いざ戦闘になると、背中に隠れてビクビクと震えてばかり。格下の敵にさえ腰を抜かすし、頭を抱えながら怖いこわいと首を振る。武闘家の弓弦が使役するキョンシーの翠は、端的に言って役立たずの部類である。敵への攻撃はおろか、盾の役目すら果たせない。弟子たちが声をそろえて「足手まとい」と評するぐらいには、使い物にならなかった。端正な顔立ちをしているから、辛うじて置き物にはなるだろうけれど。殺伐とした武門の世界においては、外見の美醜など評価のうちにも入らない。
まともに動けるようになるまでは、むやみに連れ回すわけにもいかない。だから、敵対門派とのいさかいが生じた際には、留守番をさせていた。数人の弟子を引き連れた弓弦がやっと道場に帰ってくると、翠は外で待っていた。屋根の下にぽつんと座って、木の枝でうじうじと絵を描いている。不在のあいだは鍛錬に励むようにと命じたはずだが、目を離すとこの有り様である。待機組の弟子は、「首ねっこをつかんでも、すぐに外に出たがるんです。門の先を、ずっと見つめていましたよ」と呆れたようにキョンシーの行動を報告した。
弓弦を発見するなり、翠はとてとてと歩み寄ってきた。敵との激戦でほつれた道着のすそをつんつんと突いて、「だいじょうぶ……?」と上目遣いで様子をうかがってくる。そうして弓弦の腰に抱きつくと、汗ばんだ首筋にがじがじと噛みついてきた。
弓弦は冷ややかな眼差しとともに、翠をそっと突き放す。
「わたくしがいつ『抱擁』を許可しましたか?おいたが過ぎますよ」
抑揚のない声で叱咤すれば、翠はしょんぼりとうなだれた。主人であることも忘れて遠慮なしに求愛する甘ったれは、手厳しくしつけなければなるまい。弓弦は表情ひとつ変えずに、翠の横を通り過ぎようとする。
今回の戦闘には、随分と手こずらされた。敵地に連れていった弟子も、何人か死んだ。敵味方を問わず双方の返り血を浴びた肉体を、さっさと洗い流してしまいたい。
ところが、服の裾をくいっと引っ張られた。長年付き添った弟子ですら震え上がる冷血な眼で振り返れば、翠はおもむろに袖を持ち上げる。目線の先には、庭園に植えてある木々。そこに実った橙黄色の花。弓弦が居ぬ間に、キンモクセイが咲いていたらしい。
「花が……咲いて……いいにおい……」
聞き取りづらい声量でぼそぼそと呟きながら、翠はくんくん、と弓弦の首筋を嗅ぐ。可憐な花と見比べながら、ゆっくりと喋った。
「血の……におい……好きじゃなさそう……だから……」
「はい?」
「よろこぶと……おもって……」
「はあ」
「すぐに……伝えたかったから……俺……待ってたよ……」
秋に咲くキンモクセイの香りが好きだ。敵の肉体から溢れる血よりは、遥かにずっと。ただし、誰にも言ったことがない。かつて「伏見師匠!俺、あなたのことが好きです……!」と花のような笑みを咲かせながら、熱心に口説いてきた彼以外には───過ぎ去った過去は、今となってはどうでもいい。キョンシーは、人間だったころの記憶を微塵も持ち合わせていないのだから。
たどたどしく喋る翠を一瞥して、弓弦は道場の入り口に足を進める。
「長いこと日に当たっていると、身体が腐りますよ。いい加減、中に入りなさい」
「はぁい……♪」
「間伸びした返事は、禁止と命じたはずですが」
「は、はい……」
「わたくしは身を清めてまいります。あなたは寝室で待っていなさい」
淡々と指示を出せば、翠はふにゃっと頬を緩めて、のろのろと歩いていく。草を求めてのんびりと散歩する野生のうさぎのようだ。血の匂いに飢え、肢体を八つ裂きにしたうえで臓物を食らう殺戮の達士とは思えない。キョンシーとしてはきっと失敗作なんだろう。
残忍にして冷酷な武闘家も、人間の温度を思い出すことがある。そうさせるのはキョンシーだけだ。唯一無二の存在だった。血まみれの汚れた肉体でも、心はまだ人の原型を保っていられる。へなちょこのキョンシーとキンモクセイの香りを嗅ぎながら、余生を過ごしてもいい。そう夢想するほどには。
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