らい
2023-11-25 20:35:41
4061文字
Public みどゆづ
 

エンドロールはのちほど

みどゆづ ※寮に住んでません

 テレビの前に置かれたソファーに、ふたり並んで腰掛けるだけで、そこは映画館になる。薄暗がりに生える座席の手すりも、ポップコーンもなかったが、劇中の起承転結が進むにつれて、翠の背筋に色めいた振動が走るのを感じた。路地裏の水溜まりに跳ねる足音、雨夜を引き裂く銃声。序盤から続いていた怒涛の逃亡劇が終わり、濃密なキスシーンが始まる。胸の高鳴りを加速させるには、充分すぎる展開だった。
 敵の売人組織から執拗に付け狙われるヒロインの踊り子と、可憐な美しさにひとめぼれした軍人の男。海辺の廃墟に身を寄せたふたりは、束の間の安堵を喜びながら、唇で愛撫を繰り返している。はらりと落ちる布、透き通る白い肌。深く口づけては、初恋が芽生えた少年少女のように見つめあう。翠は、おもわず真横の弓弦に視線を投げた。弓弦は足を組みながら、ぴんと背筋を伸ばしている。微動だにしない横顔からは、長いまつ毛が伸びていた。
 気心の知れない者の集まりであれば、空気が凍るに違いない。しかし弓弦とは、幾度も身体を重ねた仲である。今さら接吻にどぎまぎするほど初心ではないし、むやみやたらに発情する年齢はとっくの昔に過ぎていた。洋画の人らって、すぐキスしたがる。日常会話における『あるある』の感想しか浮かばない程度には性交渉にこなれていたが、今晩はいかんせん状況が異なった。数週間ぶりに、ふたりきりのオフを満喫している最中なのだ。シャワーを済ませたら、どちらにせよセックスするつもりでいたけれど、熱烈なキスを見せつけられたことで触発されたわけである。
 雄の本能を、半ば強制的にほじくり返されている。今、キスしてもいいかな、という軽薄な心持ちになっていた。しかしながら、隣の弓弦はまじまじと映画を鑑賞しているだけだ。まるで学校の授業を受けている優等生のように、性のにおいを微塵も感じさせない。昂ぶる熱を逃しきれず、翠の視線は泳ぐばかりであった。
 リビングに設置しているテレビは、ふたりで初めて買った。出不精のインドアで、生粋の面倒くさがりである翠のために、室内デートを楽しめるものを置きましょうと弓弦が提案してくれたものだった。姫宮家の仕事があるので同棲には至らなかったが、おかげさまで翠の家に招いたときには、疑似的な同棲生活を楽しめる。仕事は相変わらず憂うつだったけれど、恋人の存在というものは、実に豊かな人生をもたらしてくれた。
 いつだって思いやりのある弓弦に感謝がこみあげるが、ともすれば性欲盛んの中学生じみた劣情も押し寄せた。いきなり手に触れたら、「映画は、集中して観てくださいまし」と怪訝なまなざしを向けられるだろうか。きっと「仕方ありませんね」と呆れながらも、稚拙な欲望を受け入れる器は持ち合わせているだろうけれど。劇中のキスシーンに興奮している幼稚な男だと思われたくもないのもまた本心である。

 ああ、どうしよう。理性と欲望がせめぎあう。「翠くん!今こそ忍耐のときでござる!」と手裏剣を飛ばす天使と、「みどり~。いけいけご~ご~、あたっくちゃ~んす♪」と能天気に泳ぐ悪魔が、頭上で回転している。今すぐにでもキスしたい、だけど幻滅されたくない。翠は、究極のジレンマに眉をひそめながら、欲にまみれた視線を引っ込めようとした。けれども奪われた瞳は、そう簡単に取り戻せるわけがない。毅然とした眉も、引き結んだ唇も、名画のごとく美しい背筋の曲線も、身体を重ねたときには淫らに歪むことを知っている。泣きぼくろに覆いかぶさる紅潮した下まぶたが、恋しくてたまらないのだった。

「映画よりも、わたくしの顔に夢中でございますか?」

 丹念に縫われる糸のような、美しい声が紡がれる。急に焦点が定まった翠は、反射的に「わっ」と視線を反らした。
 大きめのテレビには、相変わらず一本の映画が流れている。劇中の時間帯は、すっかり翌朝になっていた。はだけた衣服を整える踊り子のかたわらで、海軍の男が訝しげに窓の外を見下ろしている。晴れ渡る空を引き裂く、忙しない足音。やがて敵の襲撃に気づくと、踊り子の華奢な腕を性急に引っ張った。隠れ家から脱出しようとした矢先、上質な腰布が落っこちる。軍人の男がはじめて贈った、踊り子にとっても思い出の品。慌てて引き返そうとする踊り子を、敵組織のギャングたちが取り囲み───めくるめく展開を後押しするかのごとく、現実の弓弦がにじり寄ってくる。クッション一個分のスペースが埋まったかと思えば、ふいに暖かな感触が訪れた。弓弦が、翠の手の甲に触れているのだ。

「伏見、先輩……
「ふふ。質問には、ちゃんとお答えくださいまし。映画よりも───」

 わたくしの顔に、夢中、でございますか?迷子の幼児に問いかけるような優しさと、年下を弄んで愉しむいやらしさの境界線が、にじんで溶けていくようだ。翠は逡巡しながら、やや間を置いて、ちいさく頷いた。理性をかなぐり捨てて抱き潰すまえに、会話で頭を冷やさなくては。薄いくちびるから放たれる色香に、理知を保てるかどうかは別として。

