの人生において、心拍数が上がる瞬間は多々あった。『やったあ、同じクラスだね』と手を取り合って喜びあう女子の後ろから眺めるクラス替え、『は~い、二人組つくって~!』と指示を出す体育教師、『俺の彼女に手を出したのはお前か?』と教室に殴りこんできた見ず知らずの先輩──しかしながら、『いままで』に感じたような脈の不快感はまるでない。胸に広がる熱の温度は、むしろ───弓弦が、ぱっと顔を上げた。


「わたくし……たいへん恥ずかしながら、犬という生き物に、苦手意識がございまして」


 弓弦は、ほんのりと染まった頬を両手で隠しながら、「失礼いたしました」と詫びる。
 なに、ええと、どういうこと?
 翠の脳内で微笑む弓弦の聖なる肖像画に、少しずつヒビが入っていく。凡人には決して手の届かない、雲の上の存在だと思っていた。けれども完璧な美と崇めていた女神さまは、自身が作り上げた偽物の芸術品だったのかもしれない。


「ですが───」


 弓弦は、伏せていたまぶたを開く。


……助けていただき、ありがとうございました。さすがは流星隊のお方、ヒーローでございますね」
「助けた、というか……なんというか……


 とくに意識するでもなく、腕が伸びた。だって、あそこにいたのは女神ではなくて、紛れもなく普通の───あれ。あれ。あれ?この気持ちは、なんだ。胸の奥が熱くなり、額の裏に花火がきらめく。翠はたまらず、手の甲で鼻をおさえた。ともすれば、顔じゅうの毛穴から汗が噴き出そうだった。
 言葉に詰まる翠をよそに、弓弦はおもむろに振り返る。下まぶたの泣きぼくろが、朝陽のごとく輝いた。


「ふふ。これからは、『助けて!流星グリーン!』とお呼びしても?」


 なんて。冗談ですよ。弓弦はふんわりと笑った。味も見た目も高級なスイーツではなくて、だれでも食べられる綿菓子のような、親しみのある甘い微笑みだった。

 いつだって完璧で、美しくて、精巧にかたどられた女神の彫刻も壊れることがあるなんて、ちっとも知らなかった。
 ときには完全な作品より、不完全な作品に魅了されることも、翠はこのとき、はじめて知った。