朝の訪れを知らせるアラームより、薄れていくシーツの温もりを感知するほうが、よっぽど目が覚めるかもしれない。こはくは夢と現実の境界線を塗りつぶすように、目尻をこすった。寝起きのまぶたを引っ張って、あくびをしながら寝返りを打つ。硝子に垂れる雨糸のように透き通った髪、椅子から伸びる華奢な足のライン。覚醒したてのぼやけた輪郭に映るのは、ベッドの傍にあるドレッサーに腰かけたHiMERUの姿である。
上半身裸の、ボクサーパンツ一枚。無防備に毛布にくるまっているこはくと違って、HiMERUは既に衣服を整えていた。鏡に集中しながら、丹念に目元をチェックしている。遠目から眺めてもきめ細やかなまつ毛に、濃密なマスカラが艶めいた。日々の美しさは、ほんのすこしの早起きで完成される。会うたびに綺麗になる、女の子の秘密。HiMERUと付き合いはじめてから、はじめて知ったことだ。
こはくは撮影以外でほとんど化粧をしないから、起きるにはまだ早い時間といえる。寝ぼけた顔を洗い落とし、ジャケットに袖を通せば、すぐ外に出られるのだ。しかし、綺麗になるための時間を惜しまない彼女の横でのんびりと寝ているのは、男が廃るというものである。
もう一度あくびをしながら、こはくは毛布をずり落とす。心地よい微睡みから抜けきれない上半身を無理やり起こせば、まつ毛をビューラーで整えたHiMERUが、ふいに振り返った。
「おや、桜河。起こしてしまいましたか?」
「んーん。……HiMERUはん。おはようさぁん」
「おはようございます、桜河。出発するにはまだ早いので、もうすこし寝ていても構わないのですよ」
「ん〜……そのまんま寝坊しそうやし、もぉちょいしたらベッドから出るわ」
「ふふ。頭のてっぺんに、愛らしいアンテナが生えていますよ」
「んぅ~……えっ!?」
起き抜けの頭は、完全に稼働しきっていない。重力に逆らっているつむじの毛を笑われているのだが、その事実を理解するのに数秒を要した。ともすれば電波を受信しかねない立派な寝ぐせを隠しながら、こはくは頬を紅潮させる。
ただのユニットメンバーを卒業し、男女の仲に進展してから早数ヶ月。裸の付き合いはとっくの昔に済ませているのだけれど、たとえ素の状態であったとしても、だらしない寝ぐせを羽ばたかせているのは格好がつかない。いつだって頼りがいのある男でありたい。出会ったばかりのころ、『十五歳の男の子』だった子どもの自分とは違うのだ。
こはくが髪をわしゃわしゃと押し潰すと、HiMERUはいたずらに微笑んだ。愛しげに細められた瞳にまつ毛の影が落ちて、月下に咲く花のような美しい笑みになる。
こはくは肩の力を抜いて、つられてはにかんだ。からかわれるのは不満だけれど、正直どうでもよくなった。今という空間を切り取ったとき、HiMERUの視界に映っているのは、特別なひとにしか見せない寝起きの自分だけだ。こはくが眺めているのもまた素のHiMERUなのだった。ふたりきりの時間が確約されている今この瞬間を思えば、頭の裏側から這い寄る照れも恥じらいも、すべて愛にとろけてしまう。
頭にそびえ立つアンテナとの格闘を終えると、HiMERUが桜色の筒を取りだしたのが見えた。キャップを抜いて、艶やかに濡れそぼった桃色の先端をくちびるに塗りはじめる。こはくの頭上に、電球がピコンときらめいた。
「あっ。それ、昨日買うてたやつ」
「ええ。さっそく初卸し、なのです」
薄桃に包まれたリップは、こはくの記憶に新しい。昨日のショッピングデートで、HiMERUが熱心に選んでいたものだ。好みのブランドの新作発表を聞きつけてからというもの、かねてより発売日を楽しみにしていたらしい。街に向かう道すがら、人気のない裏通りですこしだけ手を繋いだとき、「HiMERUは、この日をずっと待ちわびていたのです」と饒舌に喋っていたのを覚えている。ぎゅっと絡めた指先が、どこか愉快に踊っていたことも。女の子は、新作のコスメでときめく瞳を隠せない。これも、HiMERUと付き合いはじめてから知ったこと。
ただでさえ艶のあるくちびるが、桜色のうるおいに彩られていく。美しくて、可愛くて、何度だって恋をしてしまう。こはくの胸いっぱいに、春風が吹き抜けた。
女の子って、不思議だ。綺麗になるための魔法をいくつも持っている。ポーチに詰め込まれた化粧品、会うたびに変わるヘアースタイル。宝石にも負けない、ネイルのきらめき。身にまとう服や、足元の靴も。夜の下着だって───デートを終えたあと、数週間ぶりに身体を重ねた昨晩をふと思い返して、こはくの頬はポッと熱くなった。来たるべきその日のために新調したらしいブラジャーを身に着けて、ボディークリームを変えたんですよ、と艶っぽい笑みで誘われたら、年頃のこはくに理性を保てるはずもなく。まるで甘い香りに誘われた蜂にでもなったように、一晩じゅう愛撫した。朝までぐっすり眠ってしまったのは、夜の営みのおかげに違いない。
「どうでしょう?」
なにげなく振り返ったHiMERUのくちびるから、穏やかな声が紡がれる。昨晩の記憶がシャボン玉さながらに割れて、こはくはハッと瞬いた。
まっさらな陶器肌に、とれたての果実のようにふくらむ唇。こはくは背筋をぴんと伸ばして、「似合っとるで」と返事する。柔らかな笑みを口元に携えながら、HiMERUは鏡を見やった。
「ほんのり付けただけで、こんなにも潤って……。それでいて中々落ちないので、ネットでは早くも評判だそうです」
「ほぉん。わしは口紅?とかよぉ知らんけど、落ちんのやったら良ぇもんなんやろな。……わしも、ほら。屈辱の女装罰ゲームで、唇に塗ったことあるやろ。飲み物のグラスに付くわ、燐音はんに『コップ、拭きまちょうね~』っちいじられるわで、大変やったわ……。何やねんあいつ。まぁアッツアツのおでん食わせて、成敗してやったけどな」
「ああ……確かにありましたね、そのような番組収録も。……でも、そうですね。リップの落ちにくさを実感できるのは、どちらかといえば───」
HiMERUが椅子から立ち上がり、もはや何発目になるかもわからないあくびを繰り広げるこはくに歩み寄る。耳元に髪を掛けながら腰を屈めると、くちびるに贈り物をひとつ。優しく触れるだけのキスをして、HiMERUがそっと囁いた。
「───こういう時、だと思うのです」
ちゅ、と音を立てながら唇を離すと、HiMERUは肩まで伸びた髪をはらって、ふたりきりの部屋を後にした。
シャンプーの残り香が鼻孔を通り抜け、額からぶわっと汗が噴き出す。身体じゅうに駆け巡る血流を加速させるような、柔らかな肉感。こはくは時間差で頬を真っ赤にすると、再度ベッドに倒れ込む。
あらゆる色仕掛けにも動じない、経験豊富な男でありたいと願うのに。会うたびに綺麗になっていく女の子を前に、果たしてこの世のどれだけの男が優雅に振る舞えるのだろうか。しょっちゅう赤くなる頬は、きっと一生隠せやしないのだ。いくら余裕を取り繕ったところで、キスのひとつで溶かされてしまうのだから。
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