……ふいに見えた先輩の顔、やっぱり綺麗だったから……
「褒めていただけるのは、喜ばしいことですけれど。『伏見先輩が好きそうな映画を見つけたので……』と誘ったのは、貴方でございましょうに」

 弓弦が、五本指の隙間に手を這わせた。細く長い指が、ねっとりと行き来する。握っては離し、抜き差しを繰り返すしぐさは、うねる内部を想像させた。翠がセックスしたがっているのを完全にわかっていて、おもちゃさながらに遊んでいる。一枚上手の弓弦にからかわれるのは日常茶飯事だったが、今晩ばかりはいささか悔しかった。久しぶりに会えたというのに、こんなにも身体のつながりを求めているのは自分だけなのか。セックスなんてお遊びとばかりに戯れる弓弦に不満がこぼれて、「わたくしも、高峯さまとしたいです」という極上の言葉を、無理やり引き出したくなってくる。
 翠はたまらず身を乗り出そうとしたが、思う通りに体が動かなかった。柔らかな手の平で、太腿を押さえられたのだ。弓弦の細く長い指が、円を描くように滑る。まるで下腹部を奉仕するような手つきで、いやらしく上下した。

「映画は、集中して観るものでございますよ。たかがキスシーンで火が付いてしまうなんて……まったく、いけないお方」
「普段は、そんなことないってば……。ヤりたい盛りの童貞じゃあるまいし……
「本当に?」

 首をこてんと傾げて、挑発的な笑みを浮かべる弓弦に、翠はきゅっと瞼を閉じた。ずるいよ、先輩。声にならない言葉を喉の奥に押し込みながら、はあ、と熱っぽい息を吐く。

「だって……。伏見先輩とふたりきりなんて、本当に久しぶりでしょ……?そんな状況で無駄に濃いキスシーンなんか観ちゃったら、さすがの俺だって……
「ふふ。高峯さまったら、キスシーンから映画の内容がまったく頭に入っておりませんね」
「うう……そういう伏見先輩は、どうなの……?」

 ふたりのあいだに、湿った沈黙が通り過ぎていく。なにげなく質問したはいいものの、翠はひどく後悔した。なんの意味も成さない問いかけで自滅してどうする。弓弦は、濃厚なラブシーンでも平然としていたのだ。作中のカップルにつられて発情しているのは自分だけ。ひたすら情けない現実が、映画のフィルムを突き破って、浮き彫りになるだけだというのに。
 羞恥心に焼かれて、死にそうになる。弓弦いわく、『飼い主に放っておかれた大型犬のようでございますね』と評されるいじけ顔をぶら下げながら、翠はふてくされた。

「わたくし、でございますか?」

 ところが、太腿を往復していた手の平の動きが、ぴたりと止まった。意外な返答が戻ってくるとは、このときの翠はまるで想像もしていなかった。

「雨夜の路地裏に飛び交う銃弾から、踊り子さんが逃げ惑う場面……でございましょうか?」

 茶目っ気にあふれ、それでいて恥じらいを含んだ色っぽいまなざしが、翠を射抜く。しばらくのあいだ、翠は唇をぽかんと開けていたけれど、数秒ほど経ってようやく意味を理解する。
 雨が降りしきる夜の路地裏を駆ける踊り子のシーンなんて、序盤ではないか。軍人と踊り子が想いを通わせるキスシーンよりも、ずっと前のこと。

「伏見先輩~っ……!」

 大好きなあなたと身体を繋げたい。それは、翠の独りよがりではなかったのだ。白黒のもやが掛かっていた胸の奥が、あっという間に晴れ渡る。幕の開いた劇場のように、鮮やかに色づくのだった。

「伏見先輩……。俺、その……今すぐ、したい……!」
「映画は、よろしいのですか?」

 翠はリモコンの一時停止を押すと、弓弦の手首をソファーに縫いつける。わずかに身じろいだ拍子に、床の絨毯にクッションが落っこちた。
 映画鑑賞を中断するのは好かない行為だが、致し方ない。伏せられたまぶたから伸びるまつ毛、触れてほしいとばかりに主張する泣きぼくろ、ほんのり濡れたくちびる。よそ見を強いられてしまうぐらい、美しくて愛おしいひとなのだから。

「休憩時間、ってことで……だめ?」
「上映中は、お静かに」
「ええ……?やっぱり、だめなの……?」
「ふふ。冗談でございます」
「先輩の、いじわる」
「高峯さまが可愛らしくて、つい。……わたくし、好きですよ。本当に。高峯さまとの、こうしたお時間が」

 上映終了後のシアターから出てきたあと、開口一番に映画の感想をつぶやくような───いつもの、普通の、当たり前の、なんてことのない温度を伴いながら、弓弦が耳元にささやきかける。『同じ感想』を抱いていることが嬉しくて、翠の瞳に一輪の花が咲いた。
 エンドロールが流れるまえに、飽きるほど堪能したいシーンがある。好きだ。大好きだ。白い首筋に鼻を埋め、背中に腕が回ったことを確認すると、翠はすこしばかり強引にくちびるを奪った。